譲れない想い
ぱたん、と扉の閉じる音がして、逢坂の腕から開放されても、しばらく神前はこぶしを解くことさえできなかった。
空気よりも重い何かが、胸と喉をいくども上下するような心地を味わう。
「────き、とう」
ようやく声をしぼり出したが、返事はない。
おずおずと首を巡らせれば、おもったとおりの表情をした紀藤がいて、神前は自分の身がふたまわりほど縮んだ気がした。
「ごめんなさい……」
「謝る相手がちがうんじゃないのか」
「……ハイ。ごめんなさい」
「俺も、おまえを一発殴ってやりたいが」
「う……。そしたら、マコとおあいこになる、かな?」
「なるわけねーだろ! 平身低頭して謝れ」
ぴしゃり、と容赦なく切り捨てる親友のことばに、神前はしょんぼりとうなずいた。
「はい。そうします」
「だけど、直さんの言ったことは、決して間違ってはいないはずです」
「そうだな。──江野の言ったことは、間違ってましたか?」
紀藤が隣の席へと視線を移すと、腕を組んで座った橘がいや、と答える。
「間違ってないな。限りなくスレてない方の、中位以下の選手の大方の意見だろう」
「──あのな。どちらが間違ってるか白黒つけたいなら、会議以外の場所で殴り合いでも何でもやってくれ。会議っていうのは、意見の違うもの同士がお互いの主張を酌みつつ、折り合いをつけるためにやってるんだ。あいつを殴って、何かすこしでも話が進展したのか、ああ?」
神前がすくめた首をふるふると振る。
「いいか。さっきと同じことをいくら叫んだところで、あいつは耳を貸すためにこの場に戻って来たりはしないぞ。……まずは、もう一度話を聞いてもらうために、どうするか、だな」
「──俺が、おねがいします。このチームを去るのも、売られるのも嫌なので、どうか力を貸してください、と」
なめらかな美声で、逢坂が答えた。
神前から視線を流して、紀藤があきれたように笑う。
「そういう率直さは、おまえの武器だな」
「紀藤さんも。よろしくおねがいします」
「あああっ、ダメだって、逢坂。紀藤におねがいなんかしたら、足下みられて──」
「いいです。俺も、ここに残るためなら、どんなことでもします。……えっと、一応、法に触れない範囲で」
腕を組んでたくらみめいた笑みを浮かべた紀藤に、逢坂がためらいがちにつけ加えた。
「法に触れない範囲、か。分かった」
「ほらっ。本気でやるから、紀藤は」
「ちなみに、おまえも、『何だってする』んだよな、神前?」
「────あの。車の支払いがあるので、無給だけはカンベンしてください」
「アホか。おまえひとり無給にしたくらいじゃ捻出できねーだろ、七五〇〇万。給料分はきっちりサッカーをやった上で、プラスアルファあれこれ働かせてやるからそうおもえ」
「……た、たとえば?」
「それはこれから考える。どのみち、明日の試合までには結論も出なかっただろうから、まあいいさ。そのかわり、今週の日曜より前には仕切り直すぞ。それまでにちゃんと謝っとけ」
紀藤は、タブレット端末をカバンに仕舞いながら、隣の席を窺った。
「何度もつき合わせることになりますが」
ひらり、と手を振って橘が笑ってみせる。
「いやぁ、けっこう新鮮で楽しんでるから、気にするな」
立ち上がると、お疲れさーん、と橘は軽い調子で言い置いてミーティングルームを出て行く。
逢坂も、お疲れさまです、と丁寧に頭を下げて、あとに続いた。
紀藤がカバンを手に席を立つと、足止めするように神前が駆け寄る。
「紀藤、待って」
「帰るぞ」
「紀藤、紀藤っ──……俺、やっぱ、無理」
知らんふりで足を踏み出した紀藤の服を、はっしと神前が掴んだ。
「あんなに言っただろっ。俺には、選手会長なんか無理だ、ってぇ」
背中に、ごつ、と頭がぶつかってくる。
紀藤はため息をついた。
いくつだおまえ、というツッコミは内心にとどめておく。
「情けない声を出すな。……俺も言ったな、協力してやるからおまえがやれって」
「でもぉっ」
「このチームをどうしたい、って訊いたら、おまえはちゃんと答えただろ」
背中に当たったままの額がうなずいた。
ぐすっ、と鼻をすする音がするが、紀藤は聞こえないふりをする。
「江野をぶん殴ってでも譲れない想いが、おまえの中にはあるんだろ?」
「でもっ。マコが、ベンキ、とかって……」
「詭弁か? 何が便器だ。みょうなところで笑いを取ろうとしなくていい」
「してないっ」
「神前。待っててやるから、ちょっと考えてみろ。──おまえは、どうしたいのか」
神前は、喘ぐように息を吸った。
静かな部屋に、コチン、コチン、と壁時計の秒針がひびく。
「俺は、……守りたい。逢坂だけじゃなく。ここを、ここにいる仲間を、まるごと」
そうか、とやわらかなあいづちが返った。
神前は、きゅっ、とくちびるを噛んだ。
同時に、江野のかたく冷たい否定のことばが、耳によみがえる。
売られることと、捨てられること。
どちらがマシかなんて、神前には分からない。
出て行くことと残ること、どっちが幸福なのかさえ、本当のところは分からない。
分かることは、選手は、出て行かざるを得ない選手を、いつも、ただ見送ることしかできないという、現実──
「でもっ。どうしても、ここを、出て行く選手が居なくならないのなら…………せめて、選手について行って応援してくれるようなファンが、居てくれたらなっておもう。チームに要らないって言われても、そんなことないって怒ってくれるようなファンに、たくさんついててもらいたい」
そうだな、ともうひとつやわらかなあいづちが返って。
神前は、紀藤のシャツに顔をうずめたまま、大きく、大きくうなずきを返したのだった。




