第三十二話・報い無き宿命
嘔吐する描写が有ります。ご注意ください。
Fレイヤーに出力した現象によって、更に物質を司るSレイヤーへと干渉する。多くの機械などに使われている技術の多くは、これを応用した物である。
例えば、極一般的なスイッチ。これは、『触れる』という動作に伴う現象によってNレイヤーへ入力をさせ、それに応じて流動する魔力によってFレイヤーを揺さぶり、それを通してSレイヤー部分に有る機構を反応させる。そうする事で、スイッチの役割を果たしているのだ。
Sレイヤーをなんやかんやするのは、生活に根ざした物だけではない。魔法の中にも、そういう物がある。俗に『錬成魔法』や『破壊魔法』と呼ばれる物が、これだ。
前者は、元になる物体を変質させ、全く別の物へと換えてしまう魔法。所謂、『錬金術』という物だ。その気になれば、本当に石ころや空気から黄金を作り出す事だって出来る。怪我を治すような治癒魔法も、これを応用した物だ。
後者の方は、文字通り物体を破壊する魔法。Fレイヤーに『破壊する』という現象を出力しているだけとも言えるが、基本的にはSレイヤー干渉魔法に分類される。古くは、『攻撃魔法』と分類されていた物だ。
しかし、これらを実用的なレベルで使いこなせる様になるには、只の人間なら数十年もの修練を必要とする。それだけ努力しても、才能が無ければまともに使えない。
とはいえ、アルシード上では希少な物質を錬成したり出来る魔法使いは、様々な分野で重宝される。未だに内乱が続いているような途上国では、破壊魔法に長けた者は引っ張りだこだ。
スクールバスから降り、更に遠い場所へと生徒を運ぶその姿を見送りつつ、**は目を細めた。東から差す夕日は、アルビノの彼の目には眩しい。少しずれたサングラスを直しながら、彼はバス停から家までの短い帰路を歩き出す。
半ば駆け抜ける様に道を走り、**は両親の待つ家の前に辿り着く。そして勢い強く扉を開けながら、彼は元気良く声を上げた。
「ははうえ、ちちうえー! たっだいまー!」
「んー、お帰りなさーい、**!」
「お……帰ったのか」
帰宅を告げる言葉を口にすれば、母親の返答が奥から聞こえて来る。遅れて聞こえて来る父親の声を聞きながら、彼は玄関の扉を閉めつつ、乱暴に靴を脱いだ。そして廊下に上がり、どたどたと階段を上って自分の部屋に向かう。
そして、黒いランドセルを半ば投げ出す様にベッドの上に置くと、ばたばたと階段を一段飛ばしで駆け下り、半開きのリビングの扉を潜って飛び込んだ。見れば、そこにはテレビを眺める父親の姿が有る。
「**、今日の学校はどうだった?」
「楽しかったよ! それでね、算数でね、九九が全部言える様になったんだ!」
「おお、そりゃ凄いじゃないか。よく頑張っているな、**。流石、父さんの息子だ」
父の大きな手が、**の白い髪を撫でる。いひひ、と彼は照れ笑いをしながら、母の居るダイニングの方へ向かった。扉も無く、殆どリビングと一体化しているそこへ走り、漂う夕飯の匂いに耳をぴこりとさせる。
「ははうえっ、今日のゆうはんはなんの予定?」
「ええ、今日は**の大好きな肉じゃがよ」
「肉じゃが! わーい、ははうえ大好きー!」
キッチンに立つ母に抱き着きながら、彼は満面の笑みを浮かべていた。母はそんな彼を見下ろして、ゆっくりと微笑み長い耳を上へ動かす。
「ああ、それとね……」
「ん? 他にもなにかあるのー?」
続けられる言葉に、**は母から離れ、その顔を見上げた。すると、彼女がぞっとするような笑みを顔に張り付けているのを捉えてしまう。短く悲鳴を上げて飛び退くと、母の姿がどろりと融け崩れ、白い泥のようなモノに変化してしまった。
「**……はっ、**……ぼぐっ、あっ、あああああああああ」
鼻が曲がりそうな程の腐臭を放つ泥は、絶え間なくその形を変えながら、母の声の面影を残したおぞましい叫び声を上げる。**は怯えながら、泥に背を向け逃げ出した。
「ひっ……! ち、ちちうえっ! ははうえが、なんかへんなのに……!」
「ぶ……げ、**いいいいいいいいい……ど、ぶ、にげ……」
「ぎゃひっ!?」
助けを求めてリビングの方へ逃げ込むと、テレビの前のソファに座っていた筈の父までもが、その姿を白い泥に変えてしまっていた。あまりの出来事に、彼は尻餅をついて崩れ落ちてしまった。
同時に、彼は──白矢は、ここがいつもの悪夢の中だと気付く。“禍神”が見せる、彼の心の弱さにつけ込む為の夢だと。そう自覚すると、彼の姿は大人の物に変化していた。
「あ……ああ……」
逃れる事も出来ず、二塊の白い泥が迫ってくるのを、ただ怯えながら待つ。何とかじりじりと後ずさるが、やがて背中に壁が当たり、白矢は情けない悲鳴を上げた。
既に泥は二塊だけでは無く、彼方此方の隙間から、鋭角から、天井から、壁の中から、ぼこぼこと湧き上がって来ては彼ににじり寄って来ている。迫り来る恐怖に身を捩り、止めどなく涙を流しながら、彼は腹の底から叫んだ。
「嫌だっ、助けてくれっ!! ゆ、唯華っ、唯華あああああっ!!」
土壇場で浮かんだのは、彼が恋い焦がれる“異客”の娘の名であった。
「ゆいっ、か……あ……?」
ガバリ、と起き上がる。悪夢の所為か、全身汗びっしょりで気持ちが悪い。カーテンの隙間から漏れている夕日の光を一瞥しつつ、喉の奥からこみ上げる吐き気に、両手で口を押さえ込んだ。
「うっ──」
反射的に、枕元に常備してある吐袋を取り、それを開いた。それに口を近づけ、数秒程耐え忍んだ吐き気を解放する。
「げっ、かっ……ぅおえぇ……ごほっ、うえっ……」
殆ど混じり気のない胃酸だけが、袋の中に吐き出される。喉が、焼ける様に痛い。涙目になりながら一頻り吐いた後、彼は眼鏡を手に取り掛けた。
吐瀉物の入った袋を片手に、彼はベッドがら降りる。力なく足がふらつくが、呪文を唱えようにも、喉が痛くてまともに言葉を紡げない。
そうしながら足早に洗面台に向かうと、コップに水を汲んでうがいをした。何度かやると、大分喉の痛みが和らいで来る。
「……はぁ」
やっと落ち着いて、彼は溜め息を吐く。階下の台所へ向かい、ゲロ袋を畳んで燃えるゴミの中に突っ込むと、白矢は再び寝室へと戻った。
(畜生……何で、僕がこんな目に遭わなきゃならないんだ……)
普段着に着替えながら、彼はそんな事を考えてしまう。報いも無く、自分だけがこんな底辺の人生を歩ませられる。いやに白い肌と痩せ細った身体が目に入って、更に嫌な気分になった。
最近、“禍神”の悪夢を見る頻度が増えた気がする。“死神”の解放に伴い、封印が一時的に弱まっているから、なのだろう。暫く経てば、これも落ち着くのだろうか。
(……何か食うのも億劫だが……さっき吐いちまったし、食わねーと……)
骨と皮ばかりに痩せ衰えた肢体を覆い隠す様に、袖の長い服を着込む。ぶつぶつと呪文を唱え、そのままだと歩くのさえ苦痛な脚に強化魔法を付与する。
念動力の魔法を駆使し、膝下程まで有る長い髪をまとめてしまいつつ、彼は寝室から出て階段を下り始めた。そうして、また台所へ向かう。
彼は軽く欠伸をしながら、リビングを通り抜けてキッチンへ向かった。大きな冷蔵庫の扉を開き、ゼリー飲料を一つ取り出す。もっとガッツリ食べるべきなのだろうが、今はどうしても固形物を食べる気にはなれなかった。
難儀しながら蓋を開け、口にくわえて飲み始める。ペットボトルのジュースも一つ冷蔵庫から取り出した後、彼はすっかり空になったゼリー飲料の袋をゴミ箱に放りつつ、台所を出た。
(さっきの夢の場面は……あの辺か)
いやにリアルだった悪夢を思い出し、白矢は眉間に皺を寄せた。普段はどんなに思い出そうとしても無理なのに、あの悪夢の中でだけは、父親の声がはっきりと聞こえる。同時に、聞いた事も見た事も無い筈の母親も生々しく現れるので、成る程超常の者が見せる夢なのだな、と彼は推測していた。
あの夢の中で、白い泥の姿をした“禍神”に飲み込まれてしまえば、そのまま二度と目覚められなくなる。誰に教えて貰ったわけでもないが、彼は直感的にそれを理解していた。
今日はかなり危なかった。あそこで目覚める事が出来なければ、彼は泥に触れられてしまっていただろう。そこで、終わり際に叫んだ名前を思い出し、羞恥に顔を赤く染めた。
「ち、ち、ちっげーし! 別に、その……ねんもねーし! 違う、なんもなーし!」
誰に言うでも無く否定の言葉を口にしつつ、彼は居間を後にして階段を駆け上がった。そしてパソコンルームに駆け込み、扉を閉めてそれを背にする。
(……畜生、やっぱ好きだわ……)
少なくとも、ああいう場面でパッと名前が出て来るくらいには。一人暮らしで良かった、と心底安堵する。誰かに先ほどの叫びを聞かれていたら、多分暫く立ち直れなくなっていただろうから。
(手、繋いで……一緒に歩いてみてーし……こう、抱き締めてみてーし……き、き、キスとか、してみてーし……そんで、その先も──)
そこまで思考を巡らせた所で、彼は頭を振り慌てて打ち切った。そうした事で乱れた白い前髪を、片手で軽く整える。
……最初は、ほんの一握ばかりの憐憫と同情であった。“異触”を察知した彼は、妙なモノが流れ着いてないか確かめる為に、山の中へ入った。しかしそこには、同時に確かな哀れみが存在していた。不幸にも異世界に飛ばされて来るだなんて、なんて可哀想なのだろう──そんなふうな。
もし流れ着いた“客”が無害なものだったなら、保護して役所に届け出る位はしてやろうと考えていた。死んでいたりしていたならば、適当に弔ってやろう、とも思っていた。有害なものだったら、容赦なく討伐するつもりだったが。
して、漂着して来ていたのは、この世界の人間と何ら変わらない、何の力も無い小娘であった。アルシードと良く似た世界、臼木と良く似た国から来たという彼女は、錦野唯華と名乗った。
その娘は、とにかく強い心と美しい人間性を持っていた。異世界なんかに飛ばされてしまったと言うのに、彼女はその事実をいとも簡単に飲み込んでしまった。もし彼が同じ境遇に置かれたら、こうはいかないだろう。
同時に、最初は面倒臭さの方が上回っていた彼の態度にも、唯華はただひた善意で以て返した。理不尽な絶望に打ちひしがれ、すっかり腐り切ってしまっていた彼に対しても、唯華は迷う事無く手を差し伸べてくれたのだ。
(……それで、顔とスタイルも好みだったら、普通に惚れるわな)
自身より頭二つ分程小さい彼女の姿を思い浮かべ、彼は耳をぴこーんと上に跳ねさせた。他人にほじくられると、どうしても恥ずかしさから否定してしまうが、これは嘘偽りの無い気持ちだ。
そんな事を考えながら、暫く肩を上下させながら息をした後、彼はデスクに歩み寄り、パソコンと冷却用扇風機の電源を点けた。そして持って来たジュースを机の上に置きながら、椅子の中へと収まる。
立ち上がったパソコンを操作し、まずは夢日記のテキストファイルを開く。今日の日付──九月二十四日──を入力した後、『いつもの悪夢』とだけ書き込んで保存した。
何年も続けているこれのお陰で、一週間に一度くらいは普通の明晰夢を見る事が出来る様になったな、と思う。同時にここ数週間の日記を見返し、悪夢の頻度が目に見えて上がっている事を理解して、彼はうんざりと肩を落とした。
(……ネトゲ、やる気分じゃねーな……)
シイッターのクライアントを立ち上げながら、彼は顔をしかめる。数ヶ月前にキャラのレベルがカンストしてから、すっかりマンネリ気味になっているネットゲームの画面を思い浮かべて、左手で頬杖をついた。
(最近色々とアレだし、暫く休止すっかねー……)
半年程前の“異触”以来、様々な事が立て続けに起きて、落ち着いてゲームをする時間が大分削られていた。ただでさえ起きていられる時間は長くないのだから、必然的に趣味の時間が短くなる。
以前のように、『髪やすり』やギルドのメンバーたちと組んでガッツリダンジョンを巡るのも、人狼で化かし合いや騙し合いをするのも、すっかり頻度を減らしてしまった。昨日までは細々と続けて来たが、落ち着くまでスッパリ休止してしまうのも良いかもしれない。
暫く考えた後、彼はそれを実行に移す事に決めた。シイッターの入力欄をクリックし、素早いタイピングで文章を入力していく。
『どーも、もふぃんです。最近リアルが忙しくなって来たので、少しの間思い切ってネトゲを休止する事にしました。そういうことで今後ともヨロシク』
入力した文を、軽く誤字脱字が無いか見直して送信する。次に、今度はインターネットブラウザを開き、ネットゲームの中で所属しているギルドの掲示板にアクセスをし、同様の旨をもう少し丁寧な口調にして書き込んだ。
そうしている間に、『髪やすり』からのリプライや、他のギルドメンバーの空中リプライが、シイッターのタイムラインに流れて来る。
『えっえっ、もふぃん氏が休止とか……ヤバイヨヤバイヨ、明日世界滅ぶんじゃねーの』
『まじかー。リアルの事情なら仕方ないよな』
『は? ゲームは遊びじゃねーんですけど? 仕事辞めろよグズ』
少しの間、流れて来るつぶやき達を眺めた後、彼はクライアントを閉じた。パソコンをスリープ状態にしてしまいつつ、未開封のジュースを部屋の中に有る小さい冷蔵庫の中に仕舞う。
(……少し変則的な時間だが、烏山に行くかな。どんな調子か気になるし……)
彼は椅子から立ち上がり、ちらりと古い置き時計を見やる。すると、時計の針たちは丁度五時になる所を指していた。中々良い時間だ、と彼は少し口角を上げると、眼鏡からサングラスに掛け替えつつ部屋を出て、階段をのんびりと下り始めた。
階下に出て、廊下を抜け、玄関に辿り着く。下駄箱近くに立て掛けてある、普段使い用の杖を手に取りつつ、上り框に腰掛けて靴を履いた。
扉のチェーンを外し、鍵を開けてノブを捻る。少し目を細めながらドアを開けて、そして外に出ようとしたその瞬間、彼は信じられないモノを目にしてしまった。
──有り得ない筈だ。有り得てはならない。有り得る筈がない。
彼にとって、悪夢以外の何モノでもない。忌々しい上月の老爺が、玄関の前に立っているだなんて。
「ぃぎゃあっ!?」
彼は全力全開でドアを閉め、震える手で鍵とチェーンとを掛けた。同時に、溢れ出る恐慌のままに呪文を唱え連ね、幾重にも幾重にも扉や鍵たちに強固な固定魔法をかけていく。
「有り得ない……有り得ない……有り得ない筈だ……有り得ない、有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない──」
あの老爺は、行方不明になっていたと聞かされていた。同時に、死体が見つからないから行方不明扱いなだけで、実際には死んでいるだろうという事も、上月悟の言動から察していた。だというのに。
自らに言い聞かせる様に否定の言葉を繰り返すが、ドンドンと扉を叩かれる音が頭の中に響き渡り、恐怖が、嫌悪が、絶望が、彼の全てを覆い尽くし侵していく。彼は、頭を抱えて踞り、ひたすら震える事しか出来なかった。
ドン、ドン。
──出て来い、ヴィルガァ!! このワシが、直々に根性付けに来てやったぞ!!
どん。ドン。どん。どん。鈍。ドン。どん。貪。ドン。飩。どん。どん。嫩。どん。ドン。どん。曇。どん、どん、ドン、鈍、ドン、壜、どんどんドン貪丼飩どん緞呑ドンどん嫩曇ドどド呶駑度──。
これも、“禍神”の悪夢の一環なのだろうか。理性ではそう分かっていても、全てに根ざす感情たる恐怖を押さえ込む事は出来なかった。
呼吸のリズムが乱れ、やがて過呼吸となり苦しみに喘ぐ。視界がチカチカと明滅し、手足も痺れて動かなくなる。過換気症候群の悪循環に陥りながらも、少しでも鳴り響く音を打ち消そうと、彼は痛みの残る喉から、掠れた嗚咽混じりの悲鳴を上げた。




