第六十三話・シュガーレストゥルース
唯華の渾身の膝蹴りを喰らった竜王は、大きく身体を仰け反らせながら、折れた鼻を手で覆いつつ顔一杯に疑問符を浮かべた。そんな彼に、唯華は膝を労るようにさすりながら、こんな低い声が出るのかと自分でも驚く程の低音で言う。
「わたしは今、もの凄く怒っているのです」
事実を再確認するように、自身に暗示をかけるように。この感情は怒りだ、と、己に言い聞かせる。そうしながら、彼女は先ほどの膝蹴りとは逆の方の脚を振り上げた。
「先ほどのは、お兄ちゃんの分です。そしてこれは──」
膝蹴りをする──と見せかけて、踵落とし。
「遥華の分ッ!!」
脳天に直撃した衝撃に、竜王は「ぐえっ」と呻き声を漏らす。彼はそのまま平衡感覚を失い、ぐらりと倒れ伏した。唯華は、そんな彼の襟首を引っ掴み、ぐいっと持ち上げる。
「……『わたし』に、こんな事をする権利が無いのは、十二分に分かっています。でも、『錦野唯華』としての感情も抑えられないのです。
許せ、とは言いません。これは、本当にどうしようもない、ただの八つ当たりでしかありませんから」
今ここに居る唯華は、本物の錦野唯華ではない。その姿と記憶と人格を受け継いだだけの、“テルニアルース”とかいうよく分からない種族の端くれでしかない。そんな彼女が、錦野唯華の家族や友人が死なされた事に対し憤慨するだなんて、筋違いも甚だしい。
同時に、目の前に居る竜王も、地球滅亡の結果から生まれ出た存在なだけで、地球を滅ぼした張本人というわけではない。“テルニアルース”が悪いのだ、とこじつける事も出来るが、それで彼を責めるなら、唯華は自分自身をも責めなければ理屈が通らなくなってしまう。
それらの事柄は、彼女もちゃんと理解していた。しかし、感情はその理論に屈してくれなかった。故に、現出した怒りを暴力という形で表す行動に走ったのだ。
一度表出した痛憤は、もう唯華の支配下に戻る事は無く、逆に彼女の意志を支配してしまっていた。その怒りに任せ、すっかりぐったりとしてしまった竜王に、更に拳を振り上げる。
「これは、お母さんの分!」
そう叫びながら、拳を竜王の腹にめり込ませた。それなりに腹筋が有って、こっちの手もちょっと痛くなる。やっぱりパンチよりキックの方が威力が高いか、と考え、唯華は右脚を振りかぶった。
「そしてこれは、お父さんの分ッ!」
膝を折り曲げ、今度はそれを彼の腹部に蹴り当てる。すると、相手が嘔吐く気配がしたので、唯華は掴んでいた襟首を手放した。地面に転がった竜王は、ギリギリ吐くのは抑えたようだが、ゲェゲェと苦しげな声を上げている。
そんな彼へ、唯華は更に攻撃を続けた。親しかった者たちの名を叫びながら。
「これは松本さんの分! これは泉さんの分! そして――」
顎を蹴り上げる。腹を踏みつける。手はあまり使わず、より強い攻撃を放てる脚をメインに使用する。
「最後にっ――これは、名前も顔も知らない不特定多数の皆さんの分だァーッ!!」
相手の両脚を持って何度も地面に叩き付け、最後に投げ飛ばす。そうして一頻り『仇討ち』を終えると、先ほどまで腑を焼き尽くすように燃え上がっていた怒りが、まるで幻であったかのように消え失せてしまっていた。
「はぁ……はぁ……」
打ちのめされ、すっかりぼろぼろになってしまった竜王の姿を、唯華は肩で息をしながら見下ろす。そうしていると、怒りを発散し終えた彼女の心に、今度は悲しみが湧き上がってきた。
どんなに怒っても、失われたモノたちはもう二度と戻らない。間違いなく、地球は滅んでしまったのだから。ずっと、ずっと昔に。
如何に望もうと、今ここに居る唯華は家族や友人たちに会う事は出来ない。もし奇跡が起きて、地球が元に戻り彼女も戻れる事になったのだとしても、彼らの家族は、友人は、彼女ではないのだ。彼女は、ただの錦野唯華の写しなのだから。
それならそうと割り切れれば良いのに、郷愁の念は消えるどころか、ますます募るばかりだ。とはいえ、先ほどまでの怒りよりはまだ御せる。
「ごめんなさい、八つ当たりしてしまって。……あの、死んでませんよね?」
「……相手が私じゃなけりゃ、病院送りだぞ……」
ビクとも動かない竜王に、唯華が恐る恐る声を掛けると、彼はのそりと身じろぎをした。すると、それを合図にしたかのように、彼の身体が再生を始める。折れた骨も、欠けた歯も、切れた皮膚も、見る見るうちに元の姿に戻ってゆく。
(いえ、もうその姿は)
大嫌いなストーカー犯の姿は、暴力を振るう相手としては最適だが、話を聞かされる相手としては不適だ。そう思うと、再生は半ばで停止し、代わりに変身が始まった。やがて、さっきと同じカラスの姿が現れる。
「……姿形こそ違えど、このカラスもあの人間も同じ私だぞ?」
「気持ちの問題ですよ。カラスを蹴飛ばすだなんて可哀想じゃないですか」
「人間をボコボコにするのは可哀想じゃないのか……」
呆れ気味に言う竜王は、とてとてと歩いて唯華たちの近くまで戻り、そしてとすんと座った。先ほどあんな酷い仕打ちをしたというのに、全くと言って良い程警戒心が無いのは、超越者の余裕なのだろうか。
(ま、もうやりませんけどね)
理不尽な八つ当たりは、一度で十分だ。後はきっちり、自分で片を付けないと。まだ整頓し切れない感情は山のように積み重なっているが、これらも全て暴力に訴えるような真似をしたら、それこそ理性の無い猿と同レベルになってしまう。
乱れた呼吸を整え、上がった心拍数を落ち着けさせながら、唯華は自分を平常心に戻す。懐かしさやら、悔しさやら、辛さやら、様々が煩わせに来るけれど、彼女はそれらを全て凪がせてみせた。
「話、続けてくださいな」
「ん、じゃ……“ネームレス”」
「うぃ」
竜王の目配せに反応して、“ネームレス”が再び声を上げた。白く柔らかな鬢を指先にくるくると巻き付けて弄りながら、彼女は言葉を紡ぎ始める。
「と、いうわけで、あんたは特別だから、歯車化しちまった身体を戻してやる事が出来る。あたしの最後の力を使ってね」
「……わたしだけ、ですか?」
「そうだよ。今回の歯車化を元に戻すのには、ものすごーく手間がかかるからね。全部戻してやりたいのは山々だけど、そんな事をし出したらキリが無い。
だから、あんた一人だけを戻す。あんたは“テルニア”だからね、特別扱いなんだよ、これは。
ま、他に戻したい人が居るってんなら、オマケでやってやらん事もないがね」
彼女の言葉を聞き、唯華は納得した。竜王が唯華に“テルニアルース”の事を教えたのは、この特別扱いの意味を分からせる為だったのだ。もし知らないまま治され目覚めていたら、色々と面倒な事態になっていただろうから。
それを理解しながら、彼女は別の質問を口にする。
「何人までなら治せるんですか?」
「……言っておくけど、あんたとその周り以外を治す気は無いぜ。面倒だし」
「そうですか……」
唯華以外の例外を作りたくはないという事なのだろう。僅かな罪悪感が浮かび上がるが、致し方ないと諦める。次に、彼女は今も現実で心配しているだろう友人たちの顔を思い浮かべながら、竜王に声を投げかけた。
「わたしの周りの人たちは、どうなっているのでしょうか?」
「貴方の知人の中で、歯車に巻き込まれた者は居ない。安心すると良い」
ほ、と唯華は胸を撫で下ろした。シィの結界も有ったし、彼らは強いからきっと大丈夫だと思ってはいたが、心配で心配で仕方が無いという気持ちも確かに存在したのだ。少し涙が零れたので、袖でぐしぐしと拭う。
「なら……治して欲しいです。わたしの事を」
「言われなくてもそうするつもりさ。何せ、あんたは同胞なんだからな」
同胞、という単語に、唯華は新たな推測を思い浮かべた。今確かめられる事は全て確かめておきたいので、すぐにそれを言語化する。
「あの、同胞、って……わたしも竜族になるんですか?」
「ああ、それに関しては、私は選択肢を二つ用意してある」
“テルニア”イコール竜族だというのならば、唯華もその末席に名を連ねる事になるのだろうか。少し前までなら『人外になれる!』と喜んで飛びついていただろうが、今の唯華は素直にそうする事が出来なかった。
悩むように、迷うように、ぱたぱたと瞬きを繰り返していると、竜王はその嘴の先を、唯華の胸から出てきた小さな結晶の方に向けた。完全に意識の外に出ていたそれに注目を戻し、続けられる竜王の言葉に耳を澄ませる。
「一つは、これまで通りに、一介の“異客”として生きてゆく道。
とはいえ、必要が有れば適当な竜を保護者として付けるし、健康的で文化的な最低限の生活は出来るように保障する。貴方は同胞だからね、出血大サービスだ。
まぁ、“テルニア”であるという事が露見すると不味いから、公的機関に届け出る、ってのは駄目だけど」
要するに、今まで通りの日常を歩み続ける道。ただしこの場合、“異客”として国に保護してもらう、という選択肢を失う。それは、唯華は一生被保護者で居続けなければならないという事を意味する。
「もう一つは、私の庇護下に入り、竜として生まれ変わる道。
個人的には、こちらがおすすめだ。このままだと貴方は何時消滅するか分からない状態だし、何より貴方程強烈な人が我々になってくれれば、色々と助かるんだ。“ネームレス”が欠ける事だしな」
半ば予想していた答。その中に含まれていた、消滅、という単語に、唯華は眉を顰めた。
「あの、消滅、って……」
「おっと、言い忘れていたな。ご覧の通り、貴方という“種子”は非常に摩耗し切った状態だ。だから、私の庇護を受けないと、何時全てを使い果たして消えてしまってもおかしくない」
「えー……」
これでは実質、竜族に加わらないという選択肢が無いではないか。抗議するように吐かれた唯華の声に、竜王はやや慌てたような声音で、竜になる事のデメリットも語り出す。
「竜になると、色々面倒なルールが付きまとうし、その上生半可な事では死ねなくなる。それに、一度竜になってしまったら、もう元には戻れない。
最初から竜なら、この辺は気にならないのだけど……貴方は今は殆ど人間だ。沢山不都合が出るだろう」
その言葉を聞き、唯華はいよいよ本格的に考え込み出してしまった。何時消えるのか分からないのも怖いが、だからといって竜族というよく分からない存在になるのにも抵抗が有る。
この決断をするには、まだ十分な情報が得られていない。唯華はそれらを獲得する為の質問文を、丁寧に組み上げ始めた。
「……竜族のルール、って、具体的にどんな物が有るんですか?」
「あー、そうだな、いくつか挙げると……『契約を違えてはならない』だとか、『みだりに世界に干渉してはならない』とか、そんなんかな。本当に山のように有る」
「わたしがあなたの庇護下に入らない場合、わたしはどれくらい生きられるのでしょうか? 目安で構いません」
「えーと、大体……少なくとも一桁年は保つ、とは思う。二桁も行くかもしれないけど、三桁は無いかな」
要するに、数年から数十年が彼女の寿命だという事か。十分だ、と頷くと、唯華は一先ずの決断をする事にした。
「でしたら、わたしは、少しの間保留に――つまり、とりあえずこれまで通りに生きて、その中でどうするか考えたいと思います。……今は時間が足りなさ過ぎるのです、ちゃんとした決断をするには」
「そうか。うん、賢い採択だと思う」
そんな彼女の言葉を受け取りながら、竜王は翼を動かし、空中にふかふかと浮かんでいる小さな“種子”を、唯華の中に戻した。小さいとはいえ、石ころが身体の中に入り込んだというのに、違和感は全くと言って良い程感じられない。寧ろ、欠けていた物がやっと戻ってきてくれたような、そんな安心感さえ感じられた。
「竜になりたくなったら、気軽に私の所へ来てくれ。余程の事が無い限り、我々は何時でも貴方を歓迎する」
「ええ、その時はよろしくお願いします」
どうやれば彼の元に行けるのか、というのは、何となくだが分かっていた。一度こうしてここに来たからか、もしくはハッキリと自身の人外を自覚したからか。
「では、“ネームレス”、後は頼んだ」
「頼まれた」
“ネームレス”がその言葉に頷くと、竜王はその姿をゆらりと揺らめかせ、そのまま最初出て来た時の光の球の姿になり、崖に刺さっている結晶の中へと戻って行った。そのさまを見送りながら、唯華たちはやおらに立ち上がる。
「じゃあ、戻ろうか。行こう、目的地は星の海だ」
「分かりました」
軽快に歩き出す少女の背を、唯華は追いかけ始める。舞い踊るような“ネームレス”の足取りとは対照的に、唯華の歩みは軽くなかった。
宇宙の海の浜辺から、小さな舟に二人で乗って、その彼方を目指す。“ネームレス”が漕ぐ櫂が巻き起こす水面の波紋に合わせ、そこに映る星々までもが揺らいでいた。
舟を前進させる“ネームレス”は、漕ぐ動きに合わせて何かの舟唄を歌っている。何を歌う物なのか、どこの言語で歌われているのかも分からないその歌を聞きながら、唯華は静かに座り続けていた。
(あの人たちは……)
テナや白矢たちも、“テルニア”の事を聞かされるのだろうか。何処まで知らされるのだろうか。唯華の正体を知った時、彼らはどんな顔をするのだろうか。
嫌悪するだろうか。借り物の姿を我が物顔にしていた彼女を。
恐怖するだろうか。わけの分からない種族である彼女を。
軽蔑するだろうか。自分だけ助かる選択肢を選んだ彼女を。
(竜族は……)
ムゥや、シィや、他の竜たちは、彼女の正体を知っていたのだろう。何度も『“テルニア”』と言いかけていたし、その上謎の厚遇を唯華に与えていた。同胞以外にはあまり優しくない彼らが、唯華に対して優しかったのは、彼女が同胞だったからなのだ。納得のいく結論だ。
彼らの笑顔は、同胞に対して向けられる物だったのだ。決して、唯華自身に対して向けられた物ではなかったのだ。
(わたしは……)
どうすれば良いのか分からない。どんな心持ちでいれば良いのか、分からない。それほどに、齎されたモノは大きく、そして重かった。
そうしてますます項垂れる唯華に対し、“ネームレス”はふと歌を止めて、代わりに言葉を紡ぎ始める。
「あんたは、」
ビク、と肩を震わせてしまった。恐る恐る顔を上げると、背を向けたまま櫂を動かし続ける“ネームレス”の姿が目に入る。
「あんたは、普通に幸せを掴めば良い」
何を言い出すのだろうか。彼女の真意が掴めず、唯華は目をぱちくりとさせる。
「都合の良い事に、それは目の前にぶら下げられてんだ。手を少し伸ばせば届く所にまで、近づけられているんだ」
そこで、漸く少し意味が分かった。彼女は、思い悩む唯華に道標を示しているのだ。それに気付いた唯華は、弱々しい声でこう問いかける。
「……それは、本当にわたしが獲得しても良い物なのでしょうか? 本当は、わたしじゃない人が得るべき物なのではないでしょうか?」
暫しの沈黙。考え込むように口を閉ざした“ネームレス”は、しかし舟を漕ぐ手を休ませない。そうこうしている内に、既にあの砂浜は水平線の彼方になってしまっていた。
同時に、前途に何かの光が見えて来る。それを捉えた瞬間、あれが終着点なのだ、と直感する事が出来た。
「良いんじゃないかね、取っちまって。どうせあんた以外には掴めない物だ、そのまま腐らせちまうよりかは、ずうっとマシな筈だ」
終着の光はどんどんと近づいて来る。同時に、“ネームレス”の姿が薄れてゆき、その向こうの景色が見える程になり始めた。
「ね、“ネームレス”さん、身体が……!」
「あー……もうそろそろ、タイムリミットみたいだな。やっぱこのくらいが限界かー……。
もっと色々、あんたにちょっかい出したかったけど……それは、他の同胞に任せようかね」
光はもうすぐそこまで来ており、“ネームレス”の身体はもう輪郭くらいしか残っていなかった。後少しといった所で彼女は手を止め、くるりと唯華の方に振り返る。
「さよならだ」
その短い台詞と共に、少女は最後に素手で海面を一掻きし、そして完全に消え失せた。最期の一掻きによって少しの推進力を得た舟は、残り僅かだった終点への道程を突き進む。
そして唯華は、舟もろともその光の中に突入した。眩い光はあっという間に彼女の視界を覆い尽くし、意識までもを呑み尽くす。断絶されゆく認識の中、彼女は“ネームレス”の最期の言葉たちを反芻し続けていた。




