第四十二話・塗り潰された痕
古竜にならない場合の竜の寿命は、およそ百数十年から数百年程度とされている。ばらつきの幅が大きいが、早世してしまう竜の場合、その命はエルフの平均寿命より短くなるというのだから意外だ。
尤も、竜の年齢は基本的に自己申告なので、サバを読んでいる竜も居るのかもしれないという可能性は否定出来ない。竜の生誕の瞬間を観測し、そしてそのまま監視下に置くだなんて事は現状不可能なので、どうしようもないのだが。
しかし、通常の竜の寿命が精々三桁程度なのは、全ての竜が何か示し合わせてサバを読んでいた、だなんて事が無い限り、変わらない事実だ。長くても400年が限度らしく、大体その齢に達する前に、竜たちは姿を消す。
だが、古竜となる場合には話は違ってくる。一旦古竜となってしまえば、彼らは平気で四桁五桁の年数を生きる。だが古竜にも限界はあるようで、年齢が億に達するまで生きる事は殆ど無い。そこまで長生きした者は、古竜を辞め旧竜となる。
大体何歳くらいで古竜になるのかというと、これにもやはりばらつきが有り、おおよそ300歳から400歳の間だとされている。ただ、年齢だけが条件というわけではないらしく、300歳の古竜が居るかと思えば、350歳の普通の竜が居たりもする。
何か異変が起きては居ないか、と全員で連れ立って館の外へ出る。何か不味い事が起きていたら、早急に対処するなり避難するなりする為に。
“異触”に伴われる現象はこの世界では日常茶飯事なものの、いわば台風や地震のような天災であり、何も考えずに放置していい物でもないのだという。また、そういった“異触”の災害は臼木に限らず何処にでも起きるからか、この世界の人々は全体的に災害に対する精神的耐性が高いのだという。
これから一生アルシードで暮らすのだから、唯華も“異触”に慣れなければならないのだろう。しかし、彼女は何だか浮き足立ってしまう。それはラシェも同様なようで、シィの左手をずっと両手で握りしめていた。
唯華にとっての“異触”とは、緑色の夕焼けと共に訪れた、あの尋常では考えられない天災だ。今では大分落ち着いたが、それでも夕日を見ていると時々恐ろしくなる事も有る。きっとラシェも、“異触”の際に怖い目に遭ったのだろう。
(……どうか、何も起きませんように)
二度も何もかも失う羽目に遭いたくないから。心の中でそう祈りつつ、唯華は庭の半ばまで出た所で天を仰いだ。現状空に異常は見られず、ほっと安堵の溜め息を吐く。
「極小規模な“異触”の様デスし……ユイカサン、そう恐れる事はありマセンよ。相手側の世界はともかく、このアルシードが“異触”によって未曾有の危機に瀕した事は、数えるくらいしか有りマセンから」
「で、でも、無いってわけじゃ無いんですよね……?」
「アホ竜族が、んな事言って不安煽ってどーすんだよ。
確かに、たまに地震とか起きて大騒ぎになるけど、“異触”が大規模な災害になった事は、僕が生まれてからは一度も無い。百年に一度有るか無いか程度のモンなんだ、安心しやがれ」
なら大丈夫なのだろうか、と少し緊張を緩める。けれども、何だか胸の内がざわめくのは止まらない。
「んー、“客”が流れ着いた気配も無し、付随現象もさっきの音だけ……ま、こんなもんだよね。
とりあえず、ボクは現場を見に行ってくるけど、皆はどうする? 見学する?」
「見学、ですか……なら──」
シィが少し皆から距離を取り、そして竜の姿に変身しながら告げた言葉に、唯華は答えようとした。その為に、竜型となった事によって随分と高い位置に移動したシィの顔を、彼女は見上げる。そうすれば、自ずと空も視界に入る。
そして目に入った空は、どういうわけだか『波打って』いた。すぐにシィや他の皆もその異常に気付き、身構えながら空をねめつける。まだ、“異触”は終わっていなかったのだ。
「今回は随分と長いんだね……」
「こ、これ、大丈夫なのですか?」
「ええ、問題はございマセンよ。ちょっと接触時間が長くなっているだけデスから」
揺らぐ空を眺めていると、パッと向こうの世界の物と思われる光景がそこに映し出された。硬そうな草木が疎らに生えている、焦げたような色の大地だ。相手側の世界が見える事も有るのだな、と感心していると、その光景が映し出された辺りから、何かがバラバラと落ちて行くのが見えた。
やがて、映し出された異界の光景は薄らいでゆき、そのまま見えなくなる。今度こそ本当に終わりだろう、と唯華が今一度安堵した、その瞬間であった。
「……っ、あ」
空が、毒々しい緑色に染め上げられたのだ。
「……あ、ぁ……ぅ……!」
想起する。この世界に来るきっかけとなった、あの出来事を。夕日が緑の閃光を放ち、大災害が起きて、そして地割れの中に落ちて行く最中意識を手放した時の記憶を、鮮烈に。
「い……あ……」
全身の感覚が狂い始め、まるであの時濁流に流されていた時の様に、骨の芯まで凍り付くような寒気が走る。同時に、緑色の空に黒点が表れ、そしてそれがじわじわと広がってゆく幻覚を見ていた。
「……おい、ユイカ?」
「ユイカ、どしたのっ? ね、ネェ、言って!」
彼女の異変に気付いたらしく、テナやラシェが心配する声をかけてくるのが聞こえた。それは間違いなく耳に届いているのに、上手くその意味を理解する事が出来ない。悲鳴を上げる事すら出来ずに、喉を潰されてしまったかのような声を漏らしながら、唯華は真っ暗に塗り潰される視界に怯える。
ガタガタと歯が鳴る。身を丸めて寒さを和らげさせる事も叶わない。光は最早失われ、夜よりも更に深い闇に恐れをなす。息が出来ない。肉が潰れ、骨が砕ける感触がする。むせ返りそうな程の、自分の血の臭い。下半身の感覚が失せたのは、背骨が砕けてしまったからだろうか。神経を焼き切る程の痛みに、自我が分解され、バラバラにされてしまう。
理性で制御する事の出来ない程の感情の氾濫に、彼女は為す術を持っていなかった。ただ幸いだったのは、あまりにも恐怖が強過ぎて身体が動かなかった故に、暴れ出したりせずに済んだ事だ。
「チッ、しゃーねーなっ!」
そうしていると、白矢が何やら明瞭な声で唱え始めるのが耳に届いた。他の皆が騒いでるのは分からないのに、その不思議な響きの呪文だけは何故だかちゃんと聞こえてくる。藁にも縋るような思いでその声に耳を傾けていると、やがて五感が正常に戻り、意識が確かになってくる。
「──おい、そろそろ正気に戻ったか?」
「あ……はっ、けほっ、こほっ! な、何とか……」
呼吸を忘れていた事に気付き、慌てて息を吸った所、喉に唾が入ってむせてしまった。咳をしながら白矢の問いかけに答えながら、開きっぱなしで乾いてしまった目を瞬きさせる。そうして唯華が自身の正体を取り戻したのをみとめると、白矢はいつの間にか掴んでいたらしい彼女の腕を放した。
既に“異触”は終了したらしく、空は元の色を取り戻している。きょろきょろと辺りを見回せば、自身を取り囲むようにしている皆の姿を視認出来た。
「……何が、有った」
「ええと……その、“異触”に巻き込まれた時の事を思い出してしまったようです。あの時は、夕日が緑色の光を発して、それで……」
テナの問いかけに、未だに確かに存在し続けている恐怖心を抑え込みながら、唯華は答えようとした。しかし、途中まで言いかけた所で、ムゥが彼女の肩を撫でてそれを止める。
「良いのデス、無理に思い出す必要は有りマセンよ。しかし、アナタが重大なトラウマを抱えている可能性を、すっかり失念していマシタね……」
「ご、ごめんなさい、こんな事で取り乱してしまって。慣れなきゃいけないのに」
「無理しなくても良いんだ。キミの場合、とっても酷い目に遭ったみたいだし……逃げる事も重要だよ、唯華ちゃん」
「で、ですが……」
彼女がどんなに“異触”を怖がっても、相手が来なくなってくれるわけではないのだ。自分よりずっと年下のラシェでさえ平気な顔をしているのだから、唯華だってちゃんと克服しなければならない。挫けかけた意志を何とか立て直そうと両拳を握りしめていると、不意にテナが彼女の前へと進み出て来た。
「……ユイカ、こっちに」
「へ? あ、はい、分かりました」
軽く手招きされて、唯華は彼の元へ歩み寄った。何が目的なのかな、と思っていると、自身の背に彼の両腕が回される。唐突なその行動に、唯華は思わず瞠目してしまう。
「ちょっ、て、テナさんっ!?」
ぎゅうっと抱きすくめられ、唯華は心臓が口から飛び出すような思いになった。苦しい程に胸が高鳴り、ここ十年ぐらい使っていなかった思考回路が呼び起こされてくる。わお、というシィの野次混じりの一声や、なっ、というムゥの含み声等が聞こえた。
「ユイカ、おまえは……もっと、他人に……甘える、べきだ」
「甘える、だなんて……わたしにそんな権利は有りませんよ。だって、わたしはもう良い年ですし、皆さんはわたしの親ではないのですから」
「……オレは、ユイカの家族だ。血は、繋がっていない……でも、それでも、家族だ。だから、甘えろ……」
「かぞ、く」
家族。そう、彼の事を散々親友だ家族だと主張していたのは、唯華の方ではないか。テナの言葉と温もりに、激情の奔流を塞き止めていた理性の堰が、ぼろぼろと突き崩されてゆく。
「こ、怖かった、です」
縋る様に、テナの身に抱き着いた。優しく背を撫でる大きな手に、不随意に涙が零れる。そうして濡れる頬を彼の胸板に押し付けて、くぐもる声で思いの丈をぶちまけ始めた。
「寒くて……暗くて……苦しくて……冷たくて……痛くて……、とても、とても怖かった……!」
「……ああ」
「友達が、皆居なくなって……家の外だったから、お母さんやお兄ちゃんたちも居なくて……ひとりぼっちで、本当に寂しかったんです……!」
それ以上はまともな言葉に成らず、ただ潰れそうな嗚咽が吐き出されるばかりであった。早く泣き止め、大人げない、と絶えず自身を叱咤する心すらも、今の唯華に理知を取り戻させる事は出来なかった。
わんわんと大泣きしているうちに、段々と自我がぐちゃぐちゃになっていく。かき乱された心のままに、彼女が意識を手放してしまうまで、時間はかからなかった。
(……公開処刑だ)
唯華は、自室の寝台に腰掛けたまま、両手で顔を覆ってうろ覚えの般若心経を唱えていた。皆が見ている前であんな無様な体を晒してしまったのだ、悟りの境地にだって至りたくなる。
あの後、彼女はそのまま気を失ってしまったらしい。目覚めた時には、自分の部屋のベッドの中であった。時計の針は既に晩方を示しており、夕飯の用意をしなければならないのだろうが、いまいち部屋から出る気になれない。
一体、テナにどんな顔を向ければ良いのだろうか。考えれば考える程恥ずかしく、そして分からなくなる。でもお腹が空いたし、と食欲を元に自身を奮い立たせ、徐に立ち上がり部屋のドアへと向かい始める。その瞬間、外からドアが開かれた。
「わっ!?」
「……起きた、か」
部屋に入って来たのは、相変わらず無表情を保つテナであった。どうやら、様子を見に来てくれたらしい。赤い片目と視線が合い、思わず目を逸らしてしまう。
「申し訳有りません、気絶してしまうだなんて。すぐ夕飯の用意をしますね」
「……謝る必要は、ない。夕飯も、オレが作った……サンドイッチ、だが……」
「あ……ありがとうございます」
「ん」
どんな顔をするべきなのか分からず、唯華は顔をやや伏せさせ気味にしてしまった。そんな彼女の元に、テナはすっと歩み寄って、少し腰を屈めて唯華と視線の高さを合わせてくる。
「え、ええと、あの“異触”、結局何事も無かったのでしょうか?」
無言が続いてしまうのを打ち払う様に、唯華はそんな質問をぶつけた。相手はこくりと頷くと、数度瞬きをした後口を開く。
「特に、何か……災害が、起きたりは……しなかった」
「なら、良かったです。安心しました」
「……大丈夫、か」
「もう平気ですよ、心配してくれてありがとうございますね」
「…………」
テナは何か言いたげに眉を顰めたが、やがて小声で、そうか、とだけ言って姿勢を正した。そして歩き出す背に追随して、唯華も足を動かし始める。
「そういえば、皆さんはもう帰ってしまったのでしょうか」
「……ああ。全員、帰った」
「そうですか……うう、今度会う時どんな顔すれば……」
「いつも通りで、いい。それが、一番……」
テナはそう言うが、ムゥや白矢、シィたちの反応が全く予想出来ないのが恐ろしい。軽蔑されたりしないだろうか、という不安が鎌首を擡げる。だが、テナの言葉通り、無理矢理にいつもの顔にすると、それも少し和らいでくれた。
同時に、部屋から立ち去る間際、机の上に置かれた借りて来た本の方をちらりと見やった。そして歩きながら軽く目を閉じ、確かに胸の内でさざめいている、よく分からない未知の感情へと意識を向ける。
(……何なんでしょう、これは)
今まで完全に意識の外に有ったそれは、唯華には理解し難い存在であった。暫く頭をひねった後、やがて階段に差し掛かったので、足を踏み外してはいけない、とその思考を切り上げてしまった。




