第三十五話・見えない壁の向こう側
通常の人間が使える魔法は、F、S、Wレイヤー、それとついでにNレイヤーに干渉する物が精々だ。だが、エルフや竜族ともなると、それ以外のレイヤーへ渉る魔法も使う事が出来る。
エルフが可能としている術の一つとして、Rレイヤーの修復術という物がある。Rレイヤーは『生命力』を司っているとされるレイヤーで、そこには未だに解明出来ていない、『Rエネルギー』という物が存在しているらしい。
魔力を直接Rエネルギーに変換する事で、生きている限りどんな大怪我でも、新鮮ならば死体であっても、たちまちのうちに癒してしまう事が出来る。古傷の類いは治せないし、腕が落とされたりしたのは、時間が経つと上手くくっつかなくなったりするので、完全に万能というわけではないが。
Rレイヤー修復術は、普通のアルシード人では、百年に一人レベルの才能と、血の滲むような努力を経て、ようやく辿り着ける領域だ。だが、エルフならば、ちょっとしたセンスと少しばかりの練習だけで、簡単に使える様になる。種族差というのは、時折理不尽な物である。
そして、竜族はエルフよりも多くのレイヤーを操る事が出来る。そこまでいくと最早人類には未知の領域で、竜に懇切丁寧に説明して指導して貰っても、使う事はおろか認識する事すら出来ない。
この事を、『竜族は異世界からの“客”説』の根拠と声高に唱える者も居る。異世界には、アルシードには無いレイヤーを持つ世界も存在する事が証明されている故に。
無事に帰り着いた唯華は、ぐるぐると考え込みながら、玄関扉を押し開け潜った。一気に身体を冷やす冷気に、ぶるりと震え上がる。
「……お帰り」
何故か玄関の近くに佇んでいたテナに声をかけられ、唯華は弾かれる様に顔を上げた。いつも通りに優しげな無表情を浮かべる彼を見上げ、何とか返答の言葉を紡ぎ出す。
「ただいまです、テナさん」
「……何か、有ったのか」
「へっ!?」
そんな事を問われ、唯華は素っ頓狂な声を出してしまった。それを、『何か有った』と断じたらしいテナは、彼女にざざざっと近づいて来て、両肩に手を置く。その感触に、唯華は少しビクッとなった。
「な、何も無いですよ。いつも通りに、少し散歩して来ただけです」
「……本当、か?」
「本当ですよ、もう」
「そう、か……」
テナは赤い眼を半目にさせながらも、両手を放した。そうしつつ、彼は唯華の身体を見下ろし、再び目を見開く。
「おい……鞄は、どうした」
「え……あっ!」
指摘されて、お腹の周りを手で探る。しかし、いつも掛けているバッグの感触は、何処にも無い。白矢の家に置き忘れて来てしまったのだろうか、と唯華は眉尻を下げた。今、彼に会いに行くのは、どうも気まずい。
「すみません、どこかに置いて来てしまったようですね……」
「……探す、か?」
「いえ、大事な物は入ってないですし。……ちょっと残念ですけれど、もしかしたらひょっこり戻って来るかもしれないですし」
「そう、か。なら、良い……」
また今度の機会でも良いだろう。唯華はそう胸中で頷くと、考え事に耽る為に部屋へと向かう。テナの怪訝げな視線を背中に感じながら、彼女は階段を上った。
そして、自室のドアノブに『入らないでください』という札をかけつつ、部屋に入って扉を閉める。この館の部屋の扉には、基本的に鍵をかける事が出来ないため、着替え中など入って欲しくない時にはこういう工夫をする必要がある。
「……ふはー」
声にもならないような振動と共に、彼女は深く息を吐いた。そして椅子に腰掛けて、先刻の出来事を思い返す。
(どうして、もっと良い言い方が出来なかったのでしょう……)
白矢の言葉は、想いは、間違いなく本物なのだろう。真摯な表情も、ショックを受けた顔も、虚飾で作り出せる物ではなかった。
だというのに、その全てを、彼女はこっぴどく振り払ってしまった。突然の事に困惑していたのだとしても、あの言い方は無かった、と思う。
ぐるぐると、彼の台詞が脳内を駆け巡る。恋愛的な意味で、好きだ、と。生まれてこのかた、まともな人間相手の恋愛をした事の無い唯華は、その意味を上手く咀嚼する事が出来なかった。
(わたしは……白矢さんの事は、好き。それは、間違いない。でも、それは親愛で……。
いえ、だけど……あ、そっか)
そこで、唯華はふと理解した。白矢に、否、この世界の住人全てに対し向けていた感情は、漫画や小説の登場人物に向ける物と同様の物であったと。嫌悪であれ、親愛であれ、見えない壁の向こう側へと差し伸ばしていたのと、何ら変わりない物だったのだと。
物語の中の人々は、いわばショーケースの中に入っているような物だった。彼らは、決して越えられない素材で作られたケースの中で、生きて戦って絆を育んで、泣いたり笑ったりしながら死ぬのだ。
その外からどんな言葉を投げかけても、どんなに手を尽くそうとしても、彼らに干渉する事は決して出来ないし、こちらに何かが及ぶ事も無い。だから、安心してどんな言葉でも向けられるし、どんな事だって出来る。
例えば、好きなキャラクターに「愛してる!」と叫んでも、そのキャラクターには決して届かない。ショーケースの中の住人は、同じケースの中に住む者にしか干渉出来ないから。
(……だけど、ここは現実。アルシードは、実際に存在している)
いわば、ケースの壁が取り払われてしまったようなものだ。だというのに、いまいち実感が湧かなかったのと、今までケースの中にしか存在しなかったモノである『人外』が現れたものだから、自分は見た事も無い程良く出来たケースを見つけたのだ、と勘違いしてしまったのだ。
だから、いつもケースの外から向けるような感情を、ずっと皆に向けていた。半分くらいは現実的なものも混ざっていただろうが、基本は『萌える』だとか、『愛でる』だとか、そんなものだったのだ。
そんな感情を生きている相手に向けていたのだから、いつしかこうして破綻が現れるのは、予想出来た結末だった。そこまで考え、唯華は少し目を閉じ、知らず知らずの内に生じていた自身の歪みと対峙する。
この世界は、現実。ケースの中ではなかった。だから彼女でも干渉出来るし、干渉される事だってある。アルシードの人々は、彼女と同様に生きている。対等たりえる意志を持っている。
テナやムゥ、それから白矢、シィやラシェ、旧竜の人たち。上月のエルフたちや、臼木やその他の場所に存在する全ても、生きているのだ。
(その事を、わたしはすっかり失念していたのですね)
謝罪をしなければならない。まず白矢に、先ほど酷い事を言ってしまった事に関して。それから皆に、今までその存在を軽んじていた事にも。
唯華は徐に立ち上がり、両腕を上げて少し伸びをした。白矢に会いに行く口実は、有る。鞄を忘れたから取りに来た、と言えば良いのだ。そして、正直に思っていた事を伝えて、そして謝れば良い。その後どうなるかは、彼の気持ち次第だ。
気持ち、と思い至って、唯華は歩き出した足を止めてしまった。そうだ、一番大事な事について考えるのを忘れていた。左胸に手を当てる仕草をしながら、やや顔を俯かせる。
(……やっぱり、友情……ううん、でも……)
ショーケースフィルターを外して見ても、いきなりその感情を判別する事は出来なかった。普通の親愛なのか、それとはベクトルの違う恋愛感情なのか。暫く頭を抱えて考えて、いまいち判断が出来なかったので、それに関してはまた後で考える事にした。
今度こそドアノブを捻って開けて、外に出していた札を仕舞う。そして廊下に出、階段を下りて、一階の玄関の方を見た。
「あら?」
扉が、半開きになっている。テナが外に出ているのだろうか。いつの間にか夕方になっていたようで、差し込む夕日の光に怖じ気づきながらも、彼女は扉を開いて外を見回した。
すぐに、テナの姿は見つかった。庭の半ばで、赤い眼を見開いて空に釘付けになっている。何か珍しいものでも見つけたのだろうか、と彼の元へ歩み寄り、同じ方向を見上げてみると、すぐに彼が見ているものを見つける事が出来た。
「何、あれ……」
それは、橙に染まる空の中にあっても、純白を保っていた。夕日を受けているのだから、少しくらいはその色を映すものだろうに、だというのにそれは真っ白なままで、明らかに異常な存在である事をこれでもかと誇示している。
それを形容するなら、何だろうか。麓まで雪に覆われた巨大な峰だろうか、それとも大地から天を目指して衝き上がる氷柱だろうか。少々間抜けな例えになるが、超巨大なソフトクリームか何かの様にも見える。
一言で言い表せば、それは巨大な白い塊であった。その表面には、無数の黒い線が縦横無尽に走り回っている。いかんせん遠いのでそれ以上の事は分からなかったが、尋常のモノではない事だけは理解出来た。
「て、テナさん」
「……オレから、離れるな」
唯華の上ずった声に、我を取り戻したらしいテナは、彼女を庇う様に片腕を広げた。そのまま、じりじりと後ずさる様に館内へ戻ろうとしていると、不意に彼女の眼前の空間に歪みが生じる。
これは、どこかで見たような──と思っていると、その歪みの向こう側からムゥの姿が現れ、唯華を押し倒す様に倒れ込んで来た。突然の事に対応出来るわけもなく、唯華はそのまま仰向けにすっ転んでしまう。
「ぶ、無事デスか、ユイカサン! “禍神”復活の報を受けて、すっ飛んで来たのデスが……」
「あ、いや、あの……大丈夫ですけれど、その……」
「……ムゥ君、さっさと退いてあげなよ。ほら、唯華ちゃん、大丈夫?」
「ユイカ、ぶじ? へーき? いたい、ない?」
破竹の勢いで降り掛かる言葉に、唯華は目をぱちくりとさせながら辺りを見上げる。そうして、ハッとした様子でムゥが彼女の身体の上から退くと、不安げに唯華の顔を覗き込むラシェの金色の瞳と、どこか悪い色を含んだ薄ら笑いを浮かべるシィの姿が目に入った。
いつも集まる部屋で、唯華は神妙な面持ちでシィに視線を向けていた。その膝の上で、どこか怯える様に震えるラシェを抱き締めてやりながら、シィはぐるりと集まった面々を見渡す。
「……予想はしていたけど、あの“御柱”の子は居ないみたいね」
「あのスケルトンエルフに、何か有ったのデス?」
「“禍神”が復活したって事は、“御柱”に何か有ったって事だ。何が有ったのかは具体的には分からないけど、さ」
少女は橙の瞳を、思い悩むようににやや伏せさせる。普段の余裕綽々といった笑顔は今は面影もなく、ただ苦虫を噛み潰したような顔をしているばかりだ。
「ま、今は原因の究明はどうでもいい。後でいくらでも出来るからね。それよりも、ずっと重要な事が有る。
えー、コホン。……キミたちも、あの白い泥の塊を見ただろ? アレが、ボクがウン千年前、片腕を犠牲にして封じ込めた邪神、“禍神”だ」
シィは軽く右腕を上げ、ぐっとその拳を握り込む所作をする。彼女の竜の姿のその腕は、失われてしまっていた筈だ。
「結構近い所に召喚されたようだからね、注意をしに来たんだ。キミたちがアレに呑まれたら、寝覚めが悪いってレベルじゃないし。
良いかい、絶対にアレに立ち向かおうだなんて考えるんじゃないよ。アレは、ボクたち竜が雁首揃えて対峙しても、封印するので精一杯だった代物なんだから。
アレには、なるべく近づかない。絶対に触れてはいけないよ。もし直接触ってしまったら、そこから侵食されて呑み込まれちゃうからね」
「そんなに大変なモノなのですか……?」
「うん。アレを封印する時にも、幾千もの人間が犠牲になって、何人もの竜が呑み込まれた。そして封印を保つ為に、今日この日まで何百人、何千人もの“御柱”が、その命を捧げて消えて行った」
“御柱”、という固有名詞を聞き、唯華は白矢のやつれきった表情を想起した。封印が緩んでいるから、“禍神”が彼の精神に干渉し、そして悪夢を見せているのだ、と言っていた筈だ。
シィは、“禍神”という存在の恐ろしさを唯華に伝え、怯えさせたかったのだろう。しかし、彼女はふつふつと“禍神”に対する怒りを心に浮かべ始めていた。この唯華の大切な友人を苦しめるとは何事か、と。
その感情を理性の籠の中に放り込みながら、シィの続ける言葉に耳を傾ける。
「ボクはね……唯華ちゃん達の事が好きなんだ。だから、キミたちまで“禍神”の犠牲になって欲しくない。
とりあえず、“六つ羽根”をここに置いて行く。ついでに、ラシェちゃんの事もキミたちに任せる。なるべく早期の収束を目指すけど、ここにまで被害が飛んで来たら、迷わず逃げるんだ」
「……あなたは、どうするのですか?」
「決着を着けにいく。ミレニアム単位の因縁の、ね」
そう言って唯華に微笑みかける彼女の表情は、なんとも悲壮な決意を秘めた物であった。同時に、ラシェがますます顔を不安げに曇らせ、シィの左腕を両手で握り込む。
「封印でアレが弱ってる今なら、ボクたち全員が力を合わせて、終わらせる事が出来るかもしれない。そうでなくとも、何とか再封印を施す事は出来る。
“禍神”をこのまま放っておいたら、間違いなくアルシードはおしまいだ。そうしない為に、ボクは古竜として、封印の一番の礎として、何とかしに行く必要が有る」
そう語りながら立ち上がると、シィは唯華の元にラシェを連れて来た。ぺたりとへなった猫耳から、心底不安なのだな、と少女の胸中を慮る事が出来る。
「……一つ質問と、一つ言いたい事が有ります」
シィの台詞が途絶えた所で、唯華は割り入る様に声を挟んだ。何か、と応じるかの様に、彼女の長い耳がぴくりと動く。
「その、白矢さんはどうなっているのでしょうか。どうなってしまうのでしょうか」
それが、一番気になっていた。察しの良い唯華は、大体その返答の予想がついていたが、それでも気になって気になって仕方がなかったのだ。
その問いに、シィは少しの間瞬きをした後、重々しい動作で口を開いた。
「多分、無事ではないだろうね。封印が解けたなら、まず“御柱”の元に“禍神”が現れる筈だから、もしかしたら呑み込まれている真っ最中かもしれない。ただ、まだ時間は経ってないから、生きてはいると思うよ」
「な、なら──」
「でも……これからボクたちがどうこうする中に、あの子を助ける手立ては含まれていない」
「なっ」
「悪いけど、ボクたちにとっては、世界平和が最優先なんだ。増してやボクは今や古竜、個より種を優先しなきゃならない。……“六つ羽根”」
「分かっておりマス」
いつの間にか背後に回っていたムゥが、唯華の肩をポンと叩いた。ガタリと立ち上がりかけていたのを、それによって押し止められてしまう。そうして、横目で彼の胡散臭さ全開の笑顔をみとめながら、続けられるシィの台詞を聞く。
「──何か有ったら、ムゥ君に言えば良い。こいつはまだ若いけど、力の有る竜だ。頼りにすると良いよ」
どこか言外に含みを持たせたその声音に、唯華は彼女の真意を解する事が出来た。『手が必要なら、ムゥに頼れ』、と。自分は白矢を助ける手助けは出来ないが、ムゥならそれが出来る、と。
「分かり、ました。そうさせていただきます」
「うんうん、分かってくれて嬉しいよ。じゃあ、ボクは行って来る……ラシェちゃんの事、“御柱”の事──頼んだよ」
そう言うと、シィは一歩二歩後退しつつ、その背から一対の猛禽の翼を現出させた。そして助走をつけて駆け出そうとする姿に、唯華は慌てて声を張り上げる。
「ちょっと待ってください! 一つ、言わせて欲しいんです!
わたしも、シィさんの事が好きです。居なくなって欲しくない……だから、絶対に死なないで、またわたしの前に姿を現してください……!」
彼女はこちらを振り返らないまま、数度耳をぴこぴことさせて、了承の返事の代わりとした。そして今度こそ翼を広げながら駆け出し、壁をすり抜けて完全な竜の姿へ変身する。窓からその勇姿を見送りながら、唯華はまずラシェを見下ろし、次にテナの方へ目を移した。
両の目蓋を閉じ、胸に両手を当てて数度深呼吸をする。しながら、頭の中を整理整頓し、これからやるべき事の順序をつけていった。そして、まずラシェに声をかけるため、立ち上がって少女の前に膝を折る。
「ラシェちゃん、お留守番は出来ますか?」
「おるす、ばん……」
少女は、暫しの間その単語の意味を吟味した後、こくりと力強く頷いて応えた。




