第三十四話・悪果、華々しく
かなりマイナーな物だが、Nレイヤーを操って、他の魔法へ介入してしまう魔法なんてのも存在する。だが、この系統の魔法は恐ろしく使い道が狭く、好んでこれを究めよう等といった物好きは、世界でも両手で数えられる程度しか居ない。
Nレイヤーの操作は、魔法使いにとって最も基本的な技術であり、同時に最も才能に左右される技術でもある。どんなに魔力の保有量が多くても、その精神や肉体の持つNレイヤーとの親和性が低ければ、良い魔法使いにはなれない。逆に、Nレイヤーへの干渉が得意ならば、多少の魔力不足は気にならなくなる。
そんな、魔法という技術において重要なファクターであるNレイヤーだが、それ自体を操った所で、魔法発動を阻害するジャマー魔法や、相手の“晶臓”の機能を一時的に減衰させる程度しか出来ない。Fレイヤーに出力して初めて、魔法らしい魔法となるのだ。
マイナーな事この上無いNレイヤー操作魔法であるが、その技術自体は世界中で使われている。多くの先進国では、一定規模以上の破壊魔法や、Wレイヤー魔法の発動を阻害するジャマー装置が使われているのだ。
だが、Nレイヤーの操作は、魔法使いと名乗れる程の者なら、自ずと実用レベルのジャマーが使える様になる程度には習得難度の低い術である。わざわざこれを専門とする旨味も少ないので、魔法使いの中でも極一部の者しか究め尽くしていないのだ。
この状況は、一体何だ。加速度的に冷静の壁が崩落していく思考の中で、唯華はそんな事を思っていた。
それより、今白矢は何と言った。その真意は、一体何処に有る。数多の疑問が渦巻き、絡み合った結果、そのどれもを口にする事が出来なかった。困惑に揺らぐ視界の中で、ぶつかりそうな程に近づく白い顔を、ただ捉える。
暫しの間、彼は唯華の目をじっとねめつけていた。白い鬢と前髪が、唯華の顔辺りに垂れ下がる。
「は、白矢さん……こ、これは、どういうつもり──」
やっと絞り出せた声も、更に近づいた白矢の気配に途切れてしまった。同時に、彼女の右耳に、何か乾いた感触が触れる。視界の右横に彼の横顔を捉え、その位置関係と触覚情報から、耳に触れているのが彼の口唇であると理解した。
その事実を認識し、ますます思考回路を熱暴走させる。この世界のエルフにとって、耳は色々な意味で大事な部位であって、それに触れるという事は、つまり。
「これで……わ、分かっただろ。僕が、本気だってこと」
白矢が一旦顔を離した所で、唯華はようやく彼の表情を読み取る事が出来た。その耳は平行に張り詰められ、目つきもいつになく真摯で真剣だ。ですが、と何とか口を開く。
「あ、あのね、好きだって言ってくれるのは嬉しいですけど、その……」
「言っておくが、友情とかそういうんじゃねーぞ。い、異性として、というか、恋愛的な意味で、というか……そう、ライクじゃなくてラブなんだっ!」
「わたっ、わたしには」
「ああもうっ、分かれ!」
苛立ち紛れの声と共に、白矢は再び頭を近づけて来る。今度は顔の横の方ではなく、正面めがけて。
その接近に、唯華は硬直しっぱなしだった身体を叱咤し、相手の鼻を摘む事でそれを阻止した。同時に、身を捩って彼の両腕を振り払い、ソファから脱出する。
「お、お願いします……止めてください……!」
口をついて出た言葉は、そんなものであった。混乱して鈍った頭は、思い通りの台詞を弾き出す事が出来ない。ぽかんと豆鉄砲を喰らったような顔をしている白矢に、唯華は更に言葉を向ける。
「その、そういうのは、わたしは……分からないし……違う、違うんです、ごめんなさい……」
「あ……」
「確かに、わたしは白矢さんの事、好きですけど……それは、友情的な意味で……そういう意味じゃあないんです」
違う、そうじゃない。もっと良い言い方が有る筈だ。もっと的確に唯華の困惑を言い表す言葉が有る筈だ。そう分かってはいたけれど、上手い言い回しを実際に思い浮かべる事は出来なかった。浮き足立つままに、じりじりと後ずさる。
「ごめんなさい、帰りますね! お、お邪魔しましたっ!」
「ま、待って──」
伸ばされた細い腕に背を向け、唯華は部屋を飛び出し、玄関へ駆け抜ける。白矢の呼ばわる声が耳に届いたが、彼女は足を止めて振り返る事は出来なかった。
そのまま外へ出て、真っ直ぐに帰り道を辿っていく。急ぎ足で角を曲がり、『立ち入り禁止』の札が提げられた注連縄を潜った所で、ようやく一息吐き立ち止まる。
(い、一旦……館に戻りましょう)
今の彼女には、涼しい所で頭を冷やす必要が有る。目を閉じ、右耳を片手で覆いながら、彼女はゆっくりとリボンの道標を辿り始めた。
やってしまった。唯華の温もりの残る両手を見下ろしながら、白矢は自らの過ちを猛烈に後悔していた。
耳への接吻は、エルフにとって、ややもすれば唇へのそれより重大な意味を持つ行為だ。一般常識というわけではない筈だが、何故だかエルフについて熱心に調べていた彼女なら、もしかしたら知っているのかもしれない。
誰に教えて貰ったわけでもないが、彼もエルフの端くれとして本能的に理解している事だ。そんな物を、友人以上の何者でもなかった筈の彼に急に向けられたから、唯華だって困惑してしまうだろう。
(な、何で僕は……あんな、早まっちまったんだ……)
せめて、言葉で伝える程度にしておけば良かったものを、彼は行動に移してしまった。押し倒した彼女の、感情の消え失せた視線が、今になって心に突き刺さってくる。
きっと、嫌われてしまったのだろうな、と彼は顔を覆う。折角、恋慕の意味では無いにせよ、『好き』だと言ってくれたのに。これまで彼女が善意を向けて来てくれたその全てを、彼は棒に振ってしまった。
それに、もし今回の事が、残り二人の保護者たちの耳に届けば、制裁は免れ得ないだろう。抜け駆けをした事に関しても、唯華を傷つけようとした事に関しても。
「……謝らねぇと」
例え謝罪した所で、唯華の信頼を取り戻せるかどうかは、甚だ疑問で有ったが。だが、絶対に詫び言は伝えなければならない。
駆け出してしまった彼女を追いかけよう、と白矢は徐に立ち上がった。すると、対面側のソファに、彼女のものと思しき肩掛け鞄が転がっているのを発見する。忘れ物か、と、彼はそれを拾い上げた。
(これで、大義名分は出来たな)
落とし物を届けに来たと言えば、誠実な上お人好し過ぎる唯華なら、きっと相手をしてくれるだろう。そして一言、「すまなかった」と謝れば良い。会ってくれないにしても、同居者に言伝を頼めば良いだろう。その後どうするかは、彼女次第だ。
そうして、大股で歩いて部屋を出、玄関に向かう。扉を前に、少し怖じ気づきかけたが、先ほど唯華が落ち着かせてくれたおかげで、幻聴が始まる事は無かった。
(……まじ、恩を仇で返したもんだよな……)
そんな風に思ってしまって、鍵に伸ばしかけた腕を止めてしまう。これまで幾度と救われて来たのを、あんな風に踏みにじってしまった。ただでさえ、何だか恥ずかしくて、普段から暴言を吐いてしまっているというのに。
「ぶん殴られるかもな……」
唯華がぶん殴る姿は思い浮かべられないが、あの元“死神”辺りなら、容赦しない全力全開で殴り飛ばしに来るだろう。銀髪の竜族にも知られたら、超高高度からの紐なしバンジーなんかをやらされるに違いない。
そう考えて、白矢の脳裏に、彼女に明確に拒絶される可能性が浮かぶ。どうしてあんな事をしたのか、と本気で詰られる可能性、もう近づかないで欲しい、と心からの恐怖を向けられる可能性。頭にその光景を浮かべるだけで、心臓がごりごりと抉られるような気分がした。
(ちょっと、それは、嫌だな……)
そんな事を、ほんの少し、回路のうち一握と無い部分を使って思考した、その瞬間であった。
『デ、アレバ、“我ラ”ヲ解キ放テ。風上ノ裔ヨ』
背筋を駆け上がる怖気と共に、耳元で囁かれる様にして聞こえた声。それを認識した途端、全身が硬直した。身体中の神経に、這い回るような寒気が走る。同時に、何処からとも無く生ものの腐ったような悪臭が漂い始めた。
『汝モ、“我ラ”ニ統合サレルノダ』
声を上げようとしても、発声の為に必要な筋肉すらもこの声の主に支配されてしまったかの様に、ただ掠れた呼吸音が喉から漏れ出るだけだった。手足の先の方から、徐々に力が抜けてゆき、片手に掴んでいた唯華の鞄を取り落としてしまう。
足の力も失われ、彼は尻餅をつく様に崩れ落ちた。そこまで行くと、声の主の魔の手は、肉体だけではなく精神の方にまで侵食して来る。
『“我ラ”ハ、旧キニ創ラレシ“方舟”。旧キニ託サレシ“希望”。
汝モ、“我ラ”ノ肉ト成リ、魂ト成リ、力ト成レ。サスレバ、総テノ冀ウモノガ成サレル』
支配された精神の中で、ぐるぐると有る一定の構成が為されていく。何とか征服されずに残っている部分からそれを眺め、彼は理解した。このままでは、“禍神”を解放する術式が組み上げられてしまう、と。
もしこのまま“禍神”が解放されたら、きっと、父に言い聞かされて来た通りに、世界は滅んでしまうのだろう。……半年とちょっと前だったら、別に解放されようが知ったこっちゃない、と無抵抗のまま支配を受け入れただろうが、今は違った。
「クソが……何だか知らねーが、消えやがれ……!!」
この世界には、唯華が居る。このアルシードは、唯華が生きていく為に必要だ。死人とは会えないし、喋る事も出来ない。その想いをよすがに、“禍神”の支配をはね除けようと、彼は歯を食いしばった。しかし。
『錦野唯華ハ、汝ノ想イヲ裏切ッタ。モウ二度ト、彼ノ者ハ汝ニハ振リ向カナイ。違ッタカ?』
「あ──」
悪魔の言葉だ。真に受けてはならない──そう、頭ではわかっていたが、心のどこかで思ってしまった。『あいつが振り向かないならどうでも良いや』と、思ってしまったのだ。
そんな、ほんの一点の翳りから、“禍神”の支配は瞬く間に広がり、白矢の精神の大半を掌握してしまった。その頃には、身体の方も完全に征圧され、自分をぼんやりと俯瞰的に見ている事しか出来なくなる。
彼は、ゆらりと立ち上がり、ぽつぽつと呪文を唱えた。すると、右手にねじくれた長大な杖が現れ、携えられる。そうして、それをどこか重厚な動作で突きながら、ドアへと手をかざした。
「開け」
すると、掌に小さな魔法陣が現れた。それがドアノブとチェーンの辺りに染み込む様にして消えると、がちゃがちゃと音がして鍵が取り外され、扉がひとりでに開いてしまう。
開いた玄関を潜ると、彼の背後で扉がバタリと閉まった。その音を聞きながら、青年は臭い息を吐き光の失せた瞳を上げる。
そして、道の真ん中まで歩いて出ると、彼は徐に杖を両手で捧げ持った。そして空を見上げ、情動の籠らない声で滔々と詠じる。
「『風上』の血を継ぐ、“御柱”が望む」
まず、彼の足元から円陣が広がり、半径十数mもの巨大な黒い光の環を形成した。その環は、家等の障害物も突き抜けて、展開される。そして一瞬と間を置かずに、黒く輝く環の内側に線が引かれて図形が描かれ始め、外側に文字のような物が並べられていく。
「旧竜ラーエーイーネイトニウス、旧竜ゾーイールヌルクロッソ、旧竜ベーオーウールクツファム、古竜レーアークラスタデルタ、古竜ムーイーキルクルシア、古竜ヒャーエーキワルウェノム、古竜ソーイーレルノスフェミア、竜シークフロトクラット、竜フーリャレアデキアヌル、竜キールクトゥーリマイテ──」
数多の竜たちの名前を連ね述べるのと呼応するかの様に、空にどんよりと雲が垂れ込む。そして現れた雲のキャンバスに、足元と同様の黒い魔法陣が映し出された。
数十名程の竜たちの名前を、まるで祝詞か何かの様に読み上げ終えた後、殆ど息を継ぐ事すらせずに、彼は更なる呪文を続けた。
「──以上の“シードディア”の持つ“権限”のうち、“御柱”との契約に関わる部分を借り受ける」
そこまで言った所で、魔法陣が完成した。ある種の美しささえ感じる黒い陣の上に、真っ白な髪を靡かせる青年が立っているさまは、何とも非現実的なモノトーンルックだ。
そうして彼が杖で力強く地面を突くと、青年の身体に巻き付いている黒い鎖が出現した。今まで隠れていた物が、この儀式によって顕現したかの様に。それは、あの“死神”を縛っていた枷の鎖と良く似ており、同種の物である事を察する事が出来た。
「“禍神”よ、卑賤なる人類の希望よ、暗澹たる旧き方舟よ。今、この“御柱”の呼び声に応えて──」
美しき封印の魔法陣が、ゆらりと揺らぐ。ピシピシと音を立てながらひび割れ、その中からじわじわと白い泥のようなものが滲み出て来る。
「──蘇れ」
その一言と共に、陣から輝きが失われ、同時に真っ白な泥の塊が溢れ出してきた。黒い鎖によって戒められたそれは、青年の姿を押し潰して産声を上げ、そして全身を振動させながら自身の破片を撒き散らし始める。
『……ア……ヴヴォオゥアアァァァァ!!』
それは、歓声のようにも聞こえた。




