抗日戦争勝利後の時局とわれわれの方針 (一九四五年八月十三日)
これは、毛沢東同志が延安での幹部会議でおこなった演説である。この演説は、マルクス・レーニン主義の階級分析の方法にもとづいて、抗日戦争勝利後の中国の政治の基本情勢にふかい分析をくわえるとともに、プロレタリア階級の革命的戦術を提起している。毛沢東同志が、一九四五年四月、中国共産党第七回全国代表大会の開会のことばで指摘したように、日本帝国主義をうちやぶってからも、中国のまえには、新しい中国となるか、それとも、ふるい中国のままでいるか、という二つの運命、二つの前途が依然としてよこたわっていた。蒋介石に代表される中国の大地主・大ブルジョア階級は、人民の手から抗日戦争の勝利の果実をうばいとり、中国をこれまでどおりの大地主・大ブルジョア階級独裁の、半植民地・半封建の国家にしようとしていた。プロレタリア階級と人民大衆の利益を代表する中国共産党は、一方では、極力、平和のためにたたかい内戦に反対しなければならず、他方では、全国的な規模の内戦をおこそうとする蒋介石の反革命の計画にたいしても十分なそなえをもち、正しい方針をとらなければならなかった。それはつまり、帝国主義と反動派にたいして、幻想をいだかず、そのおどかしをおそれず、断固として人民の闘争の果実をまもりぬき、プロレタリア階級の指導する、人民大衆の、新民主主義の新中国をうちたてるために努力するということであった。中国の二つの運命、二つの前途の勝敗を決するたたかいが、抗日戦争の終結から中華人民共和国の成立にいたるまでのこの歴史的時期の内容であり、この歴史的時期とは、中国人民解放戦争の時期、または第三次国内革命戦争の時期のことである。蒋介石はアメリカ帝国主義の援助のもとに、抗日戦争の終結後、たびたび、和平についての取り決めをやぶるとともに、人民の力を一掃しようとして、空前の、大がかりな反革命の内戦をおこした。しかし、中国共産党の正しい指導により、中国人民はわずか四ヵ年のたたかいによって、全国的な範囲にわたって蒋介石をうちやぶり、新中国をうちたてるという偉大な勝利をかちとった。
この数日間、極東の時局にひじょうに大きな変動がおきている。日本帝国主義降伏の大勢はすでにさだまった。日本降伏の決定的な要因はソ連の参戦である。赤軍百万の大軍が中国の東北地方にはいったが、これは手向かうことのできない力である。日本帝国主義はもう戦争をつづけられなくなった〔1〕。中国人民の苦難にみちた抗戦はすでに勝利をおさめた。抗日戦争は、ひとつの歴史的段階としてはすでにすぎさったのである。
こうした情勢のもとで、中国国内の階級関係、国共両党の関係は、現在どうなっているか。将来はどうなるのか。わが党の方針はどうなのか。これは全国の人民が大きな関心をよせている問題であり、全党の同志が大きな関心をよせている問題である。
国民党はどうなのか。その過去をみれば、その現在がわかるし、その過去と現在をみれば、その将来がわかる。この党は過去にまる十年間、反革命の内戦をおこなったことがある。抗日戦争中にも、国民党は、一九四〇年、一九四一年、一九四三年と三回にわたって、大がかりな反共の高まり〔2〕をひきおこしては、そのたびに全国的な内戦にもっていこうとした。ただそれがわが党の正しい政策と全国人民の反対によって実現をみなかっただけである。中国の大地主・大ブルジョア階級の政治的代表者である蒋介石は、周知のように、このうえもなく残忍で陰険な男である。手をこまねいて勝利を待ち、実力を保存して内戦を準備する、というのがかれの政策であった。はたして、待ちのぞんだ勝利がおとずれ、この「委員長」はいよいよ「山をおりる」〔3〕ことになった。八年このかた、われわれと蒋介石は居場所をとりかえていた。以前はわれわれが山の上にいて、かれが水のほとりにいたが〔4〕、抗日の時期には、われわれが敵後方にいて、かれが山にのぼっていた。いま、かれは山をおりようとしている。山をおりて抗戦勝利の果実を横取りしようというわけである。
わが解放区の人民と軍隊は、この八年らい、ぜんぜんほかからの援助のない状況のもとで、まったく自分だけの努力によって、広大な国土を解放し、中国侵略日本軍の大部分とかいらい軍のほとんど全部を相手に戦ってきた。われわれの断固とした抗戦、英雄的な奮闘があったからこそ、大後方〔5〕の二億の人民は日本侵略者の蹂躙をまぬかれ、二億の人民のすむ土地は日本侵略者の占領をまぬかれたのである。蒋介石は峨眉山に逃げこんでいたが、前方でかれをまもってやったものがいた。それは解放区であり、解放区の人民と軍隊であった。われわれは大後方の二億の人民をまもったが、それは同時に、この「委員長」をもまもることになり、かれに、手をこまねいて勝利を待つ時間と場所をあたえた。時間――八年と一 ヵ月、場所――二億の人民のすむ土地、これらの条件はわれわれがかれにあたえたのである。われわれがいなければ、かれも手をこまねいてはいられなかったはずである。それなら、「委員長」はわれわれに感謝しているだろうか。とんでもない。この男はむかしから恩知らずである。蒋介石はどのようにして権力の座についたか。北伐戦争のおかげであり、第一次国共合作のおかげであり、当時人民がまだかれの素性をよく知らすにかれを支持していたおかげである。かれはいったん権力の座につくと、人民に感謝するどころか、人民をはりたおし、人民を十年にわたる内戦の血の海につきおとした。このあたりの歴史は、同志諸君がみな知っているとおりである。こんどの抗日戦争で、中国人民はまたかれをまもってやった。いま、抗日戦争は勝利し、日本は降伏することになったが、かれはけっして人民に感謝はせず、逆に、一九二七年のふるい帳面をめくってみて、もう一度おなじ手を打とうと考えている。蒋介石は、中国にはこれまで「内戦」などなかった、あったのは「匪賊討伐」だけだといっている。だが、それをなんとよぼうと、要するに、反人民的な内戦をおこそうとしているのであり、人民を殺そうとしているのである。
全国的な規模の内戦がまだおこらないうちは、人民のあいだでも、わが党の多くの同志のあいだでも、まだこの問題について、みんながみんなはっきりした認識をもつわけではない。大規模な内戦がまだはじまっておらず、内戦がまだ普遍的な、公然とした、ひんぱんなものになっていないので、「まさか!」と考えている人がたくさんいるし、また、内戦になるのをおそれている人もたくさんいる。おそれるのにはわけがある。かつては十年間戦争をし、抗戦でまた八年間戦争をした、これ以上戦争をするのはたまらないからである。おそれる気持ちになるのも無理はない。内戦をおこそうとする蒋介石の陰謀にたいして、わが党がとっている方針は、明確であり、一貫している。それは、断固として内戦に反対することであり、内戦に賛成せず、内戦を阻止することである。今後さらに、われわれは最大の努力と辛抱づよさをもって人民を指導して、内戦をくいとめなければならない。しかし、内戦の危険性がひじょうに大きいことをはっきりと見ぬかなければならない。蒋介石の方針はもうきまっているからである。蒋介石の方針は、内戦をやることである。われわれの方針、人民の方針は、内戦をやらないことである。内戦をやらないのは中国共産党と中国人民だけで、残念ながら、蒋介石と国民党はそうではない。一方はやらないが、一方はやる。もし両方ともやらないのなら戦争にはならない。現在、やらないのは一方だけで、しかも、この一方にはまだ他の一方をおさえるだけの力がない。したがって、内戦の危険性はひじょうに大きい。
蒋介石が専制と内戦の反動的方針をあくまで固持しようとしていることを、わが党は時をうつさずはっきり指摘してきた。党の第七回代表大会以前にも、第七回代表大会の開催中にも、第七回代表大会以後にも、われわれは内戦の危険性について人民の注意をうながす活動を十分におこなって、全国人民およびわれわれの党員と軍隊に、はやくから心がまえをさせてきた。これはひじょうに重要な点で、この点があるのとないのとでは大変なちがいである。一九二七年のころは、わが党はまだ幼年期の党で、蒋介石による反革命の突然の襲撃にたいしなんの心がまえもなかったために、人民がかちとった勝利の果実をたちまちうしない、人民は長いあいだ災いをこうむり、光明の中国は暗黒の中国と化した。しかし、こんどはちがっている。わが党はすでに三回にわたる革命のゆたかな経験をつみ、党の政治的成熟の度合いも大いにたかまっている。党中央は内戦の危険性をくりかえしはっきり指摘して、全国人民および全党の同志と党の指導する軍隊をそなえある状態においている。
蒋介石は、人民からは、わずかな権利もかならずうばい、わずかな利益もかならずとりあげる。われわれはどうか。われわれの方針は、まっこうから対決し、一寸の土地もかならず争うことである。われわれは蒋介石のやり方にならってやっている。蒋介石はいつも人民に戦争をおしつけ、左手にも刀をもてば、右手にも刀をもっている。だから、われわれもかれのやり方にならって、刀をとる。これは調査研究のすえ、やっと見つけたやり方である。この調査研究はひじょうにたいせつである。相手が手にものをもっているのをみたら、われわれはすぐそれを調査してみる。かれが手にもっているのはなにか。刀である。刀にはどういう使いみちがあるか。人を殺すことができる。かれは刀をもってだれを殺そうとしているのか。人民を殺そうとしている。こうしたいくつかのことを調査したら、さらに調査をすすめる。中国人民にも手があり、刀をもつことができるし、刀がなければつくることもできる。中国人民は長いあいだ調査研究をしたすえ、この真理を発見した。軍閥、地主、土豪劣紳①、帝国主義はみな手に刀をもっていて、人を殺そうとしている。それがわかったので、人民もそのやり方でやっていく。われわれのなかには、この調査研究に注意をはらわないものがいる。たとえば陳独秀で、かれには、刀をもっていれば人を殺せる、ということがわからなかった。これはありふれた普遍的な真理で、共産党の指導者にわからぬはずはなかろう、というものもいるが、そうとばかりはいいきれない。陳独秀は調査研究をしていなかったので、このことがわからなかった。だから、われわれはかれに日和見主義者という名まえをつけた。調査研究がなければ発言権はない。そこで、われわれはかれから発言権をとりあげた。われわれは、陳独秀とはちがったやり方をとり、抑圧され、殺害されている人民に刀をとらせた。またもわれわれを殺そうとするものがあれば、われわれはおなじやり方をするまでである。ついさきごろ、国民党はわが関中分区の攻撃に六コ師団をさしむけ、そのうちの三コ師団が攻めこんできて、幅百華里、長さ二十華里の地域を占領した。そこでわれわれも相手のやり方にならって、この幅百華里、長さ二十華里の地域にいた国民党軍を、きれいに、徹底的に、のこらず殲滅した〔6〕。われわれはまっこうから対決し、一寸の土地もかならず争うのであって、国民党がやすやすとわれわれの土地を占領し、われわれの人間を殺すようなことは、絶対にゆるさない。もちろん、一寸の土地もかならず争うとはいっても、かつての「左」翼路線のように「根拠地の土地は一寸も放棄しない」というのではない。こんど、われわれは幅百華里、長さニ十華里の地域を放棄した。七月の末に放棄して、八月のはじめにとりかえした。安徽省南部事変ののち、国民党の連絡参謀がわれわれの動向について質問したことがあった。わたしは、君は毎日延安にいながらまだわからないのか、「何応欽が攻めてくればわれわれも反撃するし、何応欽がやめればわれわれもやめる」〔7〕のだといってやった。そのときはまだ蒋介石の名はあげないで、何応欽だけをあげた。現在は「蒋介石が攻めてくればわれわれも反撃するし、蒋介石がやめればわれわれもやめる」で、かれのやり方にならってやっていく。蒋介石はもうすでに刀をといでいる。したがって、われわれも刀をとがなければならない。
人民の獲得した権利をかるがるしく手放すことは断じてゆるされず、これは戦いによってまもらなければならない。われわれは内戦をのぞまない。だが蒋介石がどうしても中国人民に内戦をおしつけてくるなら、自衛のために、解放区の人民の生命、財産、権利、幸福をまもるために、われわれは武器をとってかれと戦うほかはない。この内戦は、かれがわれわれにおしつけてきたものである。もしわれわれが戦争に勝てなかったとしたら、天をうらまず、地をうらまず、ただ自分が戦争に勝てなかったことをうらむだけである。しかし、人民がすでに獲得した権利をやすやすと奪いとったり、だましとったりしようとしても、それはとうていできない相談である。昨年、あるアメリカの記者がわたしにたずねた。「あなたたちはだれから権限をあたえられて仕事をしているのか。」わたしはいった。「人民からあたえられている」と。人民があたえるのでなければ、ほかにだれがあたえるだろうか。権力をにぎっている国民党はあたえはしなかった。国民党はわれわれを認めないのである。われわれは国民参政会に参加しているが、参政会条例の規定によると、それは「文化団体」としての資格によるものである〔8〕。われわれにいわせれば、われわれは「文化団体」ではなく、軍隊をもっているから、「武化団体」である。ことしの三月一日に蒋介石は、軍隊をひき渡さなければ、共産党は合法的な地位がえられない、といった。蒋介石のこのことばは、いまでも生きている。われわれは軍隊をひき渡していないので、合法的な地位はなく、われわれは「無法者」である。われわれの責務は、人民にたいして責任をおうことである。一言一句、一つ一つの行動、一つ一つの政策がすべて人民の利益にかなっていなければならないし、もしあやまりがあれば、かならずあらためなければならない。これが人民にたいして責任をおうということである。同志諸君、人民は解放をもとめて、われわれ共産党員に、つまりかれらを代表できる、かれらのために忠実にはたらくことのできるものに権限をゆだねるのである。人民の代表者となったからには、われわれはりっぱに代表しなければならず、陳独秀のようであってはならない。陳独秀は、反革命が人民に攻撃をくわえてきたのにたいして、まっこうから対決し一寸の土地もかならず争うという方針をとらなかった。その結果、人民がすでに手にいれていた権利を、一九二七年の数ヵ月のうちに、一つ残らずきれいにうしなってしまった。こんどはわれわれも気をつけなければならない。われわれの方針は陳独秀の方針とはまったくちがっており、どんなごまかしもわれわれをだますことはできない。われわれははっきりした頭脳と正しい方針をもつべきであり、あやまりをおかさないようにすべきである。
抗戦勝利の果実はだれのものであるべきか。それはひじょうにはっきりしている。たとえば一本の桃の木があって、その木に桃がなったとする。その桃は勝利の果実である。桃はだれがもぐべきか。それには、桃の木をだれがうえ、だれが水をくんできてかけたかを見なければならない。蒋介石は山のなかにひきこもって、一杯の水もくんでこなかったのに、いまになって、ながながと手をのばして桃をもごうとしている。かれはいう。この桃の所有権はこのおれ蒋介石のものである。おれは地主で、お前たちは農奴だ。お前たちがもぐのをゆるさない、と。われわれは新聞紙上でかれに反論した〔9〕。われわれはいう。お前は水をくんだことがない。だから、桃をもぐ権利はない。われわれ解放区の人民は毎日水をやった。もぐ権利をいちばんもっているのは当然われわれである、と。同志諸君、抗戦の勝利は人民が血の犠牲をはらってかちえたものであって、当然人民の勝利であり、抗戦の果実は当然人民のものである。蒋介石はどうだったか。かれは抗戦には消極的、反共には積極的で、人民の抗戦のじゃまものだった。いまこのじゃまものがのりだしてきて、勝利の果実をひとり占めにし、抗戦勝利後の中国をふたたび抗戦前の状態に逆もどりさせ、すこしの変化をもゆるすまいとしている。こうして闘争がはじまった。同志諸君、これはひじょうに重大な闘争である。
抗戦勝利の果実が当然人民のものであるということ、これが一つのことである。しかし、勝利の果実がはたしてだれの手にはいるか、人民のものになるかどうかということ、これはまた別のことである。勝利の果実がすべてまちがいなく人民の手にはいるなどとおもってはならない。ひとやまの大桃、たとえば上海、南京、杭州などといった大都市は、蒋介石にうばいさられることになろう。蒋介石はアメリカ帝国主義と結託しており、それらのところでは、かれらの力が優勢なので、革命的な人民は基本的にはまだ農村しか占領できない。別のひとやまの桃は、双方でうばいあうことになるだろう。太原以北の大同=風陵渡鉄道、北平=包頭鉄道の中部区間、北平=瀋陽鉄道、鄭州以北の北平=漢□《ハンコウ》鉄道、石家荘=太原鉄道、白圭=晉城鉄道〔10〕、徳州=石家荘鉄道、天津=浦口鉄道、青島=済南鉄道、鄭州以東の天水=蓮雲港鉄道、こういった地方の中小都市はかならず争わなければならないところであり、このひとやまの中小の桃はすべて解放区の人民が血と汗をそそいでそだてたものである。これらの地方がはたして人民の手にはいるかどうかは、いまのところまだなんともいえない。いまいえるのは、あくまで争う、ということだけである。まちがいなく人民の手にはいるところはないだろうか。ある。河北省、察哈爾省、熱河省〔11〕、山西省の大部分、山東省、江蘇省北部がそれで、これらの地方の広い農村や多くの都市は、農村と農村が一つにつながり、百ほどもの都市、七、八十もの都市、四、五十もの都市がかたまっており、そうしたものが大小あわせて三つ、四つ、五つ、六つとある。それはどういう都市か。中都市と小都市である。これはまちがいなく手にはいるところで、われわれには、これらの勝利の果実を手にいれることのできる力がある。これらの果実が手にはいるのは、中国革命の歴史にはじめてのことである。歴史上、われわれは一九三一年の後半に、敵の三回目の「包囲討伐」をうちやぶったのち、江西省中央区であわせて二十一の県都〔12〕をもったことはあるが、まだ中都市はなかった。二十一の小都市がつらなって、いちばん多いときには人口二百五十万であった。これをよりどころにして中国人民は、あれほど長いあいだたたかい、あれほど大きな勝利をおさめ、あれほど大がかりな「包囲討伐」を粉砕することができた。その後、われわれは戦いに負けたが、これは蒋介石のせいではなく、われわれ自身がうまく戦わなかったせいである。こんど、大小何十もの都市が一つにつらなり、それが三つ、四つ、五つ、六つもあるということになれば、中国人民は、江西省中央区よりさらに大きな革命根拠地を三つ、四つ、五つ、六つももつことになり、中国革命の情勢は相当すばらしいものになるだろう。
全体の情勢からみて、抗日戦争の段階はすぎさり、新しい状況と新しい任務は国内闘争である。蒋介石は「建国」するといっているが、どういう国を建てるかが今後の闘争である。プロレタリア階級の指導する、人民大衆の、新民主主義の国家を建てるのか、それとも、大地主・大ブルジョア階級独裁の、半植民地・半封建の国家を建てるのか。これはひじょうに複雑な闘争となるであろう。いまこの闘争は、蒋介石が抗戦の勝利の果実を横取りしようとし、われわれがその横取りに反対する、そうした闘争としてあらわれている。この時期にもし日和見主義があるとすれば、それはあくまでも争うということをせず、人民のものとなるべき果実をみずからすすんで蒋介石に献上するものである。
公然とした、全面的な内戦はおこるだろうか。それは国内的な要因と国際的な要因によってきまる。国内的な要因は、主として、われわれの力と自覚の程度である。国際的、国内的な大勢のおもむくところと人心のむかうところによって、また、われわれの奮闘をつうじて、内戦を局部的な範囲にくいとめたり、全面的な内戦のおこる時期をひきのばしたりすることができるだろうか。その可能性はある。
蒋介石がおもいきって内戦をはじめるのにも、いろいろ困難がある。第一に、解放区には一億の人民、百万の軍隊、二百余万の民兵がいる。第二に、国民党支配区の自覚した人民は内戦に反対しており、これが蒋介石にとって一種の牽制になっている。第三に、国民党の内部にも、一部に内戦に賛成しないものがいる。当面の情勢は、一九二七年のころと大いにちがっている。ことに、わが党の現在の状況は一九二七年のころの状況と大いにちがっている。あのころの党はまだ幼年期の党で、はっきりした頭脳も、武装闘争の経験も、まっこうから対決する方針ももっていなかった。いまでは党の自覚は大いにたかまっている。
われわれの自覚、プロレタリア階級の前衛の自覚という問題のほかに、もうひとつ人民大衆の自覚という問題がある。人民がまだ自覚していないときには、革命の果実を他人にやってしまうようなことも十分にありうることである。こうしたことは、かつて歴史のうえにもみられた。こんにちでは中国人民の自覚も大いにたかまっている。人民のあいだにおけるわが党の信望がいまほどたかまったことはかってなかった。しかし、人民のなかには、主として日本占領区と国民党支配区の人民のなかには、蒋介石を信用し、国民党とアメリカに幻想をいたいているものがまだかなりいるし、蒋介石もまたそうした幻想をふりまくことに力をいれている。中国人民のなかに、そうしたまだ自覚していない人たちがいるということは、われわれの宣伝活動と組織活動がまだひじょうに不十分だということを物語っている。人民が自覚するのは容易なことではなく、人民の頭のなかのあやまった考えをとりのぞくには、われわれが多くの地についた活動をやっていく必要がある。中国人民の頭のなかにあるおくれたものは、ほうきで部屋を掃くように、われわれがそれを掃除しなければならない。掃除もしないで、ごみがひとりでになくなったためしはない。われわれは、人民が中国の実際の状況と動向を理解し、自分の力に自信をもつように、人民大衆のあいだで広く宣伝教育活動をおこなわなければならない。
人民はわれわれが組織しなければならない。中国の反動分子は、われわれが人民を組織することによってうちたおさなければならない。すべて反動的なものは、たおさないかぎり、たおれはしない。これも掃除とおなじで、ほうきがとどかなければ、ごみはやはりひとりでに逃げはしない。陝西・甘粛・寧夏辺区の南に介子河という川がある。介子河の南側は洛川県、北側は[鹿+”おおざと”]県である。川の南側と北側とでは別々の世界である。川の南側は国民党のもので、われわれがいったことがないので、人民は組織されておらず、きたないものがたくさんある。われわれの一部の同志は、政治的影響というものを信じ、影響によって問題が解決できると考えている。これは迷信である。一九三六年にわれわれは保安〔13〕にいた。保安から四、五十華里のところに極悪地主の土塀がこいの部落があった。当時、党中央の所在地は保安だったので、政治的影響はこれ大なり、というべきであったが、しかし、その土塀のなかの反革命分子たちはなんとしても降伏しなかった。われわれがその南側を掃いても、北側を掃いても、だめだったので、あとでほうきをなかにつっこんで掃くと、やっと「こりゃかなわん、お手あげだ」といいだした〔14〕。世の中のことはこうしたものである。鐘はつかないと鳴らない。机ははこばないと動かない。ソ連の赤軍が東北地方にはいらなければ、日本は降伏しはしない。われわれの軍隊がやっつけなければ、敵軍・かいらい軍も武器を渡しはしない。ほうきがとどかないと、政治的影響も十分には効力を発揮しないのである。われわれのほうきは共産党、八路軍、新四軍である。ほうきを手にしたら、掃きかたを研究すべきであり、大風でも吹いてごみをすっかり吹きとばしてくれるだろうなどとおもって、寝台に寝ころんでいてはならない。われわれマルクス主義者は革命的現実主義者で、けっして空想などはしない。中国には「黎明に起きて、庭を掃除する」〔15〕という古いことばがある。黎明とは夜明けのことをいう。夜が明けたらすぐ起きて掃除をするように、むかしの人は教えている。これはわれわれにひとつの任務を教えたものである。こういうふうに考え、こういうふうにやってこそ、ためにもなり、またする仕事もできてくる。中国は土地が広いので、われわれが少しずつ掃いていくほかはない。
われわれの方針は、なにを根底とすべきか。自分の力を根底とすべきで、これが自力更生である。われわれは孤立してはいない。帝国主義に反対する全世界のすべての国ぐにと人民はみなわれわれの友である。しかし、われわれは自力更生を強調する。われわれはわれわれ自身の組織する力によって、内外のすべての反動派をうちやぶることができる。蒋介石はわれわれとは逆で、まったくアメリカ帝国主義の援助にたより、アメリカ帝国主義をたのみの綱としている。専制、内戦、売国の三位一体、これが一貫して蒋介石の方針の根底になっている。アメリカ帝国主義は蒋介石をたすけて内戦をやらせ、中国をアメリカの従属国にしようとしているが、アメリカ帝国主義のこの方針もはやくからきまっているものである。しかし、アメリカ帝国主義はうわべは強そうでも、中味はからっぽである。われわれははっきりした頭脳をもっていなければならないが、それには、帝国主義の「甘いことば」を信じない、帝国主義のおどかしをおそれない、ということがふくまれている。かつてあるアメリカ人がわたしに「あなた方はハーレーのいうことをきいて、何人かの人を国民党政府におくって、役人にすべきだ」といったが〔16〕、わたしは、「役人も手足をしばられていたのではやりにくいから、われわれはならない。なるなら、手足をのばして自由自在にやりたい。つまり民主主義を基礎にして連合政府をつくることである」といってやった。かれは「ならないのはよくない」というので、「なぜよくないのか」とたずねると、「第一に、アメリカ人があなた方を悪くいうだろうし、第二に、アメリカ人が蒋介石のあと押しをするようになるからだ」という。そこでわたしはいった。「あなた方は、パンはたらふく食った、睡眠はたっぷりとった、それで、人の悪口をいい、蒋介石のあと押しをする、それはあなた方アメリカ人の勝手で、わたしは干渉しない。いま、われわれのところにあるのは粟に小銃で、あなた方のところにあるのはパンに大砲だ。あなた方が蒋介石のあと押しをしたいのならすればよいし、好きなだけいつまででもあと押ししたらよい。ただ、一つのことだけはおぼえていてもらいたい。中国はだれの中国か。中国はけっして蒋介石のものではない。中国は中国人民のものである。いつかはかならず、あなた方があと押ししきれなくなる日がくるだろう」と。同志諸君、このアメリカ人のいったことは、おどかしである。帝国主義者は人をおどかすのがお手のものだし、植民地にはおどかしをおそれるものもたくさんいる。かれらは、どこの植民地の人間もおどかしがきくものとおもっている。だが、かれらは、中国に、そんな手をおそれない人びとがいることを知らない。われわれはこれまで、アメリカの援蒋反共政策を公然と批判し、暴露してきたが、これは必要なことで、今後もひきつづきそれをあばいていかなければならない。
ソ連が出兵し、赤軍は中国人民が侵略者を追いだすのをたすけにきてくれたが、これは中国の歴史にかつてなかったことである。このことからうまれる影響には、はかりしれないものがある。アメリカと蒋介石の宣伝機関は、二発の原子爆弾で赤軍の政治的影響をはらいのけようとしている〔17〕。しかし、はらいのけられるものではないし、そんなにたやすいことではない。原子爆弾で戦争の解決ができるだろうか。できはしない。原子爆弾で日本を降伏させることはできなかった。原子爆弾だけで、人民のたたかいがないなら、原子爆弾も役にはたたない。もし原子爆弾で戦争が解決できるなら、どうしてさらにソ連に出兵をたのまなければならなかったのか。なぜ、原子爆弾を二発おとしても日本はまだ降伏しなかったのに、ソ連が出兵するとたちまち降伏したのか。われわれの同志のなかにも、原子爆弾を大したものとおもいこんでいる人がいるが、それは大きなあやまりである。そうした同志のものの見方は、イギリスの一貴族にもおよばない。イギリスにマウントバッテン卿という貴族がいる。かれは、原子爆弾で戦争が解決できるとおもうのは最大のあやまりだ、といっている〔18〕。これらの同志たちはマウントバッテンよりもおくれている。これらの同志たちが原子爆弾を世にも神秘なものとおもいこんでいるのは、なんの影響によるのか。ブルジョア階級の影響である。こうした影響はどこからきているのか。ブルジョア的学校教育からきており、ブルジョア新聞、ブルジョア通信からきている。世界観と方法論には、二つのものがある。プロレタリア階級の世界観と方法論、ブルジョア階級の世界観と方法論である。これらの同志たちは、ブルジョア階級の世界観と方法論はいつも手からはなさないが、プロレタリア階級の世界観と方法論はいつも頭の外におきざりにしている。われわれの隊列内にある唯武器論、軍事一点ばりの観点、官僚主義、大衆遊離の作風、個人主義思想などは、みなブルジョア階級の影響である。われわれの隊列内にあるこれらのブルジョア的なものはやはり、ごみを掃くように、いつも掃除しなければならない。
ソ連の参戦は日本の降伏を決定的なものにし、中国の時局は新しい時期にはいった。新しい時期と抗日戦争の時期とのあいだには、過渡的な段階がある。過渡的な段階での闘争は、蒋介石が抗戦勝利の果実を横取りすることに反対する闘争である。蒋介石は全国的な規模の内戦をはじめようとしており、かれの方針はすでにきまっている。われわれはこれにたいして、そなえがなければならない。全国的な内戦がいつおこっても、われわれにはそなえができていなければならない。少しはやく、あすの朝戦争になってもよいように、われわれはそれにそなえておくのである。これが第一の点である。現在の国際情勢と国内情勢からみて、内戦を、しばらくのあいだ、局部的な範囲にとどめることは可能であり、内戦はしばらくのあいだ、いくつかの地方的な戦争になる可能性がある。これが第二の点である。第一の点では、われわれはそなえをしておくし、第二の点では、まえからそうなっている。要するに、われわれにはそなえがなければならない。そなえがあれば、いろいろな複雑な局面にも適切に対処することができるのである。
〔注〕
〔1〕 一九四五年八月八日、ソ連政府か日本にたいして宣戦した。ハ月十日、モンゴル政府が日本にたいして宣戦した。ソ連赤軍は海陣両方面から中国東北地方と朝鮮にはいり、たちまち日本の関東軍を撃破した。ソ連・モンゴル連合軍は内蒙古の砂漠をこえて熱河省と察哈爾省にはいった。日本政府はやむなく、八月十日には降伏申し出の照会文書を発し、十四日には正式に無条件降伏を宣言せざるをえなくなった。関東軍は日本陸軍のもっとも精鋭な主力部隊であり、日本の戦略的な総予備軍であった。日本帝国主義はこの軍隊をたのみとし、また、中国東北地方と朝鮮の有利な戦略的地位にたよって、長期戦をおこなおうとたくらんでいた。だが、ソ連の参戦によって、日本帝国主義のこの計画が徹底的に破産したので、日本政府も敗北を認めざるをえなくなり、ついに降伏勧告をうけいれた。
〔2〕 国民党反動派が三回にわたって反共の高まりをひきおこした経過については、本選集第三巻の『国民党中央執行委員会第十一回全体会議と第三期国民参政会第二回会議を評す』にみられる。
〔3〕 ここにいう「山」とは峨眉山のことであるか、実際には、ひろく中国西南部、西北部の山岳地帯をさしている。一九三八年、武漢が日本軍に占領されてからは、蒋介石自身とその指揮下の主力部隊は、これちの山岳地帯にひきこもって、解放区の軍民が敵後方で日本侵略者と困難な闘争をおこなうのを傍観していた。
〔4〕 抗日戦争前、中国共産党の指導する革命根拠地の多くは山岳地帯につくられていた。当時、蒋介石の支配の中心は、河川流域や沿海地帯の大都市にあった。毛沢東同志が、一方は「山の上」におり、一方は「水のほとり」にいたといっているのはそのためである。
〔5〕 抗日戦争の時期、抗日の前線は華北、華東、華中、華南にあった。日本侵略軍に占領されず、国民党が支配していた中国の西南部、西北部はふつう「大後方」とよばれていた。
〔6〕 一九四五年七月二十一日、国民党第一戦区司令長官胡宗南指揮下の臨時編成第五十九師団と騎兵第二師団は、突如、わが陝西・甘粛・寧夏辺区の関中分区にある淳化県の爺台山を攻撃してきた。二十三日にはさらに、予備第三師団を攻撃にくわわらせた。わが軍は、七月二十七日、主動的に爺台山とその西の四十一の村落から撤退した。国民党軍はひきつづき[木+旬]邑、耀県などの地方を襲撃した。わが軍は八月八日、国民党の侵入部隊に反撃をくわえ、爺台山地区をとりもどした。
〔7〕 国民党の連絡参謀とは、抗日戦争の時期に国民党政府から延安に派遣されて連絡にあたっていた要員のことである。一九四〇年十月十九日と十二月八日に、蒋介石は国民党軍の参謀総長何応欽と副参謀総長白崇禧の名で、前後二通の電報を発して、敵後方で抗戦を堅持している八路軍、新四軍をほしいままに中傷し、黄河以南の人民の抗日武装部隊に、期限つきで黄河以北に撤去することを強制する命令をくだした。つづいて国民党反動派は、新四軍の北上部隊を襲撃するという「安徽省南部事変」をおこした。中国共産党は当時、反共の高まりをひきおこした国民党反動派の代表人物として何応欽をあげたが、じっさいには蒋介石をさしていた。
〔8〕 「国民参政会」は、抗日戦争かはじまってから、国民党政府がもうけた一種の諮問機関であった。参政員はすべて国民党政府が「厳選」したもので、国民党員が大多数をしめ、中国共産党やその他の政党の代表はごく少数にすぎなかった。しかし、国民党政府は抗日諸政党の対等の地位と合法的地位をみとめず、また、それらの政党の代表が政党の代表という資格で「国民参政会」に参加することをゆるさなかった。国民党政府の公布した「国民参政会組織条令」なるものには、「かつて重要な文化団体あるいは経済団体に三年以上勤務して信望顕著なるもの、あるいは国事にはげんで多年信望の顕著なるもの」は国民参政会参政員になれる、という規定があった。当時、国民党は、この規定にしたがって、中国共産党の参政員を「厳選」した。
〔9〕 毛沢東同志が新華社にかわって書いた論評『蒋介石は内戦を挑発している』をさす。
〔10〕 白圭=晉城鉄道とは、山西省東南部の[示+”おおざと”]県の白圭から晉城にいたる、当時まだ完成していなかった鉄道のことである。
〔11〕 察哈爾は、もとは一つの省であったが、一九五二年に廃止された。熱河も、もとは一つの省であったが、一九五五年に廃止された。そして、この二つの省の管轄区域は、河北省、山西省、遼寧省、内蒙古自治区にそれぞれ編入された。
〔12〕 ここにいう二十一の県都とは、江四省の瑞金、会昌、尋[鳥+”おおざと”]、安遠、信豊、[”あまかんむり”の下に”一”、その下に”号の口のない字”]都、興国、寧都、広昌、石城、黎川、および福建省の建寧、泰寧、寧化、清流、帰化、竜岩、長汀、連城、上杭、永定をさす。
〔13〕 保安は陝西省西北部の県で、いまの志丹県である。中国共産党中央は、一九三六年七月のはじめから一九三七年一月まで保安にあったが、その後、延安にうつった。
〔14〕 ここにいう土塀がこいの部落とは、保安県の西南にあった旦八寨のことである。この部落には二百余戸の人家があり、ひじょうな要害の地であった。この地方の極悪地主で民団の首領をかねていた曹俊章は、反動武装力百余人をひきいて、長いあいだ、この部落を根城にしていた。赤軍はなんども包囲攻撃をしたが、攻め落とすことができなかった。一九三六年八月、赤軍は地方武装力をもってこれを包囲する一方、部落の基本大衆を獲得し、部落内の敵軍を瓦解させた。この年の十二月、曹俊章は少数の部下をつれて逃亡し、旦八寨は解放された。
〔15〕 明朝末期の朱柏蘆の著『治家格言』にみられる。
〔16〕 ここにいう「アメリカ人」とは、在延安米軍観察班班長バレット大佐のことである。この観察班は、当時対日作戦に参加していたアメリカ軍が、一九四四年、中国共産党の同意をえて、延安に派遣したものである。ハーレーは、アメリカ共和党の反動的政治家のひとりで、一九四四年九月、アメリ力大統領の私的代表の資格で中国にきた。そして、同年の末、中国駐在のアメリカ大使となった。本選集第三巻の『愚公、山を移す』注〔3〕を参照。
〔17〕 一九四五年八月の六日と九日に、アメリカは日本の広島と長崎に、それぞれ一発の原子爆弾を投下した。アメリカと国民党の宣伝機関はこれについて、日本政府が降伏したのはアメリカの原子爆弾をおそれたためだと、大いに宣伝につとめた。かれらはこうした宣伝によって、ソ連の参戦が日本の降伏にたいしてはたした決定的な役割をけなそうとした。
〔18〕 マウントバッテンは、当時、東南アジア連合軍の最高指揮官であった。一九四五年八月九日、かれはソ連の対日作戦参加を歓迎する談話を発表し、「原子爆弾によって極東の戦争を終わらせることができると考えるのは最大のあやまりである」といった。
〔訳注〕
① 本選集第一巻の『中国社会各階級の分析』訳注④を参照。




