プロローグ・空が落ちた日
女子高生・錦野唯華は、良くも悪くも普通に順調に人生を歩んでいた。
今年で17歳になる彼女には、美人過ぎもせずしかし醜悪でもなく、丁寧な言葉遣いと穏やかな物腰により、男女問わず一定の人気が有った。成績は中の上、志望する大学には十分に合格出来る程度。兄と妹がおり、両親も合わせて五人家族だが、家庭の問題は無きに等しい。
誰もが羨む“平凡”を持つ彼女が、唯一平凡でないのは、その趣味くらいだろう。ファンタジーものの小説や漫画を好み、特に“人ならざるもの”たちに惹かれているのだ。人語を解す獣たち、アンドロイドやAI等といった知性ある機械、エルフやドワーフ等の異種族、名状し難きものども……枚挙に暇が無い。あまり表立って語れる趣味ではないので、彼女のそれを知る者は家族くらいのものであったのだが。
今は夕刻、ようやく学校が終わり、しばしの休息の為に家へ向かう。帰り道の大半を同じくする友人らと共に、唯華は道を歩いていた。あれこれと他愛のない会話を交わしつつ、世界を朱に染める穏やかな陽を見送る。
「でさー、今週末空いてる? カラオケ行かない?」
「あー、いくいくー!」
「唯華はどうする?」
「でしたら、わたしもご一緒させて頂きたいと思います」
「うっしゃ! 唯華が来るなら、アイツとかアイツも来るだろうし……久々に大部屋借りる事になるかな?」
後で忘れない様に、カレンダーに書き込んでおかねば──そんな事に思いを巡らせた、その時であった。
「ちょ、ちょっと、皆、空見て!」
「え──ええっ!?」
困惑の入り混じった友人の言葉に、唯華も空を見上げる。先ほどまで朱に染まっていた空は、どういうわけか緑色に輝いていた。まず有り得ないような風景に、彼女は少し足元をふらつかせる。確かに夕日が緑色になる現象は実在するが──と、思った瞬間、空にぽつぽつと黒点が現れ始めた。
顕現した黒点は、まるで濃い墨汁を注がれているかの様に、じわっと広がって他の点と融合する。同時に有り得ない速度で辺りも暗くなり、あっという間に真夜中のような様相となった。本物の夜と違うのは、月も星も見当たらない事くらいだろうか。
(空が、落ちた……!?)
既に唯華たちの一団は立ち止まり、あるものは携帯で家族と連絡を取り、あるものはスマホからSNSに書き込みをしたり、またあるものは写メを撮ったりしていた。そんな中、空を見上げていた唯華は、かすかに揺らいだ足下に叫びを上げる。同時に、彼女の携帯が緊急地震速報を受信し、ブーブーと鳴り始めた。
「皆! 地震が来ます……!」
「うわっ、なんかアメリカの人まで大騒ぎしてるし──って」
次の瞬間、どどどどど、と低い音が轟き、地面がこれまでに無い勢いで揺れ始めた。あまりの揺れに、唯華はすっ転んで尻餅をつく。他の者も立っていられず、座り込んだり同じ様に転けたりしていた。揺れは収まるどころか、数十秒経っても続き、むしろ強くなっている気さえする。辺りの家々から、悲鳴が聞こえて来た。
石垣が崩れる。電柱が危うく傾く。脆い家は既に倒壊を始め、地面にピシピシとヒビが入る。そこで、平和ボケしていた唯華の頭は、ようやく尋常でない現状を正確に理解した。理解した所で、解決策が浮かんだわけではないのだが。
彼女らが座り込む辺りの地面に、他より一層深いヒビが走る。唯華は抜けた足腰を叱咤し、ずりずりと後ずさってヒビから離れた。他の者も真似て、それから離れる。すると、信じられないような音がして、ヒビは大きな地割れとなった。なんとか逃れる事が出来た事に安堵した直後、彼女は目を見開く。
「あ……」
「ま、松本さん!」
友人の一人、松本の両足は、それぞれ地割れのこちら側と向こう側に置かれていた。早くどちらかに移れば助かったのだろうが、彼女は硬直してしまったようで、動かない。しかし時間は待つ事を知らず、地割れはどんどん幅を広げていく。
「あ、あああ、あああああ……!!」
事態に頭が追いついた時には既に遅く、柔軟体操さながらの角度まで脚を広げる羽目になっていた。しかし唯華を始め、他の者は口をあんぐりと開けていて、手を貸すという事を完全に失念していた。あまりに非現実的な光景に、頭が追いつかなかったのだ。
ギリギリまで、彼女はねばった。だが限界は訪れる。足が地面から外れ、彼女の身体が傾き、そしてそのまま闇に呑まれていった。一瞬遅れて、耳を劈く程の悲鳴が裂け目から聞こえて来た。同時に、断面から新たなヒビが走って来る。まるで、残った唯華たちを道連れにせんとするかのように。
「ま、まつ、もと……」
「良いから、にげ、にげない、と……!」
「か、神様仏様ご先祖様……助けて下さいお願いします……!!」
ふらふらと立ち上がりながら、唯華は震える足で走り出す。そこら辺で、黒い空から雨が降り始めた。最初こそ常識的な程度の雨だったが、あっという間に空で巨大なバケツをひっくり返しているような大雨へと進化する。暴風も吹き始め、立て付けの悪かったらしい屋根が、いくつも頭上を舞って行った。彼方此方で雷鳴が轟き、火の手が上がりかけては雨にかき消される。
同じ様に走り出す事の出来た者の中で、最も体格が小さく、いつも小動物系として可愛がられていた子が、非常識的な程の突風に攫われて飛んで行ってしまった。あまりの出来事に、唯華は笑いを上げたくなったが、どうにか堪える。今笑ってしまったら、止まらなくなってしまいそうだったから。
「一体、何なんですかっ……! 何が起きて……!」
走り、普段あまり運動をしない所為か、簡単に上がった息の隙間から、唯華は言葉を絞り出す。それに答える者は居ない。
倒れる電柱に巻き込まれ、剥き出した電線に触れてしまって即死する者。暴風に運ばれて来た屋根に潰され、脱落する者。数分前まで、週末にカラオケに行く約束をしていた友人たちは、唯華を残して皆消えてしまったのだから。
核戦争が起きたわけでもない。異星からの侵略者が来たわけでもない。どうしようもない疫病が流行ったわけでもなく、ただ自然が本気を出したから、それだけの理由で人類は滅びようとしている。
形の無い強大な存在に、彼女は怯えながら逃げるしか無かった。きっと、どこかに安全な場所が有る筈──そんな一縷の希望に縋りながら。
降りしきる雨は彼女の身体を冷やし、体力も気力も容赦なく奪い去る。ひび割れに躓き、頭から地面に倒れて鼻が折れた時、彼女は再び立ち上がる事が出来なかった。避けられない死を受け入れようとする心と、何が何でも生きろと叫ぶ本能が、唯華の中でせめぎあう。
際限なく降り続く雨水は、既に用水路から溢れ始めていた。次第に水嵩は増し、地面に寝そべる唯華の身体を押し流す程になる。ここで体力が残っていたら立ち上がってしまっただろうが、彼女は最早流されるままになるしかなかった。それが功を奏し、唯華は溺れる事無く流れに乗る。
近くを流れて来た剥がれた屋根に、彼女は弱々しく掴まった。ごうごうと雨が降る音、まだ続く揺れる地面の叫び声に混じって、色々な人たちが泣き叫んだり、怒鳴り散らしたりするのも聞こえる。水嵩は既に普通の家の二階床程にまでなっており、そしてまだまだ増し続けている。何もかもが海に沈んでしまうのだろうか──回らなくなった頭で、そんな事を考えていた。
身体は、芯の奥まで氷の様に冷たい。骨に直接ドライアイスを押し付けられているような気分であった。唇は既に青紫色で、元々色白な肌は更に不健康的な青白さをかもしている。焦げ茶の髪をサイドテールにしていた髪留めは、既に何かに当たって切れて無くなってしまった。びしょ濡れの髪と制服の肌に張り付く感触が、どうにも気持ち悪い。
濁流の終着点が見え始めた。霞む視界に、ぶつんと途切れる流れが映る。そこには大規模な地割れがあり、濁流が滝のようにそこを流れ落ちているのだ。このまま何もしなければ、唯華は間もなく雨水もろとも地の底へ真っ逆さまだ。
「~っ!!」
目の前に迫る処刑台に、靄に包まれていた思考が、急に現実へ引き戻される。寒さだけではなく恐怖からも来る震えを押さえ込み、屋根をビート板代わりにして、バタバタと流れに逆らい、泳ぐ。しかし水流の力は凄まじく、体育の成績があまりよろしくない彼女のバタ足では、ただ死をほんの僅か遅めるのみであった。
鼻から水を吸ってしまって、思いっきり咳き込む。へし折れた廃材が、彼女の皮膚を引っ掻き、傷つけていく。段々と感覚が揺らいでゆき、夢の中でもがいているような気分になっていた。
そしていつしか抵抗虚しく、流れの終着点まで寄せられて、彼女の戦いは終わりを告げる。浮遊感が有り、唯華は地の底目がけて落下を開始した。水流に加わり重力までもが、彼女を死に追いやる。
この前カラオケに好きな曲が入ったから、それを皆に披露してみたかった。今日の夕飯はカレーだと聞かされていたから、楽しみにしてお腹を空かせていたのに。妹と一緒に、兄に勉強を見てもらう予定もあった。頑張って勉強して、大学に入って、暫く禁制しているゲームをやって。待ち侘びていた小説のシリーズの最新刊が、この夏出る予定だった。あの時注文した漫画セットが、今日届く手筈だった。
後悔と走馬灯が流れる。悲しさと悔しさが溢れて、涙となって顕現したが、降り注ぐ雨水が、いとも簡単に洗い流してしまった。地の裂け目は深く、まだ底が見えない。
地の底に打ち付けられて、潰れたカエルみたいになる前に、唯華は静かに意識を手放した。せめて即死出来る様、下手に生き残って更なる苦しみを味わわずに済む事を、全身全霊で願いつつ。
夜空に、一筋の流れ星が光った。それを見ていた人たちは、皆願い事を呟いたり、こっそり心の中で祈ったりするのだろう。しかし彼らは、その流れ星が落ちていった方向を凝視していた。
ある者は、単純に好奇心。ある者は、ほんの一抹の憐憫。ある者は、何にも勝る自己保身。各々の思惑から、彼らは動き出したのだ。
よろしくお願いします。




