最後の手段
ゾクリとするほど、それは低い声だった。
「言わないでください!」
「残り試合を、全部、負けてしまえばいい」
江野の静止など聞こえなかったみたいに、はっきりと紀藤が言い切る。
怒った顔で椅子を蹴って立ち上がった江野を見上げても、紀藤は別段、気にするふうもなく、ことばを継いだ。
「そうすれば、勝ち点は九二のまま。監督の目標は、端からそこだ。フロントも、そこまでの報酬はぎりぎり計算に入れてあるらしい。俺たちが積み上げた収益は、そのまま残る」
「どうして言うんだ。そんなの……!」
「分かってても、おまえには言えないだろ? おまえはそれでいいよ。でもな、俺は、力になるって約束したんだ。仕様がなかった、なんて嘘はつけない」
紀藤はメガネを押し上げ、逢坂を見る。
「それが、俺に示してやれる、残された手段だ。もう、それしかない。すまない、逢坂」
「いえ──」
すとん、と江野は椅子に座った。
神前にも、自分に向けられたその視線が、何とか言え、と言ってることは分かる。
が、いつだって紀藤に頼りきりだった神前に、何が言えるというのか。
震える手を握りしめ、神前はほとんど思いつきで口を開いた。
「……俺が、監督に、頼んでみる。来季、戦力も、結果も、欲しいのは監督だって同じはずだろ。それなら──」
間髪入れず、紀藤が首を振る。
「言っただろう。この件は、口外無用。例え、監督にだってな。フロントの信用問題だ」
「だけど……っ」
「神前。俺も反対。あの監督は、俺、とんでもなく有能だとおもうよ。仮に一億積んだって、同じ仕事をしてくれる監督は、ざらにはいない。俺なら、何としてもチームにつなぎとめておく。隙あらば、引き抜かれるのは、目に見えてるからな。来季、逢坂なしで戦うのもきびしいけど、あの監督を逃したら、もっと話になんねーよ」
ぐしゃぐしゃと頭をかく橘の隣で、紀藤が両手を組み合わせた。
「もう、何を選んだって、選手かサポーターか、それとも来季の結果か、いずれにしろ何かを失い、ファンの失望を招く以外の道はない。……結局のとこ、江野が、正しかったのかもな。何もしなければ、せめて、ファンは裏切らずに済んだんだ」
白く力の入った指先に、神前は胸が痛んだ。
「──ああ。謝らないといけないのは、羽角にもだな。あれだけ利用しておいて、おまえの価値が上がったせいで移籍金が払えそうもない、なんてまぬけもいいところだ」
あんぐりと口を開けたのは、神前だけではなかった。
そんなオチ、と橘がこっそりつぶやく。
逢坂がここにきて初めて、表情を険しくした。
結局、残り試合をすべて負ける、などという明確な結論を出すことは、神前にも、誰にも、出来なかったのだった。




