第二十七話・善良なる執心
“大惨事”は、多くの禍をアルシードに遺した。幾十億もの人間と、数えるのが嫌になるくらいに膨大な資源、そして国同士の信頼関係など、数多の物が灰燼となって消えた。
50年前に“大惨事”が終結した後、件の戦乱の中心となった国々は、竜たちの圧倒的な圧力によって、半ば無理矢理平和条約を結ばされた。三柱の旧竜が立ち会って交わした契約だ、破れば竜による無慈悲な制裁が下るだろう。
その契約の甲斐有ってか、今現在に至るまで、大規模な戦乱が起きた試しはない。しかし、それは、同時に文明の発展の停滞を呼んだ。
いつだって、人の技術という物は、外敵への対抗策、他を支配する為の力とするために進歩してきた。それは、戦いに勝つ為の力だったのだ。
しかし、その戦いは起きなくなってしまった。故に、人類の進展は停頓してしまったのだ。用途のない物は、作っても意味がないから。
その為か、現在のアルシードの文明は、おおよそ百年前と殆ど変わらない姿を保っている。それは不変の安寧か、それとも無窮の停滞なのか。
少し、時間を遡る。
ラァに言われたとおりに、手伝って貰いつつ食事にして、ついでにシャワーも浴びた後、唯華は窓から外を見ていた。
「彼の“死神”は、いずれそなたの前に現れる。その時まで今暫く待つがよい」
探しに行きたいのは山々だったが、ここはラァの言葉を信じて待つ事にした。少しの仮眠をとったりして、やや緊張しつつその時を待つ。
「しかし、如何なる風の吹き回しなのデスか? 今回の事、アナタとしては、別にどうでも良い事デショウに」
「どうでもよくはないぞ? あの“死神”に足掻かれた挙句、“禍神”の封印に瑕疵が出来ては堪らぬし。
それにこのままでは、例え彼が“総意”に戻ろうとも、一度生じた自我の雑音は消えぬ。そうなれば、このアルシード全体にどんな影響が及ぼされるか分からぬからな」
唯華は、背後から聞こえる竜たちの会話に耳を傾ける。ラァの言葉を聞き、なんだかんだと言っても、竜はちゃんとした理由を伴って動いているのだな、と感心した。
そうしていると、雨上がりの満天の星空に、小さな影が出現した。その僅かな変化も見逃さず、唯華はガタリと立ち上がる。その音に気付いたラァが、優雅さを含んだ動作でこちらに振り向いた。
「来たようじゃな」
「ええ。わたしはどうすれば良いのです?」
「何、妾に付いて来てくれればよい。“六つ羽根”よ、そなたはここで待っておれ」
「ワタシも行きマス!」
「駄目じゃ。おぬしが居ては気が散る。それに、なんちゃらを邪魔するものは、馬に蹴られて死んでしまえ、というではないか」
「その理屈で行くと、アナタもワタシの邪魔をするのデスから、馬に蹴られて死ぬべきデスよね。……とはいえ、気が散るのは本当みたいデスので、大人しくしていマショウ」
どこかで聞いたようなことわざだが、生憎ど忘れしてしまって思い出せない。ムゥの言葉の真意を測りかねながらも、唯華はラァと共に玄関に向かった。そして、意を決して扉を開け放つ。
明るい室内から暗い野外に目を慣らすのに、数秒程かかった。その間に、庭を照らすクリスタル型の照明が、庭をじりじりと横切る人物を照らし出す。
そこに見えたのは、間違いなくテナの姿であった。目立つ外傷はないが全身ぼろぼろで、苦しそうなうめき声を上げている。思わず駆け寄りたくなったが、ラァに制止されて踏みとどまった。
「ユイ、カ」
彼の声が聞こえる。同時に、テナは伏せていたその顔を上げた。露になる異様な表情に、少しおののく。
その口角は大きく歪められ、『ぎい』という擬音がよく似合いそうな笑顔が浮かべられていた。しかし目は笑っておらず、一筋の涙を流し続けている。ちぐはぐな顔をした彼は、その右手に持った包丁を、ゆらりと振り上げた。
「待てい、“星の精”! 妾の話を聞け!」
『……アグ、ざ……シー……ィア……!』
それを阻止するように放たれたラァの叱声に、テナに張り付く様に居る不定形の影が、ゆらりと蠢いた。影は何やら怒っているかの様に波打ち、それに呼応するかのように、テナが一気に駆け出す。
「ばっ──!! 待て! 待てと言っておる!!」
ラァが怒声を上げてそれを妨げようとするが、テナに張り付く不定形の影はじたばたするように脈動し、彼女が伸ばした影の腕を弾き飛ばしてしまった。まさか話に耳を傾けないとは思っていなかったらしいラァは、呆然と動きを止めてしまう。
そのまま、彼は焦るラァの横をすり抜け、唯華の眼前に迫った。振り上げられた包丁が、月明かりに輝く。
それを見上げながら、唯華は恐ろしい程冷静なままの頭で、思った。
(ああ、わたしは殺されようとしているのですね)
その瞬間、目の前の光景が、全てスローモーションになった。人間、死に瀕すると、思考速度が驚く程速くなり、そして全てがスロー再生になるというが、まさか本当にこうなるとは。
驚く程緩慢な動作で、包丁が唯華の首筋に降ろされてゆく。その残像すらも捉えながら、唯華は動く事が出来なかった。ただ、テナの顔を見上げて、少し目を閉じる。
このまま棒立ちしていれば、彼女の首は刎ね飛ばされて、そして即死するのだろう。我に返ったラァの、焦慮極まった叫び声が聞こえる。同時に、テナ自身が叫喚する声が、唯華の鼓膜を叩いた。
しかし、不思議と恐怖は湧かなかった。唯華は徐に目を開くと、強張っていた表情をほぐして、不自然でない程度に口角を上げた。同時にやや目を細めて、普段通りの微笑を作り、そしてテナを見上げる。
「何も、怖くありません。だから、大丈夫ですよ」
覚悟と受容をし、口をついて出た言葉は、そんな物だった。
同時に、スローモーションが解除される。
「──ッイい、あああああああー!!」
彼は、極大の叫声と共に、包丁で唯華の首を切り裂く。その太刀筋に乱れは無く、確実に彼女を殺傷せしめただろう、と誰もが断定出来る物であった。
しかし、彼女の肌に傷が付く事は、一切無かった。確かに当てた筈の包丁は、光り輝くガラスの結晶の様になり、砕けて消えてしまったのだ。
「あああ……あ、あ……?」
『ガガッ……何故……!?』
幾ばくかの安堵と、無数の疑問符たちが、テナの顔に浮かんだ。不定形の影の方も、何がなんだか分からないといったふうに揺らぐ。しかし、一番困惑していたのは、唯華本人であった。
(ど、どうして……?)
その戸惑いを言葉にする事すら叶わない。今、完全に死を覚悟していたのに、一体如何なる偶然で自分は助かったのか。思い出した様に恐怖がやって来そうになるが、それはラァの叱咤する声によって吹き飛ばされた。
「唯華よ、今が好機じゃ! その男をひっ捕らえておけ!」
「あ、はっ、はいっ!」
『させな──ウが、ガえ……』
「“星の精”よ、今は黙って見ておれ。妾が全て丸く収めてやるからの!」
ハッとした唯華が、唖然とするテナの腕を掴むと、ラァが指先を黒い影に変化させた。影は幾本にも枝分かれし、その先端が刃物を模すように変形する。そして、彼女は高らかに宣言する様に声を上げる。
「ラーエーイーネイトニウスが、『エー』の力を以て為す! “人の死”とテナを引き剥がし、欠損部分を我らで補う!」
その影はテナの背中に突き刺さり、そして不可視の『何か』を引きずり出した。それを、放り投げる様に不定形の“星の精”へと押しつけつつ、ラァは腕ごと指先の影をしならせる。
すると、分化していた影が一本にまとまり、同時に先端部の変形が解かれた。束ねられた影は、先ほど唯華にそうしたように、テナの身体に巻き付いて染み込む様に消える。そこで、ようやくテナも正気づいた。
「な、にが……オレ、は……」
「うむ、首尾よく終わったぞ? “星の精”よ、確認するが良い」
『ア──う、ヴァ──ああ……』
目を凝らそうとすればする程見えなくなる透明な『何か』を、“星の精”は大事そうに抱き込んだ。恐らく、ラァが相手に渡したのが、“人の死”の“意志”なのだろう。
緊張した面持ちで、唯華はその動向を見守る。不定形の影は、どこか穏やかにゆらゆらと形を移ろわせていた。
『……──』
“星の精”は、こちらに向かって、何か声を出したようだった。が、唯華にその意味を汲み取る事は出来ず、疑問符を浮かべて見返す事しか出来なかった。
そのまま、“星の精”はどんどんと姿を薄めて、やがて消えてしまう。気が抜けてしまい、膝から崩れ落ちてしまいたい気分になりながらも、唯華は立ち尽くすテナを揺さぶった。
「テナさん、テナさん! わたしの事、分かりますか?」
「あ、あ……分かる、ぞ……」
「よ、良かったぁ……!」
彼はぼけっとした表情をしながらも、徐々に自分の身に起こった事を把握し、そしてラァの方へ振り返った。その動きの最中、違和感に気付いたのか、彼は唯華の握る手を放させて首の辺りを探る。もはや“星の精”は居ないが、戒めの気配はない。
「おまえ、は」
「感謝ならそこの娘にするがよい。妾は頼まれたから実行したに過ぎぬ」
「……ユイカ」
「あの、本当にありがとうございました、ラァさん。この恩は、一生忘れません」
「んくく、あまりそのような言葉を、妾のような竜相手に使うでないぞ。言質を取られて、どんな不利な条件を飲まされるか分からぬからな」
唯華がぺこりと頭を下げると、ラァはどこか仕方が無さそうに笑ってそう言った。最初見た時の底知れない不気味さはもう何処にも無く、とても笑らかに口元を曲げている。
寛仁な言葉に、さらに礼の言葉を連ねようとした瞬間、横からテナが飛びついて来て、唯華は思わずバランスを崩しそうになった。喫驚のあまりか、心臓がどきりと跳ね上がる。
「ひゃわっ、て、テナさん!?」
「ユイカあぁ……良かった……オレ、ここに……帰って、これて……!」
その声からは、心の底からの安堵が滲み出ていた。唯華も、間近にテナの体温を感じ、張り詰めていた緊張の糸がぷつぷつと途切れていく。
「……お帰りなさい、テナさん」
蓄積した疲労が、一気に襲いかかる。最早意識を保ち続ける事は出来ず、唯華はテナに体重を預ける様にして、そのまま穏やかに意識を手放した。
急速に浮かび上がる意識と共に目を開けると、そこは自室のベッドの上であった。夕暮れの日差しが視界を焼いて来てて、眩しさと僅かばかりの恐怖に唯華は思わず両手で顔を覆おうとした。しかし、左腕が何かに突っかかって動かず、仕方なく右手だけで目を塞ぐ。
少しずつ光に目を慣らし、同時に意識が明瞭になって行くうちに、何故左腕が動かないのか、とそちらにがばっと顔を向ける。そうして自分の左側に視線を移すと、そこには唯華をガン見するテナの顔が有った。
「あの、これは……」
「……起きた、か」
彼は、寝台の枕元の椅子に座り、よく分からない表情を浮かべながら、唯華の左手首を握りしめていた。彼女が目覚め、困ったような声を上げると、ますます握る力が強くなる。
「えと、ちょっと、痛いです」
「あ、ご、ごめん……」
「いえ、良いんですよ。心配してくれてたんですよね」
手を放してもらいつつ、唯華はのそのそと起き上がった。手首に、少し痕が残っている。どれだけ強い力で握っていたのだろう。強張った身体を伸ばしつつ、テナへと質問をする。
「わたし、どれくらい寝ていたのでしょうか」
「……十数時間、くらい」
「あちゃぁ、そんなに眠り続けてしまったのですか。今日寝れるかなぁ……いえ、そんな事より、ラァさんとかは」
「あの旧竜は、既に帰った。それと……アスパラと、六つ羽根のは……」
そうテナが言いかけた瞬間、外側から部屋の扉が開かれる。二人してそちらに目を向けると、そこには白矢とムゥの姿が有った。
「フン、起きたか」
「ああ、無事に気が付いてくれマシタね! どこか痛い所はありマセンか?」
「はい、わたしは平気です。心配をかけてしまって、申し訳有りません」
「ケッ、本当に反省してんなら、行動で示せってんだ。今日は大人しく休んでやがれ、家事は有る程度僕たちがやっておいた」
ムゥがテナを押し退けて唯華の元に駆け寄り、両手を取って笑顔を向ける。白矢はその後ろから不機嫌げにやって来て、杖をビシッと突きつける動作をする。
目の前に、いつもの三人が揃う。こちらの世界で出来た、大切な友人たちだ。一度失いかけたこの光景に、唯華は少し目を潤ませてしまった。同時に、彼らが家事をしている姿を想像してしまって、似合わないな、とにやけを抑えようとして、顔を歪めてしまう。
「ユイカ……? や、やっぱり、怪我をしているのか?」
「いえ、そうじゃないんです。なんだか、安心しちゃって……。
……よかった、本当に。また、こうして四人で集まって、色々話して、一緒に遊んで……それが、出来るのですから」
おろおろとしだすテナ相手に、唯華は微笑を浮かべて答える。また、家族を失う羽目にならなくて良かった。喪失を乗り越えなければならない事態にならず、本当に良かった。目の前に垂れる前髪をかきあげながら、唯華は溜め息を吐く。
また、異世界での日常が始まる。失い難い、穏やかで鮮やかな毎日が。
朝、四時ちょっと過ぎくらいに目を覚まし、目をこすりながらうだうだと寝返りを打つ。布団の中でもぞもぞとする至福の時間だが、あまり浸りすぎると二度寝をしてしまうので、唯華はそこそこの所で起き上がった。
起きてカーテンを開けると、既に外は薄明るかった。窓ガラスに、何とも前衛的な髪型をした自分の姿が映る。今日はまた一段と凄まじい寝癖だ、と唯華は少し笑ってしまった。
これに手櫛だけで挑むのは無謀なので、前髪だけ上げておいて、まずは服を着替える。毎日私服となると、どんな服を着れば良いのか、当初は本当に悩まされた。というか、今も悩んでいるが。
(ううん、遥華が居れば……いやいや)
おしゃれ好きだった妹の顔と共に、休日に外出する時のコーディネートは、大抵彼女に任せていたな、と思い出しかけて、慌てて頭を振る。会いたい等という叶わない願いは、抱かないのが心の為だ。
ぺちぺちと両頬を叩きながら、洗面所へと向かうと、そこには既にテナの姿が有った。彼も、唯華程ではないが芸術的な髪型になっており、無言で四苦八苦している。
「おはようございます、テナさん。あなたも寝癖ですか?」
「……おはよう。……人間、ちゃんと寝ると、こんな風になるんだな……」
これまでは、夜は“死神”として彼方此方回っていたから、まともに眠った事がなかったらしい。最近は人間らしく普通に睡眠をとり始めて、それで今日ご覧の有様になったようだ。彼の元に近づきながら、唯華は声をかける。
「ええと、椅子どっかに有りましたっけ。ちょっと座ってくれますか、直して差し上げます」
「……持って来る」
そう言うと、テナは手頃な椅子を求めて、館の地下を探索しに行った。地下といえば、あの如何にも暗部な扉は、白矢の手により再び隠される事になった。もう二度とあんな階段を上り下りしたくないし、あそこへ行く必要が有る事態にも見舞われたくないな、と唯華は思う。
テナが椅子を取って来るのを待ちつつ、自分の髪の毛を軽く直しておく。逆立ち巻き上がった毛を何とか重力に従わせた辺りで、彼の足音が戻って来た。
「戻りましたね。じゃあ、鏡の前に座って下さいますか?」
「……分かった」
新品のまま使われていなかった様子のパイプ椅子を開き、テナは言われた通りに座る。唯華は自分の手と櫛を少し水で濡らすと、そんな彼の後ろに回った。
撥ねている髪を手でならしつつ、櫛を入れる。まさに烏の羽のような黒髪に、少し羨ましいな、と思う。唯華は地毛が焦げ茶色で、生活指導の先生に説明するのに、少し手間取った事も有ったから。
「それにしてもテナさん、長くて綺麗な黒髪ですよね」
「……そう、か?」
「そうですよ。あなたの場合、綺麗な顔立ちしてますから、長髪が良く似合ってますよ。ちょっと結ったら、もっと面白そう」
頑固に絡まってる部分に何度も櫛を当てながら言うと、鏡に映るテナが少し目を逸らした。まだ早朝だが暑いのだろうか、頬がほんのり赤くなっている。少しはてなを浮かべながらその変化を眺めつつ、唯華は更なる提案を口にした。
「そうだ、ちょっと髪結んでみても良いですか? ポニーテールとか、きっとすごく似合うと思うんです」
「……好きに、すればいい」
「ありがとうございます、では遠慮なく」
いつも自分が使っている髪結い紐の予備を持ち出し、手首にかける。そうしながら彼の髪をまとめあげ、そして頭の上の方に束ねると、紐で丁寧に縛った。そうすると、見事なポニーテールが出来上がる。
「わあ、やっぱり似合いますね」
「……む」
テナは、出来上がったポニーテールを片手で触る。相変わらず表情は読み取り難いが、少し口角が上がっているのをみとめ、気に入ってくれたのだろうと察した。
次に自分の髪を結おうとした所で、その手を軽くテナに掴まれた。一体何かと思った所で、彼は少し目を輝かせながら言った。
「お、オレにも、やらせてくれ」
「ええと……?」
「ユイカの髪、結わせてほしい」
「んー……まぁ、良いかな? 分かりました、どうぞ」
櫛と紐を彼に手渡しつつ、今度は自分が椅子に座る。素の状態だと、背中の半ば程まで届く長い髪を見ながら、そろそろ切った方がいいかしら、等と考える。
テナは唯華の頭をまじまじと見下ろしつつ、見よう見まねで髪を梳かし始めた。その感覚に身を委ねつつ、こんな風に誰かに髪を結ってもらうのは何年ぶりかしら、と思い返す。
小学校の低学年くらいまでは、母親にツインテールに結ってもらっていた記憶が有る。それ以降は短髪になっていたり、伸びたなら自分で結ぶ様になっていたから、成る程十年近くぶりなのか、と思い至った。
「……こ、こうか?」
そんなテナの声に、弾かれる様にして鏡を見ると、唯華の左側頭部にサイドテールが出来上がっていた。多少普段より位置がずれているが、きっちり結ばれていて中々に具合が良い。自分で結び直す羽目になるだろうな、と予想していた唯華は、少し驚いてしまった。
「器用なのですね、テナさん。良く出来てますよ」
「……そうか、良かった」
結び目を軽く手で触れながら、解ける様子が無い事を確認する。そうしていると、鏡に映るテナの柔らかな笑顔が目に入った。つられて、唯華も少し破顔する。
そうしつつ徐に立ち上がって、パイプ椅子を閉じ脇に避け、唯華は歯ブラシを手に取る。久々に誰かに髪を結って貰う感覚に、少し懐かしい感傷に浸っていたが、それが唯華の心を傷つける事は無かった。
何故ならば、家族に等しい存在が、すぐ隣に居てくれるから。
ここまでで、何となく一区切り。
書き始めた当初に見えていた所が、ここまでだったので。




