中国共産党中央革命軍事委員会スポークスマンの新華社記者にたいする談話 (一九四一年一月二十二日)
安徽省南部における今回の反共事変は、早くからたくらまれてきたものである。当面の事態は、全国的な突発事変の発端にすぎない。日本侵略者は、ドイツ、イタリアと三国同盟〔1〕を結んだのち、中日戦争を急速に解決するため、やっきになって、中国の内部に変化をおこさせる策動につとめてきた。その目的は、中国人の手をかりて中国の抗日運動を弾圧し、日本南進の後方をかためることにある。それによって、思いのままに南進してヒトラーのイギリス進攻の行動に呼応しようというのである。中国親日派の主要分子で、早くから国民党の党、政府、軍隊などの各機関にもぐりこんでいるものはかなり多く、かれらは日夜、扇動と誘惑をこととしている。昨年末、その全計画は準備を完了した。安徽省南部の新四軍部隊にたいする襲撃と一月十七日の反動的命令〔2〕の公布は、この計画の表面化の発端にすぎない。もっとも重大な事変が今後しだいに演じられていくだろう。日本侵略者と親日派の計画の全貌はどのようなものだろうか。それはつぎのとおりである。
(一)何応欽、白崇禧の名で朱、彭、葉、項にあてた、「十月十九日」と「十二月八日」の二つの電報〔3〕を公表して、世論を動かす。
(二)内戦をおこす準備として、新聞で軍紀、軍令の重要性を宣伝する。
(三)安徽省南部の新四軍を消滅する。
(四)新四軍が「反乱した」と宣告し、同軍の名称を編制から抹消する。以上の各項はいずれもすでに実現した。
(五)湯恩伯、李品仙、王仲廉、韓徳勤らを華中各路の「共産党討伐」軍司令官に任命し、李宗仁を最高総司令官として、新四軍の彭雪楓、張雲逸、李先念らの部隊を攻撃し、それがうまくいけば、さらに山東省と江蘇省北部の八路軍、新四軍をも攻撃する。日本軍はこれに緊密に呼応する。この段どりは、すでに実行されはじめている。
(六)口実をみつけて、八路軍が「反乱した」と宣告し、八路軍の名称を編制から抹消し、朱、彰の逮捕命令をだす。この段どりは目下準備中である。
(七)重慶、西安、桂林などの八路軍事務所を閉鎖し、周恩来、葉剣英、菫必武、鄧穎超らを逮捕する。この段どりも実施されはじめており、桂林事務所はすでに閉鎖された。
(八)『新華日報』を閉鎖する。
(九)陝西・甘粛・寧夏辺区に進攻し、延安を奪取する。
(十)重慶および各省で抗日の人びとを大量に逮捕し、抗日運動を弾圧する。
(十一)各省の共産党組織を破壊し、共産党員を大量に逮捕する。
(十二)日本軍は華中、華南から撤退し、国民党政府は、いわゆる「失地回復」を宣言するとともに、いわゆる「名誉ある講和」をおこなう必要性を宣伝する。
(十三)日本軍は、これまで華中、華南に駐屯していた兵力を華北に増派して、八路軍にもっとも残酷な攻撃をくわえ、国民党軍と協力して、八路軍、新四軍をのこらず消滅する。
(十四)八路軍、新四軍への攻撃を一刻もゆるめないと同時に、各戦場の国民党軍は日本軍と昨年の休戦状態をつづけ、完全な停戦講和の局面に移れるようにする。
(十五)国民党政府は日本と講和条約を締結し、三国同盟に加入する。以上のそれぞれの段どりは、積極的に準備にとりかかろうとしている。
以上が、日本と親日派の全陰謀計画の大綱である。中国共産党中央は、一昨年七月七日の宣言で、「投降は時局最大の危険であり、反共は投降準備の段どりである」と指摘した。また昨年七月七日の宣言では、「かつてない投降の危険と、かつてない抗戦の困難がやってきた」とのべている。朱、彭、葉、項は、昨年の「十一月九日の電報」〔3〕のなかで、もっと具体的に、つぎのとおり指摘した。「国内の一部のものは、いま、あらたな反共の高まりなるものを策動して、投降への道をはき清めようと企図している。……中日連合の『共産党討伐』なるものによって、抗戦の局面を終わらせようとしている。内戦をもって抗戦にかえ、投降をもって独立にかえ、分裂をもって団結にかえ、暗黒をもって光明にかえようとしている。事態はきわめて険悪であり、計略はきわめて悪らつである。道ゆく人もたがいに取りざたして、大いにおどろいている。時局の危機がこんにちほど重大であったことはかつてない。」したがって、安徽省南部事変と重慶軍事委員会の一月十七日の命令は、一連の事変の発端にすぎない。とくに、一月十七日の命令には、重大な政治的意義がふくまれている。なぜなら、発令者が天下の大悪をおかしても、公然とこの反革命的な命令をだしたうちには、きっと全面的な決裂と徹底的な投降の決意があったはずだからである。中国の軟弱な大地主、大ブルジョア階級の政治的代表者たちは、うしろだてがなければどんな小さいこともやれはしないのに、まして、このような驚天動地の大きなことがどうしてやれようか。いまの時機に、発令者のこの決意を変えさせることは、もはや非常にむずかしいようであり、全国人民の緊急の努力と国際外交面からの大きな圧力がないかぎり、この決意を変えさせることはおそらく不可能であろう。したがって、全国人民の当面の緊急任務は、最大の警戒心をもって事変の発展をみまもり、どのような暗黒な反動的局面にも対処できる準備をしておくことであり、絶対に油断してはならない。中国の将来はどうかといえば、それはきわめてはっきりしている。日本侵略者と親日派の計画が実現したとしても、われわれ中国共産党と中国人民は、身を挺して時局を収拾する責任があるだけでなく、その力もあると確信しており、日本侵略者と親日派がいつまでも横行するのをけっしてゆるすものではない。時局がどのように暗愚でも、将来なおどのような苦難の道を経なければならないとしても、また、その途上でどのような代価(安徽省南部の新四軍部隊がこの代価の一部である)を払わなければならないとしても、結局、日本侵略者と親日派は失敗するものである。その理由はつぎのとおりである。
(一)中国共産党は、もはや一九二七年のときのようにたやすく欺かれたり、つぶされたりすることはない。中国共産党は、すでに、ゆるぎない独立の大政党となっている。
(二)中国のその他の政党(国民党をふくめて)の党員には、民族滅亡の大禍を懸念して、投降と内戦をのぞまない人がきっと多いにちがいない。一部のものは、一時ごまかされてはいるが、時機がくれば、やはり目ざめる可能性がある。
(三)中国の軍隊も同様である。かれらの反共は、その大多数が強制されたものである。
(四)全国人民の大多数は、亡国の民となることをのぞんでいない。
(五)帝国主義戦争は、いまや大きな変化の前夜にある。帝国主義にたよって生きているすべての寄生虫が一時どのようにうごめこうと、結局、かれらのうしろだてはたよりになるものではない。いったん大樹が倒れて、猿どもがちりちりになれば、全局面の様相はかわるであろう。
(六)多くの国ぐにで革命が勃発するのは、時間の問題にすぎず、それらの国の革命と中国の革命とが必然的に呼応しあい、ともに勝利をかちとることになる。
(七)ソ連は、世界のもっとも大きな勢力であり、中国が最後まで抗戦するのを決然と援助するだろう。
以上のさまざまな理由から、われわれはやはり、火遊びをしている連中があまりのぼせあがらないよう希望する。われわれはかれらに正式に警告する。少しはつつしんだ方がよかろう、このような火は面白半分に遊べるものではない、自分の首に用心したまえ、と。もし冷静にものを考えることができるなら、この連中は、おとなしく、急いでつぎのことをやるべきである。
第一、崖っぷちで手綱をひきしめ、挑発をやめること。
第二、一月十七日の反動的命令を撤回し、また、自分がまったくまちがっていたと声明すること。
第三、安徽省南部事変の張本人である何応欽、顧祝同、上官雲相の三名を懲罰すること。
第四、葉挺の自由を回復し、ひきつづき新四軍の軍長をつとめさせること。
第五、安徽省南部の新四軍の兵員と武器を全部送りかえすこと。
第六、安徽省南部の新四軍の全死傷者にたいする弔慰と慰謝をおこなうこと。
第七、華中の「共産党討伐」軍を撤退させること。
第八、西北の封鎖線〔4〕をとりはらうこと。
第九、逮捕されている全国のすべての愛国的政治犯を釈放すること。
第十、一党独裁を廃止し、民主政治を実行すること。
第十一、三民主義を実行し、「総理遺言」にしたがうこと。
第十二、親日派の頭目どもを逮捕し、国法による裁判にかけること。
もし以上の十二ヵ条が実行されれば、事態はおのずから平常に復し、われわれ共産党と全国人民は、それほど度をすぎたことはしない。そうでなければ. 「われは恐る、季孫の憂え、顓臾にあらずして、蕭牆のうちにあらんことを」〔5〕ということになり、反動派は、かならずもちあげた石で自分の足をうつ羽目になる。そうなると、われわれは助けたくても助けられなくなってしまう。われわれは国共合作を大事にするが、しかしかれらも合作を大事にしなければならない。卒直にいって、われわれの譲歩には限度があり、われわれの譲歩の段階はすでに終わりをつげた。かれらはすでに最初の一太刀をあびせてきたのだし、その傷は非常に深いのである。もし、まだ将来のことを考えているなら、かれらは自分からのりだして、この傷の治療にあたるべきである。「羊を失ってからおりをつくろっても、まだおそくはない。」これはかれら自身の生死にかかわる大間題であり、われわれとしては最後の忠告をしないわけにはいかない。もしもかれらが悪事を悔いあらためず無法なことをつづけるなら、全国人民は堪忍ぷくろの緒がきれて、かれらを肥だめになげこんでしまうだろう。そうなれば後悔してもおよばない。新四軍については、中国共産党中央革命軍事委員会が一月二十日に命令をだして、陳毅を軍長代理、張雲逸を副軍長、賴伝珠を参謀長、鄧子恢を政治部主任に任命した。同軍は、華中と江蘇省南部一帯になお九万余名をもっており、日本侵略軍と反共軍からはさみうちにされてはいるが、かならず、苦難にめげず奮闘し、あくまで民族と国家のため忠誠をつくすであろう。同時に、その兄弟部隊である八路軍の各部隊も、新四軍がはさみうちにされているのを傍観するようなことはけっしてなく、かならず適切な措置をとって、必要な援助をあたえるであろう。これは、わたしが卒直にいえることである。重慶軍事委員会のスポークスマンがおこなった例の談話にたいしては、「自己矛盾」の四字をもって批判するほかはない。重慶軍事委員会の命令では、新四軍が「反乱した」といっているかと思うと、そのスポークスマンの談話では、新四軍の目的が、南京、上海、杭州の三角地帯に進出して根拠地をつくることにあったともいっている。かれのいうとおりであったとしても、南京、上海、杭州の三角地帯に進出することがはたして「反乱」することになるだろうか。いったいそこへいってだれにたいして反乱するのかを、おろかな重慶のスポークスマンは考えてみなかったのだろうか。そこは、日本が占領している地帯ではないか。君たちは、なぜ、新四軍をそこにいかせず、安徽省南部にいるうちに消滅しようとしたのか。なるほど、日本帝国主義に忠勤をはげむものは、もともと、そうするのが当然なのである。それで、七コ師団を動員した集中殲滅の計画がうまれ、一月十七日の命令がだされ、葉挺が裁判にかけられたのだ。しかし、わたしは、それでも、重慶のスポークスマンは間抜けだといわなくてはならない。かれは、問わず語りに、日本帝国主義の計画を全国人民にもらしてしまったのである。
〔 ##注## 〕
〔1〕 一九四〇年九月二十七日に、ベルリンで結ばれたドイツ、イタリア、日本の三国軍事同盟のことである。
〔2〕 一九四一年一月十七日に、蒋介石が国民政府軍事委員会の名で公布した、新四軍を解散することについての反革命的命令のことである。
〔3〕 悪名高い「十月十九日の電報」と「十二月八日の電報」とは、一九四〇年の冬、蒋介石が二回目の反共の高まりをおこしたときに、国民党政府の参謀総長何応欽と副参謀総長白崇禧の名でうった二通の電報のことである。「十月十九日の電報」では、敵後方での抗戦を堅持している八路軍と新四軍をほしいままに中傷し、黄河以南の抗日部隊にたいする命令として期限つきで黄河以北に撤退することを強制した。十一月九日、朱徳、彭徳懐、葉挺、項英の四同志は、大局を考え、何応欽、白崇禧への返電のなかで、「十月十九日の電報」のデマを事実をあげて反駁するとともに、安徽省南部の部隊を北に移動させることを承諾した。何応欽、白崇禧の「十二月八日の電報」は、反共の「世論」をさらにまきおこすため、朱、彭、葉、項の「十一月九日の電報」にほこ先をむけてうたれたものである。
〔4〕 西北の封鎖線とは、国民党反動派が陝西・甘粛・寧夏辺区を包囲した封鎖線をさす。一九三九年以後、国民党は民衆をかりたてて、辺区の周囲に壕や防壁やトーチカをふくむ五本の封鎖線をつくった。この封鎖線は、西は寧夏にはじまり、南は涇水にそい、東は黄河にたっするもので、延延数省にまたがっていた。安徽省南部事変の直前には、辺区を包囲する国民党の軍隊は二十余万に増強された。
〔5〕 これは、『論語』のなかの孔子のことばから引用したものである。季孫は魯国の大夫、顓臾は春秋時代の小国で、蕭牆は古代の宮廷の門内にある目かくし用の小さな塀である。季孫は顓を討とうとしたが、華孫の憂いは外にあるのではなくて内にあるのだと孔子は考えたのである。
〔 ##訳注## 〕
① 葉挺(一八九六~一九四六年)は広東省恵陽県の出身で、中国共産党員である。一九二二年、孫中山の護衛連隊の大隊長となった。北伐戦争のとき、国民革命軍第四車独立連隊の連隊長となった。一九二七年に第一次大革命が失敗したのち、南昌蜂起の指導にくわわり、第十一軍の軍長となった。同年十二月、また広州蜂起の指導にくわわり、総指揮となった。抗日戦争勃発後は、新四軍の軍長となり、華中の敵後方で抗戦を堅持した。一九四一年、安徽省南部事変で捕えられたが、獄中では断固として節をまげなかった。一九四六年三月に出獄したが、四月八日、重慶から延安に帰る途中、飛行機事故で遭難した。
② 一九四〇年、蒋介石は二回目の反共の高まりをおこしたとき、黄河以南で敵後方での抗戦を堅持していた八路軍、新四軍にたいし、一ヵ月以内に全部黄河以北に移動することを強制する命令をだした。中国共産党は、このでたらめな要求を反駁するとともに、時をうつさず国民党の反共・投降の陰謀を暴露した。しかし、大局を考え、抗日民族統一戦線の分裂をさげるために、安徽省南部にいた新四軍の部隊を長江以北に移動させることに同意した。一九四一年一月七日、蒋介石の指定したコースにしたがって北に移動していた新四軍の司令部とその所属部隊九千余は、安徽省南部の南澤県茂林地区で、侍らぶせていた国民党部隊八万余の攻撃をうけた。新四軍は七昼夜も勇敢に奮戦したが、弾薬も食糧も尽きはて、千余人が包囲を突破したほかは、大部分が壮烈な最期をとげ、軍長葉挺は捕われ、副軍長項英は戦死した。これが国内外をおどろかせた「安徽省南部事変」である。新四軍がこの事変で重大な損失をこうむったのは、項英の重大な右翼的指導ときりはなすことができない。本巻の『おもいきって抗日勢力を発展させ、反共頑迷派の進攻に抵抗せよ』の解題を参照。




