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さらば、スチュアート(一九四九年八月十八日)

 スチュアート〔1〕がすでに南京ナンチンをはなれて、まもなくワシントンに着こうとしているが、まだ着いていないその八月五日という日をえらんで、アメリカの白書が発表されたことは、理解できることである。なぜなら、かれは、アメリカの侵略政策が徹底的に失敗したことの象徴だからである。スチュアートは中国生まれのアメリカ人で、中国に相当ひろい社会的つながりをもち、中国で長年、ミッション・スクールの経営にあたり、抗日の時期には日本人の監獄に入れられたこともあり、平素からアメリカも愛しまた中国も愛しているようなふりをして、一部の中国人を相当まどわすことができた。それで、かれはマーシャルに見込まれて駐華大使になり、マーシャル一派の風雲児の一人となった。マーシャル一派から見ると、かれには一つだけまずい点があった。それは、かれがマーシャル一派の政策を代表して中国で大使をやっていた時期全体が、ちょうど、中国人民によってこの政策が徹底的にうちやぶられた時期であったということで、その責任は小さくはない。責任のがれを目あてとする白書は、当然、スチュアートがもうすぐ着こうとしていてまだ着いていないというときに発表するのが適切であった。

 アメリカが金と鉄砲を出し、蒋介石チァンチェシーが人間を出し、アメリカのためにたたかって中国人を殺し、それによって、中国をアメリカの植民地にする戦争は、第二次世界大戦後におけるアメリカ帝国主義の世界侵略政策の重要な部分をなしている。アメリカの侵略政策の対象には、いくつもの部分がある。ヨーロッパの部分、アジアの部分、アメリカ州の部分、この三つがおもな部分である。中国はアジアの重心であり、四億七千五百万の人口をもつ大国なので、中国をうばいとれば、アジア全体が自分のものになる。アメリカ帝国主義のアジア戦線が強固になれば、ヨーロッパの攻撃に力を集中することができる。アメリカ帝国主義は、アメリカ州における自己の戦線はわりに強固なものと考えている。以上がアメリカ侵略者の皮算用の全部である。

 だが、第一に、アメリカの人民も全世界の人民も戦争を望んでいない。第二に、ヨーロッパの人民の自覚、東ヨーロッパの人民民主主義諸国の勃興ぼっこう、とくにヨーロッパ、アジア両大陸にまたがってそびえ立つソ連というかつてないほど強大な平和のとりでがアメリカの侵略政策に頑強がんきょうに抵抗していること、これらのことがアメリカの注意力の大部分をひきつけている。第三に、これが主要なものであるが、中国人民の自覚、中国共産党の指導する武装力と民衆の組織された力がすでに、かつてないほど強大なものになっている。こうして、アメリカ帝国主義の政権担当者集団は、中国にたいして直接、大規模に武力攻撃をおこなう政策がとれず、蒋介石を助けて内戦をやらせる政策をとらざるをえなくなった。

 アメリカの陸海空軍はすでに中国で戦争に参加している。青島チンタオ上海シャンハイ台湾タイワンにはアメリカの海軍基地があった。北平ペイピン天津ティエンチン唐山タンシャン秦皇島チンホヮンタオ、青島、上海、南京にはすべてアメリカ軍が駐屯していた。アメリカの空軍は全中国を支配し、空中から全中国の戦略要地を軍用地図に撮影した。アメリカの軍隊あるいは軍事要員は北平の近くの安平アンピン鎮で、長春チャンチュンの近くの九台チュウタイで、唐山で、膠東チァオトン半島で、人民解放軍と交戦し、なんども人民解放軍の捕虜になった〔2〕。シェンノート航空隊はひろい範囲にわたって参戦した〔3〕。アメリカの空軍は蒋介石のために軍隊の輸送にあたったほか、蜂起した巡洋艦重慶号を撃沈した〔4〕。これらはすべて直接の参戦行為である。ただ、公然と戦争を宣言しておらず、規模もそれほど大きくなく、金や鉄砲や顧問を出し大規模に蒋介石を助けて内戦をやらせることをおもな侵略方式としているというだけのことである。

 アメリカがこうした方式をとったのは、中国と全世界の客観情勢によるもので、なにもアメリカ帝国主義の政権担当者――トルーマン、マーシャルの一派が中国を直接侵略することを考えなかったというのではない。蒋介石を助けて戦争をやらせた当初には、アメリカは自分がおもてに立って国共両党の紛争を調停するというハイカラ芝居を演じて、中国共産党を軟化させ、中国人民を欺瞞ぎまんし、戦わずして全中国を支配しようとたくらんだこともあった。和平交渉は失敗し、欺瞞は成功せず、戦争の幕がきっておときれた。

 アメリカに幻想をいだいている健忘症の自由主義者またはいわゆる「民主的個人主義」者の諸君、ひとつアチソンのいっていることを聞いてみたまえ。「平和がおとずれたとき、中国でアメリカが選択できる道はつぎの三つであった。(一)なにもかもすっかり撤退する。(二)大規模な軍事干渉をおこない、国民党を助けて共産党を撲滅する。(三)国民党を助けて、その権力を中国のできるかぎりひろい地域にうちたて、同時に、双方の妥協をうながすことによって内戦の回避につとめる。」

 なぜ第一の政策をとらなかったのか。アチソンはいっている。「第一の方法をとることは、われわれがまず助力をあたえることにあくまで努力しようともしないで、われわれの国際的責任、われわれの伝統的な対華友好政策をそっくり放棄してしまうものだと、当時のアメリカの世論は考えていたと、わたしは信じている。」なるほど、アメリカのいわゆる「国際的責任」とか「伝統的な対華友好政策」とかいうものは、中国に干渉することだったのである。干渉することが国際的責任を負うことであり、干渉することが対華友好であってみれば、干渉しないわけにはいかなくなる。アチソンはここでアメリカの世論をはずかしめているのだ。それはウォール街の「世論」ではあっても、アメリカの世論ではない。

 なぜ第二の政策をとらなかったのか。アチソンはいっている。「選択できる第二の政策は、理論的にみても、また、いまふりかえってみても、魅力あるもののようであるが、まったく実行できないものであった。戦前の十年間でさえ、国民党は共産党を撲滅できなかった。現在は戦後であり、国民党は弱まり、意気消沈し、民心をうしなっている。これについては、さきに説明したとおりである。日本の手からとりもどした地域における国民党の文武官吏の行為は、国民党にたいする人民の支持をいっぺんにうしなわせ、その威信を失墜させた。ところが、共産党はこれまでのどの時期よりも強大になり、全華北はほとんどかれらの支配するところとなった。国民党軍がのちにしめしたみじめな無能ぶりからみれば、共産党を追いはらうには、おそらくアメリカの武力にたよるほかなかったであろう。だが、このような大きな責任は、われわれの軍隊が一九四五年に負ったとしても、あるいはもっとあとで負ったとしても、アメリカの人民がこれを承認しなかったであろうことはあきらかである。したがって、われわれは、選択できる第三の政策をとった……」

 アメリカが金と鉄砲を出し、蒋介石が人間を出し、アメリカのためにたたかって中国人を殺し、「共産党を撲滅し」、中国をアメリカの植民地にかえ、アメリカの「国際的責任」をはたし、「伝統的な対華友好政策」を実現するとは、すばらしいやり方である。

 国民党は腐敗し無能であり、「意気消沈し、民心をうしなっている」が、それでも、金を出し鉄砲を出してかれらに戦争をやらせたのである。直接出兵して干渉することも、「理論的」には妥当であった。アメリカの支配者だけからいえば、「いまふりかえってみても」やはり妥当である。というのは、こうすることは、じつに興味のあることで、「魅力あるもののようである」からである。だが実際には実行できないことであり、「アメリカの人民がこれを承認しなかったであろうことはあきらかである」。われわれ――トルーマン、マーシャル、アチソンら帝国主義者一派――はやりたくないのではなく、やりたいのはやまやまだが、ただ中国の情勢、アメリカの情勢、それからまた国際情勢全体(この点にはアチソンはふれていない)が許さないので、やむをえず次善の策として第三の道をとった、というわけである。

 「国際的な援助がなくても勝利できる」と考えている中国人は、よく聞くがよい。アチソンは諸君に授業をしてくれているのだ。アチソンは、給料ももらわずに奉仕的に授業してくれるありがたい教師で、こんなに熱心に、少しもつつみかくさず、ありったけの真理を語ってくれる。アメリカが大がかりに出兵して中国を攻撃しなかったのは、アメリカ政府が望まなかったからではなく、アメリカ政府に懸念があったからである。第一の懸念は中国人民がかれらに反対することで、かれらは泥沼にはまりこんで抜けだせなくなるのを恐れたのである。第二の懸念はアメリカの人民がかれらに反対することで、そのために、思いきって動員令が下せなかったのである。第三の懸念はソ連とヨーロッパの人民、各国の人民がかれらに反対することで、かれらは天下のそしりをうけるのを恐れたのである。アチソンの愛すべき卒直さにも限度があって、この第三の懸念は口にしたがらない。それは、かれがソ連のまえで恥をかくのを恐れているからであり、すでに失敗しているのにまだ失敗していないようなふりをしなければならないヨーロッパのマーシャル・プラン〔5〕が、全面的崩壊というみじめな状態におちいるのを恐れているからである。

 近視眼的で、考えのあいまいな中国の自由主義者あるいは民主的個人主義者はよく聞くがよい。アチソンは諸君に授業をしてくれているのだ。アチソンは諸君のありがたい教師である。諸君が想像しているアメリカの仁義道徳は、もはやアチソンによってきれいに掃きすてられている。そうではないか。諸君は白書やアチソンの書簡のなかから仁義道徳のひとかけらでもさがしだすことができるだろうか。

 アメリカにはたしかに科学があり、技術があるが、惜しいことに、人民の手にはなく、資本家の手ににぎられているので、それは、内にたいする搾取と抑圧、外にたいする侵略と殺人のために使われている。アメリカにも「民主政治」はあるが、惜しいことに、それはブルジョア階級という一階級の専制支配の別名でしかない。アメリカにはたくさん金があるが、惜しいことには腐りきった蒋介石反動派にしかやる気がない。聞くところによると、現在も将来も、中国にいるかれらの第五列にはやる気が大いにあるそうだが、そこいらの、学究くさい、人さまの好意も知らぬ自由主義者あるいは民主的個人主義者にはやる気はなく、もちろん、共産党にはなおさらやる気はないということである。くれてやってもよいが、それには条件がある。どんな条件か。おれについてこい、である。アメリカ人は北平で、天津で、上海で、すこしばかり救済用の小麦粉をばらまき、どんな連中が腰をかがめて拾うかをためしてみた。太公望の魚釣りでは、釣られたい者が針にかかる。嗟来さらいは、食えばおなかが痛くなる〔6〕。

 われわれ中国人には気骨がある。かつては自由主義者あるいは民主的個人主義者だった多くの人びとが、アメリカ帝国主義者とその手先国民党反動派をまえにして立ちあがった。聞一多ウェンイートーは卓をたたいて立ち、まなじりを決して国民党の拳銃けんじゅうに立ちむかい、倒れても屈しようとはしなかった〔7〕。朱自清チューツーチンは重病の身でありながら、餓死しても、アメリカの「救済食糧」はうけなかった〔8〕。唐代の韓愈かんゆは「伯夷頌はくいしょう」を書いたが〔9〕、たたえているのは、自国の人民には責任を負わず、こっそり逃げだし、しかも武王の指導する当時の人民解放戦争にも反対した、かなり「民主的個人主義」の思想をもっていた伯夷であって、こういうものをたたえるのはまちがいであった。われわれは聞一多頌を書き、朱自清頌を書くべきである。かれらはわれわれの民族の英雄的気魄きはくをしめしている。

 多少の困難を、なんで恐れることがあろう。封鎖するがよい。五年十年と封鎖しているうちには、中国の問題はすべて解決される。中国人は、死をも恐れないのに、なんで困難を恐れよう。老子もいっているように「民、死をおそれずんば、何ぞ死をもって之をおそれしめん」〔10〕である。アメリカ帝国主義とその手先蒋介石反動派は、われわれにたいして、「死をもって之を懼れしめ」ただけでなく、実際に、われわれを死においやっている。かれらは、聞一多らの人びとのほかにも、この三年のあいだに、アメリカのカービン銃、機関銃、追撃砲、バズーカ砲、榴弾りゅうだん砲、戦車、飛行機、爆弾で数百万の中国人を殺した。いまは、こうした状況も大詰めに近づいている。かれらは戦いに負けた。かれらが攻めてくるのでなくて、われわれが攻めていくようになった。かれらはもうすぐおしまいである。かれらはわれわれに多少の困難をのこした。封鎖、失業、飢饉、通貨膨脹、物価騰貴といったようなものは、たしかに困難ではあるが、しかし、この三年間にくらべれは、ひと息つけるようになっている。この三年間の難関でさえ突破したのに、どうして、いまのこれくらいの困難が克服できないことがあろうか。アメリカなしに生きていけないことがあろうか。

 人民解放軍が長江チャンチァンを渡ると、南京のアメリカ植民政府はくもの子を散らすように逃げさった。ところがスチュアート大使さまだけは、新しい店でもひらいてひともうけしようとじっと腰をおちつけ、目を大きくして様子をうかがっていた。だが、スチュアートはなにを見たか。人民解放軍が一隊また一隊と通りすぎ、労働者、農民、学生がつぎつぎと群れをなして立ちあがるのを見たほかに、さらに、もうひとつの現象、つまり中国の自由主義者あるいは民主的個人主義者までが大挙して労働者、農民、兵士、学生たちといっしょにスローガンを叫び、革命を論じているのを見たのである。要するに、だれも、かれをかまってくれるものがいなかった。そこで「煢々《けいけい》として孑立げつりつし、形影相弔とむらうう」①ことになり、なにもすることがないので、カバンを小脇に出ていくよりしかたがなくなった。

 中国にはまだ、あいまいな考えをもち、アメリカに幻想をいだいている一部の知識人やその他のものがいる。したがって、かれらにたいしては、説得、獲得、教育、団結の活動をすすめ、かれらを人民の側に立たせて、帝国主義のわなにかからせないようにしなければならない。しかし、中国人民のあいだでは、アメリカ帝国主義の威信はすっかり地におちてしまった。アメリカの白書こそ破産の記録である。先進的な人びとは、白書をじゅうぶんに利用して、中国人民にたいする教育活動をおこなわなければならない。

 スチュアートが去り、白書が来た。たいへん結構。この二つのことは、どちらもよろこばしいことである。




〔注〕

〔1〕 スチュアートは、一八七六年に中国に生まれた。かれは一貫して、アメリカの対華文化侵略の忠実な執行者だった。かれは一九〇五年から中国で布教をはじめ、一九一九年からはアメリカが中国の北京に設けていた燕京大学の学長になった。一九四六年七月十一日、スチュアートは中国国民党政府駐在のアメリカ大使となり、積極的に国民党反動派の反人民的内戦のあと押しをするとともに、中国人民に敵対する各種の政治的陰謀活動をおこなった。一九四九年八月二日、中国人民革命の勝利をさまたげようとするアメリカ帝国主義のすべての努力が徹底的な失敗に終わったために、スチュアートはすごすごと中国から立ち去らざるをえなくなった。

〔2〕 一九四五年に日本が降伏したのち、アメリカ軍は、中国の領土・主権にたいする侵害と中国の内政にたいする干渉を目的として中国に上陸し、北平、上海、南京、天津、唐山、開平、秦皇島、静海、青島などの地区に駐屯するとともに、たえず解放区を侵攻した。本文にでている安平鎮事件とは、一九四六年七月二十九日に天津のアメリカ軍か蒋介石匪賊軍に呼応して河北省香河県安平鎮を攻撃した事件のことである。九台事件とは、一九四七年三月一日、アメリカ軍が長春と九台とのあいだの河渓堡の解放軍陣地にたいして軍事偵察をおこなった事件のことである。唐山事件とは、一九四六年六月十六日に唐山のアメリカ軍が宋家営などの地に侵入し、同年七月、唐山付近の[シ+欒]県三河荘子と昌黎県西河南村に侵入した事件のことである。膠東半島にたいするアメリカ軍の侵攻はたびたびおこなわれたが、有名なものが三国ある。一回は、一九四七年八月二十八日にアメリカの飛行機と軍艦が牟平県の浪暖口と小里島を侵攻した事件、一回は、同年十二月二十五日にアメリカ軍が蒋介石匪賊軍に呼応して即墨県の北の王麟陶を攻撃した事件である。上述の、解放区を侵攻したアメリカ軍の侵略行為にたいしては、中国人民解放軍も地方の人民武装部隊も厳正な自衛行動をとった。

〔3〕 シェンノートはアメリカ人で、かつて国民党政府の空軍顧問をつとめた。日本が降伏したのち、かれはアメリカ第十四航空隊の一部の要員をひきい、空輸隊をつくって、国民党を助けて内戦をやらせ、また解放医の偵察、爆撃などの犯罪行為に直接参加した。

〔4〕 本巻の『中国人民解放軍総可令部スポークスマンがイギリス軍艦の暴虐行為について発表した声明』注〔4〕を参照。

〔5〕 一九四七年六月五日、アメリカ国務長官マーシャルはハーバード大学で、いわゆるヨーロッパの復興にたいするアメリカの「援助」なるものについて演説した。のちにアメリカ政府がこれにもとづいてつくった「ヨーロッパ復興計画」は、「マーシャル・プラン」とよばれた。

〔6〕 「太公望の魚釣りでは、釣られたい者が針にかかる」というのは民間伝説である。その伝説によれば、周代の姜太公は渭水のほとりで、餌をつけない、まっすぐな針を水面上三尺のところにたらして魚釣りをし、「捕えられる運命にあるものは針にかかれ」といったといわれているか、この話は『武王伐紂平話ぶおうちゅうをうつのものがたり』の中巻にみられる。「嗟来の食」とは侮辱的にあたえる施しのことである。斉国の一人の飢えた男が嗟来の食を食わなかったために餓死した話が、『礼記らいき』の「檀弓下だんくうげ」にでている。

〔7〕  聞一多(一八九九~一九四六年)は中国の有名な詩人、学者、教授であった。一九四三年以後、蒋介石政府の反動性と腐敗ぶりにはげしい憤りをもやして、民主主義のための闘争に積極的に参加した。抗日戦争終結後は、国民党がアメリカ帝国主義と結託して反人民的内戦をおこすことに積極的に反対した。一九四六年七月十五日、国民党匪賊一味の手にかかって昆明で暗殺された。

〔8〕 朱自清(一八九八~一九四八年)は中国の現代の文学者であり、教授であった。抗日戦争終結後、かれは蒋介石の支配に反対する学生運動を積極的に支持した。一九四八年六月、アメリカが日本軍国主義をもりたてることに抗議し「アメリカの援助物資」の小麦粉をうけとることを拒否する宣言に署名した。当時、朱自清はひじょうな生活難におちいっており、同年八月十二日ついに貧乏と病気のため北平で逝去した。死に臨んでもなお、かれは国民党政府の配給するアメリカの小麦粉を買わないよう家人にいいつけた。

〔9〕 韓愈(七六八~八二四年)、唐代の有名な作家。「伯夷頒」は韓愈の書いた散文である。伯夷はいん末の人で、周の武王が兵を挙げて殷王朝を討伐することに反対した。武王が殷を滅ぼしてのち、かれは首陽山にかくれ、周のろくむことなく世を去った。

〔10〕 『老子』の第七十四章にみられる。

〔訳注〕

① 李密の「陳情表」にみられる。「寂しくひとりぼっちで立ち、自分と自分の影がたがいに慰めあっている」という意味で、孤独で同情者のないありさま。

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