蒋介石の双十節演説を評す (一九四四年十月十一日)
これは、毛沢東同志が新華社にかわって書いた論評である。
からっぼで中味がなく、人民の関心をもっている問題になにひとつ答えていないのが、蒋介石の双十節①演説の特色のひとつである。蒋介石は、大後方②にはまだ広大な土地があり、敵をおそれるにあたらないといっている。寡頭独裁の国民党指導者たちには、いまになってもまだ、政治を改革して敵をくいとめるどんな意図も能力もみられず、敵を防ぎとめるのに「土地」というできあいの元手しかない。だが、だれの目にもあきらかなように、この元手だけでは不十分である。なぜなら、正しい政策と人びとの努力がないために、日本帝国主義はまいにちこの残りの土地に脅威をあたえているからである。蒋介石は敵のこうした脅威をつよく感じていることだろう。そのことは、かれが脅威はないとくりかえし人民にのべていること、さらには「自分が黄埔で建軍して③いらい二十年、革命情勢がこんにちほど堅固であったことはない」といっていることをみさえすればわかる。これこそ、かれがこうした脅威を感じていることのあらわれである。かれはまた、くりかえし、「われわれは自信をうしなって」はならないといっている。これこそ、国民党の隊列のなかに、国民党支配区の知名人のあいだに、すでに自信をうしなっている人が数多くいることのあらわれである。蒋介石はいま、この自信をもりかえそうとその方法をさがし求めている。だが、かれは、政治、軍事、経済、文化のどの政策どの活動にも、もりかえす方法を求めず、忠言をこばみ自己の非をつくろうという方法をさがしあてた。かれにいわせると「外国の観察家」はみな「わけのわからない」人間で、「外国の世論がわれわれの軍事と政治についてさかんに議論している」のはみな「日本侵略者と民族裏切り者のデマや悪だくみ」に乗せられているためだ、という。不思議なことには、ルーズベルトなどのような外国人までが、宋慶齢などのような国民党員や国民参政会の多くの参政員およびすべての良心的な中国人とおなじように、蒋介石とその側近の耳ざわりのよい言いわけを信用しないで、「われわれの軍事と政治についてさかんに議論して」いる。蒋介石は、こういう現象に悩まされながらも、筋のとおった堂々たる論拠とおもえるものがなにひとつ見つからないでいたのだが、ことしの双十節になってようやくそれをみつけだした。なんと、かれらが「日本侵略者と民族裏切り者のデマや悪だくみ」に乗せられているためだ、というのである。そこで蒋介石は、その演説のなかでながながと、この「日本侵略者と民族裏切り者のデマや悪だくみ」なるものをひどくののしった。かれは、このようにののしれば、すべての中国人や外国人の口をふさぐことができると考えている。おれの軍事と政治についてこれ以上「さかんに議論する」ものがあれば、それは「日本侵略者と民族裏切り者のデマや悪だくみ」に乗せられているのだ、というわけである。われわれは蒋介石のこの指摘は笑止干方だと考える。なぜなら、国民党の寡頭独裁、抗戦の怠慢、腐敗と無能にたいし、国民党政府のファッショ的政令や敗北主義的軍令にたいしては、日本侵略者と民族裏切り者は、これまで批判したことがないどころか、それをたいへん歓迎しているからである。人びとからひとしく不満を買っている蒋介石の著書『中国の運命』については、日本帝国主義はなんども心からの賛辞をおくっている。また、国民政府とその統帥部の改組について、日本侵略者や民族裏切り者が一言半句でも口にしたのをきいたことはない。なぜなら、まいにち人民を抑圧し、まいにち負けいくさをやっているいまのような政府と統帥部をそのままにしておくことは、それこそ日本侵略者と民族裏切り者ののぞむところだからである。蒋介石とその一味が、これまで日本帝国主義から投降勧誘の対象とされてきたことは、事実ではないとでもいうのか。日本帝国主義がもとかかげていた「共産党反対」、「国民党消滅」という二つのスローガンのうち、「国民党消滅」はとっくにすてられ、「共産党反対」だけが残っているのは、事実ではないとでもいうのか。日本帝国主義者は、いまなお国民党政府にたいして宣戦していない。かれらは、日本と国民党政府とのあいだにはまだ戦争状態が存在していないといっているのである。国民党の要人たちの上海、南京、寧波一帯にある財産は、いまでも、日本侵略者、民族裏切り者によってりっぱに保管されている。敵の頭目、畑俊六は代表を奉化におくって、蒋介石の祖先の墓前祭をした。蒋介石の側近たちは、こっそり使者をおくって、ほとんどたえることなく上海などで日本侵略者と連係をたもち、秘密交渉をすすめている。とくに日本侵略者の進攻が激化したときには、このような連係や交渉がますます多くなる。これらすべては、事実ではないとでもいうのか。このことからみて、蒋介石とその一味の軍事と政治について「さかんに議論している」人びとは、いったい「わけのわからない」人間なのか、それともわけのわかっている人間なのか。この「わけ」の出どころは、いったい「日本侵略者と民族裏切り者のデマや悪だくみ」なのか、それとも蒋介石自身とその一味にあるのか。
蒋介石の演説のなかには、中国に内戦がおこることはないと言明したところもある。だが、かれはまた、「汪精衛のやからの行為のごとく、あえて民国を裏切り、抗戦を破壊する人間は二度とあらわれない」ともいっている。蒋介石は、ここに内戦の理由をさがしもとめ、しかも、それをさがしあてたのである。記憶のいい中国人なら忘れることはないだろうが、一九四一年、ちょうど中国の裏切り者どもが新四軍の解散を宣告し、中国人民が内戦の危機を阻止するためにたちあがったとき、蒋介石はある演説のなかで、将来けっして「共産党討伐」戦争はおこるまい、おこるとすれば、それは反逆者討伐の戦争であろうといったことがある。また、『中国の運命』をよんだことのある人びとは、蒋介石がそのなかで、中国共産党は一九二七年の武漢政府の時期に、汪精衛と「結託」したことがあるといったのをやはりおぼえているだろう。一九四三年の国民党中央執行委員会第十一回全体会議の決議では、さらに、中国共産党に「抗戦を破壊し、国家を危うくする」といういいがかりをつけている。いままた、蒋介石のこの演説をよむと、内戦の危険が存在しているばかりでなく、増大しつつあることを感じさせられる。中国人民がいまからしっかりと頭にいれておく必要があるのは、蒋介石がある朝とつぜん、いわゆる「反逆者」の討伐令をくだすだろう、そのときの罪名は、いわく「民国を裏切った」、いわく「抗戦を破壊した」、いわく「汪精衛のやからの行為のごとし」だということである。蒋介石はこういうやり方が得意である。かれは、[”广”の中に”龍”]炳勲、孫良誠、陳孝強〔1〕などのやからを反逆者と宣告することは不得意であり、かれらを討伐することも不得意であるが、華中の新四軍と山西の決死隊〔2〕を「反逆者」と宣告することは得意であり、しかもそれを討伐することはひじょうに得意である。中国人民がけっして忘れてはならないのは、蒋介石が内戦をおこさないと言明しているときに、そのかれがすでに七十七万五千の軍隊をさしむけており、これらの軍隊がいまもっぱら八路軍、新四軍、および華南の人民遊撃隊を包囲したり攻撃したりしている、ということである。
蒋介石の演説は、積極的な面からいえば、からっぽで中味がなく、中国人民が熱望している抗日戦線の改善については、なんらの解答をもあたえていない。だが、消極的な面からいえば、この演説は、危険性にみちている。蒋介石の態度は、ますます常軌を逸したものとなっている。かれは、政治を改革せよという人民の要求にあくまでも反対し、中国共産党をはげしく敵視し、その準備している反共内戦のための口実をにおわせている。だが、蒋介石のこうした企図は、すべて実現できるものではない。かれが自分自身のやり方を変えたがらないなら、かれはもちあげた石で自分の足をうつことになるだろう。かれのいまのやり方はぜったいに適用するものではないから、われわれは、かれがそれをあらためるよう心から希望する。かれはすでに「言論のわくをゆるめる」と宣言している〔3〕以上、「日本侵略者と民族裏切り者のデマや悪だくみ」に乗せられているといった侮辱的なことばで人びとをおどかし、「さかんに議論」する口を封ずるべきではない。かれはすでに「訓政時期をちぢめる」と宣言している以上、政府を改組し、統帥部を改組せよという人びとの要求を拒否すべきではない。かれはすでに「政治的な方法によって共産党問題を解決する」と宣言している以上、内戦準備の理由をさがし求めるべきではない。
〔 ##注## 〕
〔1〕 [”广”の中に”龍”]炳勲、孫良誠、陳孝強は、あい前後して、公然と日本侵略者に投降した国民党の将軍である。
〔2〕 山西省の決死隊とは、抗日戦争の初期に、共産党の指導と影響のもとで発展してきた山西省人民の抗日武装組織のことである。本選集第二巻の『すべての抗日勢力を結集して反共頑迷派に反対しよう』注〔3〕を参照。
〔3〕 一九四四年いらい、国民党の専制支配をやめ、民主主義を実行し、言論の自由を保障せよという要求が国民党支配地域人民の普遍的な声となっていた。人民の切実な要求にたいし、国民党は一九四四年四月、いわゆる「言論のわくをゆるめる」という宣言をおこなって、ごまかした。五月には、国民党中央執行委員会第十二回全体会議は、さらに「言論の自由を保障する」と宣言した。だが、国民党がやむをえずおこなったこれらの表示は、その後すこしも実現をみず、人民の民主主義運動の高揚につれて、人民の言論を抑圧する措置がつきることなくつぎつぎにとられた。
〔 ##訳注## 〕
① 一九一一年(辛亥年)十月十日、革命の影響を受けた清朝の軍隊の一部が武昌で蜂起をおこなった。ついで、全国が熱烈にこれに呼応し、清朝の反動支配は急速に崩壊し、清朝の皇帝はうちたおされた。これが辛亥革命である。一九四九年、中華人民共和国が成立するまでは、十月十日を「双十節」とよんでいたが、いまでは、この日を辛亥革命記念日という。
② 本巻の『延安の文学・芸術座談会における講話』注〔11〕を参照。
③ 本選集第二巻の『戦争と戦略の問題』注〔9〕を参照。




