幕間二・踏みにじられた夢の墓標
ラフノーヌの都市、アノレイユ。その片隅の、とある竜の力によって強烈な人避けの結界が張られている岬に、ムゥは訪れていた。
地中海からの風が吹き付けるその岬は、一見すると荒れ果てた場所にしか見えない。ボロボロの墓標と思しき物が有るだけで、それにさえラフノーヌ語で様々な悪口が落書きされている。
ムゥは臼木で買って来た菊の花束を、しかと両手で抱えながら、墓標の前に立った。そして、静かに口を開く。
「開け」
すると、一気に周辺の空気が変化した。荒れ果てていた筈の岬には、他の場所には咲いていない異世界の白い花が咲き乱れ、ボロボロだった筈の墓標も、異界の作法に則った不思議な形の墓石に変化している。
ここは異空間。この墓標の下で眠る者を、心ない人の手から守る為に、とある竜が隠しているのだ。その竜は今は居ないらしく、他の者が供えたらしい花等が有るだけだが。
ムゥは墓標の元に歩み寄ると、手に持っていた菊の花束をそこに供えた。ここで眠る者の正体は、60年程前アルシードに漂着した、“異客”の学者。この者が齎した知識により、“大惨事”が勃発したのだ。
この墓が作られた当初は、多くの心ない者の手によって、墓石は破壊され棺も掘り返され暴かれたりもした。人の世が、“大惨事”を引き起こした責を、たった一人の“客”に全て押し付けたからだ。故に、彼の者の墓は隠された。
“大惨事”の被害者の一人であるムゥは、これまでこの墓に訪れる事が無かった。この“客”さえ居なければ、人間が“大惨事”を引き起こす事もなく、彼が被害を受ける事も無かった──そう考えてしまっていたからだ。だというのに、彼は今、眠る“異客”へ黙祷を捧げている。
最近、彼の考えが急激に変化しているのは、誰の目にも明らかだろう。何が彼を変化させたのか、自身も薄々気が付いている。しかし、それを明確に認識してしまうと、彼の中の矛盾が決定的な物になってしまう──なので、彼は未だに、それについて考える事を後回しにし続けていた。
薄く目を開き、彼はそのまま静かに立ち去ろうとする。しかし、背後からかけられた声がそれを阻む。
「……ん? そこに居るのはもしや、我が同胞“六つ羽根”のムゥではないか?」
振り返れば、如雨露を片手に持った少女の姿がそこに有った。くるくるの長い巻き毛の色は白、フリフリのワンピースの色も露出する肌の色も白。常にじとっとしている半目だけが、ただ異彩の紅を放つ。胸元を飾る歯車を象ったネックレスが、きらりと煌めいた。
「──“ネームレス”」
「あっははっ、いやはや、嬉しいぜ。ムゥがこの子の墓参りに来てくれるなんてな」
“ネームレス”というのが、この全身真っ白な少女を指す呼び名だ。旧き竜──旧竜の一柱であり、この墓標を守り続けている竜でもある。最初の演劇じみた口調を笑い飛ばすようにしつつ、彼女はこちらに歩いて来ると、墓石の隣に如雨露を一旦置き、そして菊の花に目を留めた。
「臼木の花だっけかな、これは」
「……ええ」
「あたしも話は聞いてるぜ? 臼木で“客”を保護したんだっけか」
“ネームレス”はムゥの方に向き直ると、そんな事を言い出した。彼女と出くわした時から、こういう事を言われるのは覚悟していたが、実際に言われると、少しうんざりした気分が出て来る。
「まぁ、そう怖い顔をするなよ。長らく人間嫌いを貫いて来たあんたが、少しでも態度を軟化させてくれた事が嬉しいんだ」
「もう良いデショウ。ワタシは帰りマス」
「帰る場所が出来たのか?」
ムゥは答えない。どう答えれば正解なのか、分からなかったからだ。後ろを向く彼に対し、“ネームレス”は墓標に目を向けながら、言葉を続ける。
「──この子はね、少なくともこの世界を愛していた。自分の知識の危険性を悟り、静かに暮らす事を望んでいた。だけどね……あたしの力が及ばなかった」
ムゥは立ち去る事が出来ず、後ろを向いたまま、“ネームレス”の言葉に耳を傾けていた。彼女は少し声を震わせながら、更に続ける。
「“客”も、その知識も、何も悪い事はしていない。それを悪し様に利用した奴、そいつらだけが悪いんだ。
確かに、この子の齎した技術は、“大惨事”の引鉄となり、多くの惨劇を引き起こした。だけどな、この子は、知識を公開する事すら望んでいなかったんだぜ?
あたしが、もっと気を付けていれば。あたしに、もっと力が有ったならば。後悔は尽きないな……」
「そんな事をワタシに言って、どうするのデス」
「気に留めておいて欲しいんだよ。“客”は悪者じゃない、ってな」
いつの間にか“ネームレス”はしゃがみ込み、慈しむような手つきで墓石を撫で始めていた。ムゥはそれを横目で見ながら、彼女の言葉に対し返答をする。
「……分かりマシタ。努力はしマショウ」
溜め息を吐きながら、ムゥは竜の姿に転変して、そのまま引き留める言葉が届く前に飛び立ってしまった。間もなく彼は物質世界から姿を消し、膜一枚隔てた異次元を通って臼木へと向かう。
物質の束縛を脱ぎ捨てた状態で、彼は“ネームレス”の言葉を反芻する。彼女の言葉は、何も間違っていない。寧ろ、いつまでもぐだぐだと過去に苛まれている、ムゥの方が子供過ぎるのだ。
以前のシィの言葉や、先ほどの“ネームレス”の台詞が、ムゥの思考に絡まって剥がれない。あまりにも煩わしく感じられたので、彼はそれらを纏めてかなぐり捨て、思考の水面下に投げ込んでしまった。
「果たして、随分とまぁ、様々が複雑に絡まり合っている」
“ネームレス”は墓標の前に座って、まるでそこに『誰か』が居るかのように、視線を向け笑顔を作った。潮風が吹き、ふわりと白髪が靡く。
「そうだ。“禍神”と“死神”の封印、上月と風上の歪み、季節外れの“異触”、そして“異客”……どうしようもなく、めんどくさい」
見えない『誰か』と会話をするかの様に、彼女は喋り出した。この現場を他の者が見ていたら、間違いなく彼女を精神病患者か何かと断ずる事だろう。
「はぁ、とりあえず、ラァ辺りに連絡しとっか……“禍神”関連は、確かあの子の管轄だったし。
……ああ、そうだな。いざという時は、あたしも出る。ま、シィにラァまで居れば、あたしの出る幕なんざ、無いと思うがな」
『誰か』と会話する“ネームレス”の表情は、まるで最愛の恋人と話すかのような笑顔であった。透き通る様に白い頬は淡く紅潮し、生来じとっとしている目にも、きらきらとした光が宿り始めている。
「分かってるって。必要ならば出し惜しみはしない。最悪、“禍神”が目覚める可能性だって有るんだから。
あっはは、大丈夫だよ。あたしはまだ死なないから、だから……安心して、ここで待っててくれ」
言いつつ、彼女は立ち上がり、墓石の横に置いていた如雨露を持ち上げた。たっぷりと水が入ったそれを、しかし細腕で軽々と持つ。
そして、彼女は如雨露を傾け、周囲に咲き乱れる異界の白い花へと水をやり始める。白く、しかし花弁の中央部分だけ赤い花々の中で、アルビノの少女が舞う様に水を撒く姿は、まるで花の妖精が踊っている様にも思えた。
地名元ネタ、ラフノーヌ→フランス、アノレイユ→マルセイユ。




