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「幼馴染が熱を出したので」と九回約束を破った婚約者へ。十回目の約束は、その幼馴染と交わしました

掲載日:2026/10/08

 九回目の「幼馴染が熱を出したので」は、婚礼の日取りを決める晩餐の、スープが冷めたころに届いた。

 従僕が銀の盆に載せて運んできた手紙は、いつもと同じ薄い紙で、いつもと同じ筆跡だった。封を切る前から、中身は分かっていた。

『パロマがまた熱を出した。そばについていてやらねばならない。日取りのことは、また改めて。君なら分かってくれると信じている。 アドリアン』

 卓の向こうで、ビジャセカ伯爵夫妻が顔を見合わせた。伯爵夫人が先に目を伏せ、伯爵が咳払いをした。

「あれは、昔から情の深い子でしてな」

 わたしの隣で、椅子の脚が石の床を擦った。

 父が立とうとしていた。右手を卓につき、左手はもう、壁に掛けた剣のほうへ伸びている。立ち上がる途中で、右の膝が乾いた音を立てた。若いころ三度決闘に勝った膝は、いまはもう曲がらない。

「お父様」

 わたしは父の袖に手を置いた。

「熱は、誰のせいでもありません」

 父は長いあいだ、わたしを見ていた。それから、ゆっくりと椅子に戻った。膝を伸ばしたまま。椅子の背には、去年から手放せなくなった杖が掛けてある。

「マリベル」

 低い声だった。

「十回目があれば、わしが行く」

 ソルレアルでは、婚約を一方的に破られた家の男は、相手に決闘を申し込める。西のどの国でも許されていないことが、この国では名誉の名のもとに許されている。伯爵夫妻にも、その意味は分かったはずだ。二人とも、それきりスープに手をつけなかった。


 その夜、付き添い婦人のレメディオスが、わたしの髪を梳きながら指を折った。

「誕生日の観劇。聖マリナの日の礼拝。お母上の命日のミサ。それから――」

「数えなくていいわ」

「数えますとも。婦人の仕事は、お嬢様が殿方と二人きりにならないよう見張ることと、殿方が約束を守ったかどうか覚えておくことです」

 レメディオスは六十を越えている。母が嫁いできたときから、この家にいる。口が悪く、目がいい。

「九回でございます」

 婚約者どうしでも、この国では付き添いなしには会えない。だから会う日は、何日も前から約束する。付き添いの都合を合わせ、場所を決め、着ていくものを選ぶ。その一つ一つを、アドリアン様は九回、同じ一行で取り消した。

「お嬢様。それほど熱を出すお嬢さんなら、お見舞いくらい差し上げるのが礼儀でございましょう」

 鏡の中で、レメディオスがわたしを見ていた。

 わたしは文机の引き出しを開けた。八通の手紙が、届いた順に重ねてある。捨てられなかった。捨てたら、怒っていることを自分に認めてしまう気がした。

 九通目を、その上に重ねた。

「明日、お見舞いに行きます」


    ◇


 エスカランテ家は、王都の古い坂の上にあった。

 門の石は欠け、紋章は風に削られて読めない。けれど中庭の敷石はきれいに掃かれ、噴水の水は澄んでいた。

 見舞いの籠を抱えたわたしの頭の上から、声が降ってきた。

「そこ、瓦が落ちるかもしれないから、一歩下がって」

 見上げると、梯子のてっぺんに娘がいた。袖をまくり上げ、スカートの裾を腰で縛り、割れた瓦を一枚外して、新しい一枚を差し込んでいる。日に焼けた腕。額の汗。

「どちら様?」

「モンテローサのマリベルと申します。パロマ様のお見舞いに伺いました。お熱だと聞いて」

 娘は瓦を持ったまま、首をかしげた。

「わたしがパロマだけど」

 梯子の上で、パロマ・エスカランテは本当に不思議そうな顔をした。

「熱? 今年は一度も出してないわ」


 中庭の日陰で、パロマは井戸の水を汲んで、わたしと自分に一杯ずつ注いだ。

「子どものころは、よく熱を出したの。十くらいまで。母はいまでもそのつもりでいるけど」

「アドリアン様とは」

「幼馴染よ。兄とわたしと、三人でよく遊んだ。でも、もう半年は顔を見てないわ」

 半年。わたしは膝の上で手を握った。この半年に、九回のうちの六回が入っている。

「看病に来てくださったことは」

「一度もないわ。来られても困るもの、熱がないんだから」

 パロマは笑ったが、すぐに笑うのをやめた。わたしの顔を見たのだと思う。

「……あの人、わたしの名前を使ってたの?」

 わたしは頷いた。

 パロマは黙って、杯の水を見ていた。

「最近ね、縁談が来ないの。来ても、話が進む前に消えるの。理由はいつも同じ。『あの家の娘は病弱だから』。母はそれを聞いて、ますますわたしを外に出さなくなった」

 それから、ぽつりと言った。

「どこからそんな噂が立つのか、ずっと分からなかった」

 そのとき、門の上の鐘が三つ鳴った。

 鳴り終わるのと同時に、戸を叩く音がした。

「兄よ。三時に帰ると言ったら、三時に帰ってくる人なの」

 入ってきたのは、黒い上着に鞄を提げた、背の高い青年だった。パロマに似た目をしている。わたしに気づくと、驚いたように足を止め、それから丁寧に頭を下げた。

「トマス・エスカランテです。施療院(せりょういん)で医師をしております」

 貴族の家の嫡男が医師になるのは、この国では珍しい。坂の下で、母君がそれを恥じているという噂を聞いたことがある。

 パロマが事情を話すと、トマス様は鞄を置いて、まっすぐわたしを見た。

「妹は、十のときから一度も熱を出していません。私が毎朝、脈を取っていますから、確かです」

 それから、わたしの手首のほうへ、癖のように指を伸ばしかけて、止めた。

「失礼。お顔の色が悪いので、つい」

「熱はありません」

「ええ。見れば分かります。……ですが、脈は速そうだ」

 真面目な顔でそう言うので、わたしはどう返していいか分からなかった。


    ◇


 わたしは籠の底から、九通の手紙を出した。

 なぜ持ってきたのか、自分でも分からない。たぶん、確かめたかったのだ。九回とも本当に熱だったのか、それとも、わたしが何か思い違いをしているのか。

 届いた順に、日陰の卓に並べた。日付はすべて、わたしが書き添えてある。

 トマス様が、一通ずつ日付を読んだ。四通目で、指が止まった。

「この夜は、当直の帰りでした」

 六通目、七通目、九通目。

「どれも、夜遅くに施療院を出た日です。帰り道に、ソリス男爵家の前を通ります。……窓の下で、ギターを弾いて歌っている男がいました」

「歌?」

「子どものころ、三人で歌った歌です。だから、足が止まった。誰の声かも、分かっていました」

 ソリス男爵家は、南の港の船主だ。去年、令嬢のグラシア様が社交界に出たとき、その持参金の額が王都じゅうの噂になった。

 パロマが、ふっと息を吐いた。

「あの人、昔からそうなの。断りたいことがあると、相手に先に断らせるの。自分は悪くない顔をしたまま」

 婚約は、理由なく破った側が違約金を払う。破られた家の男は、決闘を申し込める。アドリアン様が自分から婚約を破れば、違約金を払い、モンテローサ家に剣を向けられる。わたしのほうから破れば、どちらもない。

 病気の幼馴染を看る優しい人のまま、婚約者に愛想を尽かされた気の毒な人になれる。

「――父が」

 声が震えた。

「十回目があれば、決闘を申し込むと言いました」

 二人が、わたしを見た。

「わたしが怒ったら、父は剣を取ります。だから、怒らないようにしてきました」

 しばらく、噴水の音だけがしていた。

 パロマが、卓の上の九通を揃えて、わたしのほうへ押し戻した。

「じゃあ、こうしましょう」

 その目は、梯子の上にいたときと同じ目だった。

「次にあの人が『パロマが熱を出したので』と書いてきたら、その夜、わたしはあなたの隣にいる。熱のない顔で」

「でも、それで父が」

「お父様には剣を取らせない。それも約束に入れる。どうすればいいかは、一緒に考えるの」

 わたしは、膝の上の扇を見た。

 ソルレアルの娘は、口で言えないことを扇で言う。開けば「待っています」。顔の半分を隠せば「後で会いましょう」。

 わたしはこの一年、アドリアン様の前で、扇をゆっくり開いてばかりいた。

 扇を、左手に持ち替えた。

「ほかの人と約束がある」という意味だ。

 パロマがそれを見て、笑った。

「十回目の約束ね」


    ◇


 けれど、先に動いたのはアドリアン様だった。

 二日後、レメディオスが茶会から青い顔で帰ってきた。

「お嬢様が、熱のある幼馴染の家に押しかけて、病人を問い詰めた――と。嫉妬に駆られて。おかげでパロマ様の熱がまた上がった、と。アドリアン様が、それはそれはお辛そうに話しておられたそうで」

 王都の噂は速い。茶会で話されたことは、その夜には使用人どうしの口を渡り、翌朝には市場に着く。

 日曜の礼拝では、いつも隣に座る子爵夫人が、一つ離れた席に移った。帰りの石段で、顔見知りの令嬢たちが扇で口元を隠し、わたしが近づくと、そろって扇を閉じて背を向けた。

 扇を相手に向けて閉じれば「お断り」。背を向けて閉じるのは、もっと冷たい。「あなたとは話さない」。

 石段の下で、年配の伯爵夫人が、わたしにだけ聞こえる声で言った。

「病人には、優しくなさいませ。殿方は、優しい娘を好むものよ」

 わたしは頭を下げた。下げる理由はなかったけれど、ほかに何をすればいいのか分からなかった。

 三日目に、アドリアン様が来た。両腕に抱えきれないほどの白い薔薇を持って。

「マリベルが心配するのも、無理はありません。僕が至らなかったのです」

 父の前で、アドリアン様は膝をつかんばかりに頭を下げた。

「パロマは体が弱い。放っておけない僕を、どうか許してください。マリベルのことも、僕は責めません」

 何を責めないというのだろう。

 わたしが口を開く前に、父が言った。

「マリベル。嫉妬は、家の名を汚す」

 父の声は、晩餐の夜よりも低かった。

「病人の家に押しかけるなど、モンテローサの娘のすることではない」

「お父様、パロマ様は」

「謝りなさい」

 アドリアン様が、悲しそうに微笑んでいた。わたしにだけ見える角度で。

 わたしは謝らなかった。けれど、黙った。黙れば、父は剣のことを思い出さない。

 その夕方、エスカランテ家から短い手紙が来た。トマス様の字だった。

『母が噂を信じ、パロマを部屋に閉じ込めました。私の話は聞きません。申し訳ありません』


 夜、鏡の前で、わたしは自分の顔を見た。

 わたしは、本当に妬んでいなかったのだろうか。

 パロマに会いに行ったのは、本当に見舞いのためだったのだろうか。アドリアン様が大事にしている人を、確かめたかっただけではないのか。九通も手紙を取っておいたのは、いつか誰かに見せて、自分が正しいと言ってもらいたかったからではないのか。

 そうかもしれない、と思った。そう思うほうが、楽だった。

「お嬢様」

 レメディオスが、戸口に立っていた。

「九回でございます」

 指を、一本ずつ折っていく。

「妬みで、九回は数えません。妬む娘は、一回目で泣いて、二回目で怒鳴って、三回目で殿方の馬車に石を投げます。九回、黙って手紙を重ねる娘はおりません」

 レメディオスは、折った指をわたしの前で開いてみせた。

「数えるのは、婦人の仕事でございますからね」


    ◇


 四日目、父の膝が腫れた。

 晩餐の夜に無理に立ったせいだ、と侍医は言い、そのあとで、施療院のエスカランテ先生が膝に詳しいそうです、と付け加えた。父はしぶしぶ頷いた。

 トマス様は、約束の十時ちょうどに来た。

 父の膝を両手で包み、ゆっくりと曲げようとして、止めた。父が歯を食いしばったからだ。

「剣を構えて立っていられるのは、数分でしょう」

 診察のあと、廊下でトマス様は低い声でわたしに言った。

「アドリアンは、王都で名の通った使い手です。子どものころから、剣でだけは一度も負けたことがない」

「……決闘になったら」

「決闘で決まったことは、二度と蒸し返せません。勝った側の言い分が、名誉の上では正しいことになる」

 それで、すべてがつながった。

 アドリアン様が待っているのは、わたしが婚約を破ることだけではない。

 父が剣を取ることも、待っている。

 どちらでもいいのだ。わたしが破れば、違約金も決闘もない。父が申し込めば、アドリアン様は受けて、勝つ。違約金も払わず、恥も負わず、すべては名誉の上で片がつく。そして、父は死ぬ。

 十回目の手紙は、父を呼ぶための手紙だ。

「妹は、部屋から出られません」

 トマス様は、そう言ってから、少し言葉を探した。

「ですが、この国には、付き添い婦人がついていれば、令嬢の外出を家の者も咎めにくい、という決まりがあります。体面のために」

 廊下の角で、レメディオスが、聞こえないふりをして花瓶の向きを直していた。

「どうして、医師に」

 気づいたら、そう尋ねていた。

 トマス様は少し考えてから、答えた。

「妹が、小さいころによく熱を出したからです。夜中に医師を呼びに走っても、来てくれる人は少なかった。来ると言って、来ない人もいた」

 淡々とした声だった。

「施療院では、約束を一度破ると、患者は次から来なくなります。来なくなった人が、どうなるかは分からない。だから、時刻だけは守ることにしています。ほかに取り柄もありませんので」

 それは取り柄です、と言いかけて、やめた。言えば、自分がこの九回、何を欲しかったのかを口にしてしまう気がした。

 帰り際、トマス様は玄関で振り返った。

「次は、三日後の十時に、膝を診に参ります」

 三日後の十時、呼び鈴が鳴った。

 ちょうどに。


    ◇


 ソリス男爵家から、夜会の招待状が届いた。

 アドリアン様から、手紙も届いた。熱の手紙ではなかった。

『ソリス家の夜会には、僕が君に付き添おう。久しぶりに踊ろう。必ず迎えに行く』

 十回目の約束だった。

 パロマからは、何の知らせもなかった。部屋に閉じ込められたままなのだろう。手紙を送っても、母君が先に開けてしまう。

 わたしは九通の手紙を、絹の手提げの底に入れた。何に使うのか、まだ決めていなかった。ただ、置いていく気になれなかった。

 夜会の前の晩、父は居間で剣を磨いていた。何十年も抜いていない剣だった。布が刃の上を往復する音が、廊下の向こうまで聞こえていた。

 夜会の日、迎えの馬車は来なかった。

 父とわたしは、父の馬車でソリス家へ向かった。父は杖をつき、剣を佩(は)いていた。止めても聞かなかった。正装には剣がつきものだ、と言って。

 レメディオスは、出がけに「少し用を足してから参ります」と言って、別の辻馬車に乗った。

 ソリス家の広間は、港の富をそのまま壁に塗ったようだった。シャンデリアの火が、磨いた床に映って揺れている。

 楽団が二曲目を始めたころ、従僕が銀の盆を持ってわたしの前に来た。

『パロマが熱を出したので、遅れます。 アドリアン』

 父が、杖を椅子に立てかけた。

「十回目だ」

 父の手が、剣の柄にかかった。


    ◇


 アドリアン様が広間に入ってきたのは、三曲目の途中だった。

 髪が少し乱れ、目の下にうっすらと影がある。疲れた顔だった。夜通し誰かを看病してきた人の顔。

 すぐに、夫人たちの輪ができた。

「まあ、またあのお嬢さんが?」

「ええ。今夜はひどくて」

 アドリアン様は、悲しげに首を振った。

「熱が下がるまで、ずっと手を握っていました。あの子は、僕がいないと眠れないので」

 同情のため息が、輪の中に広がった。何人かが、ちらりとわたしのほうを見た。嫉妬深い婚約者のほうを。

 そのとき、輪の後ろから声がした。

「どなたの手を?」

 輪が、割れた。

 パロマが立っていた。

 淡い黄色のドレス。結い上げた髪から、ひと筋だけほつれている。頬が赤い。熱のせいではない。さっきまで、広間の向こうで踊っていたのだ。

 その斜め後ろに、黒い服のレメディオスが、背筋を伸ばして立っていた。付き添い婦人の顔で。

「今夜は、ずっとここにいたわ。踊ってたの。三曲」

 パロマは、まっすぐアドリアン様を見た。

「わたし、あなたに手を握ってもらったことなんて、十二のときの川遊びが最後よ」

 広間が、静まり返った。楽団が、一人ずつ弓を止めていった。

 アドリアン様は、一歩、パロマのほうへ出た。

「パロマ。熱があるのに、無理をして……」

 額に手を伸ばそうとした。

 その手首を、横からつかんだ人がいた。いつの間にか、パロマの後ろに来ていた、黒い上着の青年。トマス様だった。鞄を提げたまま、息を切らしている。

「脈を取りましょうか。皆様の前で」

 トマス様は、アドリアン様の手首を放さずに言った。

「妹のでも、あなたのでも」

 アドリアン様は手を引いた。顔から、疲れが消えていた。代わりに、何もない顔になった。

「どうして、ここに」

 かすれた声に答えたのは、レメディオスだった。

「付き添い婦人がついておりますので」

 背筋を伸ばしたまま、レメディオスは言った。

「奥様には、きちんと名乗りましたとも。付き添い婦人のレメディオス、と。どちらの家の、とはお尋ねになりませんでしたので。ソリス家の夜会にお嬢様をお連れいたします、と申し上げましたら、それはそれはお喜びで。病弱な娘が男爵家の夜会に出られるなど、思ってもみなかったと」

 エスカランテ家にも、招待状は届いていたのだ。病弱な娘には無理だと、母君が暖炉の上に伏せておいた一通が。

 父が、前へ出た。

 膝を引きずり、剣の柄を握って。

「ビジャセカの」

「――ドン・ベニート」

 アドリアン様が、父のほうへ向き直った。その口元に、ほんの少しだけ、笑みが浮かびかけて、消えた。わたしはそれを見た。

 受けるつもりだ。

「お待ちください」

 トマス様が、父とアドリアン様のあいだに出た。

「妹の名を嘘に使われたのは、エスカランテの名誉の問題です。申し込むなら、私が」

 剣を持ったことなどない人が、そう言った。

 父が、トマス様が、アドリアン様が、わたしを見ていた。

 広間じゅうの人が、わたしを見ていた。


 わたしは、扇を見た。

 黙っていれば、父が申し込む。婚約はアドリアン様の落ち度で終わる。モンテローサの名誉は守られる。そして父は、数分で膝を折る。

 父を止めれば、トマス様が申し込む。

 どちらも止めるには、方法が一つしかなかった。

 決闘を申し込めるのは、破られた側の男だけだ。

 わたしは、扇を閉じた。

 閉じた扇の先を、アドリアン様に向けた。

「お断り」という意味だ。

「この婚約は、わたくしが破ります」

 誰かが息を呑む音がした。

「お父様。破ったのは、わたくしです。モンテローサ家は、破られた側ではございません。ですから、剣を取る理由はございません。トマス様も」

 父の手が、剣の柄の上で止まった。

「違約金は、お支払いいたしません」

 わたしは、手提げから九通の手紙を出して、近くの卓に並べた。届いた順に。日付を上にして。

「アドリアン様は九回、パロマ様の熱を理由に約束をお取り消しになりました。十回目は、今夜です。パロマ様は、今夜ここで踊っておられました。パロマ様のお兄様は医師で、妹は十のときから熱を出していないと申しております。婚約を破られる理由がおありなのは、どちらでしょう」

 それ以上は、言わなかった。

 嘘をついたとも、ソリス家の窓の下で歌っていたとも、言わなかった。言わなくても、卓の上の九通と、パロマの赤い頬が、広間じゅうに見えていた。

 アドリアン様は、何か言おうとした。

 それから、広間の奥のほうへ目をやった。

 ソリス男爵家の令嬢、グラシア様が立っていた。彼女はアドリアン様と目が合うと、手にした扇を、彼に向けてゆっくりと閉じた。

 ソルレアルの娘なら、誰でも知っている仕草だった。


    ◇


 帰りの馬車は使わず、父とわたしは、ソリス家の門から少しのあいだ歩いた。父がそうしたいと言ったのだ。

 父は膝を引きずっていた。わたしは隣を歩いた。

 自分から婚約を破った娘、という名は、この国では一生ついて回る。明日には市場に着くだろう。縁談は、もう来ないかもしれない。

「わしは」

 しばらく歩いてから、父が言った。

「剣でしか、娘を守れんと思っていた」

 父は、それきり黙った。わたしの手を、一度だけ握った。


 噂は、思ったとおり翌朝には市場に着いた。ただ、中身は思っていたのと少し違った。

 自分から婚約を破った娘。そこまでは同じだった。その後ろに、九通の手紙と、夜会で踊っていた「病弱な娘」の話がついていた。噂は速いが、日付と証人に弱い。

 ビジャセカ家からは、三日後に解約書が届いた。違約金の欄は、空白のままだった。アドリアン様が、その後どこの夜会に招かれたのか、わたしは知らない。ソリス家の窓の下で歌が聞こえなくなったことだけは、トマス様から聞いた。

 エスカランテ家の母君は、パロマの部屋の鍵を、娘に返したそうだ。

 五日後、レメディオスが、一通の手紙を持ってきた。

「エスカランテの若先生が、木曜の三時に伺ってよいか、と。お父上の膝ではなく、お嬢様に」

 レメディオスは、意味ありげに指を一本立てた。

「付き添いは、わたくしがいたします。数えるのは婦人の仕事でございますからね。一回目」

 木曜の三時、呼び鈴が鳴った。

 ちょうどに。

 戸を開けると、トマス様が花も持たずに立っていた。持ってくるものが思いつかなかった、という顔で。その後ろから、パロマが顔を出した。

「熱はありません。今日は、見張り」

 わたしは、扇を左手に持ち替えた。

 十一回目の約束は、三時ちょうどに鳴った呼び鈴で始まった。


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― 新着の感想 ―
アドリアンが一番グズなのは当然として 次にグズなのがパロマの母、噂で聞いたから娘は病弱だって?一緒に暮らしてて娘の健康状態もわからないのか…… 娘への手紙はチェックしますが娘の顔色は知りませんとか、病…
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