何百何千万の大衆を抗日民族統一戦線へ参加させるためにたたかおう (一九三七年九月七日)
これは、毛沢東同志が一九三七年五月の中国共産党全国代表者会議でおこなった結語である。
同志諸君! わたしの報告――『抗日の時期における中国共産党の任務』にたいして、この数日間にわたる討議で、ごく少数の同志がちがった意見をだしたほかは、みなすでに賛意を表明した。かれらのちがった意見は、かなり重要性をもっているので、わたしの結語ではまずこれらの意見を検討し、そのうえで、ほかのいくつかの問題にふれよう。
平和の問題
わが党が国内の平和のためのたたかいをはじめてから、ほぼ二年の月日がたった。国民党中央執行委員会第三回全体会議のあとで、われわれは、平和はすでにかちとった、「平和をかちとる」段階はすでにすぎた、新しい任務は「平和をかためる」ことである、というとともに、これは「民主をかちとる」こととつながっている――民主をかちとることによって平和をかためるのだ、と指摘した。ところが、われわれのこうした意見は、何人かの同志にいわせるとなりたたないことになる。かれらの結論は、どうしても反対のものになるか、あるいは両者のあいだを動揺するものになるのである。なぜなら、かれらは、「日本は後退した〔1〕、南京はいっそう動揺してきた、民族的矛盾が低下し、国内的矛盾が上昇した」といっているからである。このような評価にしたがえば、もちろん新しい段階とか、新しい任務とかいうものはなくなり、状況はもとの段階にかえったか、あるいはそれよりも悪いことになる。わたしは、このような意見はまちがっているとおもう。
われわれは、平和をかちとったとはいっているが、それは平和がかためられたといっているのではなく、逆に、平和はかためられていないといっているのである。平和が実現することと平和がかためられることとは別問題である。歴史が一時的に逆もどりすることはありうるし、平和には曲折もありうる。その原因は、日本帝国主義と民族裏切り者、親日派がいることである。しかし、西安事変ののち、平和が実現したことは事実であり、この状況は多方面(日本がとっている進攻という基本方針、ソ連と英米仏諸国の平和への支持、中国人民の圧力、西安事変における中国共産党の平和の方針と二つの政権の敵対を停止させる政策、ブルジョア階級の分化、国民党の分化など)からつくりだされたものであって、蒋介石がひとりで決定したり、くつがえしたりすることのできるものではない。平和をくつがえそうとするには、多方面の勢力とたたかわなければならないし、また日本帝国主義や親日派に近づいていかなければ、なしとげられるものではない。日本帝国主義や親日派が中国に内戦をつづけさせようといまなおたくらんでいることは、いうまでもない。平和がかためられていないのは、まさにこのためである。こうした状況のもとでのわれわれの結論は、「内戦をやめよう」とか「平和をかちとろう」とかいった古いスローガンにもどるのではなくて、一歩前進して、「民主をかちとろう」という新しいスローガンをかかげることである。そうしなければ、平和をかためることもできないし、また抗戦を実現することもできない。なぜ、「平和をかためよう」「民主をかちとろう」「抗戦を実現しよう」という三位一体のスローガンをかかげるのか。それは、われわれの革命の車輪を一歩前進させるためであり、また状況がすでにわれわれに一歩前進をゆるしているからである。もし、新しい段階と新しい任務を否定し、国民党が「転換しはじめた」ことを否定し、しかも、その論理的結論として、平和をかちとるためにたたかってきた各派勢力のこの一年半の努力のすべての成果をも否定せざるをえないとしたら、それは、一歩の前進もなく、自分をもとの位置にとどまらせているにすぎない。
これらの同志は、なぜこのような適切でない評価をくだすのか。その原因は、かれらが時局を観察するばあいに根本的な点から出発しないで、多くの局部的な、また一時的な現象(佐藤外交、蘇州裁判〔2〕、ストライキ強圧、東北軍の東部への移動〔3〕、楊虎城の外遊〔4〕など)から出発するからであり、それで暗い画面がえがきだされるのである。われわれは、国民党がすでに転換しはじめたといったが、同時に、国民党は敵底的に転換してはいないともいう。われわれおよび人民の新しいより多くの、またより大きな努力なしに、国民党の十年にわたる反動政策を、徹底的に転換させることは考えられないことである。みずからを「左」翼だと豪語している多くの人は、平素から国民党をひどくののしり、西安事変では、蒋を殺し、「潼関からうって出よ」〔5〕と主張しておりながら、平和が実現したばかりのときに蘇州裁判などの事件がおこると、おどろいたような口ぶりで、「なぜ蒋介石はまたこんなことをやったんだ」といっている。これらの人びとは、共産党員も蒋介石も仙人ではなく、また孤立した個人でもなくて、一つの政党、一つの階級のなかにいる人間だということを知らなければならない。共産党は革命を一歩一歩前進させる能力をもってはいるが、全国の悪事を、一朝のうちにきれいに取りのぞいてしまうような能力はもっていない。蒋介石や国民党はすでに転換しはじめているが、全国人民のさらに大きな努力がなければ、けっして一朝のうちに、かれらの十年間のよごれをきれいに洗いさられるものではない。われわれは、運動の方向が平和、民主、抗戦にむかっている、といっているが、努力もしないで内戦、独裁、無抵抗というこれまでの毒素を一掃できるといっているのではない。これまでの毒素、よごれ、革命の進展過程でのなんらかの曲折やおこりうる逆もどりを克服することができるのは、たたかいと努力だけであって、しかも長期にわたるたたかいと努力を必要とするのである。
「かれらはひたすらわれわれを破壊しようとしている」。そのとおりである。かれらはいつもわれわれを破壊しようとたくらんでおり、わたしはこのような評価の正しさを完全にみとめる。この点を評価しないなら、眠っているのとおなじである。だが、問題は、破壊の仕方に変化があったかどうかにある。わたしは変化があったとおもう。戦争と虐殺の政策から改良と欺瞞の政策に変わり、強硬な政策から柔軟な政策に変わり、軍事的政策から政治的政策に変わったのである。なぜこのような変化があったのか。それは、日本帝国主義を前にして、われわれが同盟軍をブルジョア階級にもとめるのとおなじように、ブルジョア階級と国民党も一時的に同盟軍をプロレタリア階級にもとめざるをえなくなったからである。問題をみるには、この点から出発しなければならない。国際関係において、フランス政府がソ連敵視からソ連との連合に変わった〔6〕のも、これとおなじ理由である。圏内におけるわれわれの任務もまた、軍事的なものから政治的なものに変わったのである。われわれは陰謀や詭計を必要としない。われわれの目的は、ブルジョア階級と国民党内の抗日に共鳴するすべての人びとを結集して、ともに日本帝国主義をうちやぶることにある。
民主の問題
「民主を強調するのはあやまりで、ただ抗日だけを強調すべきである。抗日の直接行動がなければ、民主運動はありえない。多くの人は、抗日だけを要求して、民主は要求していない。『一二・九』①がもういちどあれば、それでよいのだ」。
まず、問題をすこしだそう。まえの段階(一九三五年の一二・九運動から一九三七年二月の国民党中央執行委員会第三回全体会議まで)では、多くの人が抗日だけを要求して、平和は要求していなかったといえるだろうか。まえに平和を強調したのはまちがっていただろうか。抗日の直接行動がなければ、平和運動はありえないだろうか(西安事変や国民党中央執行委員会第三回全体会議は綏遠抗戦が終わったのちのことであり、現在でもまだ綏遠抗戦や「一二・九」のようなものはない)。抗日には平和が必要であり、平和がなければ抗日はできず、平和が抗日の条件であることを、知らないものはない。まえの段階でのあらゆる直接、間接の抗日行動(「一二・九」から国民党中央執行委員会第三回全体会議まで)は、すべて平和をかちとることをめぐっておこなわれ、平和はまえの段階での中心的な環であり、まえの段階での抗日運動のもっとも本質的なものであった。
抗日の任務にとって、民主もまた新しい段階におけるもっとも本質的なものであり、民主のためとは、抗日のためということである。抗日と平和、民主と平和がたがいに条件となっているのとおなじように、抗日と民主はたがいに条件となっているのである。民主は抗日の保障であり、抗日は民主運動の発展に有利な条件をあたえることができる。
新しい段階で、直接的、間接的な多くの反日闘争のおこることをわれわれはのぞむし、またおこるにちがいない。それらが対日抗戦をおしすすめるであろうし、また大いに民主運動の助けともなる。しかし、歴史がわれわれにあたえている革命の任務の中心的な本質的なものは、民主をかちとることである。「民主」、この「民主」はまちがっているだろうか。 わたしはまちがっていないとおもう。
「日本は後退した、イギリスと日本は均衡がとれはじめている、南京はいっそう動揺してきた」。これは歴史の発展法則を理解しないことからうまれた的はずれの心配である。日本がもし国内革命によって根本的に後退したのなら、中国革命にとって有利であり、われわれののぞむところであり、世界侵略戦線の崩壊の始まりであるのに、どうしてまた心配することがあるのだろうか。しかし、本当は、まだそうなっていない。佐藤外交は大戦の準備であり、大戦はわれわれの前にせまっている。イギリスの動揺政策も無結果に終わるほかない。これはイギリスと日本との利害が異なることによって決定づけられている。南京が長期にわたって動揺しつづけるなら、かれらは全国人民の敵となってしまうので、それも南京の利益がゆるさない。一時的な後退現象が全般的な歴史の法則にとってかわることはできない。したがって、新しい段階を否定することはできないし、また民主の任務の提起を否定することもできない。しかも、状況がどうあっても、民主のスローガンはすべて適応できるものであり、民主は、中国人にとってありあまっているものではなくて、欠けているものである。これはだれにもあきらかである。まして、実際の状況がしめしているように、新しい段階を指摘し、民主の任務を提起したことは、抗戦に一歩近づいたものである。時局はすでに前進した。それをあとにひきもどしてはならない。
「なぜ国民大会を強調するのか」。それは、国民大会が、生活のすべての面と関連する可能性をもつものであり、反動的独裁から民主へのかけ橋であり、国防的な性質をおびており、合法的なものだからである。同志諸君が提起しているように、河北省東部と察哈爾省北部の奪回、密輸入反対、「経済提携」反対などは、いずれも正しい。だが、このことは民主の任務や国民大会と、たがいに補いあっていて、少しも矛盾するものではない。しかし、中心的なものは国民大会と人民の自由である。
日常的な反日闘争および人民の生活のための闘争が、民主運動と呼応しなければならないということは、まったく正しいし、またなんら論議の余地もない。だが、現段階での中心的なそして本質的なものは、民主と自由である。
革命の前途の問題
何人かの同志がこの問題をだしているが、わたしは簡単に答えることにする。
上下二編からなる論文は、前編をうまく書かないと、後編もうまく書けない。民主主義革命を断固として指導することは、社会主義の勝利をかちとる条件である。われわれは社会主義のためにたたかうものであって、この点はいかなる革命的な三民主義者とも異なっている。現在の努力は将来の大きな目標にむけられており、この大きな目標をみうしなっては、共産党員ではなくなる。しかし、こんにちの努力をゆるめても、やはり、共産党員ではなくなる。
われわれは革命の転化論〔7〕者であり、民主主義革命を社会主義の方向に転化させていくことを主張する。民主主義革命には、いくつかの発展段階があるが、それらはみな民主共和国のスローガンのもとですすめられる。ブルジョア階級の優位からプロレタリア階級の優位へ、これは、闘争の長い過程であり、指導権をかちとる過程であって、それは共産党がプロレタリア階級の意識水準、組織水準をたかめ、農民と都市小ブルジョア階級の意識水準、組織水準を高めることにかかっている。
プロレタリア階級のかたい同盟者は農民であり、そのつぎは都市の小ブルジョア階級である。われわれと指導権を争うものはブルジョア階級である。
ブルジョア階級の動揺と不徹底性を克服するには、大衆の力と正しい政策に依拠しなければならない。そうしなければ、ブルジョア階級が逆にプロレタリア階級を制圧するであろう。
血を流さない転化はわれわれの希望するものであり、われわれはそうなるように努力すべきであるが、できるかどうかは大衆の力いかんにかかっている。
われわれはトロツキー主義の「永久革命」論者〔8〕ではなく、革命の転化論者である。われわれは、民主共和国のあらゆる必要な段階をへて、社会主義に到達することを主張する。われわれは追随主義に反対するが、また冒険主義やせっかち病にも反対する。
ブルジョア階級の革命への参加の一時性を理由にして、ブルジョア階級はいらないといい、ブルジョア階級の抗日派(半植民地での)との連合を投降主義だというのは、トロツキー主義者のいい方であって、われわれはこれには同意できない。こんにちのブルジョア階級の抗日派との連合こそ、社会主義へすすむためにとおらなければならないかけ橋である。
幹部の問題
偉大な革命を指導するには、偉大な党がなければならないし、多くのもっとも優秀な幹部がなければならない。四億五千万の人口をもつ中国で、歴史上空前の大革命をおこなうには、指導するものがせまい小集団であってはならないし、またささいなことにこだわって大局をみず、遠い見通しをもたない、能力のない指導者や幹部しか党内にいないようであってもならない。中国共産党ははやくから大政党であったし、反動期に損失をうけながらも、依然として大政党であり、多くの優秀な指導者と幹部をもっている。だが、まだ十分ではない。わが党の組織は全国に発展しなければならず、何万もの幹部を意識的に養成し、何百人ものもっとも優秀な大衆の指導者をもたなければならない。これらの幹部と指導者は、マルクス・レーニン主義を身につけ、政治的に遠い見通しをもち、活動能力をもち、献身的精神に富み、独自で問題を解決することができ、困難のなかにあっても動揺せず、民族のため、階級のため、党のために誠心誠意活動するものでなければならない。党は、これらの人びとに依拠して、党員や大衆とむすびつき、これらの人びとの大衆にたいするしっかりした指導に依拠して、敵を打倒する目的を達成するのである。これらの人びとは、私利私欲のない、個人英雄主義や売名主義のない、怠惰や消極性のない、尊大なセクト主義のない、大公無私の民族の英雄、階級の英雄であって、これこそ、共産党員、党の幹部、党の指導者のもつべき性格であり、作風である。命をささげたわが何万人の党員、何千人の幹部、何十人のもっとも優秀な指導者がわれわれに残してくれた精神もまた、こうしたものである。いうまでもなくわれわれは、これらのものをまなんで、自己をよりよく改造し、より高い革命的水準に高めなければならない。だが、それだけではまだ十分ではない。さらに、全党および全国において多くの新しい幹部と指導者を発見するということをも、一つの任務にしなければならない。「幹部がすべてを決定する」〔9〕とスターリンがいったように、われわれの革命は幹部にかかっている。
党内民主の問題
このような目的をたっするには、党内の民主が必要である。党に力をもたせるには、党の民主集中制の実行によって全党の積極性を発揮させなければならない。反動期と内戦の時期には、集中制の方がやや多くあらわれていた。新しい時期には、集中制は民主制と緊密にむすびつかなければならない。民主制を実行することによって全党の積極性を発揮させるのである。全党の積極性の発揮によって、大量の幹部をきたえあげ、セクト的観念の残りかすを一掃し、全党をはがねのように固く団結させよう。
大会の団結と全党の団結
大会における政治問題についての異なった意見は、説明をつうじてすでに一致をみるにいたった。党中央の路線とごく少数の同志の指導する退却的な路線とのあいだにかつてあった相違も、すでに解決され〔10〕、わが党がすでに非常にかたく団結していることをしめしている。このような団結は当面の民族民主主義革命のもっとも重要な基礎である。なぜなら、共産党の団結があってはじめて、全階級と全民族の団結を実現することができ、全階級と全民族の団結があってはじめて、敵にうち勝ち、民族民主主義革命の任務を達成することができるからである。
何百何千万の大衆を抗日民族統一戦線へ参加させるためにたたかおう
われわれの正しい政治方針とかたい団結は、何百何干方の大衆を抗日民族統一戦線へ参加させることが、その目的である。プロレタリア階級、農民、都市小ブルジョア階級の広範な大衆にたいして、われわれは宣伝、扇動および組織の活動をする必要がある。ブルジョア階級の抗日派とわれわれが同盟をむすぶことでも、やはりわれわれはいっそうの活動をする必要がある。党の方針を大衆のものにするためには、われわれの長期にわたって堅持する、どんな失敗にもくじけない、あらゆる苦難にたえる、辛抱づよい、めんどうをいとわない努力がなければならない。このような努力なしには、なにごともなしとげられない。抗日民族統一戦線の結成と強化、およびその任務の達成、中国における民主共和国の実現には、この大衆をかちとる努力をすこしでもゆるがせにすることはできない。このような努力によって、何百何千万の大衆をわれわれの指導のもとにかちとったならば、われわれの革命の任務は急速に達成できるのである。われわれの努力によって、日本帝国主義は確実にうちたおされ、民族の解放と社会の解放は完全に実現されるにちがいない。
〔注〕
〔1〕 西安事変ののち、日本帝国主義者は国民党当局にはたらきかけ、当時すでに実現しはじめていた中国国内の平和と、しだいに形成されつつあった抗日民族統一戦線を破壊させようとして、表面的には一時おだやかな速度をとった。一九三六年十二月と一九三七年三月、日本侵略者は、二度にわたって、かいらい内蒙古自治政府をそそのかして、南京の国民党政府を支持するという通告電をうたせた。そのうえ日本の外棺佐藤は、これまでの中国にたいする関係をあらため、中国の統一と復興に協力するなどといつわりのことばをならべて、蒋介石の篭絡にのりだした。他方、日本の財閥の児玉謙次らは、また中国が「近代国家の組織を完成する」ことに協力すると称して、「経済視察団」なるものを組織して中国にやってきた。いわゆる「佐藤外交」および日本帝国主義のこうしたうわべだけの現象にまどわされた一部の人たちのいう「日本の後退」とは、こうした一連の侵略的陰謀をさしている。
〔2〕 一九三六年十一月、国民党政府は、当時、上海で抗日救国運動を指導していた沈鈞儒ら七人の指導者を逮捕した。一九三七年四月、蘇州の国民党高等法院の検察官は、沈鈞儒らを「公訴」した。国民党当局は、すべての愛国運動のことを「民国をあやうくする」ものだという、これまでの反動的なきまり文句をとなえつづけ、沈鈞儒らにたいしても「民国をあやうくする」という「罪状」をかぶせた。
〔3〕 西安事変前、東北軍は、陝西省、甘粛省の境界地区に駐屯し、陝西省北部の赤軍と直接接触していたので、赤軍の影響をふかくうけ、それで西安事変をおこすにいたった。一九三七年三月、国民党反動派は、赤軍と東北車との関係をひきはなし、またその機会に乗じて、東北軍の内部を分裂させようとして、東北軍に東の河南省と安徽省への移動を強硬に命令した。
〔4〕 楊虎城は、西安事変をおこした西北地方の軍事指導者で、張学良とならんで名声をはせ、当時「張楊」とよばれていた。張学良は蒋介石を釈放したのち、蒋を南京までおくりとどけると、ただちに抑留された。一九三七年四月、楊虎城も国民党反動派から、辞職して外遊することを強制された。楊虎城は抗日戦争勃発後、抗日活動に参加しようとして帰国したが、これも蒋介石のために長期監禁され、一九四九年九月、人民解放軍か重慶にせまったとき、ついに強制収容所で殺害された。
〔5〕 潼関は、陝西、河南、山西の省境にある軍事的要地である。西安事変のとき、国民党の部隊は主として潼関以東に駐屯していた。当時、「左」翼と豪語していた一部の人(張国燾はそのひとりである)は「潼関からうって出よ」、つまり国民党部隊にむかって進攻せよ、と主張した。このような主張は、西安事変を平和的に解決しようとする党中央の方針と相反するものであった。
〔6〕 フランス帝国主義は、ロシア十月革命後、長いあいだソ連を敵視する政策をとってきた。十月革命後まもなく、フランス政府は、一九一八年から一九二〇年にかけてのソ連にたいする十四ヵ国の武力干渉に積極的に参加した。そしてこの干渉が失敗したのちも、依然としてソ連を孤立させる反動政策をとりつづけた。一九三五年五月になって、ソ連平和外交政策のフランス人民にたいする影響、ファシスト・ドイツのフランスにたいする脅威によって、フランスはようやく、ソ連と相互援助条約を結ぶにいたった。だが、フランスの反動政府は、のちになるとこの条約を忠実に実行しなかった。
〔7〕 マルクス、エンゲルスの『共産党宣言』の第四の部分、レーニンの『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術』の第十二と第十三の部分、『ソ連共産党歴史小教程』の第三章第三節を参照。
〔8〕 スターリンの『レーニン主義の基礎について』の第三の部分、『十月革命とロシア共産主義者の戦術』の第二の部分、『レーニン主義の諸問題によせて』の第三の部分を参照。
〔9〕 一九三五年五月、赤軍大学卒業式におけるスターリンの演説にみられる。原文はつぎのとおりである。「世界にあるすべての貴重な資本のうちで、もっとも貴重で、もっとも決定的な意義をもつ資本は、人材であり、幹部である。われわれの現在の条件のもとでは、『幹部がすべてを決定する』ということを理解すべきである。」
〔10〕 一九三五年から一九三六年までのあいだの党中央の路線と張国燾の退却路線との相違をさしている。本巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』の注〔22〕を参照。毛沢東同志がここで「相違も、すでに解決され」たといっているのは、赤軍第四方面軍と中央赤軍が合流したことをさしている。その後の張国燾の党にたいする公然たる裏切り、反革命への転落は、もはや指導路線上の問題ではなくて、個人の裏切り行為でしかない。
〔訳注〕
① 本巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』の注〔8〕を参照。




