ゼロ円移籍の先例
「今、ケガをしている選手はみんな単年契約です。試合に出られずにもがいてる選手も、みんな。来季、自分が契約してもらえるかどうかも分からない。チームが金に困ってようがなかろうが、クビになる選手は決してゼロにはなりません。そんなこと、みんな分かってる。クビなんて、あなたにも逢坂にも他人事でしょうけど、それを言うなら、売られる心配なんてみんなにも他人事です。
チームのために逢坂を守らなければ、というのはあなた個人の感情であって、チームの総意なんかじゃない。あなたがチーム愛を唱えたところで、仲間のためだと訴えたところで、一年後にここにいる保証もない選手にとってみれば、どうだっていいことです。
金のあるチームに欲しいと言ってもらえることが悪いことだなんて、チームに要らないと捨てられた経験のある選手は、誰もおもわない。レギュラーの枠がひとつ空けば、それが誰かのチャンスになる。ここはそういう世界なんじゃないんですか?」
「ちがうっ、ちがう、ちがう!」
感情任せに叫んで、神前はがくがくと江野を揺さぶった。
「必要な選手を金のために売るなんておかしい。チームに必要とされたくて頑張ってきた選手を、選手の意思を無視して売り飛ばすなんて、そんなチームは、ぜったいおかしい! だって、俺たちは商品じゃないだろ。自由まで売り渡すために、選手でいるわけじゃないっ!」
「────そうですね」
その返事に、神前はほっと力を緩めた。
江野の顔に、めずらしくかすかな笑みが浮かぶ。
反対に、紀藤は顔を強張らせたが、それには誰も気づかなかった。
「才能も、可能性も、未来もある逢坂のような選手には、夢や憧れを大義名分に、大事にしてくれるチームも、仲間も、サポーターも裏切り、契約が切れたとたんにゼロ円移籍で、どこでも好きに出て行く、自由があ──」
最後まで言い切る前に、椅子から江野の体が浮き上がった。
遅れて、江野は右頬を襲った重い衝撃に気づく。
机に倒れかかった江野から、逢坂が抱きかかえるようにして神前の体を引き剥がした。
「取り消せ! 逢坂はそんなことしない!」
神前の左こぶしを見ながら、江野は熱をおびた頬をつまらなそうに撫でる。
「するかどうかは、あなたが決めることじゃない。事実は、そうする自由があるってことと、すでにここには先例があるってことです。このチームがおかしいと言うなら、なおさら、そんな場所に有望な後輩を縛りつけておくべきだとはおもいません」
立ち上がった江野は、机の向こう側にいる年長者ふたりを順に見返した。
「話し合うことがそれだけなら、俺の意見は以上なので、これで失礼させてもらいます」
机の下に椅子を押し込んで扉へと向かった背中を、みんな無言で見送る。