第五十五話・其は唾棄すべき非望
“王権”を使い続ける事による疲労によってか、ムゥの思考はその大半を白く塗り潰されてしまっていた。もうまともに判断する事も、この“ネームレス”の歯車について深く考える事すらも出来ない。
ただ、Wレイヤー上を伝わってくる漠然とした感情たちから、歯車に組み込まれた者たちは本当に幸せになっているらしい、という事は分かる。だが、鈍った彼の思考は、それ以上詳しい認識をしてくれない。
あまりにも頭が重過ぎて、考えが一向に何処にも収束しないのがもどかしいので、彼は自分の頭で考える事を放棄し始めていた。全てが終わった後に、散らばった雑多な思考をまとめればいい、そう考えたのだ。
気怠さのままに彼はその場に寝転がり、巨大な塔を見上げる。世界そのものを無数の歯車の姿へと変えようとしている、何とも偉大なこの建造物を。
それは、上空を覆った天の歯車たちと、島だった場所からじわじわと海の底を広がっていく地の歯車たちを繋ぐ、一筋の綱の様であった。その天地を繋ぐ絆の丁度中心の辺りに、他とは違う雰囲気を纏う白い構造物が存在している。
いくつかの円環と、一つの大きな白い歯車を組み合わせたような姿のそれは、世界中に広がるこの建造物の核心だ。白い歯車の中心部には、脈打つ様な光を放つひび割れた赤い宝石の様な物体が浮かんでいる。
ムゥは今、その大きな歯車の上に寝そべって、全てが終わってくれるのをひたすらに待ちわびていた。彼がそうしていると、不意に赤い宝石のような物が俄にその輝きを強め、ラジオのノイズのような音を発する。
『……う、ア……まエ、る、ら……ウ……』
雑音の中から呟くのは、“ネームレス”の自我の残骸だろう。一気に魂を巨大化させたから、自我が破裂し崩壊してしまったのだ。それでも執着対象の名は覚えているのだから、殊勝なものである。
“ネームレス”の呟きに対しそんな感想を抱いていると、空から重厚なホルンの音が聞こえてきた。聴いた者の意志を掌握し、無抵抗にさせてしまう魔法が込められている様だ。ムゥは竜なので、その支配くらいなら軽くはね除ける事が出来るが。
響き渡るホルンの重低音は、何とも心地の良い音色で、思わずうっとりとしていたくなってしまう。だが、あまり気を抜くと、折角出した“王権”の令が解けてしまうので、彼は慌てて気を引き締めた。
そうして、意識を持って行かれない程度にホルンの音色に聞き入っていると、急にBネットワークを通じてかなり無理矢理なコンタクトが送られてきた。あまりの強引さに、ムゥはそれに応じざるを得なくなる。
『──ねぇっ、き、聞いてる!? ぼくだ、ヤァだ! き、きみの所為で、今世界で、何が起こってるのか、わ、分かっているのっ!?』
これまでにも、幾度となく送られてきた言葉だ。あまりにもそれらが煩わしかったから、彼はBネットワークを遮断していた。だが、完全にシャットアウトしきる事は出来ないので、ここまでごり押しされれば応えざるを得なくなってしまう。
『もう沢山の、人たちが……ぎ、犠牲になった。人間が憎い、それは分かる、けど……こ、こんなに酷い事に、荷担する事は、無いだろっ!?
き、きみにだって……だ、大事な人や、大切な物は、有る筈だっ。そ、それらまで、犠牲にしちゃって、い、良いの? 溜飲を下げたい、なら……あ、相手を選んでやれば良い、じゃないかっ!』
言葉だけでは飽き足らないようで、ヤァは更に自身の目に映る映像までもを送りつけてきた。どういうわけだか彼は方上市に来ているようで、白いシャボンによってどんどんと歯車化していく街並みが送り込まれてくる。彼はどこかの道を駆け抜けながら連絡をしているらしく、異常な情景がありありと伝えられてきた。
面倒だな、と思ったが、このコンタクトを中断させる程の気力も無かったので、ムゥは送られてくる情報や思念を適当に受け流す事にした。そうしていると、先ほどのホルンの音に虜になって、ぼーっと往来の中で立ちすくむ人々の方に、ヤァの視点が向けられる。
殆どの者は、“ネームレス”の強烈過ぎる精神掌握から抜け出せず、降り注ぐシャボン玉に触れて、騒ぐ事も出来ずに歯車の姿にされていっていた。中には何とか正気を取り戻して、屋内等に逃げ込む者も居たが、既に殆ど歯車になってしまった状態で正気に戻ってしまった者等もあり、まさに阿鼻叫喚の地獄絵図となっていた。
どこかで見たような四人組のチンピラが、悲鳴を上げながらヤァとすれ違う。それに対しヤァは一旦足を止め、彼らが走っていった方へと視線を移した。
すると、同時に野太い悲鳴が上がった。チンピラの一人が白いシャボンに触れてしまって、歯車化し始めてしまったのだ。ヤァは息を呑んだ様に一瞬立ちすくんだが、すぐに視線を前に戻し再び駆け出した。
『くそっ、キュゥちゃん、何処行ったんだよ……それに、シィさんの言ってた“客”の人も……』
そんな独り言の中聞こえた、“客”、という単語に、ムゥは思わず反応してしまった。シィが何か言うような“客”といえば、唯華かラシェくらいしか居ない筈だ。一体どういう事だ、と思考を巡らせようとすると、ズキリと頭が痛んでそれを遮る。
『思考をする必要は無い。思考をするから不幸になる。思考は必要無い』
痛みと共に、頭の中に直接、“ネームレス”だったものの思念がぶつけられてくる。残留自我の声では無く、巨大化した“ネームレス”の精神の方が送り込んでくるものなので、それに雑音は混じっていない。それどころか、一切の混じり気も無い想いがガンガンとぶつけられてくるので、抵抗しようとする意志が挫けそうになる。
『……あ、ひ、ひぃっ!?』
そうしていると、激痛に呑まれそうになった彼の意識を引き戻すかのような、ヤァの引き攣った悲鳴が聞こえた。一先ず“ネームレス”だったものとの戦いは置いておいて、ヤァの視界の方へ意識を傾ける。
すると、そこには衝撃的な場面が映し出されていた。血の気の失せた顔をした唯華が、その身体を歯車に変換され、声を上げる事も出来ずに立ち尽くしている光景が。
(な、な……)
弾けた場所から歯車化させていくあの白いシャボンに、彼女は右手で触れてしまったらしく、既に右腕は完全に持って行かれていた。侵食はもう喉辺りまで至っており、歯車化した部分を切り落とすという荒療治すらも不可能になっている。
『ま、間に、合わなかった……!』
ヤァはどうやらその場に崩れ落ちてしまったようで、視点ががくりと低くなった。彼は数歩程離れた所で、変化していく自身の肉体を震えながら眺める唯華の姿を見上げている。彼女はヤァの姿に気付いたようで、意志の光の無い目をこちらに向けると、ぱくぱくと口を弱々しく動かした。
『──助けて、ムゥさん』
あの場に実際に居るのはヤァで、ムゥがその視界の映像を送りつけられているだなんて、唯華には到底推測出来ないだろう。頭ではそう分かっていたが、彼には唯華がそう言おうとしていた様に見えた。
(何故……あ、有り得マセン。だって、あの方は“テルニア”で……でも、あそこに居るのは……)
垂れ目がちな深い色の瞳も、色白な顔も、やや色素が薄い為に焦げ茶になっている髪も、平均より背の高い姿も、それは唯華の物以外には見えなかった。間もなく、その全身は歯車の姿に変えられて、唯華の姿は跡形も無くなってしまう。その辺りで、ヤァとのコンタクトが途切れた。
呼吸を荒げながら、痛みによる戒めによって思考が阻害されるのも物ともせず、彼は普段通りの、否、普段よりもずっと高い速度で思案を展開する。唯華の歯車化という衝撃は、思考を放棄させようとしてくる“ネームレス”だったものの攻撃をも、いとも簡単にはね除けたのだ。
『考えるな。考えてはならない。思考は苦痛である。思考は──』
「黙れ」
自分で自分に喝破する。そうして、彼は真っ白に塗り潰されていた思考回路を取り戻したのだ。まともに思索が出来る様になった認識で、この歯車の建造物を見渡すと、先ほどまで素晴らしいものであるかの様に見えていたそれが、何ともおぞましい物に思えてきた。
ずっと“ネームレス”によって奪われていた正気を取り戻し、普段通りの思考で正しく現状を認識した彼は、まず“王権”の令を取り消した。突如として引っ込められた彼の命令に、同胞たちがさっきまでとは別種の喧噪を奏で出す。
そんな中ムゥは立ち上がり、自身の立つ白い歯車の中央部に有る、ひび割れた赤い宝石のような物へと振り返った。“ネームレス”の最後の執念がへばりついている、彼女の本体へと。
「“ネームレス”サン、お願いデス、もう止めてくだサイ! 止めて、元に戻してくだサイよ! こんな世界は、誰も望んでいない!
確かに従来のままの世界では、様々な歪みが生まれるのデショウ。デスが、それでもこれまで上手くやって来れたのデス! 今更こんなおぞましい事をしてまで改革する必要なぞ、これっぽっちも無い!」
『……チガう……ちガ、ウ……』
ノイズまみれの弱々しい声が、何かを必死に否定する。何が違うというのか、と彼が問い返そうとした瞬間、彼方此方からこの歯車の核心に向かって様々な攻撃が飛んで来た。邪魔な“王権”の令が消えたから、この歯車を破壊しようと竜族が手を出し始めたのだ。
すると、自身の一部を破壊され始めた“ネームレス”は、歯車を軋ませて悲鳴のような音を出し始めた。同時に、残留自我がぶつぶつと何やら呟く。
『アァ……イタイ……イたイ……いタイ……ア、あガ』
“王権”による阻害を取り払われた竜たちは、怒濤の勢いで歯車を破壊していく。あっという間に核心の塔はボロボロになり、ムゥが立っている白い歯車にも攻撃が届き始めた。慌てて竜の姿に変身してその場を脱しようとするが、飛び立った瞬間に何かのブレスの巻き添えを食らってしまう。
「ぐあっ……!」
純粋に破壊を目的としているそのブレスは、ムゥの身体を一瞬にしてずたずたに打ちのめす。咄嗟に彼は羽根を庇い、飛んで逃げるのに支障が無いように計らった。が、その甲斐も無く、絶え間なく降り注ぐ攻撃によって、無事だった羽根もすぐにボロボロにされてしまう。
「く……ぐぅっ」
早く離脱しなければ、修復が困難な程の損傷を受けてしまう。一先ずSレイヤーの顕現を切って、ここから脱しようとした瞬間、良く響く遠吠えと共に、一人の竜が直接ここにまで乗り込んできた。そいつを巻き添えにしない為か、塔に向けて放たれていた攻撃がはたりと止む。
丁度良い、この竜に助けを求めよう、と考えて、ムゥはそちらに這ってにじり寄る。そうして有る程度近づくと、その正体が彼も良く知るシィの姿である事に気付いた。彼女もムゥの姿に気付き、徐に首をこちらに向けてくる。
「ん、ムゥ君、キミか。その様子だと、正気に戻ったようだね」
「し、シィサン……スミマセン、手を……」
「ったく、後で助けてやるさ。ま、自業自得だと思いなよ」
ムゥの声に、シィは橙の瞳を細めて彼を一瞥すると、すっと姿勢を低くした。すると、その背に乗っていた人物が身を起こし、降りようとしながらムゥの姿を捉える。
それと同時に、ムゥも彼女の姿を捉えた。有り得ない筈の姿だ、と彼はこれでもかと瞠目する。シィの背から滑り降りてきたそれは、先ほど白いシャボンに触れて歯車と化してしまった筈の、唯華の姿だったのだ。
「……何故……アナタが……!」
言語化された混乱を口に出しながら、彼は必死に思索を巡らせる。そして、ヤァが見せてきたアレは、もしかして他人のそら似だったのではないかという所に至った。
アレと目の前に居る者のどちらが唯華本人の様に見えるかといえば、圧倒的に後者だ。様々な疑問が彼の胸中を渦巻いたが、目の前の唯華は間違いなく本物だろう、と結論付ける。
そこまで来て、ムゥは戦慄した。悪意と嫉妬に身を任せて自身を害した彼を、操られていたとはいえ“ネームレス”の計画に与した彼を、唯華は憎悪しているのではないか、嫌悪しているのではないか、と想像して。
思わず後ずさりたくなったが、ボロボロの身体では少しのたうつのが限界だった。響き渡る静かな足音が、彼の恐怖をかき立てる。
「……ドッキリ大成功、ですかね?」
だが、そんな彼の心境に反するように、唯華はどこか悪戯っぽく微笑むと、緊張感に欠ける声でそう発した。




