第四十五話・自分勝手なノスタルジア
幾億もの年月を生き、そして過ごした旧竜、ラァ。彼女は実質的な竜族のリーダーであり、竜という種族のため、日夜世界中を奔走している。
その姿はなんといっても異様で、とっても人外的だ。耳の代わりに奇妙な触覚が生えているし、全身の肌が灰色をしている。その上彼女の目元はいつも布で覆い隠されており、その下に有るモノが他とは比べ物にならない程の異形である事を示唆している。
だがそれ以外は、とても妖艶な美女と言える容姿だ。男性は勿論、女性すらも魅了するようなナイスバディーに、腰辺りまで伸ばされた黒髪は、この世の物とは思えない程美しい漆黒である。
彼女は“ネームレス”よりは若い竜なのだが、人類にとっての竜族代表といえば、このラァになる。何故ならば、“ネームレス”は良くも悪くも気ままな生活を送っている故に、進んで人の前に姿を現す事が滅多に無いからだ。
だがラァは違う。竜という種族が自身らを人間社会に知らしめ、そして受け入れさせているのは、ラァの力に依る所が大きい。彼女が居なければ、今も竜と人は越える事が出来ない程深く広い溝を残していただろう。
また、あまり知られる事は無いが、“異触”によってアルシードに害を為す“客”が流れ着いたり、様々な要因によってこの惑星自体が危機に陥った場合等には、彼女が率先して竜たちに通達をし事態の収束に努めているのだという。
これだけ見ると彼女が善人である様に思えるが、大きな目で見ると確かにそうなのだが、個人として付き合う場合にはそうでもなくなってくる。
人間と竜族は対等だ、というポーズこそ見せているものの、その言動や立ち振る舞いの端々から人類蔑視が滲み出ている。とにかく個というモノを軽視しているため、必要とあらばどんな親友であろうと同胞であろうと切り捨ててしまう。彼女は竜と人との架け橋としては優秀だが、窓口としては失格なのだろう。
唯華の涙に、ムゥは今度こそ本当に驚いてしまったようで、呪文を中断し構成されつつ有った術式を雲散させてしまった。白矢が慌てた様に、耳を垂れ下げながら声を上げる。
「お、おい、泣く程嫌だったのかよっ!?」
「……おい、ミハシラ……ユイカに、何をした……」
「テナサン、半分くらいはアナタの所為でもあるのデスからね? ああもう、どうしたというのデスか」
「何でもないんです……その、ちょっと目が乾いただけで」
ムゥが心配そうに表情を歪めながら、唯華の顔を覗き込む。確かに白矢に無理矢理ビールを飲まされたのも一因だろうが、一番の原因は別の所に有った。とはいえ何度も泣くのはみっともないので、目元を擦って涙を拭う。
「すみません、心配かけてしまって……本当に、ごめんなさい」
「き、気に負わないでくだサイな」
何だか尋常でない勢いで謝り始めた唯華は、恐らく自分も酔って来ているのだな、とどこかで自覚しつつあった。どうやら、自分はかなりアルコールに弱い体質だったらしい。思考の箍がいくつも外されて、彼方へと投げ飛ばされていく。
そうすると、普段は理性で制御している感情が、その戒めを逃れて水面上へと表出してくる。諦めという名の鎖で縛り付けていたその感情は、望郷の念と心苦しさであった。
「わたし、迷惑かけてばかりで……ごめんなさい。皆さん、いつも良くしてくれてるのに、それなのに何も返せなくて……」
「……少なくともワタシは、見返りを求めているつもりは無いのデスが」
「それでも、何も恩に報いれないのが、ずっと申し訳なくて……」
今まで必死に押し隠していた後ろめたさを、自身の支配の手から逃れてしまった感情のままに吐露する。ぼろぼろと大粒の雫が目尻から溢れ出し、鼻がつーんとしてくる。そうして涙に咽んでいると、テナが唯華の左腕を抱き締めた格好のまま、心持ち表情を引き締めつつこちらを見上げて来た。
「そんな事は、無い。ユイカは、十分……報いて、くれている」
「へ? て、テナさん?」
「……ユイカが、来るまで……ここは、まさに廃墟だった。だが、おまえが来てから……変わった。人の暮らす家に、なった。
それに……オレが今、生きているのも……おまえの、お陰。おまえが、居なければ……オレは、とっくに……消えて、いる」
そう言いながら、テナはほんのりと笑みを浮かべてみせた。彼のその言葉に、ぱちくりと目を瞬かさせていると、次に白矢が肩を震わせながらげらげらと笑い声を上げる。
「ゲハハッ、んな事言ったら僕だってあんたにでっかい恩が有るな! あの糞爺から守ってくれたり、解決策を提示してくれたり、それにこの前は捨て身で“禍神”から助けてくれたしよ!」
「でも、それで沢山心配をかけてしまいましたし」
「それとこれとは話が別だ! ひっく……感謝しているんだぞ、僕はこれでも……あっはっはっはっはっ──デンッ!!」
何の躊躇も無く感謝の言葉を口にする白矢は、素面の状態ではまず見られないであろう貴重なものだ。腹を抱えて大笑いをする彼の姿を見上げていると、彼はそのままふらふらと危うげな足取りをしながら壁の方へ後ずさってゆき、そしてかなり痛そうな音を立てて後頭部を壁にぶつけた。
ぶつけた頭を抱えて踞る大男の姿を眺めながら、唯華は先ほどまでの憂いを少し忘れて、軽く笑い声を上げてしまった。しかし、それと同時に、先ほどまで強烈に自己主張をしていた郷愁が失せ始めているのに気付き、その恐怖にハッキリとした嗚咽を上げてしまう。
「わたしっ……なんでっ……!」
「はいはい、今度はどうしマシタ? この際、楽になるまで吐き出してしまいなサイな」
宥めるムゥの優しげな声と共に、彼の柔らかな片手が唯華の肩を軽く撫でる。その感触に、一時は引っ込みかけた涙が、再びぼろぼろと零れ出してしまった。
「どうして、皆さんはそんなに優しいんですか……?」
「は? どうして、とは……」
「皆、良い人で、優しくって、カッコ良くて、人外で……だから、わたし、皆の事が大好きになっちゃって……」
彼女の台詞に、ムゥは少し戸惑う様に笑みを歪めた。同時に、テナが抱き込んでいた左腕を漸く解放し、何だ何だと言わんばかりに身を乗り出してくる。そんな彼らの動作を視界に収めながら、唯華は更に言葉を続けた。
「だから、皆と離れたくない、って思うんです。ずっとムゥさんたちと一緒に居たい」
「……そうデスか。ワタシも、ユイカサンとは別れたくありマセンねぇ」
「だけど、ですけど、ちゃんと『帰りたい』って思わないと、故郷の世界に、家族に、申し訳無いじゃないですか! 帰りたい、この気持ちを、忘れちゃ……」
ムゥの白目の無い双眸が、軽く開かれる。そしてぶつけられる視線から、ぐちゃぐちゃに歪み切った自身の表情を隠す様に、両手で顔を覆った。矛盾し渦巻く自身の想いが、止め処無く言語化されてゆく。
「日本に帰りたい、お母さんたちに会いたい……絶対に帰りたくない、ムゥさんたちと一緒が良い……」
望郷する想いは嘘ではない。だがそれが薄れ始めているのは事実で、その薄らぎに恐怖しているのも本当だ。いつか、帰りたいと思う事が一切無くなってしまったら、と考えると、怖いし苦しくなってくる。
だが、それを忘れない為に帰りたいと強く願っていると、いつか本当にその望みが叶えられてしまうような、そんな気がするのだ。もしそんな事になってしまったら、もう二度とアルシードには戻れまい。荒唐無稽な懸念としか言い様が無いが、それでも生じる恐怖は本物である。
丁度良いバランスを保ち続ける道は、まだ見つけられていなかった。考えず、思考を停止させる事以外に。自分の意志が理性で制御し切れない事に、唯華はもどかしく思う。感情に振り回されている場合ではないのに。
「……アナタもアナタで、悩みは尽きないのデスね」
細い声音でムゥは呟くと、唯華の肩に置いていた手を徐に背へと回した。彼はそのままもう片方の手も伸ばし、柔らかに唯華を抱き寄せる様にする。普段の唯華であれば、ここで驚くなり何なりしたのだろうが、今はその感触がただ温かい。
テナが瞠目し、白矢が素早く顔を上げる気配がした。だがムゥはそれらを完全に無視し、更に言葉を続ける。
「ワタシが出しゃばった所で、すぐに解決するような事柄では無いデショウ。デスが、多少分かち合う事なら可能デス。
泣き止め、とは言いマセン。泣きたい時には、思いっきり泣けば良いのデス。ユイカサンは、まだ子供なのデスから」
ああ、と唯華は思い知った。どんなに取り繕ってみせても、大人ぶってみても、自分はまだ自身を掌握し切れていない子供なのだと。他に頼らずには生きてゆけない、何ともか弱い只人なのだ、と。
その弱さから生じた瑕を埋める様に、ムゥの台詞が染み入っていった。堪らず、唯華はムゥの小柄な身体を引き寄せ、掻き抱きながら慟哭した。
「う、うあっ、うああああっ……! ムゥさん、わたしはっ……!!」
何と続けようとしたのか、唯華にはもう分からなかった。言葉は流涕の中に溶け入ってしまい、自分でも何を言おうとしたのか思い出せない。
ムゥの身体は少し体温が低いようだったが、しかしその温もりは何よりも温かく思えた。少年らしい、しかし年長者特有の包容力を持つ響きの声が、穏やかに耳に届く。
「……ワタシは人外で、その上大人なのデス。見た目こそ頼りないデスし、竜としてはまだまだ若輩デスが、アナタを甘えさせる事くらいは出来マスよ」
他に寄りかかっては駄目だ、自分の力で立ち上がらなければ、そう叫ぶ自身の理性は、今はすっかり静かになってしまっていた。
ムゥの腕の中で、唯華は無言でうとうととしている。先ほどまでは泣きじゃくっていたが、今は大分落ち着き、曖昧な意識の中でぼんやりと彼に体重を預けていた。他の二人からの視線がかなり痛いが、この役得を手放す気はムゥには無かった。特に、テナに非難される筋合いは無いし。
「……いい加減、ユイカを放せ」
「お断りしマス。そも、ユイカサンの方から抱き着かれていマスしねぇ」
その気になれば簡単に引き剥がせる程度の腕力では有るが、折角向こうから抱き着いて来ているのを放す気にはなれない。やっと自分に甘えを見せてくれたのだし、とムゥは少し悦に浸る。
唯華は完全に酒気が回ってしまったらしく、テナやムゥが何かを言っても、意味の有る答を返す事は無かった。ほんの少し飲んだだけでこうなるとは、もしまともに飲まされていたら、一体どんな事になったのやら。
「さて、ユイカサンはもう前後不覚な様デスし、ワタシが部屋に運んでおきマショウ」
「ブハハッ、ヴェッ……手ェ出すんじゃねーぞ……」
「このワタシが、そんな不埒な真似をするわけが無いデショウ。アナタたちじゃないのデスから」
先ほど頭をぶつけて崩れ落ちた後、そのまま踞っている白矢が、ムゥに向かってそんな言葉を投げつける。彼はそれを不機嫌に一蹴すると、唯華を抱えたまま竜の姿に変身し、ヒレの前脚でその体重を支えつつ軽く六つ羽根をはためかせて浮き上がった。
そうして部屋の扉を尻尾で開けて、ほんのりと静かな廊下に出た所で、彼は長い首を曲げて唯華の顔を見下ろした。竜の姿になって動き出せば、流石に気付いたようで、彼女はどこか紅潮した顔でムゥを見上げてくる。
「気付きマシタ?」
「あ……はい。すみません……色々言ってたわたしが、潰れちゃうなんて……」
「アナタの責ではありマセンよ、これは。無理矢理アナタに酒を飲ませた、あのしらす干しエルフが悪いのデスから。……立てマスか?」
「……ちょっと、難しいかもです」
そう言って、彼女はムゥの首に回している腕に力を込めた。それに応える様に、彼は尻尾で焦げ茶のサイドテールを軽く梳く。さらさらとした髪の感触は、何とも心地の良い物であった。
(帰りたいけど、帰りたくない、デスか……何と、いじらしい事か)
彼は廊下をゆるゆると進みながら、先ほど唯華が吐き出した悩みについて思い返していた。彼女の言った『大好き』には、多分親愛以外の意味は含まれていないのだろうが、それでもちょっと嬉しかったし。それに、この世界や自分たちの事を、家族や故郷と同等に考えてくれているというのには、少々感慨深くなる。
多くの“異客”は、望郷の念を捨てきれず、そのためまともにこちらの世界に馴染む事も出来ず、苦悩を抱えたまま生涯を終える。多くの竜たちが、その末路を見届けて来た。
唯華もきっとその道を辿るのだろうな、と推測していたのだが、彼女は案外こちらの世界に馴染んでいた。いや、“晶臓”が無いから、人間社会に馴染む事は難しいだろうが、『アルシード』自体には適応し始めている。
だがしかし、だからこそ、彼女はあのような矛盾を生じさせてしまったのだろう。普通の“客”ならば、『帰りたい』で一貫し続ける事が出来るのだから。
(……そして、なんと贅沢な悩みなのデショウ)
こんな恵まれた二択を見比べる事が出来るだなんて、なんて贅沢な。恨めしい、妬ましい。自分が最初から持っていない物を、奪われてしまった物を、当然の様に持っている彼女が、奪われてなお悲愴をそのままに受け入れられる彼女が、羨ましい。
その嫉妬と共に、水面下に押し込み隠し続けて来た、どろどろとしたどす黒い感情が形を成し始めた。50年もの間、蓄積され熟成され続けて来た恐怖が。
その恐怖は、やがていつもの様に憎悪と嫌悪に転じかけた。しかしその変容は、途中で停止させられる。腕の中に収まっている唯華の鼓動が、その変貌を阻むのだ。
「ユイカサン……」
その名を、どこか不自然な発音の有る臼木語で、普段通りに敬称を付けて、木々のさざめくような小さな声で呼ばわった。そうしながら、彼は自身の記憶を最初から想起し始める。
もう水面下には収め切れない程肥大化し膨れ上がったその感情から、目を逸らす様に。




