屋上フェンスの向こう側(ケータイ小説風味)
「今夜はいい月が出てるな――」
告げる台詞に意味はない。
こちらの存在を示したかった、
ただそれだけだ。
声をかけるという選択は、どちらかと言えば前向きなそれだった。
前向きというとなにやらポジティブなイメージがあるが、人生そう単純でもないらしい。
たとえばそう、今現在の俺のケース。
声をかけた相手が、振り向きざまに足を踏み外してしまったりするのだ。
その、ビルの屋上の端っこから――。
「なぜ、助けたんですか……?」
「なにを言う、あそこで助けなかったら俺がつき落としたみたいじゃないか」
ひと一人を引き上げるのに使ったエネルギーはとてつもなく、ぜえはあと荒い息をつくのは雑居ビル
の屋上で突っ伏す俺だ。
すぐ横に座り込んでいるのは小柄な少女。
こちらも肩を上下させているのは、瞬間的な恐怖で脈拍が上がったか。
思っていたより幼い、中学生くらいだろうか。
おとなしそうな印象を受ける。艶のある黒髪を肩まで伸ばし、服はジーンズとシャツという軽装。
俺たちがいるのは屋上を囲う緑色のフェンスの外。
日常というには、すこしばかり危険だ。
というか、だ。
「その様子からすると、褒められた理由でフェンスを乗り越えた訳じゃないらしいな」
「そうですね。というか、フェンスを乗り越えるのに褒められた理由なんてあるんですか?」
「男の子にはあるんだ、フェンスの向こうに魅力的な雑誌が落ちてるときとか」
「……よくわかりません」
うむ、無理もない。
さて、ここで会ったのもなにかの縁だ。
毒を食らわば皿まで、なんて言葉もある。ため息を堪えながら、俺は顔を上げた。
「で、なにをしてたんだ?」
「死ぬつもりです」
断言された。
それはもう、業物の日本刀のごとくすっぱりと。
女子中学生に圧倒される男子高校生という構図が出来上がる。
情けないが、無理もない。
誰にだって初めてはあるものだろう。
自殺志願者の相手なんてのは最初で最後であってほしいが。
「さっきは突然だったので反射的にしがみついてしまいましたけど、本当に死ぬつもりですから」
すこしばかり俯いて告げる少女。
なんだろう、照れているのか?
「その、なんだ……理由を聞こうか」
心の中で頭を抱えること暫く。
捻りだしたのはそんな味気のない台詞。
返答は、案外早かった。
「そんなものはありません、面倒になっただけです。生きているのが」
自殺が低年齢化しているなんて話をニュースで見たことがあるが、嘆かわしいことだ。
「生意気なことを聞きますが、貴方は生きている意味を持っているんですか?」
「んなもんを持ってたら、休日の夜にこんな辺鄙な場所には居ないよきっと」
ついでに言うなら、自殺志願の女子中学生に圧倒されたりもしないだろう。
「理由がなくても生きていていいのなら、理由がなく死ぬことだって許されるはずです」
自殺に許す許されないが存在するのかという議論は後回しにした方がいいだろう。
いちおう常識人を自負する俺としては、ここは思いとどまらせる方向に持っていきたいところだ。
というか、流石にこの会話の後にじゃあさようならということでアスファルトにダイビングなんてこ
とはないと思いたい。
万が一にもそんなことになるのなら、とりあえずこの場は抱えてでも警察に預けることになる。
改心させられればなにより、ただそれを望むのは慢心になるだろう。
コンクリートの上にぺたんと座り込み、アンニュイな視線を遠くのネオンに向ける少女。このままフ
ィルムに収めたらなかなか芸術的かもしれない。
まあ、見惚れるのは後回しにしてだ。
「んじゃまあ、少し説教をするわけだが――」
背中をフェンスに預け、俺はろくに星も見えない夜空へと顔を向ける。
「たとえばあれ、400トンの鉄の塊が10キロ彼方を飛んでる」
頭上、指さした先には夜空に瞬く小さな光。
ゆっくりと移動するそれは旅客機の航空灯だ。数字は適当だがここの上空は国際線の航空路、大きく
はずれてはいないはず。
横の少女が俺の指さしたものを見つけた頃合いで話を進める。
「すごいとは思わないか? ちなみに世界一早い飛行機はここから文坂さん宅まで3分23秒で着く」
「とりあえず、文坂さん宅の住所を教えてもらえれば速さに驚くことはできるかもしれませんが」
きっと理系だなこの少女は、なんてことを思いつつ。
「まあ、文坂家のことはこのさいどうでもいい」
「住所から航空機の移動距離を求めるのも大変ですから、そうしてもらえると助かります」
「……数学得意だろ?」
「算数のテストならいつも満点です」
俺だって算数までなら点数に不自由しなかった。
どこか得意げな眼差しを向けてくる少女はそのまま視線を外さない。いちおう聞いてはみるつもりな
のだろうと解釈する。
「人を航空機に例えて考えてみるとだな、旅客機が指導者なら、超音速機は天才って呼ばれるような人
間だ。他にもスペースシャトルとか極超音速機なんてのもあるが、まあ一般的なのは小型とか中型のセ
スナってとこだろう――イメージつくか?」
「乗せられる許容量や、性能という面で?」
僅かに首を傾げる少女に首肯を返し、続ける。
「ふつうは、自分が決めた目的地とか、前と信じる方向に向かって飛び続ける。途中で燃料が尽きるか
もしれないし、とんでもない嵐が待ってるかもしれないが、そんなものは誰にも分からない。ただ飛び
続けるんだ」
「そんなの、不安じゃないんですか?」
「不安のない人生なんてないだろ。たまに性能の良いレーダー積んでる奴とか、懇切丁寧な航空路図持
ってる奴とかいるけどな――ま、無い物ねだりは良くない」
「でまあ、俺やキミみたいな人間はさ。たぶんグライダーみたいなもんなんだよ。
気流を読むセンスさえあれば、燃料なんか気にせず飛んでいられる。
どこかを目指しているわけじゃないから、嵐が見えたら避けていけばいいし、誰かと競争する必要も
ない。
風を捕まえるセンスも、軽くて大きい翼だってなかなか望んで得られるものじゃない。
だけど、グライダーで嵐を乗り越えることはできないし、風のないところで高度を上げることも不可
能だ。
ただ風の流れに任せて、のんびりと漂うだけ。
つらいことは、そんなに無い」
「ただ、飽きるだけ――」
ぽつり、と。
俺の言葉を継ぐように、少女の口からそんな言葉が漏れる。
「動力のないグライダーにも、常に与えられている選択肢がある――」
手元に転がっていたコンクリートの欠片を放り投げれば、すこしあとに響くのはかすかな堅い反響。
「引力は常に働いている。
機首を真下に向ければ、普段なら絶対に得られないような加速と、明確で迅速な終着が訪れる。
こいつが魅力的なのは、まあ否定しないさ。
でも、そんな事はいつでもできる。
急ぐことはない、って考えることはできないか?」
「キミが牽引フックを切り捨てずにいれば、もっと遠くへ連れていってくれる物好きが現れるかもしれ
ない。
もしかしたら、きみにも動力がつく日が来るかもしれない。
希望を持てなんて無責任なことは言わない。
そういう日が来る前に操縦できなくなるかもしれないし、突然翼が折れることだってある。
でもキミはまだ飛べる、それができるうちはまだ止めない方がいい。
雲の中は視界が悪いかもしれないが、いつか雲を抜けるかもしれないし、なにかの拍子に雲の上に出
られるかもしれない。
雲海って見たことあるか? 見事なものだ。まだならいちど山へ登った方がいい」
途中からなにが言いたいのかよくわからなくなったが、これはあれだ。
雲海のすばらしさというものを伝えたかったかもしれない。
日本人なら、一生に一度は御来光を拝むべきなのだ。
とりあえず富士山に登ったことがあるかどうかを尋ねようとしたところで、なにやら熱心な視線に俺
の質問は喉の手前で撃墜される。
「貴方も、グライダーだと言いましたよね?」
小さな夜景の映り込む瞳が一度閉じ、ゆっくりと開いたそこには俺が映っていた。
うむ、瞳の中の俺はとても眠そうだ。
「貴方は、なにを考えながら飛び続けているんですか?」
「いやなに、グライダーなりに目的地を目指してみようかと思ってね。
とんでもない回り道になってたりするが、逸れた先でこんな感じに妙な出会いもあったりしてそれな
りに楽しめる」
「私も、見てみたいです」
「グライダーなら、一緒に飛ぶこともできるはずですよね。
私も見てみたいです。貴方が見る景色。
貴方の飛び方を見ながら、もう少し飛び続けたいと思いました」
音もなく立ち上がる少女は、一歩でも後ろに下がればつい先ほどの決意をそのまま実行すると言うこ
とに気づいているのかいないのか。
「貴方を追いかけてみても、いいですか?」
差し出される小さな手を見て、どうやら告白のようなニュアンスらしいと気づく俺。
少しばかり遊体離脱して今の状況を俯瞰して、そして思う。
なにやら、脅迫されているような気もするが――
差し出された手を振り払う理由も思い当たらず、それを握り返した瞬間に浮かぶ少女の笑みを見れば
、間違いでは無いという思いも湧いたりする。
「――なんてまあ、事実間違いだったわけだけどな、アレ」
「なにが間違いなのよ、すごく運命的じゃない。
6個パックの卵がぜんぶ二黄卵よりもロマンティックよ」
10のマイナス18乗よ、などと彼女は得意げに鼻を鳴らす。
相変わらずの理系脳らしい。
「刹那の確率と言えば、まあ聞こえは良いな」
まあしかし、と。
彼女の腕で平和に寝息を立てる娘の頭を撫でつつ、しかし嘆息は堪えきれない。
「この子が中学生くらいになって、俺とおまえの出会いの話なんかに興味を持ってみろ」
もちろん、俺は自白剤を打たれでもしない限り教えない覚悟はある。
だが、この女は話す。嬉々として話す、むしろ自分から言って聞かせるかも知れない。
「べつにいいじゃない? 今時ふつうよこのくらい」
いや違う、断じて違う。
頭の固いぱぱですねーなとど笑う彼女は、
俺より5歳年下で、その差というのはつまり――
「年齢確認は大事、これ絶対」
娘には、よく言って聞かせようと心に刻む。