「幼馴染が熱を出したので」と九回約束を破った婚約者へ。十回目の約束は、その幼馴染と交わしました
九回目の「幼馴染が熱を出したので」は、婚礼の日取りを決める晩餐の、スープが冷めたころに届いた。
従僕が銀の盆に載せて運んできた手紙は、いつもと同じ薄い紙で、いつもと同じ筆跡だった。封を切る前から、中身は分かっていた。
『パロマがまた熱を出した。そばについていてやらねばならない。日取りのことは、また改めて。君なら分かってくれると信じている。 アドリアン』
卓の向こうで、ビジャセカ伯爵夫妻が顔を見合わせた。伯爵夫人が先に目を伏せ、伯爵が咳払いをした。
「あれは、昔から情の深い子でしてな」
わたしの隣で、椅子の脚が石の床を擦った。
父が立とうとしていた。右手を卓につき、左手はもう、壁に掛けた剣のほうへ伸びている。立ち上がる途中で、右の膝が乾いた音を立てた。若いころ三度決闘に勝った膝は、いまはもう曲がらない。
「お父様」
わたしは父の袖に手を置いた。
「熱は、誰のせいでもありません」
父は長いあいだ、わたしを見ていた。それから、ゆっくりと椅子に戻った。膝を伸ばしたまま。椅子の背には、去年から手放せなくなった杖が掛けてある。
「マリベル」
低い声だった。
「十回目があれば、わしが行く」
ソルレアルでは、婚約を一方的に破られた家の男は、相手に決闘を申し込める。西のどの国でも許されていないことが、この国では名誉の名のもとに許されている。伯爵夫妻にも、その意味は分かったはずだ。二人とも、それきりスープに手をつけなかった。
その夜、付き添い婦人のレメディオスが、わたしの髪を梳きながら指を折った。
「誕生日の観劇。聖マリナの日の礼拝。お母上の命日のミサ。それから――」
「数えなくていいわ」
「数えますとも。婦人の仕事は、お嬢様が殿方と二人きりにならないよう見張ることと、殿方が約束を守ったかどうか覚えておくことです」
レメディオスは六十を越えている。母が嫁いできたときから、この家にいる。口が悪く、目がいい。
「九回でございます」
婚約者どうしでも、この国では付き添いなしには会えない。だから会う日は、何日も前から約束する。付き添いの都合を合わせ、場所を決め、着ていくものを選ぶ。その一つ一つを、アドリアン様は九回、同じ一行で取り消した。
「お嬢様。それほど熱を出すお嬢さんなら、お見舞いくらい差し上げるのが礼儀でございましょう」
鏡の中で、レメディオスがわたしを見ていた。
わたしは文机の引き出しを開けた。八通の手紙が、届いた順に重ねてある。捨てられなかった。捨てたら、怒っていることを自分に認めてしまう気がした。
九通目を、その上に重ねた。
「明日、お見舞いに行きます」
◇
エスカランテ家は、王都の古い坂の上にあった。
門の石は欠け、紋章は風に削られて読めない。けれど中庭の敷石はきれいに掃かれ、噴水の水は澄んでいた。
見舞いの籠を抱えたわたしの頭の上から、声が降ってきた。
「そこ、瓦が落ちるかもしれないから、一歩下がって」
見上げると、梯子のてっぺんに娘がいた。袖をまくり上げ、スカートの裾を腰で縛り、割れた瓦を一枚外して、新しい一枚を差し込んでいる。日に焼けた腕。額の汗。
「どちら様?」
「モンテローサのマリベルと申します。パロマ様のお見舞いに伺いました。お熱だと聞いて」
娘は瓦を持ったまま、首をかしげた。
「わたしがパロマだけど」
梯子の上で、パロマ・エスカランテは本当に不思議そうな顔をした。
「熱? 今年は一度も出してないわ」
中庭の日陰で、パロマは井戸の水を汲んで、わたしと自分に一杯ずつ注いだ。
「子どものころは、よく熱を出したの。十くらいまで。母はいまでもそのつもりでいるけど」
「アドリアン様とは」
「幼馴染よ。兄とわたしと、三人でよく遊んだ。でも、もう半年は顔を見てないわ」
半年。わたしは膝の上で手を握った。この半年に、九回のうちの六回が入っている。
「看病に来てくださったことは」
「一度もないわ。来られても困るもの、熱がないんだから」
パロマは笑ったが、すぐに笑うのをやめた。わたしの顔を見たのだと思う。
「……あの人、わたしの名前を使ってたの?」
わたしは頷いた。
パロマは黙って、杯の水を見ていた。
「最近ね、縁談が来ないの。来ても、話が進む前に消えるの。理由はいつも同じ。『あの家の娘は病弱だから』。母はそれを聞いて、ますますわたしを外に出さなくなった」
それから、ぽつりと言った。
「どこからそんな噂が立つのか、ずっと分からなかった」
そのとき、門の上の鐘が三つ鳴った。
鳴り終わるのと同時に、戸を叩く音がした。
「兄よ。三時に帰ると言ったら、三時に帰ってくる人なの」
入ってきたのは、黒い上着に鞄を提げた、背の高い青年だった。パロマに似た目をしている。わたしに気づくと、驚いたように足を止め、それから丁寧に頭を下げた。
「トマス・エスカランテです。施療院で医師をしております」
貴族の家の嫡男が医師になるのは、この国では珍しい。坂の下で、母君がそれを恥じているという噂を聞いたことがある。
パロマが事情を話すと、トマス様は鞄を置いて、まっすぐわたしを見た。
「妹は、十のときから一度も熱を出していません。私が毎朝、脈を取っていますから、確かです」
それから、わたしの手首のほうへ、癖のように指を伸ばしかけて、止めた。
「失礼。お顔の色が悪いので、つい」
「熱はありません」
「ええ。見れば分かります。……ですが、脈は速そうだ」
真面目な顔でそう言うので、わたしはどう返していいか分からなかった。
◇
わたしは籠の底から、九通の手紙を出した。
なぜ持ってきたのか、自分でも分からない。たぶん、確かめたかったのだ。九回とも本当に熱だったのか、それとも、わたしが何か思い違いをしているのか。
届いた順に、日陰の卓に並べた。日付はすべて、わたしが書き添えてある。
トマス様が、一通ずつ日付を読んだ。四通目で、指が止まった。
「この夜は、当直の帰りでした」
六通目、七通目、九通目。
「どれも、夜遅くに施療院を出た日です。帰り道に、ソリス男爵家の前を通ります。……窓の下で、ギターを弾いて歌っている男がいました」
「歌?」
「子どものころ、三人で歌った歌です。だから、足が止まった。誰の声かも、分かっていました」
ソリス男爵家は、南の港の船主だ。去年、令嬢のグラシア様が社交界に出たとき、その持参金の額が王都じゅうの噂になった。
パロマが、ふっと息を吐いた。
「あの人、昔からそうなの。断りたいことがあると、相手に先に断らせるの。自分は悪くない顔をしたまま」
婚約は、理由なく破った側が違約金を払う。破られた家の男は、決闘を申し込める。アドリアン様が自分から婚約を破れば、違約金を払い、モンテローサ家に剣を向けられる。わたしのほうから破れば、どちらもない。
病気の幼馴染を看る優しい人のまま、婚約者に愛想を尽かされた気の毒な人になれる。
「――父が」
声が震えた。
「十回目があれば、決闘を申し込むと言いました」
二人が、わたしを見た。
「わたしが怒ったら、父は剣を取ります。だから、怒らないようにしてきました」
しばらく、噴水の音だけがしていた。
パロマが、卓の上の九通を揃えて、わたしのほうへ押し戻した。
「じゃあ、こうしましょう」
その目は、梯子の上にいたときと同じ目だった。
「次にあの人が『パロマが熱を出したので』と書いてきたら、その夜、わたしはあなたの隣にいる。熱のない顔で」
「でも、それで父が」
「お父様には剣を取らせない。それも約束に入れる。どうすればいいかは、一緒に考えるの」
わたしは、膝の上の扇を見た。
ソルレアルの娘は、口で言えないことを扇で言う。開けば「待っています」。顔の半分を隠せば「後で会いましょう」。
わたしはこの一年、アドリアン様の前で、扇をゆっくり開いてばかりいた。
扇を、左手に持ち替えた。
「ほかの人と約束がある」という意味だ。
パロマがそれを見て、笑った。
「十回目の約束ね」
◇
けれど、先に動いたのはアドリアン様だった。
二日後、レメディオスが茶会から青い顔で帰ってきた。
「お嬢様が、熱のある幼馴染の家に押しかけて、病人を問い詰めた――と。嫉妬に駆られて。おかげでパロマ様の熱がまた上がった、と。アドリアン様が、それはそれはお辛そうに話しておられたそうで」
王都の噂は速い。茶会で話されたことは、その夜には使用人どうしの口を渡り、翌朝には市場に着く。
日曜の礼拝では、いつも隣に座る子爵夫人が、一つ離れた席に移った。帰りの石段で、顔見知りの令嬢たちが扇で口元を隠し、わたしが近づくと、そろって扇を閉じて背を向けた。
扇を相手に向けて閉じれば「お断り」。背を向けて閉じるのは、もっと冷たい。「あなたとは話さない」。
石段の下で、年配の伯爵夫人が、わたしにだけ聞こえる声で言った。
「病人には、優しくなさいませ。殿方は、優しい娘を好むものよ」
わたしは頭を下げた。下げる理由はなかったけれど、ほかに何をすればいいのか分からなかった。
三日目に、アドリアン様が来た。両腕に抱えきれないほどの白い薔薇を持って。
「マリベルが心配するのも、無理はありません。僕が至らなかったのです」
父の前で、アドリアン様は膝をつかんばかりに頭を下げた。
「パロマは体が弱い。放っておけない僕を、どうか許してください。マリベルのことも、僕は責めません」
何を責めないというのだろう。
わたしが口を開く前に、父が言った。
「マリベル。嫉妬は、家の名を汚す」
父の声は、晩餐の夜よりも低かった。
「病人の家に押しかけるなど、モンテローサの娘のすることではない」
「お父様、パロマ様は」
「謝りなさい」
アドリアン様が、悲しそうに微笑んでいた。わたしにだけ見える角度で。
わたしは謝らなかった。けれど、黙った。黙れば、父は剣のことを思い出さない。
その夕方、エスカランテ家から短い手紙が来た。トマス様の字だった。
『母が噂を信じ、パロマを部屋に閉じ込めました。私の話は聞きません。申し訳ありません』
夜、鏡の前で、わたしは自分の顔を見た。
わたしは、本当に妬んでいなかったのだろうか。
パロマに会いに行ったのは、本当に見舞いのためだったのだろうか。アドリアン様が大事にしている人を、確かめたかっただけではないのか。九通も手紙を取っておいたのは、いつか誰かに見せて、自分が正しいと言ってもらいたかったからではないのか。
そうかもしれない、と思った。そう思うほうが、楽だった。
「お嬢様」
レメディオスが、戸口に立っていた。
「九回でございます」
指を、一本ずつ折っていく。
「妬みで、九回は数えません。妬む娘は、一回目で泣いて、二回目で怒鳴って、三回目で殿方の馬車に石を投げます。九回、黙って手紙を重ねる娘はおりません」
レメディオスは、折った指をわたしの前で開いてみせた。
「数えるのは、婦人の仕事でございますからね」
◇
四日目、父の膝が腫れた。
晩餐の夜に無理に立ったせいだ、と侍医は言い、そのあとで、施療院のエスカランテ先生が膝に詳しいそうです、と付け加えた。父はしぶしぶ頷いた。
トマス様は、約束の十時ちょうどに来た。
父の膝を両手で包み、ゆっくりと曲げようとして、止めた。父が歯を食いしばったからだ。
「剣を構えて立っていられるのは、数分でしょう」
診察のあと、廊下でトマス様は低い声でわたしに言った。
「アドリアンは、王都で名の通った使い手です。子どものころから、剣でだけは一度も負けたことがない」
「……決闘になったら」
「決闘で決まったことは、二度と蒸し返せません。勝った側の言い分が、名誉の上では正しいことになる」
それで、すべてがつながった。
アドリアン様が待っているのは、わたしが婚約を破ることだけではない。
父が剣を取ることも、待っている。
どちらでもいいのだ。わたしが破れば、違約金も決闘もない。父が申し込めば、アドリアン様は受けて、勝つ。違約金も払わず、恥も負わず、すべては名誉の上で片がつく。そして、父は死ぬ。
十回目の手紙は、父を呼ぶための手紙だ。
「妹は、部屋から出られません」
トマス様は、そう言ってから、少し言葉を探した。
「ですが、この国には、付き添い婦人がついていれば、令嬢の外出を家の者も咎めにくい、という決まりがあります。体面のために」
廊下の角で、レメディオスが、聞こえないふりをして花瓶の向きを直していた。
「どうして、医師に」
気づいたら、そう尋ねていた。
トマス様は少し考えてから、答えた。
「妹が、小さいころによく熱を出したからです。夜中に医師を呼びに走っても、来てくれる人は少なかった。来ると言って、来ない人もいた」
淡々とした声だった。
「施療院では、約束を一度破ると、患者は次から来なくなります。来なくなった人が、どうなるかは分からない。だから、時刻だけは守ることにしています。ほかに取り柄もありませんので」
それは取り柄です、と言いかけて、やめた。言えば、自分がこの九回、何を欲しかったのかを口にしてしまう気がした。
帰り際、トマス様は玄関で振り返った。
「次は、三日後の十時に、膝を診に参ります」
三日後の十時、呼び鈴が鳴った。
ちょうどに。
◇
ソリス男爵家から、夜会の招待状が届いた。
アドリアン様から、手紙も届いた。熱の手紙ではなかった。
『ソリス家の夜会には、僕が君に付き添おう。久しぶりに踊ろう。必ず迎えに行く』
十回目の約束だった。
パロマからは、何の知らせもなかった。部屋に閉じ込められたままなのだろう。手紙を送っても、母君が先に開けてしまう。
わたしは九通の手紙を、絹の手提げの底に入れた。何に使うのか、まだ決めていなかった。ただ、置いていく気になれなかった。
夜会の前の晩、父は居間で剣を磨いていた。何十年も抜いていない剣だった。布が刃の上を往復する音が、廊下の向こうまで聞こえていた。
夜会の日、迎えの馬車は来なかった。
父とわたしは、父の馬車でソリス家へ向かった。父は杖をつき、剣を佩いていた。止めても聞かなかった。正装には剣がつきものだ、と言って。
レメディオスは、出がけに「少し用を足してから参ります」と言って、別の辻馬車に乗った。
ソリス家の広間は、港の富をそのまま壁に塗ったようだった。シャンデリアの火が、磨いた床に映って揺れている。
楽団が二曲目を始めたころ、従僕が銀の盆を持ってわたしの前に来た。
『パロマが熱を出したので、遅れます。 アドリアン』
父が、杖を椅子に立てかけた。
「十回目だ」
父の手が、剣の柄にかかった。
◇
アドリアン様が広間に入ってきたのは、三曲目の途中だった。
髪が少し乱れ、目の下にうっすらと影がある。疲れた顔だった。夜通し誰かを看病してきた人の顔。
すぐに、夫人たちの輪ができた。
「まあ、またあのお嬢さんが?」
「ええ。今夜はひどくて」
アドリアン様は、悲しげに首を振った。
「熱が下がるまで、ずっと手を握っていました。あの子は、僕がいないと眠れないので」
同情のため息が、輪の中に広がった。何人かが、ちらりとわたしのほうを見た。嫉妬深い婚約者のほうを。
そのとき、輪の後ろから声がした。
「どなたの手を?」
輪が、割れた。
パロマが立っていた。
淡い黄色のドレス。結い上げた髪から、ひと筋だけほつれている。頬が赤い。熱のせいではない。さっきまで、広間の向こうで踊っていたのだ。
その斜め後ろに、黒い服のレメディオスが、背筋を伸ばして立っていた。付き添い婦人の顔で。
「今夜は、ずっとここにいたわ。踊ってたの。三曲」
パロマは、まっすぐアドリアン様を見た。
「わたし、あなたに手を握ってもらったことなんて、十二のときの川遊びが最後よ」
広間が、静まり返った。楽団が、一人ずつ弓を止めていった。
アドリアン様は、一歩、パロマのほうへ出た。
「パロマ。熱があるのに、無理をして……」
額に手を伸ばそうとした。
その手首を、横からつかんだ人がいた。いつの間にか、パロマの後ろに来ていた、黒い上着の青年。トマス様だった。鞄を提げたまま、息を切らしている。
「脈を取りましょうか。皆様の前で」
トマス様は、アドリアン様の手首を放さずに言った。
「妹のでも、あなたのでも」
アドリアン様は手を引いた。顔から、疲れが消えていた。代わりに、何もない顔になった。
「どうして、ここに」
かすれた声に答えたのは、レメディオスだった。
「付き添い婦人がついておりますので」
背筋を伸ばしたまま、レメディオスは言った。
「奥様には、きちんと名乗りましたとも。付き添い婦人のレメディオス、と。どちらの家の、とはお尋ねになりませんでしたので。ソリス家の夜会にお嬢様をお連れいたします、と申し上げましたら、それはそれはお喜びで。病弱な娘が男爵家の夜会に出られるなど、思ってもみなかったと」
エスカランテ家にも、招待状は届いていたのだ。病弱な娘には無理だと、母君が暖炉の上に伏せておいた一通が。
父が、前へ出た。
膝を引きずり、剣の柄を握って。
「ビジャセカの」
「――ドン・ベニート」
アドリアン様が、父のほうへ向き直った。その口元に、ほんの少しだけ、笑みが浮かびかけて、消えた。わたしはそれを見た。
受けるつもりだ。
「お待ちください」
トマス様が、父とアドリアン様のあいだに出た。
「妹の名を嘘に使われたのは、エスカランテの名誉の問題です。申し込むなら、私が」
剣を持ったことなどない人が、そう言った。
父が、トマス様が、アドリアン様が、わたしを見ていた。
広間じゅうの人が、わたしを見ていた。
わたしは、扇を見た。
黙っていれば、父が申し込む。婚約はアドリアン様の落ち度で終わる。モンテローサの名誉は守られる。そして父は、数分で膝を折る。
父を止めれば、トマス様が申し込む。
どちらも止めるには、方法が一つしかなかった。
決闘を申し込めるのは、破られた側の男だけだ。
わたしは、扇を閉じた。
閉じた扇の先を、アドリアン様に向けた。
「お断り」という意味だ。
「この婚約は、わたくしが破ります」
誰かが息を呑む音がした。
「お父様。破ったのは、わたくしです。モンテローサ家は、破られた側ではございません。ですから、剣を取る理由はございません。トマス様も」
父の手が、剣の柄の上で止まった。
「違約金は、お支払いいたしません」
わたしは、手提げから九通の手紙を出して、近くの卓に並べた。届いた順に。日付を上にして。
「アドリアン様は九回、パロマ様の熱を理由に約束をお取り消しになりました。十回目は、今夜です。パロマ様は、今夜ここで踊っておられました。パロマ様のお兄様は医師で、妹は十のときから熱を出していないと申しております。婚約を破られる理由がおありなのは、どちらでしょう」
それ以上は、言わなかった。
嘘をついたとも、ソリス家の窓の下で歌っていたとも、言わなかった。言わなくても、卓の上の九通と、パロマの赤い頬が、広間じゅうに見えていた。
アドリアン様は、何か言おうとした。
それから、広間の奥のほうへ目をやった。
ソリス男爵家の令嬢、グラシア様が立っていた。彼女はアドリアン様と目が合うと、手にした扇を、彼に向けてゆっくりと閉じた。
ソルレアルの娘なら、誰でも知っている仕草だった。
◇
帰りの馬車は使わず、父とわたしは、ソリス家の門から少しのあいだ歩いた。父がそうしたいと言ったのだ。
父は膝を引きずっていた。わたしは隣を歩いた。
自分から婚約を破った娘、という名は、この国では一生ついて回る。明日には市場に着くだろう。縁談は、もう来ないかもしれない。
「わしは」
しばらく歩いてから、父が言った。
「剣でしか、娘を守れんと思っていた」
父は、それきり黙った。わたしの手を、一度だけ握った。
噂は、思ったとおり翌朝には市場に着いた。ただ、中身は思っていたのと少し違った。
自分から婚約を破った娘。そこまでは同じだった。その後ろに、九通の手紙と、夜会で踊っていた「病弱な娘」の話がついていた。噂は速いが、日付と証人に弱い。
ビジャセカ家からは、三日後に解約書が届いた。違約金の欄は、空白のままだった。アドリアン様が、その後どこの夜会に招かれたのか、わたしは知らない。ソリス家の窓の下で歌が聞こえなくなったことだけは、トマス様から聞いた。
エスカランテ家の母君は、パロマの部屋の鍵を、娘に返したそうだ。
五日後、レメディオスが、一通の手紙を持ってきた。
「エスカランテの若先生が、木曜の三時に伺ってよいか、と。お父上の膝ではなく、お嬢様に」
レメディオスは、意味ありげに指を一本立てた。
「付き添いは、わたくしがいたします。数えるのは婦人の仕事でございますからね。一回目」
木曜の三時、呼び鈴が鳴った。
ちょうどに。
戸を開けると、トマス様が花も持たずに立っていた。持ってくるものが思いつかなかった、という顔で。その後ろから、パロマが顔を出した。
「熱はありません。今日は、見張り」
わたしは、扇を左手に持ち替えた。
十一回目の約束は、三時ちょうどに鳴った呼び鈴で始まった。
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