石橋を叩いて叩いて、
「紀藤ッ。マコは子供が寄って来ないこと、密かに気にしてるんだから」
紀藤のユニフォームの胸の『ラ』の文字を肘で突いて、神前はもっと複雑そうな顔になった江野に笑いかける。
「たぶん来てくれるとおもったから、マコのユニフォームも車に積んであるんだ。この後、ドーム球場前でやる配布の方、いっしょに来て手伝って」
「ついでだから、いいですけど」
「ほんっと、素直じゃねーな。そういや聞いたぞ、羽角のイメチェン、おまえの仕業らしいじゃねーか。何で黙ってた」
舌打ちこそしなかったが、限りなく不本意そうな顔で、江野はため息をついた。
「俺は何もしてません。羽角が、田舎者がどうとかチームのイメージがどうとか、えらく気にしてるようだったので、相談に乗れそうな相手に会わせただけです」
うんうん、と紀藤は訳知り顔でうなずく。
「その相手に見繕ってもらった洋服代、おまえが出してやったんだってな」
「それ、は。あいつ、外に着て行けるような洋服は、ゆ……グラニのチームメイトにもらったTシャツ一枚きりしかないって言うんで。出してやると言っても、割引価格でそんなに──」
「そ、れ、で? 噂の、モデルのように美人なおまえのカノジョ、っていうのは? 俺たちには紹介してくれないのか?」
江野は、やっぱり、という顔をした。
苦りきった顔で、紀藤と神前の顔を順に見る。
「彼女じゃありません。ただの同居人です」
「先輩が彼女もいないさみしい身の上だからって、気をつかうことねーんだぜ?」
「べつに、直くんなんかに気を使ってませんから。それより、ちゃんと配ってください」
しっしっ、と手を払われ、神前は我に返ったように、デパートから出てくるなり目が合った親娘とおぼしき二人連れに声をかけに向かった。
紀藤は、まだおもしろそうに江野の顔を眺めている。
「あなたも、配ったらどうなんですか」
「やるさ。それより、おまえ、向こう見てきた? 羽角たち、どうよ」
「……人に囲まれていてよくは見えませんでしたけど。逢坂が声をかけておいて、羽角にちらしを渡させたり、協力してうまくやっているようでしたよ」
納得したようにふたつうなずいて、紀藤も遠巻きにこちらを見ながら通り過ぎようとしていた三十代くらいの女性に声をかけに行く。
それから三十分ほどで、神前は手にしていたちらしのすべてを配り終えた。
あたりを見れば、いつの間にか江野の姿が消えていて、紀藤は最後の数枚を、一気に大学生くらいの女子グループにさばき、足りない枚数を逆にせがまれつつ見送っている。
「紀藤。マコは?」
「帰るわけねーから、駅の方にでも行ったんだろ」
「なあ、マコはどうして俺たちに彼女が居ること隠すんだとおもう? 俺、自分に相手が居ないからって、嫉妬したりしないのに」
「ワケありだろ。あの江野だぞ。いっしょに暮らしてる女が居るなら、結婚まで考えてないはずがない。それが、ただの同居人だって言い張るんだから、結婚しようのない相手なんだろ。まぁ、いくつか仮説は浮かばなくもないが」
「例えば? 実はお姉さんでした、ってオチとか?」
「身内なら身内って言えるだろ。あいつはすこぶる真っ当な人間だけどさ。人が良すぎるから、何やっても、貧乏くじってやつを引きそうではあるよな」
「何それ。美人に騙されて貢がされたりしてるかもってこと?」
おもわず、紀藤は吹き出した。
それなら、よっぽど言ってる当人の方があぶない。
「それほどまぬけだとはおもってねーよ。おまえみたいな勘の良さがない分、江野は基本、用心深いしな。例えるなら、石橋を叩いて叩いて、人を渡らせてやるタイプの男だろ。口じゃ損したくないっぽいことを言ってるのに、どう見ても好き好んで損ばっかりしてるのは、もっと損してる人間に手を差しのべずにはいられない性分だってことなんじゃないか」
「マコは、口はともかく、やさしいから」
紀藤は、神前のことばに軽くうなずく。
「そこが、見かけによらずツンデレくさいところではあるんだが。──そもそも、あいつのツンは俺とおまえに向かってだけなんだよな。そして、俺のことは素で嫌いなだけだから、ツンはあってもデレはないが」
「マコは、おまえが嫌いっていうより、要領がいいやつに対するわだかまりがあるんだとおもう。昔から、優児の側で損ばっかりしてきてるから」
「ゼロ円移籍した、赤間優児か? ……なるほど、じゃあこっちの仮説は当たりかも」
ゼロ円移籍とは、文字どおり、移籍金──実質的には違約金──をチームに残すことのない移籍のことで、チームにとって重要な選手であるほどそのダメージは大きくなる。
当時、ファルケンに走った激震は、まだ入団前だった紀藤にもおぼえがあった。
神前の言っていたチームメイトのツイぽ炎上も、おそらくは彼のものだろう。




