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異界と竜の逆ハーもの  作者: 夢山 暮葉
第五章・メメント=モリ
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第二十六話・闇より吹く日方


 『ファーストアーミー計画』自体に対しては、当初竜たちは然程興味を示していなかった。色々前科の有った上月の翁が先導していたので、ちょくちょく気は配られていたようだが。

 だが、この日和見がいけなかった。外法の術により、上月と竜の間に交わされた契約が改変され、『ファーストアーミー計画に口や手を出さない』という条文を加えられてしまう前に、動き出すべきだったのだ。

 契約改変により介入が出来なくなった竜は、冒涜的なる研究が進められ、“意志”が切り離されるのを、指をくわえて見ている事しか出来なかった。だがしかし、それを台無しにするチャンスは、常に窺い続けていた。

 故に、“大惨事”の際に“死神”が持ち出された時、彼らはすかさず“死神”を保護し、奪還したのである。貴重な検体を奪われ、その上遣わされた竜の手勢たちによって研究を凍結せざるを得なくなった上月は、随分とご立腹だったらしい。

 “大惨事”の後、似たような研究を始めようとする所も有ったが、それは悉く竜の手によって潰されていった。もう二度と、同じ事が繰り返されぬ様。

 この事実の殆どは、『ファーストアーミー計画』と共に、闇に葬られている。ただ、“意志”を使って人造人間を作ろうとすると、すぐさま竜がやって来て警告し、止めなければ何が何でも潰される──そんな実情だけが、世界中の研究者たちの間の暗黙の了解となっている。




 館の地下。しっとりひんやりとした空気が澱む、地上より薄暗い雰囲気の漂う廊下を、白矢を先頭とした三人は、何となく足音を潜めて進んでいた。

 階段からずっと進み、廊下の突き当たりに辿り着く。ここまでに、唯華の知らない場所は無い。だが、白矢がすっと前へ進み出て、突き当たりの壁を杖で叩くと、そこに見た事も無い扉が浮かび上がって来た。


「こっちの扉は非常用で、本当は上月の屋敷から入るんだがな。ま、わざわざあんな所まで行く必要もあるまい」


 その扉にドアノブは無く、紫黒の表面には真っ赤な塗料で描かれた紋様が所狭しと並んでいた。黒と赤のコントラストはいかにもおどろおどろしく、この先に有るものが尋常のそれではない事を、これでもかと主張している。まさに、トップシークレットなのだろう。

 白矢はがりっと自分の親指を齧り、流れ出す血を扉へ押し付ける。すると、赤い紋様がずるずると流動し、突き当てられた白矢の指へと集結して、そのまま消えた。傷口を舐めながら、彼は足で扉を押し込む。すると、厳重そうな見た目とは裏腹に、扉は簡単に開いてしまった。

 その向こうには、一寸先すら不確かな闇が広がっている。白矢はそのまま進みかけたが、ちらりと唯華の方を見やると、何やら短く呪文を唱えて、杖の先端部に灯りを点した。


「あんた、夜目利かねーだろ」

「え、あ、はい。ありがとうございます」

「階段急だから、転げ落ちんなよ」


 魔法の光が照らし出したそこは、狭く急な階段であった。申し訳程度の手すりが有る程度で、気を付けないと足を踏み外してしまいそうだ。


「なら、ワタシが先頭に立ちマショウ。ユイカサンは一番後ろに」

「分かりました」


 不測の事態への対応力が最も高いムゥを先鋒に、白矢、そして無力な唯華と続く。壁も手すりも床も真っ黒な空間に、なんだか感覚が不安定になってくる。

 暫く下りると踊り場に出る。そうして更に下り、踊り場を通り、更に下り……まだ続くのか、帰りには今度はこれを上らなければならないのか、とうんざりしてしまうくらいに、階段は続いた。


 どれくらい下ったのだろうか。数度の休憩を挟み、無事に終着点に辿り着いた時には、唯華の息はすっかり上がってしまっていた。帰りの事を考えると憂鬱になるが、今は目先の事に集中しなければならない。


「ものすごい地下なのですね……ええと、ここは」

「烏山の地下、『ファーストアーミー計画』の研究所だった場所だ。一部の資料は持ち出されちまってるかもしれんが、大体の物は有る筈だ」


 そう言いつつ、白矢は階段を下りた所の扉を開けた。やはりその先も真っ暗だったが、彼らが入ると同時に電気が点く。杖の灯りを消しながら、彼は辺りをきょろきょろと見回した。


「僕もここに来るのは初めてだからな……さて、資料室は、と」

「随分とまぁ、厳重に隠されているのデスねぇ。さもありなん、デスけれど」


 流石にここまでは黒塗りではなかったが、似たような風景が続いている所為で、迷子になってしまいそうだ。何とか角を曲がった回数などを記憶しながら、やがて資料室を発見する。

 その扉を潜ると、そこは大図書館か何かと錯覚してしまうようなレベルの本棚が、これでもかと並んでいる大部屋であった。何十年も経っているというのに、劣化や風化などの兆候は見られない。本棚になにやら紋様が描かれているのをみとめて、成る程魔法がかかっているのか、と唯華は理解した。

 しかし、この膨大な量の資料から、目当ての物を探さなければならないのか。少し頭が痛くなって来た。


「ええと、必要なのは……この『Wレイヤー概論』だとか、『B予測』とか、この辺デショウかね。ほら、読んでみてくだサイ」

「へ……ふぇ、あっ、はい!」


 ぽすん、と分厚い本を何冊か手渡され、唯華はきょとんとしてしまった。この短い時間で、この広大な資料室から見当をつけて持って来たというのか。目をぱちくりとさせていると、ムゥが微笑みながら答える。


「一先ずそれを斜め読みして、基礎知識を付けててくだサイな。ワタシはこちらを読み込んでみマスから。何か分からない事が有りマシタら、言ってくだサイね」

「……僕も色々調べてみる」

「はい。お願いします」


 そう言いつつ、ムゥはファイルに入った紙の資料を示す。手書きの図や文字が垣間見えるそれは、実際にここの研究者が書き記し遺した物なのだろう。唯華は合点して頷きつつ、資料閲覧用のテーブルへと向かった。

 何の知識も無い状態から、わけの分からない異界の研究を理解しようとしているのだ。相当な長丁場になるだろう。とにかく、現状知りたい核心部分を探る事に注力するのを留意しつつ、彼女は本のページを開く。




 結論から言うと、唯華の推測は正しいという事が判明した。

 “死”の“意志”とは別に、テナにはテナとしての“意志”が生まれてしまっている。現状ではほぼ一体化している状態だが、理論上はそれを切り離す事も可能だ、と。

 様々な理論を理解する事は諦めて、ひたすら彼女の推論の正否を探った結果、どうにか答えに辿り着く事が出来た。とはいえ分かったのはそれだけであり、よく分からない専門用語の連発の所為で、理論の一片すらも分からなかったけれど。

 寝食も忘れて没頭した結果、気付いた時にはもう夜の11時になっていた。昼寝を挟まなかった所為で、止めどなく眠気を訴え続ける頭を振りながら、唯華はムゥに顔を向ける。ちなみに白矢の方は、調べもの開始数時間後に、眠気極まって眠ってしまった。


「でも、どうやって切り離しましょう。ハサミでも持ってくれば良いのでしょうか」

「……なんというか、ぶっ飛んだ発想になっていマスね。一眠りした方が良いと思いマスよ?」

「ふわ……眠いのは山々ですけど、今寝たら明日になってしまいますし。多分、なるべく早くに実行に移さないと、テナさんの意識が保たないかも……」


 断片的な知識による推断だが、巨大な意識を保つ“死”と、ただの人間のそれと然程差異のないテナの“意志”では、規模に圧倒的な差が有る。今は何とか持ちこたえている様だが、放っておけばやがて“死”の方が打ち勝つだろう。そうなれば、テナの“意志”は呑み込まれて消滅してしまう。


「手段の心当たり、無いですか?」

「……有るには、有りマスがね。旧竜の力を借りられれば、あるいは」

「なら、その旧竜さんに話を通せませんでしょうか」

「ワタシの様な若輩竜の要請じゃ、旧竜の方々は動いてくれマセンよ。一応、連絡はしてみマスがね」

「ううむ……分かりました」


 旧竜と呼ばれる程の大物ともなれば、きっと彼方此方引っ張りだこで忙しい筈だ。駄目もとで連絡してみて、応答が無かったら他の手段を探そう──そう思った、その瞬間であった。


「──話は聞かせて貰ったぞ」


 何処からともなく、妖艶な女性の声が聞こえた。すると、ムゥの足元の影が、ごぽりとその形を歪める。いきなりの出来事に、唯華も彼自身すらも「ひっ」とか悲鳴を上げて、椅子から転げ落ちてしまった。

 ごぼ、げぼ、めちょお、と如何にも外道の魔物が出すような擬音と共に、影からコールタール状の黒い物体が這い出て来る。それはずりゅずりゅと盛り上がり、徐々に形を成してゆき、やがて人型をとった。

 それは、真っ黒な女性であった。腰程まであるぬばたまの黒髪に、その肌の色はペイントしたかのような灰褐色。目元は金の一つ目模様の目隠しで覆われており、羨ましくなるようなナイスバディの肢体は、チャイナドレスふうの黒い衣装で、さらに強調されている。

 まるでファッションショーに出るモデルのような姿に、唯華は完全に気圧されてしまった。まるで三日月のように弧を描く黒い唇が開かれ、そして婉然たる声を伴って言葉を紡ぐ。


「そう畏怖されると、少し悲しくなるのう。そこのテ──いや、“異客”のみならず、同胞にまで悲鳴を上げられるとは」

「あ、いや、その、ごめんなさい! ビックリしちゃって……」

「いきなり足元からあんな音したら、誰だって腰を抜かしマスよ! ていうかラァサン、何故アナタがここに!?」

「“死神”の封印が解けそうなのは、妾も察知しておったからな。こういう事態になるだろう、と、そなたの影に潜んでおったのじゃ」


 思いがけない大物の出現に、結構大声で騒いでしまったが、白矢に起きる気配はない。彼の眠りは、相当に深いらしい。そんな白い姿を視界の端に捉えながら、唯華は立ち上がって女性と向き合う。


「ええと、初めまして。わたしは錦野唯華と申します」

「ふうむ……妾はラァ、旧竜が一柱じゃ。そなたが唯華か。中々に礼儀がなっておるではないか」


 くつくつと楽しそうに笑うラァに、唯華はぽかんと口を半開きにしてその顔を凝視した。今、この女性は己を旧竜であると言わなかっただろうか。遅れて立ち上がったムゥが、捕捉するように言う。


「まさか、本当に旧竜のアナタが来て下さるとは、思いもしマセンデシタよ……ユイカサン、この方は間違いなく旧竜の一人、ラァサンデスよ」

「えっ、あっ、あのっ、どうして……?」

「言ったであろ? “死神”の解放に伴うあれこれを、妾が解決しに来たのじゃよ」


 旧竜ラァはしゃなりしゃなりと歩いて来て、唯華の目前で立ち止まった。至近距離から見たことで、その奇妙な肌の色が天然モノである事を確信する。如何にも人外人外しているなぁ、という感想を抱いた。

 そうしていると、ひんやりとした彼女の指が、唯華の額にぴとりと押し付けられた。丁度なんだか嫌な感じがする所を触られ、少し顔をしかめてしまう。


「そなたの執念、影の中より見ていたぞ。見事なものじゃ、天晴れ、という言葉を贈ろう」

「あの、その……見てたなら、なんでもっと早くに出て来てくれなかったのですか?」

「本当はもっと早くに出て来ても良かったのじゃが……そなたらが足掻く様があまりにも面白くてのう。くくく」


 嫌な種類の笑い声を上げられ、唯華は少し後ずさりたい気分になった。が、ラァの放つオーラに圧倒され、足が竦んで動けない。


「さて、そなたが今一番疑問に思っているであろう事に答えよう。間違いなく、妾は“死”と、あの、何じゃったかの……そう、テナという意識を切り離す事が出来る」

「な、ならっ!」

「うむ。じゃが、妾の力を借りたいというのであれば、そなたは妾との契約を交わす必要がある」


 契約。その単語が出た瞬間、ムゥが纏っている雰囲気が一気に鋭利な物となった。明確な意志を伴って、紫の瞳が開かれる。


「アナタ、ユイカサンに妙な契約を持ちかけたら、ワタシが許しマセンよ」

「おお、怖い怖い。なに、案ずるな。今は別件の契約も有るからの、わざわざこやつを弄ぶ理由も無いし。

 さて、妾がそなたに出す条件は、至って簡単な物じゃ。一つの質問に、正直に答えて欲しいのじゃよ」


 額に押し付けられた指に、ぐぐっと力が込められる。首を傾げる事も出来ずに、ただ底の知れない笑顔を見上げれば、ラァはその質問を口にした。


「そなたは、あの男を必要としておるのか? 『テナ』という人物が必要なのか? “死神”でもなんでもない、そんなあやつが欲しいのか?」


 拍子抜けする程簡単な問いに、唯華は少しぽうっとしてしまったが、すぐさま頷いた。そして、言葉で以て返す。


「必要です。あの方はわたしの保護者で、友人で、大切な家族みたいなものなのですから。……家族を、二度も失いたくない」


 自信たっぷりに答える事が出来た。例え“死神”ではなくなろうと、寧ろ彼の悩みの種が減るだろうから、好都合なくらいだ。

 そんな彼女の真摯な言葉を聞き、ラァはその笑顔の種類を変えた。意地の悪そうなニヤリ笑いから、何もかもを包容するような優しげな微笑みへと。その変化に、唯華は少し驚いてしまう。

 すると同時に、額に当てられている指から、何か黒い影のような物が迸った。それは唯華の身体に巻き付いて、そのまま染み込む様に消えてしまう。一瞬何かと思ったが、特に身体に異常は現れず、ムゥも黙っている事から、儀礼的な物なのだろう、と結論付けた。そうしていると、ラァが口を開く。


「しかと受けしめたぞ、そなたの願い。ならば契約に基づき、妾は“死”とテナの切り離しを行おう」

「あ、ありがとうございます! じゃあ、ええと、階段……」


 何をするにも、ここから地上に戻る必要が有るだろう。あの長い長い階段を、今度は上らなければならないのか、と考えて、先ほどまで明るい気分だったのが一気にげんなりした。


「一先ず、そこのアスパラを起こしてくれマスか?」

「ええと……ああ、白矢さんの事ですね。分かりました」


 机に突っ伏して寝ている彼の元へ歩み寄り、声をかけて軽く揺さぶってみる。簡単に折れる筈ないと分かってはいるが、あまりにも細すぎるので、どうしても慎重な手つきになる。


「白矢さん、起きて下さい」

「うう……もうじゃがいもは喰えねぇ……勘弁してくれ……」

「じゃがいもなんて何処にも有りませんよ。起きて下さいってば」

「嘘だ……ここは芋帝国、家も道路も電信柱も、全部芋で出来てるんだぞ……」

「ねぇ、起きてるんですよね? 寝言でそんな詳しい情景が語れるんですか? ねぇ?」


 一体どんな夢を見ているのだろうか。ちょっと気になるが、それよりも早く起きてもらわないと困る。一向に目覚めようとしない白矢に痺れを切らしていると、ラァの不敵な笑い声が背中に届いた。


「くっくっ、“御柱”ならば致し方有るまいよ。ならば、妾がひと肌脱いでやろうではないか」


 そんな彼女の言葉に、何をするのだろうか、と唯華は軽く身構える。そうしていると、ラァの足元の部分が自身の影と一体化する様に融け崩れ、ムゥや唯華たちの居る所にまで広がって来た。

 これは一体何、と問う前に、視界が暗転した。驚く声を上げる間もなく、次の瞬間には館のエントランスの光景が広がる。支えを失い、ぐらりと倒れそうになる白矢を慌てて抱えながら、唯華はラァに顔を向けた。


「瞬間移動……ですか」

「うむ。さて、問題なく辿り着いたのであれば、善は急げ、じゃ。錦野唯華よ、まずは夕餉にして体力を取り戻して来い。時間があれば、湯浴みも」

「へ?」

「そんなボロボロの心身では、成せる事も成せぬ。とっとと行ってくるがよい。妾も手伝おう」


 優しげな言葉と共にラァに微笑まれると、猛進のあまり忘れていた食欲が鎌首をもたげ、容赦なく胃袋を刺激して来た。そういえば昼食も夕食もすっぽ抜かしていたな、と唯華は思い出し、ばつ悪く苦笑しながら頷いた。




 実際に人を切り裂いたりして殺すわけではないから、この手が血に染まる事は有り得ない。しかし、死ぬラインに達した人間から“意志”の中核を抜き取る度、自分の身体に死臭が染み付いていくような気がした。


『“心臓”、そんなに浮かない顔してどうしたのさ? 戻れるんだよ、嬉しくないの?』

「……いやだ……消えたくない……」

『あっちゃー……やっぱ、強い自我が生まれちゃったのかぁ。道理で、中々“総意”に戻らないわけだ』


 自分の傍らに立つ“星の精”は、先ほどからずっと『テナ』を抹消しようと働きかけて来る。その力は強大で、生半可な精神力では数秒と保たないレベルの物だ。しかし、彼は、ただ唯華への想いに執着し、妄執し、抵抗し続けている。


「ユイカ、ユイカ……お願いだ、消さないでくれ……!」


 震える声で、冀うように、弱々しい叫びを上げる。そうして彼女の名を呼ぶと、今にも吹き飛ばされ消えそうになっている自我が、少し安定するような気がした。

 しかし、そんな彼の台詞に、“星の精”が怪訝げに彼の顔を覗き込む。


『ゆいか……ふーん、成る程、それがお前の執着対象なのね。それに縋って、肉体に留まり続けていると』


 面倒くさそうな声が聞こえたかと思うと、不意に場面が変転した。先ほどまで、何処とも分からぬ場所に居たのに、いつの間にか懐かしい館を見下ろす空中に居る。


『じゃあ、そいつを消せば、お前の自我も消えるんだな』


 これ以上無く不穏な台詞が聞こえた。同時に、彼の意に反して身体が動き、片手に包丁が形成される。これから為されようとしている事を理解し、彼は背筋を凍り付かせた。


『喜びなよ、“心臓”。これで、お前はようやく解放されるんだ』

「や、やめろ……ユイカは、まだ死ぬ人間じゃない……そんな事をしたら、均衡が」

『お前が無事に“総意”に回帰する為なら、一人っくらい“客”を殺したって問題ないさ。ほら、笑って笑って』


 泣くか怒るかしたいのに、“星の精”が彼の口角を無理矢理上げさせる。歯を剥き出しに笑わさせられて、左頬の肌が引き攣るのに、思わず涙が零れた。その状態のまま、彼は地上に降り立つ。

 夜の館の窓からは、灯る明かりが漏れている。恐らく、今日も唯華はここに居るのだろう。このまま“星の精”に操られるままに進めば、間もなく彼女の元へ辿り着き、そしてこの包丁を振り上げる事になる。


「い、いやだ……やめろっ!」


 もがきながらも、彼はじりじりと歩を進め、門を潜り庭へと入る。一歩、また一歩と、進んでしまう。最早彼の精神力は摩耗し切り、まともな抵抗も出来ずにいた。

 そうして、庭の半ばまで進んだ時、不意に玄関の扉が開かれた。中から明かりと共に、二つの影が出現する。その片方の姿を捉えた時、彼は思わず赤い目を見開いてしまった。


「ユイ、カ」


 あれ程までに焦がれた姿が、目の前に現れたのだ。

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