↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
47/173

新民主主義論 (一九四〇年一月)

一 中国はどこへいく


 抗戦いらい、全国の人民のあいだにはいきいきとした気運がみなぎっている。人びとは活路がひらけたとおもい、うれいをおびた顔もすっかりはれやかになった。ところが最近、妥協の空気や反共のわめき声がまたもや急に騒々しくなり、全国の人民をふたたび五里霧中においこんでいる。とくに文化人や青年学生は敏感なだけに、まっさきにそれに突きあたっている。そこで、どうしたらよいのか、中国はどこへいくのか、ということがまた問題になってきた。したがって、『中国文化』〔1〕の出版を機会に、中国の政治と中国の文化の動向の問題を説明することは、あるいは役にたつかもしれない。文化の問題については、わたしは門外漢で、ひとつ研究してみたいとおもいながらも、やっとはじめたばかりである。さいわい、延安イェンアンの多くの同志には、すでにくわしい論文があるので、わたしのこの大ざっぱなものが幕あけのどらがわりにでもなれば結構である。全国の進歩的な文化活動家にとって、われわれのものは、さしずめよい意見をひきだすよび水、せめてものとりえというほどのものにすぎないが、みんなで討議して正しい結論をひきだし、わが民族の要求にこたえるようにしたいとおもう。科学的な態度とは、「事実にもとづいて法則性をもとめる」ことであって、「ひとりよがり」や、「先生ぶる」ような思いあがった態度では、けっして問題を解決することはできない。わが民族の災難はきわめて深く、わが民族を解放の道にみちびくことができるのは、科学的な態度と責任をもつ精神だけである。真理は一つしかなく、はたして、だれが真理をつかんだかは、主観的な誇張によるのではなくて、客観的な実践によるのである。何百何千万という人民の革命的実践だけが、真理を検証する尺度である。わたしは、これを『中国文化』出版の態度としてよいとおもう。


     二 われわれは新中国をうちたてる


 われわれ共産党員は、多年にわたって、中国の政治革命と経済革命のために奮闘してきただけでなく、中国の文化革命のためにも奮闘してきた。これらの目的は、すべて中華民族の新社会と新国家を建設することにある。この新社会と新国家には、新政治と新経済があるばかりでなく、新文化もある。つまり、われわれは、政治的に抑圧され経済的に搾取されている中国を、政治的に自由で経済的に繁栄した中国に変えるだけでなく、旧文化に支配され、そのため無知でたちおくれている中国を、新文化に支配され、そのため文明的ですすんだ中国に変えるのである。一言でいえば、われわれは新中国をうちたてるのである。中華民族の新文化をうちたてること、これが文化の分野におけるわれわれの目的である。


     三 中国の歴史的特徴


 われわれは中華民族の新文化をうちたてるのであるが、その新文化とはいったいどのような文化であろうか。

 一定の文化(イデオロギーとしての文化)は、一定の社会の政治と経済の反映であり、また一定の社会の政治と経済に大きな影響をあたえ作用をおよぼす。そして、経済が基礎であり、政治は経済の集中的表現である〔2〕。これが、文化と政治、経済との関係、および政治と経済との関係についてのわれわれの基本的観点である。そこで、一定の形態の政治と経済が、まず、その一定の形態の文化を決定するのであり、それから、その一定の形態の文化がこんどは一定の形態の政治と経済に影響をあたえ作用をおよぼすのである。マルクスは、「人間の意識がかれらの存在を規定するのではなくて、逆に、かれらの社会的存在がかれらの意識を規定する」〔3〕といっている。かれはまた、「哲学者たちは、世界をいろいろに解釈してきただけである。だが、かんじんなことは、それを変革することである」〔4〕ともいっている。これは、人類の歴史はじまっていらい、意識と存在との関係の問題をはじめて正しく解決した科学的な規定であり、のちにレーニンがほりさげて展開した能動的、革命的反映論の基本的観点である。中国の文化問題を討議するにあたって、われわれはこの基本的観点をわすれてはならない。

 こうみてくると、問題は非常にはっきりしている。われわれがとりのぞこうとする中華民族の旧文化のうちのあの反動的要素は、中華民族の旧政治と旧経済からはなれることのできないものであり、われわれがうちたてようとする中華民族のこの新文化も、やはり中華民族の新政治と新経済からはなれることのできないものである。中華民族の旧政治と旧経済は中華民族の旧文化のよりどころであり、中華民族の新政治と新経済は中華民族の新文化のよりどころである。

 中華民族の旧政治、旧経済とはなにか。また、中華民族の旧文化とはなにか。

 周、秦いらい、中国は封建社会であって、その政治は封建的な政治であり、その経済は封建的な経済であった。そして、このような政治と経済の反映としての、支配的な地位をしめていた文化は封建的な文化であった。

 外国の資本主義が中国を侵略し、中国の社会にも資本主義の要素がしだいに生長するようになってから、中国はしだいに植民地・半植民地・半封建の社会に変わってきた。いまの中国は、日本占領区では植民地社会であり、国民党支配区でも基本的にはやはり半植民地社会である。そして、日本占領区と自民党支配区とを問わず、いずれも封建・半封建制度が優位をしめている社会である。これが現在の中国社会の性質であり、これが現在の中国の国情である。支配的なものについていえば、このような社会の政治は植民地・半植民地・半封建的な政治であり、その経済は植民地・半植民地・半封建的な経済である。そしてこのような政治と経済の反映としての、支配的地位をしめる文化は、植民地・半植民地・半封建的な文化である。

 これらの支配的な政治、経済および文化の形態がわれわれの革命の対象である。われわれがとりのぞこうとしているのは、このような植民地・半植民地・半封建的な旧政治、旧経済およびこのような旧政治、旧経済に奉仕する旧文化である。そして、われわれがうちたてようとしているのは、それと反対のもの、すなわち中華民族の新政治、新経済および新文化である。

 では、中華民族の新政治、新経済とはなにか、また中華民族の新文化とはなにか。

 中国革命の歴史的進展は、二歩にわけなければならない。その第一歩は民主主義の革命、第二歩は社会主義の革命であって、それは性質のちがう二つの革命の過程である。そして、その民主主義も、いまではもはやふるい範疇はんちゅうの民主主義ではなく、旧民主主義ではなくて、新しい範疇の民主主義であり、新民主主義である。

 このことから、中華民族の新政治とは新民主主義の政治であり、中華民族の新経済とは新民主主義の経済であり、中華民族の新文化とは新民主主義の文化である、と断言することができる。

 これが現在の中国革命の歴史的特徴である。革命にたずさわっている中国のすべての政党、すべての人びとで、この歴史的特徴がわからないものは、この革命を指導することも、この革命を勝利にみちびくこともできず、ついには人民からみすてられて、片すみで涙をながすあわれな存在になってしまうであろう。


     四 中国革命は世界革命の一部分である


 中国革命の歴史的特徴は、民主主義と社会主義の二つの段どりにわかれ、しかも、その第一歩が、いまではもはや一般的な民主主義ではなく、中国的な、特殊な、新しい型の民主主義であり、新民主主義であるということにある。では、この歴史的特徴はどのようにして形成されたのか。それは百年もまえからあったものか、それとも、あとになってうまれたものなのか。

 中国と世界の歴史の発展を少しでも研究してみれば、この歴史的特徴が、アヘン戦争のときからあったものではなく、あとになって、第一次帝国主義世界大戦とロシア十月革命ののちにはじめて形成されたものであることがわかる。つぎに、その形成の過程を検討してみよう。

 きわめてあきらかなように、現在の中国社会の性質が植民地・半植民地・半封建のものである以上、中国革命はどうしても二つの段どりにわかれなければならない。その第一歩は、この植民地・半植民地・半封建の社会形態を変えて、独立した民主主義の社会にすることである。第二歩は、革命をさらに発展させて、社会主義の社会をうちたてることである。中国の現在の革命はこの第一歩をあゆんでいる。

 この第一歩の準備段階は、はやくも一八四○年のアヘン戦争から、すなわち中国の社会が封建社会から半植民地・半封建社会に変わりはじめたときからはじまったものである。このかん、太平天国運動、中仏戦争、中日戦争、戊戌ウーシュイ政変、辛亥シンハイ革命、五・四運動、北伐戦争、土地革命戦争をへて、こんにちの抗日戦争にいたるまで、こうした多くの個々の段階に、ちょうど百年の年月がついやされた。ある意味からいえば、それらはすべてこの第一歩を実行したものであり、中国人民がそれぞれの時期にさまざまな程度でこの第一歩を実行し、帝国主義と封建勢力に反対して、独立した民主主義社会の樹立のためにたたかい、第一歩の革命を達成するためにたたかったものである。そして、辛亥革命は、よりいっそう完全な意味で、この革命の発端となった。この革命は、その社会的性質からいうと、プロレタリア社会主義革命ではなくて、ブルジョア民主主義革命である。この革命は、いまだに達成されておらず、なお多くの精力をそそがなければならない。それは、この革命の敵かいまでもなお非常に強大だからである。孫中山先生が、「革命なおいまだ成功せず、同志よ、さらに努力せよ」といったのは、このようなブルジョア民主主義革命のことである。

 ところが、一九一四年に第一次帝国主義世界大戦がおこり、一九一七年のロシア十月革命で地球の六分の一をしめる土地に社会主義国家がうらたてちれてから、中国のプルジョア民主主義革命には変化が生じた。

 それ以前は、中国のブルジョア民主主義革命は、ふるい世界ブルジョア民主主義革命の範疇にぞくし、ふるい世界ブルジョア民主主義革命の一部分であった。

 それ以後は、中国のブルジョア民主主義革命は、新しいブルジョア民主主義革命の範疇にぞくするものになり、革命の陣営からいえば、世界プロレタリア社会主義革命の一部分となった。

 なぜか。それは、第一次帝国主義世界大戦と最初に勝利した十月社会主義革命が、世界歴史全体の方向を変え、世界歴史全体の時代を画したからである。

 世界資本主義の戦線が地球の一角(その一角は全世界の六分の一の土地をしめている)ですでに崩壊し、その他の個所でもすでにその腐朽性をすっかりさらけだしている時代、これらのまだ残っている資本主義の部分がますます植民地、半植民地にたよらなければ存続できなくなっている時代、社会主義国家がすでにうちたてられ、しかも、すべての植民地、半植民地の解放運動をたすけるためにたたかう用意があると表明している時代、資本主義諸国のプロレタリア階級が日一日と社会帝国主義の社会民主主義政党の影響から解放され、植民地、半植民地の解放運動を支持することを表明している時代、このような時代には、どの植民地、半植民地国でも、そこに帝国主義に反対する革命、すなわち国際ブルジョア階級に反対し、国際資本主義に反対する革命がおこるならば、それはもはや、ふるい世界ブルジョア民主主義革命の範疇にぞくするものではなく、新しい範疇にぞくするものである。それはもはやブルジョア的、資本主義的なふるい世界革命の一部分ではなく、新しい世界革命の一部分、すなわちプロレタリア社会主義世界革命の一部分である。このような革命的な植民地、半植民地は、もはや世界資本主義の反革命戦線の同盟軍とみなすことはできず、世界社会主義の革命戦線の同盟軍に変わっている。

 このような植民地、半植民地の革命の第一段階、第一歩は、その社会的性質からいうと、基本的には依然としてブルジョア民主主義的なものであって、その客観的要求は、資本主義の発展のために道をはききよめることである。だがこのような革命は、もはや、ブルジョア階級の指導する、資本主義社会とブルジョア独裁の国家の樹立を目的としたふるい革命ではなく、プロレタリア階級の指導する、第一段階では新民主主義社会と革命的諸階級の連合独裁の国家の樹立を目的とした新しい革命である。したがって、このような革命はまた、まさしく社会主義の発展のためにいっそうひろびろとした道をはききよめるものである。このような革命は、その進行の過程で、敵の状況と同盟軍の変化によって、さらにいくつかの段階にわかれるが、その基本的性質には変わりはない。

 このような革命は、帝国主義に徹底的な打撃をくわえるものであり、したがって、それは帝国主義からはいれられず、帝国主義からは反対される。だが、それは社会主義からはいれられ、社会主義国や社会主義をめざす国際プロレタリア階級からは援助される。

 したがって、このような革命はプロレタリア社会主義世界革命の一部分に変わらざるをえない。

 「中国革命は世界革命の一部分である」というこの正しい命題は、はやくも一九二四年から一九二七年までの中国の第一次大革命の時期に提起された。これは、中国の共産党員が提起し、当時、反帝・反封建闘争に参加したすべての人びとの賛同をえたものである。ただ、当時この理論の意義がまだ展開されておらず、そのため、この問題はまだばくぜんと認識されているにすぎなかった。

 このような「世界革命」は、もはやふるい世界革命ではなく、ふるいブルジョア世界革命はとっくに終わっている。これは新しい世界革命であり、社会主義世界革命である。同様に、その「一部分」は、もはやふるいブルジョア革命の一部分ではなく、新しい社会主義革命の一部分である。これはこのうえなく大きな変化であり、世界の歴史および中国の歴史はじまっていらい、くらべようのない大きな変化である。

 中国の共産党員が提起したこの正しい命題は、スターリンの理論にもとづくものである。

 はやくも一九一八年、スターリンは十月革命一周年の記念論文でつぎのようにのべている。


 「十月革命の偉大な世界的意義は、主としてつぎの諸点にある。すなわち十月革命が、(一)民族問題の範囲をびろげ、これを、ヨーロッパにおける民族的抑圧にたいする闘争という局部的な問題から、被抑圧民族と植民地、半植民地の帝国主義からの解放という全般的な問題に転化させたこと、(二)西欧と東洋の被抑圧民族を、帝国主義とのかがやかしい闘争という共通の軌道にのせて、この解放のための広範な可能性と現実的な道をひらき、それによってかれらの解放事業をいちじるしく容易にしたこと、(三)まさにこのことによって社会主義的西欧と奴隷的東洋とのあいだに橋をかけ、世界帝国主義にたいする、西欧のプロレタリアからロシア革命をへて東洋の被抑圧民族にいたる新しい革命戦線をうちたてたことである。」〔5〕


 この論文のあと、スターリンは、植民地、半植民地の革命がふるい範疇からぬけでてプロレタリア社会主義革命の一部分になったという理論を、くりかえし展開している。なかでも、もっとも明快、的確に説明しているのは、スターリンが一九二五年六月三十日に発表した、当時のユーゴスラビアの民族主義者と論争した論文である。これは張仲実チャンチョンシー訳の『スターリンの民族問題論』に収録されており、表題は『ふたたび民族問題によせて』となっている。それにはつぎの一節がある。


「セミッチは、一九一二年末に書かれたスターリンの小冊子『マルクス主義と民族問題』の一ヵ所をひきあいにだしている。そこには、『勃興ぼっこうしつつある資本主義の諸条件のもとでの民族闘争は、ブルジョア階級相互の闘争である』とのべてある。かれは、これによって、現在の歴史的条件のもとでの、民族運動の社会的意義を規定する自分の定式が正しいことをほのめかそうとしているようである。だが、スターリンの小冊子は帝国主義戦争以前に書かれたものである。当時は、民族問題はマルクス主義者からみて、まだ全世界的意義をもつ問題ではなかった。また民族自決権にかんするマルクス主義者の基本的要求は、プロレタリア革命の一部分とはみなされず、ブルジョア民主主義革命の一部分とみなされていた。そのときいらい、国際情勢が根本的に変化したこと、一方では戦争が、他方ではロシアの十月革命が、民族問題を、ブルジョア民主主義革命の一部分から、プロレタリア社会主義革命の一部分に転化させたということ、この点を見ないのは、笑うべきことであろう。はやくも一九一六年の十月に、レーニンは論文『民族自決権にかんする討論の総括』のなかで、民族自決権にかんする民族問題の基本点は、全民主主義運動の一部分をなすことをやめ、すでに全プロレタリア社会主義革命の構成部分に転化したとのべている。レーニンならびにロシア共産主義者のその他の代表たちの、民族問題についてのそれ以後の著作については、のべるまでもない。こうみてくると、新しい歴史的環境のために、われわれが新しい時代、すなわちプロレタリア革命の時代にはいった現在、セミッチが、ロシアのブルジョア民主主義革命の時代に書かれたスターリンの小冊子の例の箇所を引用するということは、どんな意味をもちうるだろうか。それは、セミッチが、時間と空間をはなれて、生きた歴史的環境とは関連なしに引用し、それによって弁証法のもっとも根本的な要求にそむき、ある歴史的環境のもとでは正しいものも、異なった歴史的環境のもとでは正しくないものになりうろことを考えなかった、という意味をもちうるにすぎない。」


 これによってわかるように、ふたとおりの世界革命がある。一つはブルジョア階級と資本主義の範疇にぞくする世界革命である。この世界革命の時期は、とっくにすぎさっており、はやくも一九一四年、第一次帝国主義世界大戦がおこったとき、とりわけ一九一七年のロシア十月革命のときに終わりをつげた。それ以後もう一つの世界革命、すなわちプロレタリア階級の社会主義世界革命がはじまった。この革命は、資本主義国のプロレタリア階級を主力軍とし、植民地、半植民地の被抑圧民族を同盟軍としている。被抑圧民族のなかで革命に参加している階級、政党、個人がどんな階級、政党、個人であろうと、またかれらがその点を意識しているかどうか、主観的にその点を理解しているかどうかにかかわりなく、かれらが帝国主義に反対するかぎり、その革命はプロレタリア社会主義世界革命の一部分となり、かれらはプロレタリア社会主義世界革命の同盟軍となる。

 中国革命は、こんにちではその意義がいっそう大きくなっている。こんにちは、資本主義の経済的危機と政治的危機によって、世界が日一日と第二次世界大戦におしやられている時期であり、ソ連がすでに社会主義から共産主義への移行をめざしており、全世界のプロレタリア階級と彼抑圧民族を指導し援助して、帝国主義戦争に抵抗し、資本主義的反動に打撃をあたえる力をもっている時期であり、資本主義諸国のプロレタリア階級が資本主義を打倒し、社会主義を実現しようとしている時期であり、中国のプロレタリア階級、農民階級、知識層およびその他の小ブルジョア階級が、中国共産党の指導のもとで、すでに偉大な、独立した政治勢力を形成している時期である。こんにち、われわれはこのような時期におかれているのだから、中国革命の世界的意義がいっそう大きくなったとみるべきではないだろうか。わたしは、そうみるべきだとおもう。中国革命は世界革命の偉大な一部分である。

 この中国革命の第一段階(それはまた多くの小段階にわかれる)は、その社会的性質からいうと、新しい型のブルジョア民主主義革命であって、まだプロレタリア社会主義革命ではないが、それは、とっくにプロレタリア社会主義世界革命の一部分となっており、いまではなおさらこの世界革命の偉大な一部分となり、この世界革命の偉大な同盟軍となっている。この革命の第一歩、第一段階は、けっして中国のブルジョア階級の独裁する資本主義社会を樹立するものではなく、また樹立できるものでもない。それは、中国のプロレタリア階級を指導階級とする中国の革命的諸階級の連合独裁の新民主主義社会を樹立するものであり、これによってこの第一段階を終えるのである。それから、さらにこれを第二の段階に発展させて、中国の社会主義社会を樹立するのである。

 これが、現在の中国革命のもっとも基本的な特徴であり、二十年来(一九一九年の五・四運動からかぞえて)の新しい革命の過程であり、現在の中国革命のいきいきとした具体的な内容である。


     五 新民主主義の政治


 中国革命は二つの歴史的段階にわかれ、その第一段階は新民主主義革命であること、これは中国革命の新しい歴史的特徴である。この新しい特徴は、中国内部の政治関係と経済関係には、具体的にどうあらわれているだろうか。つぎにその状況について説明しよう。

 一九一九年の五・四運動まで(五・四運動は一九一四年の第一次帝国主義大戦と一九一七年のロシア十月革命ののちにおきた)、中国のブルジョア民主主義革命の政治的指導者は、中国の小ブルジョア階級とブルジョア階級(それらの知識人)であった。当時、中国のプロレタリア階級は、まだ、自覚をもった独立した階級勢力としては政治の舞台に登場しておらず、小ブルジョア階級とブルジョア階級の追随者として革命に参加していたにすぎない。たとえば辛亥革命のときのプロレタリア階級がこのような階級であった。

 五・四運動以後、中国の民族ブルジョア階級はひきつづき革命に参加したが、中国のブルジョア民主主義革命の政治的指導者は、もはや中国のブルジョア階級ではなく、中国のプロレタリア階級であった。このとき、中国のプロレタリア階級は、自分自身の成長とロシア革命の影響によって、すでに自覚をもった独立した政治勢力に急速に変わっていた。帝国主義打倒のスローガンと中国のブルジョア民主主義革命全体の徹底した綱領は、中国共産党が提起したものであり、しかも土地革命は中国共産党が単独で実行したものである。

 中国の民族ブルジョア階級は、植民地・半植民地国のブルジョア階級であり、帝国主義の抑圧をうけているため、帝国主義時代にあっても、やはり一定の時期、一定の程度、外国の帝国主義に反対し、また自国の官僚・軍閥政府に反対する(あとの点は、たとえば辛亥革命の時期および北伐戦争の時期がそれである)革命性をもっており、プロレタリア階級および小ブルジョア階級と連合して、かれらの反対しようとおもう敵に反対することができる。これが、中国のブルジョア階級と旧ロシア帝国のブルジョア階級のちがう点である。旧ロシア帝国は、すでに軍事的・封建的帝国主義であり、他国を侵略するものであったため、ロシアのブルジョア階級にはなんらの革命性もなかった。そこでのプロレタリア階級の任務は、ブルジョア階級に反対することであって、それと連合することではなかった。中国は植民地・半植民地で、他国から侵略をうけているため、中国の民族ブルジョア階級は、なお一定の時期、一定の程度の革命性をもっている。ここでのプロレタリア階級の任務は、民族ブルジョア階級のこのような革命性を無視しないで、かれらと帝国主義反対、官僚・軍閥政府反対の統一戦線をうちたてることである。

 しかし、同時に、かれらは、植民地・半植民地のブルジョア階級であるということから、経済的にも政治的にもきわめて弱いため、さらにもう一つの性格、すなわち革命の敵にたいする妥協性をもっている。中国の民族ブルジョア階級は、革命の時期でさえも帝国主義と完全に手をきることをのぞまず、しかも農村での小作料による搾取とかたく結びついているので、帝国主義を徹底的にくつがえすことをのぞまないし、またできもしない、まして封建勢力を徹底的にくつがえすことなどはなおさらのぞまないし、またできもしない。こうしたことから、中国のブルジョア民主主義革命の二つの基本問題、二大基本任務は、中国の民族ブルジョア階級ではどちらも解決することができない。自民党に代表される中国の大ブルジョア階級にいたっては、一九二七年から一九三七年までの長いあいだ、ずっと帝国主義のふところに身を投じ、封建勢力と同盟を結んで、革命的人民に反対してきた。中国の民族ブルジョア階級も、一九二七年およびその後の一時期、反革命に同調したことがあった。抗日戦争では、汪精衛に代表される大ブルジョア階級の一部がまたも敵に投降し、大ブルジョア階級の新しい裏切りをしめした。これも、中国のブルジョア階級が歴史上の欧米諸国のブルジョア階級、とくにフランスのブルジョア階級とちがう点である。欧米諸国、とくにフランスでは、ブルジョア階級がまだ革命の時代におかれていたころは、それらの国のブルジョア革命はわりあい徹底したものであった。中国では、ブルジョア階級はその程度の徹底性さえもっていない。

 一方では革命に参加する可能性、他方では革命の敵にたいする妥協性、これが中国のブルジョア階級のもつ「一人二役」的な二面性である。このような二面性は、欧米における歴史上のブルジョア階級もおなじようにもっていた。かれらは、大敵をまえにすると、労働者、農民と連合して敵に反対するが、労働者、農民が目ざめると、こんどは敵と連合して労働者、農民に反対する。これは世界各国のブルジョア階級のもつ一般的な法則であり、ただ中国のブルジョア階級にはこの特徴がいっそう目だっているだけのことである。

 きわめてあきらかなように、中国では、人民を指導して帝国主義と封建勢力をくつがえすことのできるものが、人民の信頼をかちとることができるのである。なぜなら、人民の不倶戴天の敵が帝国主義と封建勢力であり、とくに帝国主義であるからである。こんにちでは、人民を指導して日本帝国主義を追い出し、民主主義の政治をおこなうことのできるものが、人民の救いの星である。歴史はすでに、中国のブルジョア階級がこの責任をはたしえないこと、この責任はプロレタリア階級の肩にかからざるをえないことを立証している。

 したがって、いずれにしても、中国のプロレタリア階級、農民、知識層およびその他の小ブルジョア階級は、国家の運命を決定する基本的な勢力である。これらの階級のうち、あるものはすでに目ざめており、あるものはいま目ざめつつあるが、かれらは必然的に中華民主共和国の国家構成と政権構成の基本的部分になり、そしてその指導勢力はプロレタリア階級である。いまわれわれがうちたてよらとしている中華民主共和国は、プロレタリア階級の指導のもとでの、反帝反封建のすべての人びとの連合独裁の民主共和国でしかありえない。これこそ、新民主主義の共和国であり、また真に革命的な三大政策をもつ新三民主義の共和国でもある。

 このような新民主主義共和国は、一方では、ふるい形態の、欧米型の、ブルジョア独裁の資本主義の共和国とはちがっている。それは旧民主主義の共和国で、そのような共和国はすでに時代おくれとなっている。新民主主義共和国は、他方では、ソ連型の、プロレタリア独裁の、社会主義の共和国ともちがっている。そのような社会主義の共和国は、すでにソ連で繁栄しているだけでなく、こんご資本主義諸国でも樹立されるものであり、疑いもなく、工業のすすんだすべての国の国家構成と政権構成の支配的な形態になるであろう。だがそのような共和国は、一定の歴史的時期には、まだ植民地、半植民地国の革命にはあてはまらない。したがって、すべての植民地、半植民地国の革命が一定の歴史的時期にとる国家形態は、第三の形態でしかありえない。これが、新民主主義共和国といわれるものである。これは一定の歴史的時期の形態であり、したがって過渡的な形態であるが、他のものではおきかえることのできない必要な形態である。

 したがって、全世界の多種多様な国家体制はその政権の階級的性質からわけると、基本的にはつぎの三種類にほかならない。すなわち、(イ)ブルジョア独裁の共和国、(ロ)プロレタリア独裁の共和国、(ハ)いくつかの革命的階級の連合独裁の共和国である。

 第一の種類は、旧民主主義の国家である。第二次帝国主義戦争勃発後のこんにち、多くの資本主義国は、すでに民主主義のおもかげさえなく、ブルジョア階級の血なまぐさい軍事独裁に変わってしまったか、あるいは変わろうとしている。地主とブルジョア階級による連合独裁の一部の国家はこの部類にいれてよい。

 第二の種類は、ソ連がすでにそうであるほか、資本主義諸国でもはぐくまれつつある。将来、これは一定の時期の世界の支配的形態となるであろう。

 第三の種類は、植民地、半植民地国の革命がとる過渡的な国家形態である。それぞれの植民地、半植民地国の革命には、かならずいくつかのちがった特徴がありうるが、そのちがいは、大同のなかの小異である。植民地あるいは半植民地の革命であるかぎり、その国家構成と政権構成は、基本的にはかならずおなじであり、すなわち帝国主義に反対するいくつかの階級が連合して共同で独裁する新民主主義の国家である。こんにちの中国では、このような新民主主義の国家形態が、抗日統一戦線の形態である。それは、抗日するためのもの、一帝国主義に反対するためのものであり、またいくつかの革命的階級が連合したもの、統一戦線のものである。だが、残念なことに、抗戦をはじめてすでに久しいのに、共産党の指導する抗日民主根拠地以外の大部分の地区では、国家民主化にかんする仕事はほとんどまだ着手されていない。日本帝国主義は、このもっとも根本的な弱点を利用して、おおっぴらに攻めこんできている。これ以上方針を変えないならば、民族の運命は非常な危険にさらされる。

 ここでのべているのは「国体」の問題である。この国体の問題は、清朝の末期から数十年もやかましく論議されてきたが、まだはっきりしていない。じつのところ、それがさしているのは、社会の諸階級が国家のなかでしめる地位という問題にすぎない。ブルジョア階級はいつも、こうした階級の地位をひたかくしにし、「国民」という名によってその一階級独裁の実をあげるのである。このようなことは、革命的人民にとってなんの利益にもならないから、そのことをはっきり指摘すべきである。「国民」という名はつかってもよいが、その国民のなかには、反革命分子もふくまれないし、民族裏切り者もふくまれない。反革命分子や民族裏切り者どもにたいするすべての革命的階級の独裁、これがいまわれわれの必要としている国家である。

 「近世各国のいわゆる民権制度は、往々にしてブルジョア階級に専有され、まさしく平民を抑圧する道具になっている。国民党の民権主義についていえば、一般平民の共有するものであって、少数のものがわたくししうるものではない。」これは、一九二四年、国共合作による国民党第一回全国代表大会の宣言のなかでおごそかに声明されたものである。十六年らい国民党自身がこの声明にそむいたため、こんにちのような重大な国難の局面がつくりだされたのである。これは国民党のこのうえない大きなあやまりであり、われわれは国民党が抗日の洗礼をうけて、このあやまりをあらためるよう希望する。

 さらに、「政体」という問題があるが、それは政権構成の形態の問題をさし、一定の社会階級が、敵とたたかい自分をまもるための政権機関をどんな形態で組織するかということをさしている。適当な形態の政権機関がなければ、国家を代表することはできない。中国では、いまのところ、全国人民代表大会、省人民代表大会、県人民代表大会、区人民代表大会から郷人民代表大会にいたる体系をとり、その各段階の代表大会でその政府を選挙すればよい。だが、それには、男女、信仰、財産、教育などの差別のない、真に普遍・平等の選挙制を実施しなければならない。そうしてはじめて、革命的諸階級の国家のなかでしめる地位に適し、民意の表明と革命闘争の指揮に適し、新民主主義の精神に適したものとなるのである。このような制度がつまり民主集中制なのである。民主集中制の政府だけがすべての革命的人民の意志を十分に発揚できるし、また革命の敵にもっとも力づよく反対できるのである。「少数のものが私しうるものではない」という精神は、政府と軍隊の構成にもつらぬかれなければならない。真の民主主義制度がなければ、この目的を達成することはできず、政体が国体に適応しないことになる。

 国体――革命的諸階級の連合独裁。政体――民主集中制。これが新民主主義の政治であり、新民主主義の共和国であり、抗日統一戦線の共和国であり、三大政策をもつ新三民主義の共和国であり、名実あいともなった中華民国である。われわれはいま中華民国という名はもっているが、まだ中華民国の実をともなっていない。その名にふさわしく実をととのえていくこと、これこそがこんにちの仕事である。

 これが、革命の中国、抗日の中国がうちたてるべき、またどうしてもうちたてなければならない内部の政治関係であり、これがこんにちの「建国」の仕事の唯一の正しい方向である。


     六 新民主主義の経済


 中国にこのような共和国をうちたてるには、政治的に新民主主義でなければならず、経済的にも新民主主義でなければならない。

 大銀行、大工業、大商業は、この共和国の国有となる。「すべて中国人および外国人の企業で、独占的性質をもつか、もしくは規模が大きすぎて私的な力では経営できないもの、たとえば銀行、鉄道、航空事業などのたぐいは、国家がこれを経営管理し、私有資本制度が国民の経済生活を左右できないようにする。これが資本節制の主旨である。」これもまた、国共合作による国民党第一回全国代表大会の宣言のなかでおごそかに声明されたものであり、これが新民主主義共和国の経済構成の正しい方針である。プロレタリア階級の指導する新民主主義共和国の国営経済は、社会主義的性質のものであり、国民経済全体を指導する力である。だが、この共和国は、その他の資本主義的私有財産を没収するものではなく、また「国民の経済生活を左右できない」ような資本主義的生産の発展を禁止するものでもない。それは、中国の経済がまだ非常におくれているからである。

 この共和国は、ある種の必要な方法をとって地主の土地を没収し、それを土地のない農民や土地のすくない農民に分配して、孫中山先生の「耕すものに土地を」のスローガンを実行し、農村における封建的な関係を一掃し、土地を農民の私有に変える。農村における富農経済もその存在はゆるされる。これが「地権平均」の方針である。この方針の正しいスローガンが「耕すものに土地を」である。この段階では、一般に、まだ社会主義の農業をうちたてるのではない。だが、「耕すものに土地を」の基礎のうえに発展してくるさまざまな協同組合経済は、社会主義的要素をももっている。

 中国の経済は、かならず「資本節制」と「地権平均」の道をあゆまなければならない。それは、けっして、「少数のものが私しうる」ものであってはならず、少数の資本家、少数の地主に「国民の経済生活を左右」させるものであってはならない。けっして、欧米型の資本主義社会をうちたててはならず、またふるい半封建社会のままであってもならない。あえてこの方向にそむくなら、絶対にその目的をとげることはできず、自分自身が痛い目にあうだろう。

 これが、革命の中国、抗日の中国がうちたてるべき、また必然的にうちたてなければならない内部の経済関係である。

 このような経済が新民主主義の経済である。

 そして、新民主主義の政治がこのような新民主主義の経済の集中的表現である。


     七 ブルジョア独裁を反ばくする


 このような新民主主義の政治と新民主主義の経済の共和国は、全国の九〇パーセント以上の人民が賛成しているものであって、これ以外にあゆむべき道はない。

 ブルジョア独裁の資本主義社会をうちたてる道をあゆもうというのか。なるほど、それはかつて欧米のブルジョア階級があゆんだ道ではある。だが、残念ながら、国際、国内環境は、中国がそうするのをゆるさない。

 国際環境からいえば、この道はゆきづまっている。いまの国際環境は、基本的にいって、資本主義と社会主義が闘争している環境であり、資本主義が没落にむかい社会主義が生長にむかっている環境である。中国にブルジョア独裁の資本主義社会をうちたてようとしても、まず第一に国際資本主義、すなわち帝国主義がゆるさない。帝国主義が中国を侵略し、中国の独立に反対し、中国における資本主義の発展に反対してきた歴史、それが中国の近代史である。これまで、中国革命はすべて、帝国主義にしめ殺されて失敗したのであり、革命に殉じた無数の烈士は、そのため、つきぬうらみをいだいて死んでいったのである。いまは、強大な日本帝国主義が攻めこみ、中国を植民地に変えようとしている。いまは、日本が中国で自分の資本主義を発展させているのであって、なにも中国が資本主義を発展させているわけではない。いまは、日本のブルジョア階級が中国で独裁しているのであって、なにも中国のブルジョア階級が独裁をしているわけではない。たしかに、いまは帝国主義の最後のあがきの時期であり、かれらは死にひんしている。「帝国主義とは死滅しつつある資本主義」〔6〕のことである。だが、かれらは死にひんしているからこそ、生きるためにますます植民地、半植民地にたよるのであって、いかなる植民地、半植民地にもブルジョア独裁の資本主義社会などを樹立するのをけっしてゆるしはしない。日本帝国主義は、重大な経済的危機と政治的危機の深みにおちこんでいるからこそ、つまり死にひんしているからこそ、是が非でも中国を攻め、是が非でも中国を植民地に変えようとし、中国のブルジョア独裁の樹立と民族資本主義の発展の道をたちきったのである。

 つぎには、社会主義がそれをゆるさない。この世界では、すべての帝国主義がわれわれの敵であり、中国が独立するには、どうしても会主義国と国際プロレタリア階級の援助からはなれることはできない。それはつまり、ソ連の援助からはなれることはできないし、また日本やイギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリアなどの諸国のプロレタリア階級が自国ですすめている反資本主義闘争による援助からもはなれることはできない、ということである。中国革命の勝利はかならず日本やイギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリアなどの諸国、あるいはそのうちの一、二ヵ国の革命が勝利したあとになるとはいえないが、しかし、中国革命の勝利のためにはかれるの力がくわわる必要のあることは、疑いがない。とりわけ、ソ連の援助は、抗戦の最後の勝利をかちとるうえで欠くことのできない条件である。ソ連の援助を拒否するなら、革命は失敗する。それは、一九二七年以後の反ソ運動〔7〕の教訓できわめてはっきりしているではないか。いまの世界は、革命と戦争の新時代、つまり、資本主義がかならず死滅し社会主義がかならず繁栄する時代におかれている。このような状況のもとで、中国が反帝・反封建闘争に勝利したのち、ブルジョア独裁の資本主義社会をうちたてるなどということは、まったくの寝言でなくてなんだろう。

 特殊な条件(ブルジョア階級がギリシアの侵略にうち勝ち、プロレタリア階級の力があまりにもよわかった)によって、第一次帝国主義大戦と十月革命ののちに、なおケマル型の、ごく小さなブルジョア独裁のトルコ〔8〕がうまれたとしても、第二次世界大戦とソ連の社会主義建設の完成ののちには、もう一つのトルコがうまれるようなことはけっしてありえないし、まして、四億五千万の人口をもつトルコがうまれるようなことは、けっしてゆるされはしない。中国では、その特殊な条件(ブルジョア階級の軟弱性と妥協性、およびプロレタリア階級の強大さと革命の徹底性)によって、これまでトルコのようなうまい話などはなかった。一九三七年、中国の第一次大革命が失敗したのち、中国のブルジョア分子が、ケマル主義とかなんとかと騒ぎたてたことがあったではないか。だが、中国のケマルはいったいどこにいるのか。中国のブルジョア独裁と資本主義社会はいったいどこにあるのか。まして、いわゆるケマルのトルコも、最後にはイギリス、フランス帝国主義のふところに身を投ぜざるをえなくなり、日一日と半植民地に変わり、帝国主義反動世界の一部分に変わってしまったのである。こんにちの国際環境にあっては、植民地、半植民地のどのような英雄豪傑たちも、帝国主義戦線の側にたって世界反革命勢力の一部分となるか、反帝国主義戦線の側にたって世界革命勢力の一部分となるかである。かならず両者のどちらかであって、それ以外に道はない。

 国内環境からいえば、中国のブルジョア階級は必要な教訓をくみとったはずである。大ブルジョア階級をかしらとする中国のブルジョア階級は、一九二七年の革命がプロレタリア階級、農民およびその他の小ブルジョア階級の力によって勝利したばかりのときに、これらの人民大衆を足げにして、革命の成果をひとりじめにし、しかも、帝国主義および封建勢力と反革命の同盟を結ぶとともに、あらんかぎりの力をふりしぼって、十年にわたる「共産党討伐」の戦争をおこなった。ところが、その結果はどうであったか。いまは強大な敵がわが国土ふかく侵入し、抗日戦争がすでに二年もたたかわれたあとであるのに、それでもなお、欧米ブルジョア階級の、もはや時代おくれになったふるいきまりを踏襲しようとでも考えているのだろうか。以前の「共産党討伐十年」もブルジョア独裁の資本主義社会などは「ち」ださなかったのに、それでもなお、もう一度ためしてみようとでも考えているのだろうか。たしかに、「共産党討伐十年」は「一党独裁」を「討ち」だしはしたが、それは半植民地的、半封建的な独裁であった。しかも、「共産党討伐」四年(一九二七年かち一九三一年の「九・一八」まで)ののちにはすでに「満州国」を「討ち」だし、さらに六年たった一九三七年には、日本帝国主義を中国中心部に「討ち」いらせてしまった。もしだれかが、いまからさらに十年にわたる「討伐」をやろうとするなら、それはふるいものとは多少のちがいがあって、すでに新しい「共産党討伐」の典型である。ところが、その新しい「共産党討伐」事業を、足はやにぬけがけして勇ましくも買ってでた人物があらわれたではないか。汪精衛がそれだ。かれはすでに名声とどろく新しい型の反共の人物である。その仲間にはいりたいというなら、それもよかろう。だが、そうなると、やれブルジョア独裁だ、やれ資本主義社会だ、やれケマル主義だ、やれ近代国家だ、やれ一党独裁だ、やれ一つの主義①だなどという節まわしは、歌うのもますます体裁がわるくなりはしないか。もし、汪精衛の仲間にはいらなくても、抗日の仲間にはいろうとしながら、抗日戦争が勝利したあかつきに、抗日人民を足げにして、自分だけで抗日の成果をひとりじめにし、「一党独裁万歳」をやろうと考えるなら、それも夢のようなものではないだろうか。抗日、抗日、それはだれの力によるのか。労働者、農民およびその他の小ブルジョア階級をはなれては、一歩も動けるものではない。それでも、あえてかれらを足げにしようものなら、こっぱみじんにされてしまう。これまた、常識とされていることではないだろうか。ところが、中国のブルジョア頑迷がんめい派(わたしのいっているのは頑迷派のことだ)は、二十年このかた、なんの教訓もくみとっていないようである。かれらは、いまだに「共産党制限」とか、「共産党溶解」とか、「共産党反対」とか、わめきたてているではないか。かれらは「異党活動制限措置法」のあと、また「異党問題処理規程」をもちだし、さらに「異党問題処理実施方案」をもちだしているではないか。大したものだ。このように「制限」し「処理」していって、かれらはいったい民族の運命をどこにおき、また、自分自身をどこにおこうとしているのか。われわれは誠心誠意これらの諸先生にご忠告申しあげる。あなたがたもよく目をあげて中国と世界をみ、国内と国外をみ、いまがどんな情勢であるかをみるべきであり、あなたがたのあやまりを、これ以上くりかえしてはいけない。これ以上あやまりをつづけるなら、民族の運命に災いがふりかかるのはもちろん、あなたがた自身のこともうまくいかないだろう。中国のブルジョア頑迷派が目ざめないなら、かれらのことはかんばしくいかず、かれらは自滅の道をもとめることになるだろう。これは、はっきりしたことであり、きまりきったことであり、たしかなことである。したがって、われわれは、中国の抗日統一戦線が堅持されるよう希望する。ひとりで独占するのではなく、みんなで協力して、抗日の事業を勝利させること、これが上策であり、それ以外はすべて下策である。これがわれわれ共産党員の心からの忠告であり、「あらかじめ言わざりしというなかれ」である。

 中国のふるいことばに、「飯があれば、みんなでたべよう」というのがある。これは、まことに道理がある。敵があればみんなでたたかうのだから、飯があればみんなでたべ、仕事があればみんなでやり、本があればみんなで読むのが当然である。「ひとりじめ」とか、「指一本ささせぬ」とかいう気負った態度は、封建領主のお家芸でしかなく、二〇世紀の四十年代にはとうてい適用しないものである。

 われわれ共産党員は、いかなる革命的な人びとをもけっして排斥するものではない。われわれは、あくまでも抗日をやりぬこうとするすべての階級、階層、政党、政治団体および個人とともに、統一戦線を堅持し、長期協力を実行する。だが、ひとが共産党を排斥しようとするなら、それはゆるされない。ひとが統一戦線を分裂させようとするなら、それはゆるされない。中国はどうしても抗戦し、団結し、進歩していかなければならない。投降し、分裂し、後退しようとするものがあれば、われわれはだまっているわけにはいかない。


     八 「左」翼空論主義を反ばくする


 ブルジョア独裁の資本主義の道をあゆまないとすれば、プロレタリア独裁の社会主義の道をあゆんでよいのだろうか。

 それもできない。

 疑いもなく、いまの革命は第一歩であって、将来は第二歩に発展し、社会主義に発展する。中国が真の幸福な時代になるには、やはり社会主義の時代にはいる以外にない。だが、いまはまだ社会主義を実行するときではない。中国のいまの革命の任務は反帝・反封建であり、この任務が達成されないうちは、社会主義など問題にならない。中国革命は二歩にわけてあゆまなくてはならず、その第一歩は新民主主義であって、社会主義は第二歩である。しかも、第一歩の期間はかなり長く、けっして一朝一夕に達成されるものではない。われわれは空想家ではなく、当面している実際の条件からはなれることはできない。

 悪意をもった一部の宣伝家は、この二つのちかった革命段階をわざと混同して、「一回革命論」というものをとなえ、どんな革命も三民主義のなかにふくまれ、共産主義は存在の理由がなくなったことを証明しようとしている。また、このような「理論」によって、やっきになって共産主義と共産党に反対し、八路軍、新四軍および陝西シャンシー甘粛カンスー寧夏ニンシァ辺区に反対している。その目的は、どんな革命をも根こそぎに消滅し、ブルジョア民主主義革命の徹底性に反対し、抗日の徹底性に反対して、日本侵略者に投降するための世論を準備することにある。このような状況は、日本帝国主義が計画的につくりだしたものである。日本帝国主義は、武漢ウーハンを占領してのち、武力だけでは中国を屈服させることができないのを知って、政治攻勢と経済誘惑に着手したのである。政治攻勢とは、抗日陣営の内部で動揺分子を誘惑し、統一戦線を分裂させ、国共合作を破壊することである。経済誘惑とは「合弁企業」なるものである。日本侵略者は、華中と華南では日本資本を四九パーセントにして、中国の資本家に五一パーセントの投資をゆるし、華北では日本資本を五一パーセントにして、中国の資本家に四九パーセントの投資をゆるしている。日本侵略者は、また、中国の資本家のもとからもっていた企業を返還し、それを換算して資本にあてることをゆるしている。こうなると、良心のひとかけらさえない若干の資本家は、利益に目がくらんで正義をわすれ、いまにもとびつこうとしている。汪精衛に代表される一部の資本家は、すでに投降してしまった。抗日陣営のなかに身をひそめている他の一部の資本家も、とびだそうとしている。しかし、かれらは、共産党にそのゆく手をはばまれはしないか、それにもまして、民衆から民族裏切り者呼ばわりされはしないかと、うしろめたい気持ちでびくびくしている。そこで、かれらはぐるになって会議をひらき、あらかじめ文化界や言論界で下準備することを決議した。術策がきまった以上、事はいそげとばかり、何人かの玄学亡者〔9〕をやといいれ、それにトロツキーを何人かくわえ、仰々しく筆陣をはって、やたらにわめきたて、めくら滅法に攻撃をしかけてきた。こうして、「一回革命論」とか、共産主義は中国の国情にあわないとか、共産党は中国では存在の必要がないとか、八路軍や新四軍は抗日を破壊し、遊して撃せずとか、陝西・甘粛・蜜夏辺区は封建割拠だとか、共産党はいうことを聞かず、統一をこばみ、陰謀をたくらみ、攪乱かくらんをくわだてているとかならべたてて、世事にうとい人たちをだましている。これは時機がきたら、資本家たちがもっともらしく四九パーセントあるいは五一パーセントを手にいれ、全民族の利益をすっかり敵に売りわたせるようにするためである。これこそ中味のすりかえというもので、投降するまえの思想の準備、または世論の準備をしているのである。これらの諸先生は、いかにもまことしやかに「一回革命論」をとなえ、共産主義と共産党に反対しているが、それは、ほかでもなく、もっぱら四九パーセントか五一パーセントのためであって、その苦心たるや並み大抵ではない。「一回革命論」とは、これ革命不用論なりで、これこそが問題の本質である。

 だが、そのほかにも、まだ一部につぎのような人たちがいる。かれらはべつに悪意はないようだが、やはりこの「一回革命論」なるものにまどわされ、「政治革命と社会革命を一挙に成功させる」といったまったく主観的な考え方にまどわされている。革命には段階があり、ある革命から他の革命にうつりうるだけで、「一挙に成功させる」といったものはないことをかれらは知らない。このような観点は、革命の段どりを混同し、当面の任務にたいする努力をよわめるもので、やはりひじょうに有害である。もし二つの革命段階のうち第一は第二のために条件を準備するものであり、二つの段階はかみあわせるべきで、そのあいだにブルジョア独裁の段階をさしはさむのをゆるさないというならば、それは正しいのであり、マルクス主義の革命発展論である。だが、もし民主主義革命にはそれ自身としての一定の任務も一定の時期もなくて、別の時期でなければ達成されない別の任務、たとえば、社会主義の任務を、この民主主義の任務といっしょにして達成できるとし、そのことを「一挙に成功させる」というならば、それこそ空想であって、真の革命家のとるところではない。


     九 頑迷派に反ばくする


 すると、ブルジョア頑迷派がとびだしてきていう。よろしい、きみたち共産党は社会主義の社会制度をあとの段階におしやったし、きみたちはまた、「三民主義は中国がこんにち必要とするものであり、わが党はその徹底的実現のために奮闘するものである」〔10〕とも宣言したのだから、共産主義をしばらくひっこめたらよかろう、と。このような議論は、いわゆる「一つの主義」という題目のもとで、身の程しらずのさわぎ方にまで変わってきている。こうしたさわぎ方は、その本質において頑迷分子たちのブルジョア専制主義である。だが、すこし遠慮して、それを常識のまったくないものだといってもよい。

 共産主義はプロレタリア階級の全思想体系であると同時に、また新しい社会制度でもある。このような思想体系と社会制度は、他のいかなる思想体系、他のいかなる社会制度ともちがうもので、人類の歴史はじまっていらい、もっとも完全な、もっとも進歩した、もっとも革命的な、もっとも合理的なものである。封建主義の思想体系と社会制度は、すでに歴史博物館にはいっている。資本主義の思想体系と社会制度も、一部ではすでに博物館にはいっているが(ソ連では)、他の部分でも、すでに「日は西山にせまり、気息奄えん々、生命も危うく、あしたゆうべをはかりがたし」であって、まもなく博物館入りするであろう。ただ、共産主義の思想体系と社会制度だけがいままさに天地をくつがえす勢い、万雷のとどろく力で、全世界にひろがり、そのうるわしい青春をたもっている。中国が科学的共産主義をもつようになってから、人びとの視野がひらけ、中国革命もその面目を一新した。中国の民主主義革命は、共産主義にみちびかれなければ、けっして成功するものではないし、革命のつぎの段階についてはなおさらいうまでもない。これはブルジョア頑迷派があのようにさわぎたて、共産主義を「ひっこめろ」と要求している理由でもある。実際には、これは「ひっこめ」てはならないもので、ひっこめれば中国は滅亡する。現在の世界は共産主義を救いの星としている。現在の中国もまさにそうである。

 周知のように、共産党は、社会制度についての主張で、現在の綱領と将来の綱領、あるいは最低綱領と最高綱領という二つの部分をもっている。現在では新民主主義、将来では社会主義、これは有機的構成の三つの部分であって、共産主義の全思想体系によってみちびかれるのである。共産党の最低綱領が三民主義の政治原則と基本的におなじだからといって、共産主義を「ひっこめろ」とわめきたてるのは、まったくでたらめもはなはだしいではないか。共産党員にとっては、三民主義の政治原則に自分たちの最低綱領と基本的におなじ点があるからこそ、「三民主義を抗日統一戦線の政治的基礎とする」と認めることができ、また「三民主義は中国がこんにち必要とするものであり、わが党はその徹底的実現のために奮闘するものである」と認めることができるのである。さもなければ、そのような可能性はない。これが民主主義革命の段階での共産主義と三民主義の統一戦線であり、孫中山が「共産主義は三民主義のよき友である」といった〔11〕のも、まさしくこのような統一戦線をさしているのである。共産主義を否定することは、実際には統一戦線を否定することである。頑迷派も、まさにその一党主義を実行して統一戦線を否定しようとするからこそ、共産主義を否定するでたらめな論法をもちだしたのである。

 「一つの主義」もすじがとおらない。階級が存在する条件のもとでは、階級の数だけ主義があり、それどころか一つの階級のなかの各集団にさえ、それぞれの主義がある。いま、封建階級には封建主義があり、ブルジョア階級には資本主義があり、仏教徒には仏教主義があり、キリスト教徒にはキリスト主義があり、農民には多神教主義がある。近年は、ケマル主義だとか、ファシズムだとか、唯生主義〔12〕だとか、「労働に応じて分配する主義」〔13〕だとかをとなえるものがいるのに、どうしてプロレタリア階級に共産主義があってはいけないのか。このように数えきれないほどの主義があるのに、どうして共産主義とみれば大声で「ひっこめろ」とさけぶのか。卒直にいって、「ひっこめる」ことはできない。やはり競争しようではないか。競争して共産主義をうち負かすものがあれば、われわれ共産党員も、みずから不運とあきらめよう。もしそうでないならば、あの「一つの主義」という反民権主義的な作風こそ、さっさと「ひっこめ」てもらいたい。

 誤解をさけ、また頑迷派の目をみひらかせるために、三民主義と共産主義のちがう点とおなじ点について、はっきり指摘する必要がある。

 三民主義と共産主義のこの二つの主義を比較してみると、おなじ部分もあるが、またちがう部分もある。

 第一、おなじ部分。中国のブルジョア民主主義革命の段階における二つの主義の基本的政治綱領がそれである。一九二四年に、孫中山があちたに解釈をくだした三民主義のなかの革命的な民族主義、民権主義、民生主義という三つの政治原則は、中国の民主主義革命の段階における共産主義の政治綱領と基本的におなじである。こうしたおなじ点があるため、また三民主義を実行にうつしたことによって、二つの主義、二つの党の統一戦線がうまれたのである。この面を無視するのはあやまりである。

 第二、ちがう部分はつぎの点である。(一)民主主義革命の段階における一部の綱領の相違。民主主義革命における共産主義の全政治綱領のなかには、人民の権力の徹底的実現、八時間労働制および徹底した土地革命綱領があるが、三民主義にはこれらの部分がない。もし三民主義がこれらの部分を補足せず、しかもそれを実行しようとしないならば、それは民主主義の政治綱領にたいして、基本的におなじであるだけで、まったくおなじだとはいえない。(二)社会主義革命の段階があるかないかのちがい。共産主義には、民主主義革命の段階のほかに、もう一つ、社会主義革命の段階がある。したがって、最低綱領のほかにもう一つ、最高綱領、すなわち社会主義と共産主義の社会制度を実現する綱領がある。三民主義には民主主義革命の段階があるだけで、社会主義革命の段階はない。したがって、それは最低綱領があるだけで、最高綱領、すなわち社会主義と共産主義の社会制度をうちたてる綱領はない。(三)世界観のちがい。共産主義の世界観は弁証法的唯物論と史的唯物論であるが、三民主義の世界観はいわゆる民生史観で、実質的には、二元論または観念論であって、両者はあい反している。(四)革命の徹底性のちがい。共産主義者は理論と実践が一致している。すなわち革命の徹底性をもっている。三民主義者は、革命と真理にもっとも忠実な一部の人をのぞいては、理論と実践が一致していず、いうこととすることが相互に矛盾じている。すなわち革命の徹底性をもっていない。以上のべた点は、いずれも両者のちがう部分である。こうしたちがいから、共産主義者と三民主義者のあいだには差異がでてくるのである。このような差異を無視し、ただ統一の面だけをみて、矛盾の面をみないならば、疑いもなく非常なあやまりである。

 これらの点がわかれば、ブルジョア頑迷派が共産主義を「ひっこめろ」と要求することがどんな意味をもつかがわかる。それはブルジョア専制主義か、さもなければ、常識のまったくないものである。


     一〇 旧三民主義と新三民主義


 ブルジョア頑迷派は、歴史の変化をまったく知らず、その知識の貧弱なことはほとんどゼロにひとしい。かれらは、共産主義と三民主義のちがいも知らなければ、新三民主義と旧三民主義のちがいも知らない。

 われわれ共産党員は、「三民主義を抗日民族統一戦線の政治的基礎とする」ことをみとめ、「三民主義は中国がこんにち必要とするものであり、わが党はその徹底的実現のために奮闘するものである」ことをみとめ、共産主義の最低綱領が三民主義の政治原則と基本的におなじであることをみとめている。ところで、その三民主義とはどのような三民主義のことなのか。その三民主義とは、孫中山先生が「中国国民党第一回全国代表大会宣言」のなかであるたに解釈をくだした三民主義のことで、それ以外のいかなる三民主義でもない。頑迷派の諸先生にも「限共」「溶共」「反共」などの活動に得意満面になっているひまに、ひとつこの宣言を読んでもらいたい。もともと、孫中山先生はこの宣言のなかで、「国民党の三民主義についての真の解釈はかくのごとくである」といっている。このことから、この三民主義だけが真の三民主義であって、その他はすべてにせの三民主義であることがわかる。「国民党第一回全国代表大会宣言」のなかの三民主義についての解釈だけが「真の解釈」であって、他のすべてはにせの解釈である。これは共産党の「デマ」ではあるまい。わたしも多くの国民党員も、この宣言の採択されたのを目のあたりにみたのである。

 この宣言によって、三民主義は二つの歴史的時期にわけられた。それよりまえの三民主義は、ふるい範疇の三民主義であり、ふるい、半植民地のブルジョア民主主義革命の三民主義であり、旧民主主義の三民主義であり、旧三民主義であった。

 それよりあとの三民主義は新しい範疇の三民主義であり、新しい、半植民地のブルジョア民主主義革命の三民主義であり、新民主主義の三民主義であり、新三民主義である。新しい時期の革命の三民主義は、この三民主義以外にはない。

 このような新しい時期における革命の三民主義、新三民主義あるいは真三民主義は、連ソ、連共、農労援助という三大政策をもつ三民主義である。三大政策がなければ、あるいはそのうちの一つでも欠ければ、新しい時期においては、にせ三民主義か、または半三民主義である。

 第一に、革命の三民主義、新三民主義、あるいは真三民主義は、連ソの三民主義でなければならない。いまの事態は非常にはっきりしていて、もし連ソ政策がなく、社会主義国と連合しないならば、必然的に連帝政策になり、必然的に帝国主義と連合することになる。すでに一九二七年以後にも、こうしたことがあったではないか。社会主義のソ連と帝国主義とのあいだの闘争がさらに先鋭化してくると、中国はこちらに立つか、さもなければあちらに立つことになり、これは必然のなりゆきである。つかずかたよらずにはいられないだろうか。それは空想である。全地球がこの二つの戦線にまきこまれていくのだから、これからの世界で、「中立」とはごまかしのことばにすぎない。まして、中国は国土ふかく侵入してきた帝国主義とたたかっているので、ソ連の援助がなければ最後の勝利など考えられない。もし連ソをすてて連帝するなら、反動的な三民主義に変わり、「革命」の二字を取り消さなければならない。帰するところ、革命の三民主義か、または反革命の三民主義があるだけで、「中立」の三民主義はない。もし、汪精衛が以前いったとおり「はさみうちのなかの奮闘」〔14〕をやり、「はさみうちのなかで奮闘」する三民主義をやるなら、なんと勇ましいことではないか。だが、惜しいことに、発明者の汪精衛さえも、そのような三民主義をすてて(あるいは「ひっこめ」て)、いまでは連帝の三民主義をとるようになった。もし帝国主義にも東帝と西帝の別があり、かれの連合するのが東帝で、自分はそれとは逆に一連の西帝と連合し、東にむけて攻撃する、というなら、これまたなんと革命的ではないか。だが、残念ながら、西帝たちは反ソ反共をやろうとしており、きみがかれらと連合すれば、北にむけて攻撃することをもとめてくるから、革命しようにもできなくなってしまうのである。こうしたすべての事情は、革命の三民主義、新三民主義あるいは真三民主義が、帝国主義と連合する反ソの三民主義であってはならず、連ソの三民主義でなければならないことを規定している。

 第二に、革命の三民主義、新三民主義、あるいは真三民主義は、連共の三民主義でなければならない。連共しなければ、反共することになる。反共は日本帝国主義と汪精衛の政策である。反共するなら、それも結構だ、そうすればかれらはその反共会社に加入をもとめてくるだろう。だが、それでは、いささか民族裏切り者の疑いがかかりはしまいか。自分は日本にはつかず、他の国についていくだけだ、という。それもこっけいな話だ。だれについていこうと、反共をやるかぎり、もう抗日はできなくなるから、民族裏切り者になってしまう。自分は独立で反共する、という。それも寝言である。植民地、半植民地の英雄たちで、帝国主義の力にたよらずに、このような反革命の大事業をしでかせるものがいるだろうか。かつて全世界の帝国主義の力をほとんど動員して、十年ものあいだ反対しながら、反対しされなかった共産党に、いまいきなり「独立」で反対できるだろうか。外部では一部の人たちのあいだで、「反共は結構だが、反対しきれない」といわれているとのことである。もしこうしたうわさがうそでなければ、このことばは半分だけまちがっている。「反共」がどうして「結構」なはずがあろうか。だが、半分はあたっている。「反共」といっても、じっさいには「反対しきれない」。その原因は、共産党にあるのではなく、基本的には民衆にある。なぜなら、民衆は「共」をこのむが、「反」はこのまないからである。民衆は、けっして容赦しないもので、民族の敵が国土ふかく侵入しているときに反共などしようものなら、かれらはそれを生かしてはおかない。これはきまりきったことであって、反共するものは、だれでもこなごなにされるつもりでいなければならない。もし、こなごなになる覚悟をしていなければ、たしかに反対などしない方がよいだろう。これが、すべての反共の英雄たちにたいするわれわれの心からの忠告である。このことから、はっきりしすぎるほどはっきりしているように、こんにちの三民主義は連共の三民主義でなければならず、さもなければ三民主義は滅亡する。これは三民主義の存亡にかかわる問題である。連共すれば三民主義は存続し、反共すれば三民主義は滅亡する。そうではないと、だれが証明できようか。

 第三に、革命の三民主義、新三民主義、あるいは真三民主義は、農労政策をもつ三民主義でなければならない。農労政策をとらず、農労援助に誠意をしめさず、「総理遺言」の「民衆をよびさます」ことを実行しないなら、それこそ革命を矢敗させようとするものであり、また自己を失敗させようとするものでもある。スターリンは、「民族問題とは、実質的には農民問題である」といっている〔15〕つまり、中国革命は実質的には農民革命であり、現在の抗日は実質的には農民の抗日だということである。新民主主義の政治とは、実質的には農民に権力をあたえることである。新三民主義、真三民主義とは、実質的には農民革命主義である。大衆文化とは、実質的には農民の文化をたかめることである。抗日戦争とは、実質的には農民戦争である。いまは「山のぼり主義」〔16〕のときで、会議、執務、授業.新聞発行、著述、演劇はみな山のうえでおこなわれており、実質的にはすべて農民のためである。抗日のすべて、生活のすべてが、実質的には農民からあたえられている。「実質的」というのは基本的ということであって、その他の部分を無視することではない。これはスターリン自身が説明していることである。中国では人口の八○パーセントが農民であって、このことは小学生の常識である。だから、農民問題が中国革命の基本問題となっており、農民の力は中国革命の主要な力である。農民のほかに、中国の人口で第二位をしめるのは労働者である。中国には産業労働者が数百万、手工業労働者と農業労働者が数千万いる。各種の工業労働者は工業経済の生産者であるから、かれらがなければ中国は生活していけない。近代工業の労働者階級は中国革命の指導者であり、もっとも革命性にとんでいるから、かれらがなければ革命は勝利できない。このような事情のもとで、革命の三民主義、新三民主義、あるいは真三民主義は、かならず農労政策をもつ三民主義でなければならない。農労政策をもたず、農労援助に誠意をしめさず、「民衆をよびさます」ことを実行しないような三民主義があるとすれば、それはかならず滅亡するにちがいない。

 これによってわかるように、連ソ、連共、農労援助の三大政策からはなれた三民主義は、前途のないものである。すべての良心的な三民主義者は、この点をまじめに考えなければならない。

 このような三大政策をもつ三民主義、革命の三民主義、新三民主義、真三民主義は新民主主義の三民主義であり、旧三民主義の発展であり、孫中山先生の大きな功績であり、中国革命が社会主義世界革命の一部分となった時代にうまれたものである。中国共産党が、「中国がこんにち必要とする」ととなえ、「その徹底的実現のために奮闘するものである」と宣言しているのは、このような三民主義だけである。中国共産党の民主主義革命の段階における政治綱領、すなわちその最低綱領と基本的におなじなのは、このような三民主義だけである。

 旧三民主義についていえば、それは中国革命のふるい時期の産物である。当時のロシアは帝国主義のロシアであったから、もちろん連ソ政策はありえなかった。当時は国内に共産党もなかったから、もちろん連共政策もありえなかった。当時は労農運動も、政治面でのその重要性を十分にあらわしておらず、まだ人びとの注意もひいていなかったから、もちろん労働者、農民と連合する政策もなかった。したがって一九二四年、国民党が改組されるまでの三民主義は、ふるい範疇の三民主義であり、時代おくれの三民主義であった。それを新三民主義に発展させなければ、国民党は前進できなかった。聡明な孫中山はこの点をみてとり、ソ連と中国共産党の助力をえ、三民主義にあらたな解釈をくだして、ついに新しい歴史的特徴をもたせ、三民主義と共産主義との統一戦線をうちたて、第一次国共合作をうちたて,全国人民の共鳴をえて、一九二四年から一九二七年にかけての革命をおこなったのである。

 旧三民主義は、ふるい時期には革命的であり、ふるい時期の歴史的特徴を反映していた。だが、新しい時期になって、新三民主義が確立されたのちにもまだそのふるいやり方をくりかえし、社会主義国が出現したのちにも連ソに反対し、共産党ができたのちにも連共に反対し、また、労働者、農民がすでに自覚をもち自己の政治的威力をあらわしたのちにも、農労政策に反対するなら、それこそ時勢をわきまえない反動的なものである。一九二七年以後の反動化は、時勢をわきまえなかったことの結果である。ことわざに「時勢をわきまえるものは俊傑なり」という。こんにちの三民主菱者にこのことばを銘記してもらいたいものである。

 もしもふるい範疇の三民主義であれば、それはふるい時期のものであり、すでに時代おくれのものであるから、共産主義の最低綱領とはなんら基本的におなじような点がない。もしも反ソ、反共、反農労の三民主義というものがあるとすれば、それは反動的な三民主義であり、共産主義の最低綱領とはいささかもおなじ点がないばかりか、共産主義の敵であり、すべては問題にならない。この点も、三民主義者がひとつ慎重に考えるべきである。

 だがいずれにしても、反帝・反封建の任務が基本的に達成されるまでは、新三民主義はすべての良心的な人びとから見すてられることはない。それを見すてるのは、あの汪精衛とか李精衛とかいったたぐいだけである。汪精衛、李精衛らがどんなにやっきになって反ソ、反共、反農労といったにせ三民主義をやろうとしても、孫中山の真三民主義をまもりつづけようとする良心的な、正義感をもった人びとが、おのずからあらわれるにちがいない。一九二七年の反動化ののちも、多くの真三民主義者は中国革命のためにたたかいつづけてきたのだから、民族の敵が国土ふかく侵入しているこんにち、そういう人は疑いもなく何千何万にものぼるだろう。われわれ共産党員は、すべての誠実な三民主義者と終始、長期協力をおこなうものであり、あの民族裏切り者や死んでも変わらない反共分子のほかは、どんな友人をもけっして見すてることはない。


     一一 新民主主義の文化


 以上で、新しい時期における中国政治の歴史的特徴について説明し、新民主主義共和国の問題について説明した。つぎに文化の問題にすすむことにしよう。

 一定の文化は、一定の社会の政治と経済がイデオロギーに反映したものである。中国には帝国主義的文化があり、それは中国にたいする帝国主義の政治上、経済上の支配、あるいは半支配を反映したものである。こうした文化は、帝国主義が中国で直接経営している文化機関のほかに、一部の恥しらずな中国人によっても提唱されている。奴隷化思想をふくんだすべての文化は、この部類にはいる。中国にはまた半封建的文化がある。それは半封建的政治と半封建的経済を反映したものであり、孔子をたっとび四書五経を読むことを主張し、旧倫理と旧思想を提唱し、新文化、新思想に反対する人びとは、みなこの部類の文化を代表するものである。帝国主義的文化と半封建的文化は非常に親密な兄弟であり、文化の面で反動同盟を結び、中国の新文化に反対している。この部類の反動文化は、帝国主義と封建階級に奉仕するものであり、うちたおされるべきものである。こういうものをうちたおさなければ、どんな新文化もうちたてられない。破らなければ立たず、きとめなければ流れず、とどめなければ進まない。両者の闘争は生死をかけた闘争である。

 新文化についていえば、イデオロギーのうえで新政治と新経済を反映したものであり、新政治と新経済に奉仕するものである。

 すでに第三節でのべたように、中国に資本主義経済がうまれてから、中国の社会はしだいにその性質を変えており、封建経済がまだ優位をしめてはいるが、それは完全な封建社会ではなく、半封建社会に変わっている。このような資本主義経済は、封建経済にとっては新経済である。このような資本主義の新経済と同時に発生し発展している新しい政治勢力が、ブルジョア階級、小ブルジョア階級およびプロレタリア階級の政治勢力である。そしてイデオロギーのうえでこのような新しい経済勢力と新しい政治勢力を反映し、それらに奉仕するものが、新文化である。資本主義経済がなければ、またブルジョア階級、小ブルジョア階級およびプロレタリア階級がなければ、そしてこれらの階級の政治勢力がなければ、いわゆる新しいイデオロギーも、いわゆる新文化も発生のしようがない。

 新しい政治勢力、新しい経済勢力、新しい文化勢力は、いずれも中国の革命勢力であって、旧政治、旧経済、旧文化に反対するものである。これらのふるいものは二つの部分からなっており、一つは中国自身の半封建の政治、経済、文化、もう一つは、帝国主義の政治、経済、文化で、後者を盟主としている。これらはすべてわるいものであり、徹底的に破壊すべきものである。中国社会における新旧の闘争とは、人民大衆(革命的諸階級)という新勢力と帝国主義および封建階級という旧勢力のあいだの闘争である。このような新旧の闘争は、とりもなおさず革命と反革命の闘争である。このような闘争は、アヘン戦争からかぞえて、ちょうど百年をへており、辛亥革命からかぞえても、ほぼ三十年になる。

 しかし、まえにのべたように、革命にも新旧の別があり、ある歴史的時期には新しかったものでも、別の歴史的時期にはふるくなってしまう。中国のブルジョア民主主義革命の百年は、まえの八十年とあとの二十年の二つに大きく区切られる。この二つの大きな時期には、それぞれ歴史的性質をもった基本的な特徴がある。すなわちまえの八十年間では、中国のブルジョア民主主義革命はふるい範疇にぞくし、あとの三十年間では、国際的、国内的政治情勢の変化によって新しい範疇にぞくするようになった。旧民主主義――これがまえの八十年の特徴である。新民主主義――これがあとの二十年の特徴である。このようなちがいは政治のうえでもそうであるし、文化のうえでもそうである。

 では、文化の面でこのちがいはどのようにあらわれているか。これが、つぎに説明する問題である。


     一二 中国文化革命の歴史的特徴


 中国の文化戦線または思想戦線においては、「五・四」以前と「五・四」以後とが、三つの異なった歴史的時期をなしている。

 「五・四」以前には、中国の文化戦線での闘争は、ブルジョア階級の新文化と封建階級の旧文化との闘争であった。「五・四」以前の学校と科挙の争い〔17〕、新学と旧学の争い、洋学と漢学の争いは、いずれもこのような性質をもっていた。当時のいわゆる学校、新学、洋学は、基本的にはいずれも、ブルジョア階級の代表者たちが必要としていた自然科学とブルジョア社会・政治学説であった(基本的にというのは、そのなかになお中国の封建的余毒がたくさんまじっていたことである)。当時、このようないわゆる新学の思想は、中国の封建思想とたたかう革命的な役割をもち、ふるい時期の中国のブルジョア民主主義革命に奉仕するものであった。ところが、中国のブルジョア階級が無力であったことと世界がすでに帝国主義の時代にはいっていたことによって、このようなブルジョア思想は、出陣して数合のうち合いをみただけで、外国帝国主義の奴隷化思想と中国封建主義の復古思想との反動同盟によって撃退されてしまい、いわゆる新学はこの思想上の反動同盟軍のちょっとした反撃に、たちまち旗をまいて、なりをしずめ、退却を宣し、魂も消しとび、わずかにその形骸けいがいを残すのみとなった。ふるいブルジョア民主主義文化は、帝国主義の時代にあっては、すでに腐敗し無力化しており、その敗北は必然的である。

 「五・四」以後になると、そうではない。「五・四」以後には、中国にまったく新しい文化の新鋭軍がうまれた。それが中国共産党員の指導する共産主義の文化思想、すなわち共産主義の世界観と社会革命論である。五・四運動がおこったのは一九一九年であり、中国共産党がうまれ、労働運動がほんとうにはじまったのは一九二一年であって、いずれも第一次世界大戦と十月革命ののち、すなわち民族問題と植民地革命運動が世界的にこれまでの面目を一新したときである。ここに中国革命と世界革命の結びつきが非常にはっきりとあらわれている。中国の政治の新鋭軍、すなわち中国のプロレタリア階級と中国共産党が、中国の政治舞台に登場したことによって、この文化の新鋭軍も、新しいいでたちで新しい武器をとり、すべての可能な同盟軍と連合して、自己の陣列を張り、帝国主義的文化と封建的文化にたいして勇敢な攻撃をくりひろげた。この新鋭軍は社会科学の分野や文学芸術の分野で、哲学、経済学、政治学、軍事学、歴史学、文学、芸術(演劇、映画、音楽、彫刻、絵画の別なく)のいずれをとわずきわめて大きな発展をとげた。三十年らいこの文化の新軍のほこ先の向かうところ、思想から形式(文字など)にいたるまで、巨大な革命をおこさないものは一つとしてなかった。その気勢のすさまじさ、その威力のはげしさは、まさに向かうところ敵なしであった。その動員の広さは、中国の歴史上のいかなる時代をもこえた。そして魯迅ルーシュインが、この文化の新軍のもっとも偉大な、もっとも勇敢な旗手であった。魯迅は中国の文化革命の主将であり、かれは偉大な文学者であったばかりでなく、偉大な思想家、偉大な革命家であった。魯迅の背骨はもっともかたく、かれには奴隷の根性やへつらいの態度がいささかもなかった。これは植民地、半植民地人民のもっとも貴重な性格である。魯迅は文化戦線で全民族の大多数を代表して敵陣に突入した、もっとも正しい、もっとも勇敢な、もっとも断固とした、もっとも忠実な、もっとも情熱的な、空前の民族英雄であった。魯迅の方向こそ中華民族の新文化の方向である。

 「五・四」以前には、中国の新文化は旧民主主義の性質をもった文化であり、世界ブルジョア階級の資本主義文化革命の一部分であった。「五・四」以後の中国の新文化は、新民主主義の性質をもつ文化であり、世界プロレタリア階級の社会主義文化革命の一部分である。

 「五・四」以前には、中国の新文化運動、中国の文化革命は、ブルジョア階級が指導したもので、かれらはまだ指導的役割をはたしていた。「五・四」以後、この階級のもつ文化思想は、その政治面におけるものよりもさらにおくれ、まったく指導的役割をうしない、せいぜい革命の時期に一定の程度で、同盟者となりうるだけであり、盟主の資格はプロレタリア文化思想の肩にかかってこざるをえない。これはだれも否定できない動かしがたい事実である。

 新民主主義の文化とは、人民大衆の反帝・反封建の文化であり、こんにちでは抗日統一戦線の文化である。このような文化は、他のいかなる階級の文化思想でもこれを指導することはできず、ただプロレタリア階級の文化思想、すなわち共産主義思想だけが指導できるのである。新民主主義の文化とは、一口にいって、プロレタリア階級の指導する、人民大衆の反帝・反封建の文化である。


     一三 四つの時期


 文化革命は、イデオロギーのうえで政治革命と経済革命を反映するとともにそれらに奉仕するものである。中国では、文化革命にも政治革命と同様に統一戦線がある。

 この文化革命の統一戦線は、ここ二十年らい、四つの時期にわけられる。第一の時期は一九一九年から一九二一年までの二年間、第二の時期は一九二一年から一九二七年までの六年間、第三の時期は一九三七年から一九三七年までの十年間、第四の時期は一九三七年から現在までの三年間である。

 第一の時期は、一九一九年の五・四運動から一九二一年の中国共産党創立までである。この時期は五・四運動を主要な指標としている。

 五・四運動は反帝国主義の運動であり、また反封建の運動でもあった。五・四運動のすぐれた歴史的意義は、辛亥革命ではまだみられなかった様相をおぴていたことにある。それは徹底的に、妥協なく帝国主義に反対し、徹底的に、妥協なく封建主義に反対することであった。五・四運動がこのような性質をもっていた理由は、当時、中国の資本主義経済がすでにいっそうの発展をみたこと、また当時の中国の革命的知識人が、すでにロシア、ドイツ、オーストリアの三大帝国主義国はくずれ、イギリス、フランスの二大帝国主義国は傷つき、ロシアのプロレタリア階級は社会主義国をうちたて、ドイツ、オーストリア(ハンガリー)、イタリア三国のプロレタリア階級は革命をおこなっているのを目のあたりにみて、中国の民族解放に新しい希望をいだいたことにある。五・四運動は、当時の世界革命のよびかけのもとで、ロシア革命のよびかけのもとで、またレーニンのよびかけのもとでおこったものである。五・四運動は当時のプロレタリア世界革命の一部分であった。五・四運動の時期には、中国共産党はまだなかったが、ロシア革命に賛成し、初歩的な共産主義思想をもつ知識人はすでにたくさんいた。五・四運動はそのはじめのうち、共産主義的知識人、革命的小ブルジョア知識人およびブルジョア知識人(当時の運動における右翼であった)の三つの部分からなる統一戦線の革命運動であった。その弱点は労働者、農民の参加がなく、知識人にかぎられたことにある。だが、それが六・三運動〔18〕にまで発展したときには、たんに知識層ばかりでなく、広範なプロレタリア階級、小ブルジョア階級およびブルジョア階級も参加し、全国的な革命運動になった。五・四運動でおこなわれた文化革命は、封建的文化に徹底的に反対する運動であり、中国の歴史はじまっていらい、これほど偉大な徹底した文化革命はかつてなかった。当時、旧道徳に反対して新道徳を提唱し、旧文学に反対して新文学を提唱することを文化革命の二つの大きな旗じるしとして、偉大な功績をうちたてた。この文化運動は、当時まだ労農大衆のなかにまで普及していく可能性はなかった。この文化運動は「平民文学」というスローガンを提起したが、当時の「平民」というのは、実際には、まだ都市の小ブルジョア階級とブルジョア階級の知識人、つまりいわゆる市民階級の知識人にかぎられていた。五・四運動は、思想の面でも、幹部の面でも、一九二一年の中国共産党の創立を準備し、また五・三〇運動と北伐戦争を準備した。当時のブルジョア知識人は、五・四運動の右翼であって、第二の時期にはいると、かれらのうちの大部分が敵と妥協して反動の側に立つようになった。

 第二の時期は、中国共産党の創立と五・三〇運動、北伐戦争を指標としている。この時期には、五・四運動のころの三つの階級からなる統一戦線を継続し、発展させ、農民階級を吸収し、しかも政治的にこれら諸階級の統一戦線を形成した。それが国共両党の第一次合作であった。孫中山先生が偉大であったのは、かれが偉大な辛亥革命(ふるい時期の民主主義革命ではあったが)を指導したばかりでなく、また、「世界の潮流に適し、衆人の要求に合す」ることができ、連ソ、連共、農労援助という三大革命政策を提起し、三民主義にあらたな解釈をくだし、三大政策をもつ新三民主義を確立したからでもある。このときよりまえ、三民主義は、教育界、学術界、青年層と、それほど結びついていなかった。なぜなら、それはまだ帝国主義反対のスローガンを提起していなかったし、封建社会制度反対、封建文化思想反対のスローガンも提起していなかったからである。このときよりまえ、三民主義は旧三民主義で、そのような三民主義は、一部のものが政府の権力をうばうための、つまり官職を得るためのその場かぎりの旗じるしだとみられ、純然たる政治運動の旗じるしだとみられていた。このときよりのち、三大政策をもつ新三民主義があらわれた。国共両党の合作、両党の革命的党員の努力によって、この新三民主義は全中国におしひろめられ、一部の教育界、学術界および広範な青年学生のなかにおしひろめられた。それはほかでもなく、従来の三民主義が、反帝・反封建の、三大政策をもつ、新民主主義的な三民主義に発展したからである。この発展がなければ、三民主義思想をひろめることは不可能であった。

 この時期には、このような革命の三民主義が国共両党および革命的諸階級の統一戦線の政治的基礎となり、「共産主義は三民主義のよき友」となり、二つの主義が統一戦線を結んだ。階級からいえば、それはプロレタリア階級、農民階級、都市小ブルジョア階級およびブルジョア階級の統一戦線であった。当時は、共産党の『嚮導週報』、国民党の上海『民国日報』および各地の新聞を拠点として、反帝国主義の主張をともに宣伝し、孔子をたっとび四書五経を読ませる封建教育にともに反対し、封建的なふるいよそおいの旧文学と文語文にともに反対し、反帝・反封建を内容とする新文学と口語文を提唱した。広東コヮントン戦争②と北伐戦争では、中国軍隊のなかに反帝・反封建の思想をそそぎこんで、中国の軍隊を改造した。また、何百何千万という農民大衆のあいだに、汚職官吏打倒、土豪劣紳打倒のスローガンを提起し、偉大な農民革命闘争をまきおこした。これらのことによって、またソ連からの援助によって、北伐の勝利がかちとられたのである。ところが、大ブルジョア階級がひとたび政権の座にはいあがると、たちまちこの革命はうちきられ、新しい政治的局面に転じた。

 第三の時期は、一九二七年から一九三七年までの新しい革命の時期である。まえの時期の終わりごろ、革命陣営に変化がおこって、中国の大ブルジョア階級が帝国主義と封建勢力の反革命陣宮にうつり、民族ブルジョア階級も大ブルジョア階級に追随し、もとから革命陣営内にあった四つの階級のうち、このとき残ったのは三つ、すなわちプロレタリア階級、農民階級、その他の小ブルジョア階級(革命的知識人もふくむ)となったので、中国革命はこのとき新しい時期にはいらざるをえなくなり、中国共産党が単独で大衆を指導して、この革命をおこなうことになったのである。この時期は、一方では反革命の「包囲討伐」がおこなわれ、他方では革命が深化した時期であった。この時期には、反革命のふたとおりの「包囲討伐」、つまり軍事的「包囲討伐」と文化的「包囲討伐」③がおこなわれた。同時に、革命のふたとおりの深化、つまり農村革命の深化と文化革命の深化がみられた。このふたとおりの「包囲討伐」には、帝国主義の策動のもとで、全中国と全世界の反革命勢力が動員され、その期間は十年の長さにおよび、その残酷さは世界のどこにも見られないもので、何十万という共産党員や青年学生が虐殺され、何百万という労農人民が蹂躙じゅうりんされた。当事者からみると、共産主義と共産党をかならず「根こそぎ討伐し虐殺し」うるとおもえたらしい。だが結果は反対で、このふたとおりの「包囲討伐」はどちらも惨敗した。軍事的「包囲討伐」の結果は赤軍の北上抗日となり、文化的「包囲討伐」の結果は一九三五年の「一二・九」の青年革命運動の勃発となった。そして、このふたとおりの「包囲討伐」の共通の結果は全国人民の覚醒となった。この三つはいずれも積極的な結果である。なかでも、もっとも不思議なことは、国民党支配区内のすべての文化機関で、共産党がまったく抵抗する力のない立場におかれていたにもかかわらず、どうして文化的「包囲討伐」までが一敗地にまみれたかということである。それでもなお深く考えないでいられるだろうか。共産主義者の魯迅は、まさしくこの「包囲討伐」のなかにあって、中国の文化革命の偉人となったのである。

 反革命の「包囲討伐」の消極的結果としては、日本帝国主義が攻めこんできたことである。これこそ、全国人民がいまなお、あの十年におよぶ反共を心からにくんでいる最大の原因である。

 この時期の闘争で、革命の側は、人民大衆の反帝・反封建の新民主主義と新三民主義を堅持し、反革命の側は、帝国主義の指揮のもとに地主階級と大ブルジョア階級の同盟による専制主義をとった。この専制主義は、政治の面でも文化の面でも、孫中山の三大政策をきってすて、かれの新三民主義をきってすて、中華民族にはかりしれない災難をもたらした。第四の時期は、つまり現在の抗日戦争の時期である。中国革命の曲線運動のなかで、もういちど四つの階級による統一戦線があらわれた。しかし、その範囲はいっそうひろくなって、上層階級は多くの支配者をふくめ、中層階級は民族ブルジョア階級と小ブルジョア階級をふくめ、下層階級はすべてのプロレタリアをふくめ、全国の各階層がみな同盟者となり、日本帝国主義に断固として抵抗した。この時期の第一段階は、武漢陥落までである。このときには、全国の各方面にいきいきとした気運がみなぎって、政治のうえでは民主化の傾向があらわれ、文化のうえではかなり普遍的な動員がおこなわれた。武漢陥落以後がその第二段階で、政治状況にいくたの変化がおこり、大ブルジョア階級の一部は敵に投降し、他の一部も抗戦をはやくうちきりたいと考えるようになった。文化の面にもこの状況が反映して、葉青イエチン④、張君[萬+力]チャンチュィンマイどもの反動的活動、そして言論、出版の制限があらわれた。

 このような危機を克服するためには、抗戦に反対し団結に反対し進歩に反対するすべての思想と断固たたかわなければならず、これらの反動思想をうちやぶらなければ、抗戦の勝利はのぞめない。この闘争の将来はどうか。これは全国人民の胸中にある大間題である。国内的、国際的条件からいうと、たとえ抗戦の途上にどれほどの困難があろうとも、中国人民はけっきょく勝利する。中国の全歴史において、五・四運動以後の二十年間の進歩は、それ以前の八十年間にくらべてまさっているばかりか、それまでの数千年にくらべてもまさっている。さらに二十年の年月をへたなら、中国がどれほどまでに進歩するか想像がつくではないか。内外のすべての暗黒勢力が狂暴をほしいままにしていることから、民族の災難がもたらされてはいる。だが、こうした狂暴ぶりは、これらの暗黒勢力にまだ力があることをしめしてはいるが、かれらの最後のあがきをもしめしており、人民大衆がしだいに勝利に近づきつつあることをもしめしている。これは、中国においてそうであるばかりでなく、東方全体においてもそうであり、世界においてもそうである。


     一四 文化の性質の問題についての偏向


 すべての新しいものは苦難の闘争のなかできたえあげられるものである。新文化も同様で、この二十年間に「之」の字型に、三つの曲折をあゆみ、よいものもわるいものも、すべてためされてあきるかになった。

 ブルジョア頑迷派は、文化問題でも、政権問題のばあいと同様に完全にあやまっている。かれらは中国の新しい時期の歴史的特徴を知らず、人民大衆の新民主主義の文化をみとめない。かれらの出発点はブルジョア専制主義であり、文化の面ではブルジョア階級の文化専制主義である。一部のいわゆる欧米派の文化人〔19〕(わたしがいっているのは一部である)は、かつて実際に国民党政府の文化的「共産党討伐」を賛助し、いままた「限共」とか「溶共」とかいう政策を賛助しているようである。かれらは、労働者、農民が政治の面でたちあがるのをのぞまないし、また労働者、農民が文化の面でたちあがるのものぞまない。ブルジョア頑迷派のこの文化専制主義の道はゆきづまるもので、これには、権力問題と同様に、国内的、国際的な条件がない。したがって、このような文化専制主義は、やはり「ひっこめる」ほうがよい。

 国民文化の方針としては、指導的地位にあるのは共産主義思想であり、しかも、われわれは労働者階級のなかで社会主義と共産主義の宣伝につとめるとともに、適切に、段どりをふみ、社会主義によって農民およびその他の大衆を教育するようつとめるべきである。だが国民文化全体としては、いまのところまだ社会主義的なものではない。

 新民主主義の政治、経済、文化は、すべてプロレタリア階級に指導されているため、いずれも社会主義的要素をもっており、それも、ふつうの要素ではなく、決定的な役割をはたす要素である。しかし、政治状況全体、経済状況全体および文化状況全体についていえば、まだ社会主義的なものではなく、新民主主義的なものである。なぜなら、現段階の革命の基本任務は、まだ資本主義をくつがえすことを目標とする社会主義革命ではなく、主として外国の帝国主義と自国の封建主義に反対することであり、ブルジョア民主主義革命であるからである。国民文化の分野についていうと、現在の国民文化全体が社会主義の国民文化であるとか、あるいはそうあるべきだとか考えるのはまちがっている。それは、共産主義の思想体系の宣伝を当面の行動綱領の実践とみなすものであり、共産主義の立場と方法で問題を観察し、学問を研究し、仕事を処理し、幹部を訓練することを、中国の民主主義革命の段階における国民教育、国民文化全体の方針とみなすものである。社会主義を内容とする国民文化は、社会主義の政治と経済を反映するものでなければならない。われわれは政治面、経済面で、社会主義的要素をもっており、それが反映して、われわれの国民文化も社会主義的要素をもっている。だが社会全体からいえば、われわれは、現在、まだこうした全体としての社会主義の政治と経済を形成してはいないので、まだこうした全体としての社会主義の国民文化をもつことはできない。現在の中国革命は世界プロレタリア社会主義革命の一部分であるから、現在の中国の新文化もまた、世界プロレタリア社会主義の新文化の一部分であり、その偉大な同盟軍である。この一部分は社会主義文化の重要な要素をふくんではいるが、国民文化全体からいうと、まだ完全に社会主義文化の資格で参加しているのではなく、人民大衆の反帝・反封建の新民主主義文化の資格で参加しているのである。現在の中国革命は中国プロレタリア階級の指導からはなれることができないのだから、現在の中国の新文化も中国プロレタリア階級の文化思想の指導、すなわち共産主義思想の指導からはなれることはできない。だがこのような指導は、現段階では人民大衆の反帝・反封建の政治革命と文化革命を指導することであり、したがって、いまの新しい国民文化全体の内容は、社会主義的なものではなく、やはり新民主主義的なものである。

 現在では、疑いもなく、共産主義思想の宣伝を拡大し、マルクス・レーニン主義の学習を強化すべきであり、こうした宣伝と学習がなければ、中国革命を将来の社会主義の段階にみちびくことができないばかりか、現在の民主主義革命を勝利にみちびくこともできない。だが、われわれは、共産主義の思想体系と社会制度についての宣伝を、新民主主義の行動綱領についての実践から区別すべきであり、また、問題を観察し、学問を研究し、仕事を処理し、幹部を訓練するものとしての共産主義の理論と方法を、国民文化全体としての新民主主義の方針から区別すべきである。この両者を混同することは、疑いもなく適切でない。

 これによってわかるように、現段階の中国の新しい国民文化の内容は、ブルジョア階級の文化専制主義でもなければ、またたんなるプロレタリア階級の社会主義でもなく、プロレタリア階級の社会主義文化思想によって指導される、人民大衆の反帝・反封建の新民主主義である。


     一五 民族的、科学的、大衆的な文化


 このような新民主主義の文化は民族的である。それは、帝国主義の抑圧に反対し、中華民族の尊厳と独立を主張するものである。それはわれわれの民族のものであり、われわれの民族の特性をそなえている。それはすべての他の民族の社会主義文化および新民主主義文化と連合し、たがいに吸収し発展しあう関係を樹立し、ともに世界の新文化を形成するものである。だが、われわれの文化は革命的な民族文化であるから、他のいかなる民族のものでも帝国主義反動文化とはけっして連合できない。中国は外国の進歩的な文化を自己の文化のかての原料として大いに吸収すべきであるが、その仕事はこれまで非常に不十分であった。それには、当面の社会主義文化と新民主主義文化ばかりでなく、たとえば資本主義諸国の啓蒙時代の文化のような外国のふるい時代の文化でも、およそこんにちわれわれに役だつものはすべて吸収すべきである。だが、すべて外国のものは、われわれが食物にたいするのと同様に、それをからだに有益なものとするためには、ぜひとも自分の口で咀嚼そしゃくし、胃腸の運動をつうじて、それに唾液、胃液、腸液をおくり、それをすいかすの二つに分解したうえで、滓を排泄し粋を吸収しなければならず、けっしてなまのままうのみにして無批判に吸収してはならない。いわゆる「全面的西洋化」〔20〕という主張は、まちがった観点である。外国のものを形式主義的に吸収したために、これまで中国は大きな損をした。中国の共産主義者がマルクス主義を中国に適用するばあいも同様で、マルクス主義の普遍的真理と中国革命の具体的実践を完全に適切に統一しなければならない。つまり民族的特徴と結びつけ、一定の民族的形式をつうじてこそ、役にたつのであって、けっして主観的、公式的にそれを適用してはならないのである。公式的なマルクス主義者は、マルクス主義と中国革命を茶化しているだけで、中国革命の隊列内にはかれらの席はない。中国文化は自己の形式、つまり、民族的形式をもつべきである。民族的な形式、新民主主義的な内容――これがわれわれのこんにちの新文化である。

 このような新民主主義の文化は科学的である。それは、すべての封建的思想や迷信的思想に反対し、事実にもとづいて法則性をもとめることを主張し、客観的真理を主張し、理論と実践の一致を主張する。この点で、中国プロレタリア階級の科学的思想は、中国のまだ進歩性をもっているブルジョア階級の唯物論者や自然科学者と反帝・反封建・反迷信の統一戦線をうちたてることができる。だが、いかなる反動的観念論とも統一戦線をうちたててはならない。共産党員は、政治行動のうえでは一部の観念論者、ひいては宗教徒とも、反帝・反封建の統一戦線をうちたててもよいが、かれらの観念論や宗教的教義にはけっして賛成してはならない。中国の長期にわたる封建社会では、かがやかしい古代文化が創造された。古代文化の発展の過程を整理して、封建的な滓を除去し、民主主義的な粋を吸収することは、民族の新文化をのばし、民族の自信をたかめるうえでの必要な条件である。だが、けっして無批判に、なにもかも受けいれてはならない。古代の封建的支配階級のすべての腐敗したものと、古代のすぐれた人民文化、すなわち多少とも民主主義的性質と革命的性質をもったものとを区別しなければならない。中国の現在の新政治、新経済は、古代の旧政治、旧経済から発展してきたものであり、中国の現在の新文化も古代の旧文化から発展してきたものである。したがって、われわれは、けっして歴史をたちきってはならず、自己の歴史を尊重すべきである。しかし、こうした尊重とは、昔をたたえ、今をけなすことではなく、いかなる封建的毒素をほめることでもなくて、歴史に一定の科学的地位をあたえることであり、歴史の弁証法的発展を尊重することである。人民大衆と青年学生にたいして、主要なことはかれらをうしろ向きにみちびくことではなく、まえ向きにみちびくことである。

 このような新民主主義の文化は大衆的であり、したがってそれは民主主義的である。それは全民族の九〇パーセント以上をしめる労農勤労大衆に奉仕し、またしだいにかれらの文化となるべきものである。革命的幹部にあたえる知識と、革命的大衆にあたえる知識とを、程度のうえでたがいに区別しながらたがいに結びつけ、向上と普及とをたがいに区別しながらたがいに結びつけなければならない。革命文化は、人民大衆にとっては革命の有力な武器である。革命文化は、革命のまえには革命の思想的準備であり、革命のさなかには革命の全戦線での必要な、また重要な戦線である。そして革命的な文化活動家は、この文化戦線における各級での指揮者である。「革命の理論がなければ革命の運動もありえない」〔21〕ことから、革命の文化運動が革命の実践運動にとっていかに重要性をもつかがわかる。しかも、このような文化運動と実践運動はすべて大衆的なものである。したがって、すべての進歩的な文化活動家は、抗日戦争のなかで自己の文化軍隊をもつべきであり、その軍隊とは人民大衆である。革命的な文化人でありながら、民衆に近づかなければ、それは「無兵司令官」であって、その火力では敵をうちたおすことができない。この目的を達成するには、文字は一定の条件のもとで改革しなければならず、ことばは民衆に近づけなげればならず、民衆こそ革命文化のかぎりなくゆたかな源であることを知らなければならない。

 民族的、科学的、大衆的な文化こそが、人民大衆の反帝・反封建の文化であり、新民主主義の文化であり、中華民族の新文化である。

 新民主主義の政治、新民主主義の経済が新民主主義の文化と結合したもの、これが新民主主義共和国であり、名実あいともなう中華民国であり、われわれのきずこうとする新中国である。

 新中国は人民の一人ひとりのまえに立っている。われわれはそれを迎えるべきである。

 新中国丸のマストはすでに水平線のかなたにあらわれた。われわれは拍手をもってこれを迎えるべきである。

 双手をあげよう。新中国はわれわれのものである。



〔 ##注## 〕

〔1〕 『中国文化』は、一九四〇年一月、延安で創刊された雑誌である。『新民主主義論』は、まず、この雑誌の創刊号に発表された。

〔2〕 「政治は経済の集中的表現である」ということばは、レーニンの『労働組合、時局およびトロツキーの誤謬について』にみられる。

〔3〕 マルクスの『経済学批判』序文から引用。

〔4〕 エンゲルスの『フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終結』の付録、マルクスの『フォイエルバッハにかんするテーゼ』第十一条にみられる。

〔5〕 スターリンの『十月革命と民族問題』から引用。

〔6〕 レーニンの『資本主義の最高の段階としての帝国主義』にみられる。

〔7〕 蒋介石が革命を売りわたしてのち国民党政府のおこなった一連の反ソ連動をさす。すなわち、一九二七年十二月十三日、国民党は広州駐在のソ連の副領事を射殺した。同月十四日、南京の国民党政府は、「対ソ国交断絶舎」をだして、中国各省におかれていたソ連領事を承認せず、中国各省にあったソ連通商機構の業務停止を命じた。一九二九年八月、蒋介石は、またも、帝国主義にそそのかされて、東北でソ連にたいする挑発をおこない、軍事衝突をひきおこした。

〔8〕 ケマルは第一次世界大戦後のトルコの商業ブルジョア階級の代表者である。第一次大戦後、イギリス帝国主義者は、その従属国ギリシアを指図して、トルコにたいする武力侵略をおこなわせた。トルコ人民は、ソ連の援助をえて、一九二二年、ギリシアの軍隊にうち勝った。一九二三年、ケマルは、トルコの大統領にえらばれた。スターリンは、「ケマル式革命は民族商業ブルジョア階級の上層革命で、外国帝国主義者との闘争のなかからうまれたが、その後の発展においては、本質上、農民と労働者に反対し、土地革命の発生を阻止するものである」といっている。スターリンの『中山大学の学生にたいする談話』を参照。

〔9〕 毛沢東同志はここで張君[萬+力]とその一味のことをいっている。五・四運動ののち、張君[萬+力]は、「精神文化」という「玄学」を鼓吹して、公然と科学に反対し、当時、「玄学亡者」といわれた。一九三八年十二月、張君[萬+力]は蒋介石の意をうけて、「毛沢東氏への公開状」を発表し、八路軍、新四軍の解消、陝西、・甘粛・寧夏辺区の解消をわめきたて、日本帝国主義と蒋介石のお先棒をかついだ。

〔10〕 一九三七年九月、中国共産党中央の発表した、国共両党の合作成立の宣言にみられる。

〔11〕 一九二四年、孫中山がおこなった「民生主義講演」第二講にみられる。

〔12〕 蒋介石集団の特務の頭目のひとりである陳立夫は、何人かの反動的なごろつきをやとって、『唯生論』というものを書かせ、悪名高い陳立夫の名で発表した。この本のなかで、かれらは、でたらめな論議をならべたてて、国民党のファシズムを鼓吹した。

〔13〕 山西地方の大地主・大買弁の代表である軍閥の闇錫山は、恥しらずにもこうしたスローガンをかかげた。

〔14〕 汪精衛は、一九二七年、革命を売りわたしたのち、「はさみうちのなかの奮闘」と題する論文を書いた。

〔15〕 一九二五年三月三十日、スターリンはコミンテルン執行委員会のユーゴスラビア委員会の会議で「ユーゴスラビアにおける民族問題について」という演説をおこなったが、そのなかでつぎのようにのべている。「……農民は民族運動の主力であり、農民軍がなければ強力な民族運動もないし、またありえない。……民族問題とは、実質的には農民問題である。」

〔16〕 共産党内で、かつて一部の教条主義者は、毛沢東同志が農村の革命根拠地を重要視したことを「山のぼり主義」とあざけった。毛沢東同志は、ここで教条主義者のこのような風刺をかりて、農村の革命根拠地の偉大な役割を説明している。

〔17〕 「学校」とは、当時、欧米の資本主義国にみならった教育制度をさす。「科挙」とは、もと中国にあった封建的試験制度をいう。一九世紀の末ごろ、中国の革新派の知識人は、科挙を廃止し、学校を創設することを主張した。

〔18〕 一九一九年の五・四愛国運動は、六月の初めになって、新しい段階にはいった。六月三日、北京の学生が警察の弾圧に抵抗して、集会をひらき、講演をおこなったのをきっかけに、学生の授業放棄から、上海、南京、天津、杭州、武漢、九江および山東省、安徽省など各地の労働者のストライキ、商人の閉店ストに発展した。こうして、五・四運動は、ついにプロレタリア階級、都市小ブルジョア階級、民族ブルジョア階級の参加する広範な大衆運動となった。

〔19〕 欧米派の文化人とは、胡適らを代表とする一部のものをさす。

〔20〕 いわゆる「全面的西洋化」は、一部のブルジョア学者の主張である。かれらは、すでに時代おくれのものとなった、個人主義を中心とする西洋のブルジョア文化を無条件に称賛し、中国はなにごとも欧米資本主義国を完全に模倣しなければならないと主張し、それを「西洋文化の全面的な受けいれ」といった。

〔21〕 レーニンの『なにをなすべきか』第一章第四節から引用。


〔 ##訳注## 〕

① 「一つの主義」とは、国民党が一回目の反共の高まりのときにもちだした反動的スローガンの一つである。一九三八年十月、武漢陥落ののち、国民党の反共活動はしだいにひどくなり、軍事上、政治上の反共活動と呼応して、「一つの党」、「一つの主義」、「一人の指導者」という反動的スローガンをもちだした。いわゆる「一つの主義」とは、中国で蒋介石のにせ三民主義、すなわちファシズムの存在だけをゆるし、その他の主義はすべて清算せよというものである。

② 本巻の『戦争と戦略の問題』〔2〕にみられる。

③ 第二次国内革命戦争の時期、国民党反動政権は、中国共産党に指導された労働者、農民の武装勢力にたいしては軍事的「包囲討伐」をおこなう一方、国民党支配地区内の革命的文化界にたいしては文化的「包囲討伐」をおこなった。国民党反動当局は政治的高圧手段とテロ政策をもちいて、進歩的な出版物を禁止し、進歩的な書店を閉鎖し、進歩的な文化団体を破壊し、進歩的な作家を迫害、殺害し、反動的な文化人をそそのかして、革命的文化運動を妨害し、破壊させた。中国共産党の指導のもとで、文化的「包囲討伐」反対闘争が、断固として展開された。それは、プロレタリア階級の指導する反帝・反封建・反独裁を前提として、すべての進歩的文化界を革命的文化戦線に結集させ、さまざまな反動的文化思想をあいついで暴露し、批判して、文化的「包囲討伐」反対闘争の勝利をかちとった。

④ 葉青は、共産党の裏切り者であり、トロツキストであった。その後、国民党特務機関の御用文化人になりさがった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。