1話 マイナスからのスタートです
朝。三谷真唯は学校へ行く準備をしていた。
彼がマイナス思考の強い人間だということを、証明しておかなければいけないだろう。
「今日は3限が体育だから、荷物が少なくていいんだけど…もしかしたら、急な豪雨で教室で保健の授業になるかもしれない。教科書を一応詰めておこう」
これくらいならば、ただの心配性。
「あ、でも。体育自体なくなって、もしかしたら今日はないはずの理科が入ってくるかもしれない。一応入れておこう」
…これくらいならば、強めの心配性。
「あ、でもでも… ボクは理科が苦手だから…もしあてられてしまったら答えられないぞ。うーん…そうだ、一応参考書も詰めておかなきゃ。ボクは絶対答えられないから、これを見て予習をしておかないととんでもないことになってしまう」
…心配性、の域を超えてきた。
「太陽系の名前、とかいわれてもちんぷんかんぷんだぞ…あ、今日は太陽が出て、風が吹いて結構花粉が出てくるかもしれないな…マスクあったかなあ」
先ほど雨が降るかもしれない、と言っていたことも忘れ、晴れで、なおかつ風が吹いた時のための準備をする真唯。マイナスに考えすぎである。
「太陽で思い出したけど…どこかの国で隕石が落ちてきたらしい…そんな可能性も考えておかないと。あ、自転車用のヘルメット、一応持っていこうかな」
…
…
…
お分かりいただけたであろうか。
これが、三谷真唯だ。
学校に行く準備をしていたはずが、いつのまにか地球の危機に備えている始末。
何度でも言おう。彼は、病的なまでにマイナス思考だ。
ようやく準備は終わったのか、意気揚々とアパートを出る真唯。
歩き出そうとするかと思いきや、ドアの前でずっと立ち止まっている。
「……」
元々あいているドアの鍵穴を、穴があくほどみつめている真唯。
2分ほどたったころであろうか(ちなみに、真唯は通学路が引き裂かれてしまうことを恐れ、始業の50分前に家を出るのが習慣だ。10分足らずで着いてしまうというのに)。
話をもどそう。真唯はいったい、なぜドアを眺めているのか。皆さんも一緒に考えてみてほしい。
さあ、その答えとは?
「…もしかしたら、侵入者が来るかもしれない」
単純に防犯のことを考えているのならいいが、およそその程度の考えでは済まないだろう。加えて、人目に付きにくいぼろアパートでこんなことを考えてしまっているのだからなおさらだ。
「…引き出しに自転車用のチェーンがあったな…」
真唯はおそらく、自転車用のものを他の用途に代用させてしまうのが好きなんだろう。
金庫のごとく厳重にされたドアを見て、真唯は満足そうに微笑んだ。
「さて、時間を使いすぎちゃった… 遅刻して怒られる~…」
そんなことはない、あと40分はある、のだが。真唯は小走りでアパートを後にした。
…が、すぐに走るのをやめた。疲れたのか…?
「こんなに走ると肉離れしちゃう…」
…疲れたわけではなかったようだ。
ちなみにこの三谷真唯、運動音痴である。無駄なマイナス思考があるのだから、そういた俊敏性は養われているかと思いきや、てんで話にならないほど運動ができないのである。
学校に行く間に2度は転ぶ。…転ばないように安全な道を~…という頭はないのだろうか。もっとも、通学路は基本的に安全な一本道なわけだが。
「……」
通学路の半分を過ぎたころ、真唯は立ち止まった。
「……」
これも、日課だ。何をしているのかというと…
「右、いやあえて左…」
この通学路、ここまでは一本道なのだが、この地点で一度二股に分かれる。1分も歩かずともまた一本に戻る、昔ながらの地形だ。
そこで、真唯は何を考えているのかというと…
「昨日は右からだった。だから今日は左…?いや、裏をかいて右!」
そう宣言し、真唯は歩き出す。その眼には覚悟の二文字が光り、なにやらたくましい面持ちだ。今の彼なら、きっと何でもできるかもしれなかった…のだが。
「よおおおお!!! マイちゃーん!!!!」
その声が聞こえたと同時に、真唯の体が消える。否、転ぶ。
頭を押さえているところを見ると、どうやら何者かに走りながらの拳骨を食らったらしい。道に倒れこみ、悶えている。
「いたた・・いたたたた・・・右だったかあ」
「おっまえホントわざとだろばーか!いっつも右にきやがる。はっはっは! ほんと学習能力のねえクソだなあてめえはよ!」
真唯を罵倒する男、真唯と同じ制服を着ているため、同級生なのだろう。高校一年生ながらその体躯はすさまじく、真唯と比べると小学生と大人くらいの差が見受けられる。髪は金髪で、まさに怖い、というオーラを醸し出しているあたり、真唯と住む世界が違うようなイメージを植え付けられる。
「ふん、痛いだろ。てめえが悪いんだからなクソが。何のとりえもねえくせにヘラヘラしてんじゃねえぞ」
ちなみにこの罵倒もまた、日課なのである。
ふっとばされた真唯だが。拳骨のダメージより、吹っ飛んだダメージの方が心配である。結構なスピードで走ってきて、結構なスピードで拳骨を食らわせられたのだ。そのうえ人よりかなり小柄な真唯は4,5メートル吹っ飛んだ。
「うぅ…また間違えちゃった…やっぱり左だったかあ」
ようやく痛みが引いたのか、真唯は立ち上がった。拳骨の痛みより、制服についた汚れを気にするあたり、なかなか忍耐力はあるようだ。
「…ちっ!」
真唯を強襲した男は、勢いよく舌打ちすると真唯の胸ぐらをつかみ、彼の小柄な体を宙に浮かせた。
「わわっ」
「オマエ、俺らにしめられてンの、気づいてねえの? 毎日のらくら学校きやがって。気持ち悪いんだよ、死ね」
この男、どうやら仲間もいるようだが、真唯のことを快く思っていないらしい。
「んー、死ねって言われずとも今日隕石が降るかもしれないから…もしかしたらそうなるかもしれないよ桧山くん」
桧山と呼ばれる彼は、その素っ頓狂ともいえる返答にいら立ちを覚え、つかんでいた胸倉ごと、前方に真唯を投げ飛ばした。
「ひゃあ! い、いっててて…」
「死ね!!」
そういうと、桧山は後ろを振り向くことなく、学校へと歩いて行った。不良と称されることの多い彼だが、目を付けた人間には容赦はなく、そのためならば始業30分前の早朝でも真唯を待ち伏せするらしい。けっこうな執念である。
「うーん、裏をかき過ぎたか…左、今日は右だったから、明日は左にしよう」
これが彼の、三谷真唯の朝。マイナスからのスタート。