第五十八話・ハートレスヴォイス
何故、このような事になっているのだろうか。屋敷の外から聞こえて来る喧噪を恐れて耳を塞ぎながら、黒環神社の神主・上月悟は一層背を丸めた。
「“客”を出せー! ここに居るって事は分かってるんだぞー!」
「ぶっ殺してやる! 俺の娘を殺した“客”をな!」
「早く出しやがれ、上月! さもないと、神社と山に火を放つぞ!!」
それでも、エルフの鋭敏な聴覚は、外から響く罵詈雑言を正確に捉えてくる。“異客”を出せ、“異客”を害させろ、と叫ぶ人々の声を。
そんな事を言われたって、彼は“異客”なんて知らない。だが正直にそう言った所で、暴徒と化した民衆がここからすごすごと立ち去るわけは無い。彼らは理不尽な怒りを振り下ろす先を求めているのだ、悟がそんな事を言ったら、「“客”を庇っている」だとか言いがかりをつけて、彼にその矛先を向けて来かねない。
だから、彼は沈黙し、屋敷の中や聖地である烏山の方に入らせない為の、有事用の結界をアクティブ化させつつ、姿を現さない様引き蘢るしか無かった。
そうして本格的な籠城が始まってから、今日でもう丸三日経っている。いざという時の為に用意しておいた保存食や、外に出られなくなる前に買い込んだ食糧が役に立っているが、もうあまり長くは保たなさそうだ。
「もうやだぁ……」
打開出来そうにない現状を再認識して発せられたそれは、もうすぐ二百歳になる大の大人が発する声ではなかった。泣きそうになりながら、結界の損耗を修復する。
最近はこういう事ばっかりだ。その所為か、何だか前髪の生え際が目に見えて後退して来たし、この前人生初の白髪が生えていたのも発見した。ストレスが食欲に向けられている為か、目に見えて腹の肉が増えて来たりもしている。
単純に年の所為でもあるのだろうが、そこに彼にのしかかる重圧が加わってきているのは否めない。そうして溜め息を吐きつつ、じわじわと着実に消耗されていく魔力と気力を補う為に、甘いチョコレートを一欠片口の中に放り込んでいると、ふと妙な臭いが鼻についた。
(……これは、ガソリン?)
その独特な臭いは、ガソリンスタンドで嗅ぐ事の出来るものであった。すぐに彼の思考はそれの意味する所を導き出し、顔を青ざめさせる。人々の怒りがある一線を越えてしまい、故にここに火を放とうとし始めているのだ。
黒環神社の建物や上月の屋敷には、様々な破損を防ぐ魔法がかけられている。だから、このまま放火されたとしても、一日か二日程度なら殆ど燃えずに保つだろう。だがそれ以上は難しいし、そうして屋敷に用意してある結界維持管理用の魔法陣が燃えてしまえば、烏山への侵入を許す事になってしまう。
あの山に関するあれこれは、風上の管轄だ。白矢ならきっと既に手を打ってあるだろうが、それでも火を放たれれば長くは保たない。もう“禍神”も“死神”も封じ込める必要は無いのだから、それでも良いといえば良いのだが──。
(絶対、怒られる……“隻腕の親鳥”に)
書類上は、ここらの土地なんかは上月と風上の物である。だが悟の中では、ここは古竜シィに託された地である、という認識が強かった。実際、シィにとってもそうだろう。
だから、この地を守り切る事が出来なければ、きっとシィは激昂する。彼自身も、父・勇五郎の二の舞にされてしまうかもしれない。その恐怖を糧に彼は気力を振り絞り、正直結界維持で一杯一杯な中から余力を捻出し、そしてそれで撒かれたガソリンを処理する術式を構築し始めた。
「くそぉ……死にたくなーい! まだ死にたくないんだー!!」
叫びながら、屋敷に撒かれ始めたガソリンの組成を組み替え、無害な物質へと変えてゆく。見た目や臭いは変えないようにしたので、人々は暫くは彼の魔法に気付かない筈だ。
やや有って、ガソリンを撒き終えた後、暴徒たちは火を点けようとし出す。だが、何度火種を放っても、無力化されたそれらは一向に燃え上がらない。
「あ、あっれぇ……? くそっ、魔法使いめ、魔法で点かなくしてやがんな!?」
「やっぱり“客”を匿ってやがるんだ! これがその証拠だ! 殺せ、血祭りに上げろー!!」
完全に論理が破綻している罵声と共に、結界が深く傷つけられた。今の所は修復が追いついているが、このままではやがてじり貧になってしまう。額から垂れた汗が目に入り、じわりと染みて涙が零れた。
魔術を展開し続けるのには、魔力だけではなく精神力も消耗する。三日三晩眠らずの戦いは、流石の悟でも応えていた。頭蓋骨を内側からガンガンと叩かれるような痛みに、悲鳴じみた溜め息を漏らしていると、不意に低く轟く咆哮が彼の長い耳に届いた。
「──カァァァーッ!!」
咆哮の主が一喝すると、先ほどまでこれでもかとざわついていた民衆たちが、一気に静まり返った。バサリバサリという大きな羽音の後、どすんと着地するのに伴われる地響きが悟の元にも届く。それで、彼は理解した。この地の本当の主である古竜シーウークフロトクラットが、ここに来たのだ、と。
「……人間よ、無知蒙昧なる愚民どもよ。よくもまぁ、我が領域にて好き勝手騒いでくれたな」
表に出なくても、良く響く竜の声は彼も捉えられた。声だけなので、シィが抱いている感情や真意までは分からないが、ハッキリとした怒りだけは伝わって来る。
思わぬ闖入者の登場に、暴徒だった人々はすっかり怯え切ってしまい、早くも悲鳴を上げて逃げ出している者の気配なんかも感じ取れた。無理もない、古竜なんていう規格外の存在が、明確な憤怒を伴って目の前に降臨したのだから。
「うむ。未だ、超常の者に対する畏敬は消えてはいないようだな。結構、結構。
さて、と。オマエたち、自分らが何をやったのか理解しているのか? このボク、古竜シィの護る地を踏み荒らし、その上火を放とうとしたのだぞ?」
俄に喧噪が沸き立つ。しかしそれは敵意を拡散する物ではなく、恐怖を訴える奇声混じりの声であった。それを嘲るかのように、シィはくつくつと笑う。
「オマエたち、運が良かったなぁ。もしボクがもっと気の短い竜だったら、ここに居るオマエらはぜーんぶ、今頃肉片だぞ?
……ボクの寛容さに感謝する気が少しでも湧いたなら、今すぐここを立ち去れ。十数えても動き出さなければ、ここに居る全ての人間の首を刎ねる」
そう宣告するシィの声は、まさに竜なる神の言葉そのものであった。張り詰めた空気とは裏腹に暢気な声で数を数え始める間もなく、人々は狂乱しながら上月の屋敷の前から立ち去って居なくなった。
「……はぁ~、肩肘張ってああいうキャラ作るのって、もの凄く辛いんだよねぇ。最近忙しくって、可愛い子ニウムを補給出来ないし……」
一気に気を抜いたような声でひとりごちる彼女に、悟は未だに出て行くタイミングを掴めずに居た。そんな彼の気配を察してか、シィは誰に言うとでもなく呟く。
「烏山には、あいつらの手は入らなかったようだね。新しい上月は、どうやら上手くやってくれているようだ。ま、合格点かな」
そこまで言った所で、シィは再び翼を広げ、歯車の空へと飛び立って行った。彼女が立ち去った後、悟は恐る恐ると外に顔を出しつつ、滅茶苦茶になってしまった庭園に表情を歪めながらも、先ほどのシィの言葉に想いを馳せる。
(……今回の対応は、あの竜の御眼鏡に適った、って事なのか)
散々な有様の庭に残された羽毛に目をやりながら、彼はほっと胸を少し撫で下ろした。一先ず、今回はシィの不興を買わずに済んだようだ、と。
「……ってな事が有った、って、悟さんに言われたわ」
「さいで」
居間ですっかり寛ぎながら、これまでの説明を締めくくる深鈴の言葉に、白矢は少し疲れた声調で返した。最近は調べ物に奔走していて、やや寝不足気味なのだ。
慢性的な疲労に打ちひしがれた脳みそを動かし、深鈴から受け取った情報を整理する。どうやら、奴らは隠していた火種を目敏く見つけてしまっていたらしい。
悟たちに真実を教えないでおいて良かった、と内心深い安堵の息を吐きたい気分であった。さもなくば、シィが駆けつけるより先に、悟は民衆に唯華の事をばらしてしまっていただろうから。
先日、思いっきり烏山の空間をねじ曲げはしたが、それでも完全に館への到達を防げるわけではない。館自体には届かなくても、唯華たちの生活の痕跡くらいは見つかってしまっていたかもしれない。
それに関しては、烏山に突入させない様に粘った悟と、圧倒的な威厳で人々を追い払ったシィに、労いの言葉を投げかけたくなった。直接言う気にはなれないが。
「ま、あいつがトチ狂ってユイちゃんの事を言い出さなくって、良かったわね」
「えっ、はっ!?」
「あの子、臼木語分からないっぽいし、アレだけの人数に囲まれたら、弁明も出来ずに“異客”として矛先を向けられちゃいそうじゃん。事実はどうあれ、さ」
「あ、ああ……そうだな……」
素っ頓狂な声を上げてしまったのを誤摩化すかの様に、努めて平坦な声に戻していく。深鈴の言葉に、そういえばそうだ、彼女にとっての唯華はそういう設定なのだった、と思い出し、表情をどうにか取り繕う。危うく、墓穴を掘る所だった。
「あーあ、何だか本当に中世の魔女裁判みたいね。世界中で殺された“異客”の内、一体何割が本物の“客”だったのかしら」
「んな事、知るかっての」
白矢はぶっきらぼうに答えると、大きく欠伸をした。あまりにも眠いので、深鈴が帰ったら、すぐに布団に潜り込んで眠ってしまおう、と彼は決意する。
そうして軽くサングラスをずらし、欠伸によって眦に浮かんだ涙を拭っていると、深鈴はやや怪訝げに眉を顰めた。脱色された髪をくるくると弄りながら、彼女は白矢に問いかける。
「そんなに眠いの?」
「ん、ああ……ちいとばかし、調べ物をしていてな」
「ふーん……あの、『歯車病』の事?」
「そうなる」
あの歯車化現象を、人々は病であると断じた様だった。わけの分からない現象と共に齎された、正体不明の不治の病だ、と。実際はそんな生易しい物ではないのだがな、と彼は心の中で嘲る。
調べ物の内容は、その歯車病に罹った者の快癒例、及び治療方法。情報のアンテナを最大にまで広げ、どこかで歯車化から回復したという報せが発せられたら、すぐにそれを察知出来る様にしているのだ。
ネットゲームや人狼をやる暇、撮り溜めしておいたアニメの視聴をする時間なんかも返上し、その上睡眠時間すらもいくらか削って、彼は情報の検索に没頭している。だが、唯華が歯車の核心に向かい、そして今回の禍を終わらせてから、もう一週間も経つというのに、彼の求める情報は一向に出て来てくれなかった。
「あの子、犠牲者になっちゃったりしちゃったわけ?」
「……まぁな」
険しげに答えれば、深鈴はすぐに大体の所を察したようだった。これだから、彼女は結構話しやすいのだ。が、秘密を抱えている今は、気張って言葉を選ばないと、ポロっと漏れ出た一言から、何もかもを暴かれてしまいかねない。
「そう。そりゃ、辛いわよね。大好きな子がわけの分からない病気に冒されるだなんて、さ」
「うっせ、僕をからかうんじゃねーよ、アホが」
心底楽しそうに茶々を入れる深鈴をねめつけながら、彼は今も館で眠り続けている唯華の姿を思い浮かべる。一切の活動を停止させてしまった彼女の症状をも想起して、また一つ眉間に深い皺を刻んだ。
調べ物をしても目的の情報は手に入らなかったが、副産物はいくらか入手出来た。例えば、普通の人間やその他の生物に降り掛かった歯車病と、唯華の歯車化の症状の相違なんかだ。
唯華のように、部分的な歯車化に冒された者は、脳みそや重要な内臓等が無事である限り、普通に意識を保っている。歯車になってしまった部分以外は、通常のサイクルを続けているのだ。
だが彼女は、歯車化したのは右腕だけだというのに、ずっと眠りこけ続けている。頬にまで侵食が及んでいたから、もしかしたら脳幹か小脳あたりにでも食い込んでいるのかもしれない。しかしだからといって、生命活動が完全停止しているのに、肉体が腐敗し始めないのは、どう考えたっておかしい。
だから、彼がどんなに歯車病の治療法を探しても、それが全くの無駄骨に終わる可能性は高いのだ。症状が違うという事は、対処法も異なるのかもしれないのだから。
しかし、頭ではそう理解出来ていても、感情はそう簡単に制御されてはくれなかった。何か、行動を起こさずにはいられないのだ。例え何の意味も無い行いなのだとしても、動かずにはいられない。
「……辛さ紛らわす為に、こうして動いてんだよ」
自分の理性に言い訳をする様に、彼は小声で呟いた。深鈴はそれに応答しなかったので、その内容を捉えていたのかいなかったのかは分からない。ただ、少なくとも何か呟いたというのは伝わったようで、彼女はぴこりと耳を動かした。
「ま、身体壊さない程度にねー。ええっと、そう、“禍神”の封印はもう無いとしたって、白矢君は身体弱いんだから」
「わーってるよ、僕だってこの身体と21年間付き合って来たんだ」
「久々にこっちに戻ってきたら、ここに貴方の腐乱死体が転がっていた、なーんてホラーはごめんだからね」
「縁起でもねー事言うなよ、有り得なくもない話なのが余計怖いわ!」
唯華が健在ならば、もし孤独死したとしても、彼女ならきっと様子を見に来てくれるだろうから、腐乱死体になって発見なんて事は無かったと思うが、今はそれも無い。他に彼を心配して見に来てくれる知り合いなんて深鈴くらいしか居ないし、しっかりと自己管理をせねば、と白矢は気を引き締めた。
早い所、何らかの進展が有れば良いのだが──そう考えて、じめじめとした溜め息を吐き出していると、深鈴は何とも神妙な顔つきになってこう言葉を突き立ててきた。
「それにしても、なんだけど。何がどうして、黒環神社に“客”が居る、なんて噂が広まったんだろうねぇ」
ギクリとした。彼女程の洞察力が有れば、ややもすればそんな些細な疑問からでも火種を嗅ぎ付けてしまうのではないだろうか、と不安が過った。それ以上推理を進めてくれるな、と表情を強張らせながら祈る。心臓に、冷たい液体が流し込まれたような気分だ。
そんな彼の緊張を見透かしているように、深鈴はカラーコンタクトの入った目を細める。見た目は本当に軽薄そうな彼女だが、中身はもう百年以上生きた古強者なのだ。気取られない様にしなければ、と彼は身を強張らせる。
「知らんがな。烏山に“客”が居るなんて、そんなん居たらすぐに察知してるわ」
「──私、『黒環神社』とは言ったけど、『烏山』だなんて一言も言ってないんだけど」
「ッ!!」
しまった、と口元を抑える。冷や汗が流れ出るのを、最早制御する事は出来なかった。不敵な笑みを浮かべる深鈴に、白矢は精彩の欠けた視線を向ける。
「し、知らん。本当に知らんぞ」
「……ま、それでも良いけどね」
挙動不審感満載の彼の言葉に、深鈴ははぐらかさせるかの様に言って、この話題を打ち切らせてしまった。欲しかった情報は得られた、という事なのだろうか。
「だけど、さ。私は白矢君──いえ、そうね……白矢君『たち』の味方よ」
続けられた言葉に、彼は息を呑む。この台詞に、どのような返答をするのが最善か、そも下手に答えない方が良いだろうか、白矢は流れる汗を裾で拭いながら逡巡した。そして、弾き出された結果を元に口を動かす。
「……また、色々落ち着いたら、な」
今全てを打ち明けるのは、リスクが高過ぎる。味方になったフリをして、もっと詳細な情報を得たいだけなのかもしれない。だからといって、にべもなく突き放してしまうのも賢い選択とは言えない。
そう考え、彼はその決断を後回しにする事にしたのだ。“異客”狩り騒動が落ち着き、何らかの決着がついた時分に、深鈴の態度を見ながらまた考え直せば良い、と。
「そ。分かったわ、ならその時を心待ちにしているわね」
俯き加減にしている白矢に、深鈴はそう言って柔らかに微笑みかけた。




