第五十一話・虚夢
幸せな夢を見ていた。とりとめの無い空想の、いつも心の片隅で願っている理想の、その中へと飛び込んでしまったかのような、そんな幸福な夢を。
日曜日、平日より遅い時間に起きて、そして交わしていた約束を思い出して慌てて支度をする。朝食を済ませた後、まだ半分寝ている妹や、テレビゲームに勤しんでいる兄、台所に立っている母や、新聞を広げている父に向けて、「いってきます」と元気良く挨拶をして。
そこまでは、いつも過ごして来ていた日本での週末の光景だ。だが、その夢の中には、テナや白矢、ムゥたちも登場するのだ。
テナは、近所に住んでるお兄さん。白矢は、唯華の兄の同級生。ムゥは、さすらいの竜族。そんな設定を伴って、夢の中の彼らは当たり前の様に日本で生活している。
そんな彼らと映画館前で待ち合わせをして、楽しみにしていた映画を見て。二時間ちょっとの上映時間を満足感と共に過ごして、見終わった後は感想を話し合いながらアイス屋に行って。
それで、アイス屋に向かう最中、クラスメイトとすれ違ったので少し会釈をして。「三人も人外を侍らせるだなんて、流石だねー」だとか野次を言われて、「侍らせる、だなんて。彼らは友達ですよ」と否定したりして。
そしてアイスを食べた後、今度はショッピングモールに向かって様々な店舗を巡って。本屋に、続きを楽しみにしている小説の最新刊が並んでいたので、それをうきうきと買って。暫くそうしていると、丁度お昼の時間になって来たから、フードコートに向かって。
そこら辺で、夢の記憶は途切れている。帰りに夕焼けの中を歩いた光景や、家に帰って「ただいま」と告げた記憶は朧げに残っているのだが、その断片たちを繋げる物は、忘却の彼方へと打ち捨てられてしまった。
もっと夢の続きを見ていたい。追想の中取り戻され始める肉体の感覚は重く、これではまだ目覚める事は出来ないだろう。なら、どうせ目覚められないのなら、夢も無い眠りより幸せな夢の中の方が良い。
記憶に残る夢の光景を強く念じながら、未だに意識に粘り強く絡み続ける睡魔に身を任せる。そうして肉体の感覚が再び薄れてゆく最中、誰かが自身の手を握っている感触を幽かに捉えた。
誰だろうか。もっと認識が鮮明な時なら、知っている者かそうでない者か位は判別が出来ただろうが、今は握られているという事以外は分からなかった。やがて、そんな思考を巡らせる回路すらも眠りに囚われ、彼女は思案を途切れさせてしまう。
不意に、目が覚めた。今まで意識が浮上したとしても、薄く開ける事すら出来なかった目蓋が、いとも簡単に開かれる。強張った全身を解す様にしながら寝返りを打った後、唯華は徐に起き上がった。
あれだけ有った倦怠感が、嘘の様に消え失せている。随分長い間眠り続けていた筈なのに、寝過ぎた時特有のあの頭痛すらも無い。そのあまりの好調さに少し疑問を覚えながらも、彼女は緩慢な動作で床に足を降ろした。
そうしてふらつかない足で立ち上がり、部屋の扉の方へ歩き出そうとした瞬間、がちゃりと外から扉が開けられた。そして現れる銀髪の少年の姿に、唯華はハッとして足を止める。
「む、ムゥさん、戻って来て──」
くれたのですね、と続けようとした言葉は、彼女自身の肉が裂かれる音と短い悲鳴によって遮られた。無表情のままのムゥが、後ろ手に隠し持っていた短刀を振るい、唯華の左肩から袈裟斬りにしたのだ。
「あ、くっ……!」
現実感に乏しい痛みと共に、大量の血が噴き出しムゥの姿を赤く汚す。立っていられず仰向けに崩れ落ちると、ムゥは彼女に馬乗りになって、そして刃を唯華の身体に突き刺した。
何度も、何度も何度も、何度も何度も何度も。刃が力任せに振り下ろされ、そして彼女の身体に新たな穴を空けていく度に血飛沫が舞い、カーペットやムゥの顔を汚していく。
「やめ、てっ! ムゥさ、やめ、ぎ、あ……っ!」
泣き叫ぶ様に制止の声を上げても、彼は無表情を崩さぬままひたすら短刀を突き刺し続ける。竜の腕力で刺し貫かれれば、骨だって簡単に砕けてしまう。既に肋骨の殆どは折れ、本来の役割を放棄させられてしまっていた。
肺に穴が空き、いくつもの主要な血管が傷つき、心臓すらにも刃が届いた辺りで、彼は漸くその手を一旦止めた。今更止められても、ここまで深い傷を負ってしまっては、そう遠くないうちに彼女の息の根は止まると思うのだが。
もしかして治療でもしてくれるのかしら、と淡い期待を抱いた瞬間、首筋に冷たい感触がした。虚ろにそちらへと目をやると、そこには夥しい量の血で汚れた刀身が有って。
(……だったら、最初からそうしてくれれば良かったのに)
喉を勢い良く切り裂かれる感触と共に、不自然に視界が傾いた。ごろり、と転がさせられると、首の無い自身の身体が視界に映る。首を落とされても数秒は意識が保たれるという噂は本当だったのだな、等と考えるうちに、彼女の認識はふつりと断たれた。
ガバリ、と勢い良く唯華は寝台から身を起こした。呼吸が荒い。全身が冷や汗でびっしょりだ。無理もない、あんな風に無惨に殺される夢を見てしまったのだから。
自分の身体を見下ろしながら、首元に手を触れる。胴と頭とはしっかりと繋がっているし、滅多刺しにされた痕跡も無い。夢で良かった、と彼女は心底安堵し胸を撫で下ろした。
あんな夢を見るだなんて、やっぱり自分は疲れているのだろうか。だが、例えそうなのだとしても、これ以上ゴロゴロしているわけにはいかない。どれくらい寝ていたのかは分からないが、動けなかった分も取り戻す様に働かなければ。
そう思って寝台から降りようとすると、不意に左手首が掴まれる。反射的にその掴んだ手の主の方へ視線を向けると、それはテナの無感情な赤い右片目とぶつかった。
先ほどまで全く気配を感じられていなかったので、少し驚いてしまう。こんなに近くに居たテナの存在を察せないだなんて、余程自分は疲れているのだな、等と思っていると、彼は素早く立ち上がり、同時にやや強引に唯華も立ち上がらさせた。
「テナさん、どうかしたのですか?」
続く沈黙と意味の分からない彼の挙動に、唯華は疑問符を声に浮かべた。彼が無口なのは日常だが、それにしたってここまで何も喋らないのはおかしい。いつもの彼なら、唯華が目覚めた時点で何か声をかけているだろうに。
すると、その異常に彼女が思い至ったのを見計らったかの様に、テナは空いている方の手を唯華の首に伸ばした。その感触に、言い様の無い嫌な予感がして、彼女はテナの手を振り払いその場から離れようとする。しかし、彼の力は強く、逃れる事は出来なかった。
「は、放し」
拒絶するその声は、テナの手によって潰されてしまった。唯華の首に伸ばされていたその手が、彼女の首を絞め上げ始めたからだ。
息が出来なくなり、視界がぼやけ始める。朦朧と揺らぐ意識の中、床から離されてしまった足をバタバタと暴れさせた。そうしてテナの身体を蹴飛ばすと、彼はそれに苛ついたかの様に唯華の腹部を殴ってくる。
「あっ、げふっ……」
どす、という音が聞こえてくるかの様だった。容赦のよの字も無く殴られて、内臓が破裂したかと思う程だ。堪え切れず涙を流すが、彼は首を絞める手を緩めはしない。
(どうして、あなたまで……)
失望だとか、絶望だとか、そういった何の生産性も無い感情が静かに身を蝕むのを、唯華は空気を求めて足掻く様に荒く呼吸を繰り返しながら感じていた。だが不思議な事に、怒りだとか恐怖だとかは全く浮かんで来なかった。
やがて彼が両手を首に添え、そしてぐっと更に力を込めると共に、ギリギリで保っていた意識もぶつんと潰えた。その間際、ごき、という骨が折れるような音がしたのを、捉えた気がする。
「──っ!! は、はぁっ、けほっ、こほっ……」
今度こそ目覚めた筈だ。二連続で見た悪夢に、唯華は咳き込んでしまった。恐らくこちらでも息を止めてしまっていたのだろう、頭がくらくらする。暫く落ち着いて深呼吸を何度かした後、夢の内容を忘れようとするかの様に起き上がりつつ頭を振った。
そうして、どこか懐疑的な視線で辺りを見回す。ここもまだ夢の中で、また酷い目に遭わせられてしまうのではないか、と恐れて。しつつ、片手で強く頬を抓って、夢なら悪夢になる前に覚めてくれ、と祈った。
二連続の悪夢の前に見ていた幸せな夢の時には、目覚めたくない、等と思っていたが、今はもう早く目覚めて欲しい、それだけだった。もしくは、夢の無い眠りに切り替わって欲しい、とひたすら願っていた。
(……ここは、夢? それとも、現実?)
意識は明瞭だが、さっきの二つの夢でも同じくらい鮮明だった。故に、それだけでは判断出来ない。だが、嫌な感じが肌にねっとりとへばりついているようで落ち着かない事から、きっとここは悪夢の続きなのだろうなと断じ、覚悟を決めた。
間もなく、静かに部屋の扉が開かれ、無表情を顔に張り付けた白矢の姿が現れた。そのデジャヴュに、やっぱり、と唯華は諦念のままに微笑みを浮かべる。
「夢なら、早く終わってくださいな」
誰にともなく呟くと、まるでその声を聞き届けたかの様に、ぴたりと白矢が足を止めた。どうせ夢だし、と特に身構える事もせずに成り行きを見守っていると、彼の姿がどろりと融け崩れ、腐臭を放つ白い泥へと変化する。
(“禍神”……成る程、こういうパターンですか)
にじり寄って来る生理的嫌悪をもよおす姿と、濃厚に立ち上る腐った死体の様な悪臭に、唯華は顔をしかめた。だが逃げたりはせず、何本もの腕を伸ばしながら這い寄る“禍神”を見守る。
これまでの出来事から推測するに、恐らくこの悪夢も唯華が何らかの方法で殺される事で終わるものだと思われる。なら、下手に抵抗したりして長引かせるより、早々に殺されて終わりにさせてしまった方が良い。
寝台に腰掛けて目を閉じた唯華の足に、泥の感触が触れた。すると、触れた箇所から徐々に感覚が失せていくのが分かる。膝辺りまで侵食が進んだ辺りで、もしこれが夢じゃなかったらどうしよう、という懸念が胸の内に湧いた。
そう考えると、何もかもが恐ろしい程リアルに感じられてくる。しかし今更怖じ気づいても、両脚が呑まれてしまっているので、もう逃げる事は出来ない。恐怖から目を逸らす様に浅い息を吐くと、早く終わってくれ、と今一度切望した。
それと同時に、彼女の願いに応えるかの様に、周囲の全てがでろりと崩れ、白い泥の姿となる。その非現実的な光景と、一気に全身が侵食され融けていく感覚と共に、唯華はこれ以上無い安心感を覚えていた。
(良かった……ちゃんと、夢だった)
四肢の主導権が完全に失われ、呼吸や鼓動すらも曖昧になってゆく。目蓋を閉じている所為で真っ暗な視界すらも、泥に塗り潰されてホワイトアウトしていった。
四度目の悪夢は嫌だな、と心の中で念じた辺りで、頭も全て泥に沈みきり意識が途絶える。
鉄の塊でも入れられてしまったかのように、頭の芯が重い。呼吸が出来ているのかも分からないくらいに、肉体の感覚が遠い。だがその具合の悪さに、ここは間違いなく現実だろう、と唯華は理解する事が出来た。また眠りに落ちて悪夢の続きを見たくない一心で、彼女は認識を必死になってたぐり寄せる。
力の入らない腕で細い蜘蛛の糸を上っていくように、彼女は覚醒を死に物狂いで目指す。すると、やがて横たわっている寝台の感触や、掛けられている布団の暖かさ、そして自身の手を握っている誰かの温もりが分かってくる。
「……う……だ、れ……?」
久々に、現実で声を出したような気がする。まだ朦朧としている意識の中、枕元に居るらしい誰かがハッとして何か言うのを感じ取れた。だが聴覚や言語を処理する部分は復活しきっておらず、何を言ったのかまでは分からなかった。
どうにか五感を取り戻して、現実に踏み止まろうと足掻いていると、手を握られていた感触が離れてしまった。それを追い縋る様に腕を伸ばそうとするが、少し手先が浮き上がった程度に留まる。
現実の感覚が薄れていくのに恐怖しながら、手を動かそうと奮闘していると、先ほどからずっと額に有った何かの感触が消えた。同時に、何やら水をバチャバチャとする音がして、やや有ってひんやりとした物が額に乗せられる。そこで、濡れタオルでも乗せてくれているのだろうか、と彼女は思い至る事が出来た。
その冷たい刺激も相まってか、夢と現の間を揺蕩っていた意識が、やっと思い通りに現実の方へと傾いた。斯くして開かれた両目をしばしばと瞬かさせて、ゆっくりと焦点を合わせた後、首を僅かに動かしつつ辺りを見回す。
「……ゆ、ユイカ……オレは、分かるか?」
そんな彼女の挙動をみとめたらしい声が、左側から掛けられた。そちらに視線を移せば、『角砂糖』という文字の書かれたTシャツと、泣き腫らした赤い片目に心からの安堵を浮かべるテナの顔を捉えられる。
その情動有る表情に、唯華はやっと本当に安心する事が出来た。どうやらここは夢の中ではなさそうだ、と。




