第四十九話・憂き世の逆夢
今回は残酷描写増し増しです。ご注意ください。
「ユイカサン、ワタシのお願いを聞いてくだサイマスか?」
ムゥによって寝台に座らさせられた唯華は、ぼんやりとした意識の中、人型に戻った彼の台詞を聞き取った。いつになく真剣な色を含んだ声音に、唯華はすうっと正体を取り戻す。
「どうかしたのですか? わたしに出来る事なら、何でも言いつけてくださいな」
まだ頭は重いが、時間を置いたお陰で少し楽になったような気がする。少なくとも、ここで会話した内容を忘れてしまうような状態ではない。自身の状態をそう判断し、唯華はムゥの問いかけに是と答える。
「……『何でも』、デスか。言質は取りマシタよ」
「え、ええ──」
何だか不穏な台詞だ、と思った瞬間、全身の神経に不自然な電流が走り、筋肉が弛緩して動けなくなってしまった。何かの魔法をかけられたのだろうか、と思索する最中、ムゥの表情を見上げて瞠目する。
彼は、嗤っていた。ニコニコ笑顔なのはいつもの事だが、それが異常な程に歪んでいたのだ。裂けんばかりに吊り上げられた頬と、限界まで細められながらも奥から鋭い視線を感じさせる目元、そして悪意によって刻まれた眉間の皺に、唯華は思わず戦慄する。どうしたの、と問おうとしたのだが、声を上げる事も出来なくなっていた。
「ワタシはアナタの事が嫌いデス」
どすり、と心臓に槍でも突き立てられたような気分になる。好きな相手に面と向かって嫌いと言われるのは、唯華の心に大ダメージを与えた。やはり幻滅されてしまっていたのだろうか、と自己嫌悪が沸き立つ。
しかし、そんな彼女の思案を否定する様に、ムゥはその嫌悪の理由を口述する。
「アナタは“異客”だから。アナタはニンゲンだから。……なので、嫌いデス」
良かった、自分の行動の所為で嫌われたわけではないのだ、と思って、唯華は少し安堵した。同時に、“異客”や人間である事は覆し様が無い事に思い至り、この要素を排除する事が出来ないのに歯噛みしたくなる。
「デスが、それよりも好感情の方が上回っていマス。……ワタシはアナタの事が好きなのデスよ、ユイカサン。
分け隔てないその優しさも、悪意にすら善意で応えるそのお人好しさも、如何なる嘆きすらも乗り越えるその強い心も、何もかもが愛おしい。アナタを守ってやりたく思うのデス」
落として上げるかの様に熱烈な告白をされ、彼女はぱちぱちと目を瞬かさせた。先ほど伝えられた嫌悪と、その告白の言葉とがぐるぐると逡巡し、彼女の思考回路を酷使し使い物にならなくしていく。つまり、ムゥはどんな事を言いたいのだろうか。
「でも、ワタシは“異客”を憎まなければなりマセン。ニンゲンを憎悪しなければなりマセン。ワタシはずっと昔に、自分自身と契約を交わしたのデス。恐怖と引き換えに憎悪と嫌悪を、と。
ああ、なのにワタシはアナタを愛してしまいマシタ。“異客”でニンゲンであるアナタを。その事実がずっとワタシを苛んでおりマシタ。悪意の向け所を失い、恐怖も上手く消化出来ず……今この時臨界点に達したのデス」
そう言いながら、彼は右手に鋭利な短刀を形成した。窓から差し込む星明かりを反射し、きらりとその切っ先が煌めく。それを視認すると同時に、全身を滅多刺しにされるような凄まじい殺意を受けて、唯華は呼吸を荒げた。
そんな彼女の反応に気を良くしたのか、ムゥはますます笑みを深めた。その笑顔に、唯華は彼の深淵を垣間見る。無限に続く闇の帳と、根源に有る惨い古傷の姿を。
「……っ」
その傷はどうしたの、何故そんな酷い傷を放置しているの、そう問おうと肺の中身を振り絞っても、唯華の喉は言葉を紡がない。早くこの魔法を解いて欲しいのに、とムゥに向ける視線をやや鋭くしていると、彼は徐に唯華の左隣に腰掛けた。
「どうしようもなく矛盾していマス。好きなのに嫌い……アナタはワタシの矛盾そのものなのデス。
……デスから、」
ムゥはそのまま唯華に密着する程近づきつつ、彼女の左腕を空いた手で取る。そしてその腕を強烈な握力で固定しながら、短刀の刃を二の腕の半ばに軽く当てた。そこで漸く、もしかしてこれはまずい状況なのではないか、という危機感が胸に浮かんだ。
だが時既に遅し。刀を持つ手に、ぐっと力が込められる。
「──ワタシの矛盾を解決する為に、死んでくだサイな」
ぷつり、と皮膚が切れ、脂肪と筋肉の中へ切っ先が沈んだ。同時に痛みが発生し、唯華は叫び声を上げて彼の行動を制止しようとする。だが、声が出ない。先ほどからかけられている、金縛りの魔法の所為だ。代わりに、掠れた吐息のような声が漏れるのみだ。
刃は驚く程鋭利で、唯華の肉をやすやすと切り裂いていく。手先側から肩側へ、骨まで斜めに切れ込みを入れる。その断面から大量の血液が溢れ出し、洗ったばかりだったシーツを赤黒く染めていった。
痛みが、唯華の神経を焼き切る。泣き叫ぶ事すら出来ず、年頃の娘にあるまじき形相をしながら、ただ掠れ声と共に涙を流すのみ。手足の指先からさーっと血の気が引いてゆき、意識が眠気や酒気による物ではない薄れ方で遠のき始める。
(痛い痛イいたい痛い痛い痛いイタイ痛いやめて痛イ痛いイタい痛い痛い痛い痛いいたい痛い痛イいたい痛い痛いどうして痛いイタイ痛い痛いいたい痛い痛イ痛イ痛いいたイ痛い痛いいやだ痛いイタイ痛い痛い何故いたい痛い痛イ痛い痛イいたい痛いッ!!)
激痛によってオーバーヒートした思考回路では、最早それ以外の事を考える事は出来なかった。暴れて抵抗する事も、叫んで助けを呼ぶ事も出来ない。どんどんと冷えていく自身の体温と、痛みによって腕が熱く焼けるのを感じながら、このまま殺されてしまうのだろうか、と彼女は恐怖した。
「……アナタさえ居なければ、“死神”に人格が生まれる事も無く、我々を煩わさせる手間もなく正しい巡りに戻っていたのデス」
やがて、左腕の肉は完全に切り離されてしまう。まるで分厚いバナナの皮でも剥いているかのような切り口を横目に見てしまい、唯華の口の中に酸っぱいものが広がる。何とか食べた物を戻してしまうのは防いだが、口の端から胃酸と思しき液体が零れた。
「アナタさえ居なければ、“禍神”の封印に致命的な綻びが生まれる事も無く、あのような悲劇が起きる事も無かった筈なのデス」
そこまでくると、所謂脳内麻薬が働き始めるようで、痛みは殆ど感じられなくなっていた。浅い呼吸を繰り返しながら、残った骨に刃が突き立てられ、ギコギコと音を立てながら切断されようとしているのを、無気力に受け入れる。ぼろぼろと涙が溢れるのも、ぽきんという軽い音と共に骨が断たれたのを境に、ぴたりと止まってしまった。
「ねぇユイカサン、アナタはどう考えマスか? アナタの存在によって引き起こされた惨事の数々について、どうお考えなのデスか? ねぇ?」
答える事なぞ出来るわけが無いのに、ムゥは執拗に問いかけをぶつけて来た。夥しい量の出血により、まともに意識を保つ事も出来ずに、力無く寝台の上に倒れ込む。しながら、ムゥが再び短刀を振り上げるのを捉えたので、襲い来るであろう痛みを受け入れる覚悟と共に瞑目した。
しかし次に聞こえて来た音は、刃が肉を切り裂くそれでは無く、荒々しく部屋の扉が開け放たれるものであった。唯華は驚き、焦点の合わない目を開く。同時に、憤怒に染まった低い男の声が響いた。
「ぶっ殺す」
烏羽の長い髪を靡かせながら駆け抜け、そしてムゥの顔を容赦なく殴り飛ばしたのは、間違いなくテナの姿であった。間もなく、白矢のそれと思しき怒声等も聞こえて来たのを捉えながら、唯華は今度こそ意識を手放す。
安穏とした闇。何も見えない、何も聞こえない、だけどとても心地よい闇。全ての苦痛から解き放たれたような、素晴らしい気分だ。このまま底へ沈んでいってしまいたい。
誰かが腕を広げて、彼女が落ちて来るのを待ち望んでいる。無数の気配が、彼女を手招きしている。差し伸べられる手に応える為に、彼女も腕を伸ばそうとすると、ただでさえ曖昧な意識が更に薄れていくのが分かった。だけど、もうそんな事はどうでも良かった。
意識なんて要らない。今自分が欲しているのは、奪われる事の無い平穏なのだ。意識が有る限り、平穏は脅かされ続ける。生有る限り、苦しみからは免れられない。だから、彼女は闇濘の底へと手を伸ばすのだ。その先に、彼女の望むものが在る。
『──め、やがれ、ゆい──』
無音であった筈の世界に、そんな幽かな声が届いた。それは上の方、この闇の外から聞こえてくる。煩わしい、と彼女はそれを一蹴すると、無視して更に底へと向かった。
『死なな──くれ』
しかし、その声音を聞くうちに、彼女は何かを思い出した。自分は、この声の主を知っている。誰の声だっけ、そう考えるうちに、このまま潰えそうだった意識が明瞭になってくる。殆ど正気に戻った所で、彼女は細い声で漏らした。
「……はく、し、さん?」
気付くと、唯華は闇の中等ではなく、いつもの寝台の上に横たわっていた。固く閉じられていた目蓋をこじ開けると、白い人影を捉える事が出来る。彼女が目を開いたのをみとめると、彼はへなりと垂れ下げられていた長い耳を、ピンと上向きにさせながら、安堵の溜め息を吐いた。
「よかっ──ゲフッ、良かったっ……! く、クソッ、滅茶苦茶心配させやがって……う、えうっ」
「大丈夫ですか……? 何か、有ったのですか……?」
「それはこっちの台詞だバカ! 畜生、こんな惨い……」
泣きそうな声で心配する言葉をぶつけてくる白矢の顔を見て、唯華は意識を失う前の記憶を少しずつ取り戻し始めた。ムゥに金縛りの魔法をかけられて、それであれこれ言われて、そして。
烈々と刻まれた激痛の記憶が、鮮やかに思い起こされた。だが、頭の中には確かにその苦痛が残されているのに、現実の肉体の方が痛む事は無い。そろそろと目を自身の左肩の方へ向けると、そこには最初からあの惨劇なぞ無かったかの様に繋がっている腕が有った。
軽く指先を曲げてみようとすると、上手く力が入らないが何とか曲がる。白矢が治してくれたのだろう、と起き上がって礼を言おうとしたのだが、彼女が少し身じろぎした辺りで、白矢の手が身体を押さえつけてしまった。
「良いから、あんたは黙って寝ていろ!」
「だけど、わたし、起きなきゃ……」
「アホかっ、あんだけ酷い目に遭ったんだ、大人しくしとけ! 勝手に起き上がったりしたら許さねーからな!」
「ですが……」
白矢の腕力は貧弱だが、心身ともに衰弱している今はそれすらも振り払えなかった。起き上がるのを諦め、大人しく身体の力を抜くと、再び眠りへと唯華を誘い始める睡魔から逃げ出しながら、彼へと言葉を向ける。
「……ムゥさん、は」
「あ? ああ……あのクソ竜族なら、謝りもしねーでどっかに行っちまった。僕も一発ぶん殴ってやりたかったのによ」
そう言って眉間に皺を寄せる白矢の声つきには、振り下ろす先を失ってしまった怒りが込められていた。いつも怒っているような態度をしている白矢だが、今彼が抱いているものは、普段のそれとは違う本物の怒気だ。
恐らくはムゥに向けられているのであろうその怒りを、どうか振り払って欲しいという気持ちを込めつつ、唯華は弱々しく首を横に振る。そんな彼女の所作に、サングラスの向こうに有る色素の薄い双眸がやや細められ、それに伴われる様に視線が険しくなった。
「ムゥさんの事は、許してあげてください」
「……はぁ!? 何言ってんだあんた、許せるわけねーだろっ!!」
「わたしは、あの人の事を許そうと思います……ただ一度だけの過ちだけで見限ってしまうのは、愚行に他なりませんから」
「それはそうなのかも知れんが、限度ってもんが有るだろ! 頭おかしいんじゃねーか、あんた!!」
彼の白い顔が、激情と共にすぐ真っ赤になる。声をこれ以上無い程に荒げて、白矢は唯華の言をこれでもかと否定した。その後少し深呼吸をし、彼は無理矢理落ち着かせたような尖り声で問う。
「なら、あんた……今から僕があんたの腕を落とすと言ったら、それを受け入れるのか? 許すのか?」
「……やって欲しくないですけど、あなたがそれを望むのであれば」
もの凄く痛いから止めて欲しいけど、白矢に頼まれたら断る事は出来ない。そんな返答を口にした瞬間、ドン、というくぐもった音と共に、白矢が寝台に拳を振り下ろした。
「断れよ!! 許すなよ!! アホか!? あんた、自分が殺される間際になってもニコニコしてるんじゃねぇのか?
そんなに自分が憎いのか? そんなに、自分が嫌いなのか……?」
「そうじゃない、です。わたしだって、自分の身は可愛いですよ。だけど、仕方が無いじゃないですか、皆さんは『人外』なのですから」
荒ぶる彼の激情に対し、唯華は微笑む事で応えた。一片の曇りもない、強がりや虚勢の含まれた物でもない、心からの笑みで以て。
「同族同士ですら、考えの違いで諍い合う事も有るのです。種族が違えば、根本的な意識の違いが有るのでしょう。
ですから、人ではない皆さんと生きて行くって事になった時から、わたしは覚悟を決めていたのです。どんな目に遭っても許そう、と。
それに、皆さんも、勿論ムゥさんも、無力な“異客”でしかないわたしに、散々良くしてくれて来ましたし。何も出来ないわたしは、多少の事じゃ文句を言えない立場ですから。
まぁ、流石に片腕を捥がれるとは思いませんでしたけど……それでも、わたしはムゥさんを許そうと思うのです。自分の決意に、嘘を吐きたくありませんから。
許して、話して、分かり合いたい。あんな行動に出た理由を理解して、もう二度とこんな事が起きない様に対処をしたいのです」
彼らが生きた人外である事を認識した時から、密かに秘めていた決意だ。ガラスケースの向こう側ではない、次元の壁を隔てた先でもない、本当にすぐ近くに彼らは存在している。だから、何が起きても受け入れなければならない、と。
そこまで滔々と語った所で、睡魔が本格的に唯華の意識に絡み付き始めた。くらくらと不安定に脳みそが揺れ出す中、白矢がそろりと唯華にその手を伸ばす。
彼は伸ばした腕で彼女の身体を引き寄せ軽く起こさせると、そのまま強く強く抱き締めた。細い指が身体に食い込むのを感じながら、顔の横に来る白矢の頭に視線を移す。彼は手を唯華の焦げ茶色の髪に絡めさせながら、鼻声で吐き出した。
「竜族だからって、人外だからって、あんたを傷つけて良い理由になんかならねー……“異客”だろうが何だろうが、傷つけられて良い理由にもなんねー……!
そもそも、だ! あんな常識知らずに人間の倫理が通じると思うのか? 相手は確かに人型をしていたし、言葉も通じていたが、それなのにあんなワケわかんねー暴虐に出たんだぞ!?
だから、もうそんなアホみてーな考えは止めてくれ。僕はもう、あんたの大怪我を治したくない!」
白矢の声は、震えていた。唯華がムゥを許す事によって彼が付け上がり、そして更なる無体を働く事を恐れているのだ。必死に涙をこらえる様にしている彼の背を、割と自由に動く右手で軽く撫でる。浮き上がっているらしい背骨の感触と、長い白髪の触感がした。
「……大丈夫ですよ、考え無しに言っているわけじゃないですから。安心してください、白矢さん、あなたを徒に悲しませはしません。
だって、わたしも──」
その先にもっと言葉を紡ごうとしたけれど、それより早く眠気が限界点を超えた。唯華は力無く目蓋を落とし、睡魔に後押しされるままに意識を手放す。もう少し色々思考して、頭の中身を整頓したかったが、それを行う気力は残されていなかった。
認識が完全に闇に包まれる直前に、彼女は思う。ムゥの深淵に有ったあの傷を癒す方法は無いのだろうか、と。




