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四分五裂の反動派がなぜまだ「全面的和平」の空念仏をと存えるのか (一九四九年二月十五日)

国民党反動支配のくずれていく速度は、人びとの予想以上にはやい。解放軍の済南チーナン攻略からわずか四ヵ月あまり、瀋陽シェンヤン攻略からわずか三ヵ月あまりしかたたない現在、国民党の軍事面、政治面、経済面、文化・宣伝面のあらゆる残存勢力はもはや、救いようのない四分五裂と瓦解がかいの状態におちいっている。国民党支配の全面的崩壊は北部戦線の遼瀋リァオシェン戦役、平津ピンチン戦役と南部戦線の淮海ホヮイハイ戦役の期間にはじまり、この三つの戦役によって国民党は、去年の十月はじめからことしの一月末までの四ヵ月たらずのあいだに、正規軍百四十四コ師団の全員をふくむ百五十四万人あまりをうしなった。国民党支配の全面的崩壊は中国人民解放戦争と中国人民革命運動の偉大な勝利の必然の結果であるが、国民党とその主人アメリカの「和平」のわめきも、国民党の崩壊を促すうえでかなりのはたらきをした。国民党反動派がことしの一月一日から持ちあげはじめた「和平攻勢」と称する石は、もともと中国人民を打つためのものであったのに、いまではかれら自身の足を打っている。もっと正確にいえば、国民党自身を脳天から爪先まで打ちくだいたのである。傳作義フーツォイー将軍は人民解放軍に協力して、すでに北平ペイピン問題を平和的に解決したが、このほかにも平和的解決をのぞむ人たちは各地にまだたくさんいる。アメリカ人はそばにいて業をにやし、息子たちのふがいなさをひどくうらんでいる。だが、実は、和平攻勢というこの宝珠の玉はアメリカ工場の製品で、もう半年以上もまえにアメリカ人が国民党におくったものなのである。スチュアート自身がこの秘密をもらしている。かれは、蒋介石チァンチェシーがいわゆる元旦の声明を出したあとで、中央通信社の記者に、これは「わたし自身がこれまで一貫して追求してきたものだ」と語った。アメリカの通信社のつたえるところによれば、その記者は、この「公表すべからざる」談話を公表したため、首を切られたとのことである。蒋介石集団は長いあいだアメリカ人のこの命令をうけいれることに踏みきれなかったが、その理由は昨年十二月二十七日の国民党中央宣伝部の指示のなかにはっきりつぎのようにのべられている。「わが方にして、もし戦うことができないなら、和することもまたできない。わが方にして、もし戦うことができるなら、和議はいたずらに士気、人心を瓦解させるだけである。したがって、戦うことができるかどうかにかかわらず、和議は百害あって一利なしである。」国民党が当時この指示を出したのは、国民党内の他の派閥がすでに和議を主張していたからである。昨年十二月二十五日、白崇禧パイチョンシーとその指導下の湖北フーペイ省参議会が、蒋介石に、「平和的解決」の問題を持ちだしたので〔1〕、蒋介石はやむなくことしの一月一日、五つの条件のもとで和平交渉をおこなうという声明を出さざるをえなくなった。蒋介石は白崇禧の手から和平攻勢という新案特許をうばいとり、新しい商標のもとで、もとのままの支配をつづけたいと考えたのである。蒋介石は一月八日、張群チャンチュンを漢□《ハンコウ》にやって白崇禧の支持をもとめ、同日、米英仏ソ四ヵ国の政府にたいして、中国の内戦に干渉するようもとめた〔2〕。だが、これらの措置はすべて失敗に終わった。中国共産党の毛沢東マオツォートン主席が一月十四日の声明で蒋介石のみせかけの和平の陰謀に致命的な打撃をあたえたので、蒋介石は一週間後には舞台裏へ「引退」せざるをえなくなった。蒋介石、李宗仁リーツォンレンおよびアメリカ人は、この手をうつためにいろいろな手配をし、相当見ごたえのある猿芝居を共演しようとしたのだが、結果はかれらの期待をうらぎり、舞台の下の観衆がいよいよまばらになっていったばかりか、舞台の上の役者までもつぎつぎと行くえをくらましてしまった。蒋介石は奉化にいて、「在野の地位」から、あいかわらずその残存勢力の指揮をとりつづけているが、しかしかれはもう合法的な地位をうしなっており、かれを信ずるものはますます少なくなっている。孫料スンコーの「行政院」は「政府を広州コヮンチョウにうつす」と勝手に宣言し、その「総統」や「総統代理」から離脱する一方、その「立法院」「監察院」からも離脱した。孫料の「行政院」は戦争をよびかけているが〔3〕、戦争をする「国防部」は、広州にもなければ、南京にもない。人びとはただ、そのスポークスマンが上海シャンハイにいることを知っているだけである。こうして、李宗仁が石頭城から目にしうるものとては、ただ「天は呉楚ごそにたれ、眼空まなこむなしくして物なし」〔4〕ということになってしまった。李宗仁が先月二十一日に登場してから現在までにくだした命令で、実行されたものは一つもない。国民党にはもはや「全面的」な「政府」がなく、多くの地方にいま局部的和平の動きがあるにもかかわらず、国民党の頑迷がんめい派は局部的和平に反対し、「全面的和平」なるものを要求している。その目的は、和平を踏みつぶし、戦いをつづけることにある。かれらは局部的和平の動きがひろがって収拾がつかなくなるのをひどくおそれている。四分五裂になり瓦解している国民党が「全面的和平」なるものをもとめるという道化芝居は、上海のにせ国防部政治工作局長で戦争犯罪人である鄧文儀トンウェンイーの今月九日の声明で頂点にたっした。鄧文儀は孫科とおなじように、中国共産党の八項目の和平条件を交渉の基礎とするという李宗仁の先月二十二日の声明をくつがえして、「対等の和平、全面的な和平」なるものを要求し、それがとおらなければ「あらゆる犠牲を惜しまず、共産党とあくまでわたりあう」といっている。だが鄧文儀は、こんにち相手方が結局だれと「対等の」「全面的な」和平について交渉すべきかにはふれていない。鄧文儀を相手にしたのでは、問題は解決できそうにないし、鄧文儀やほかのだれかれを相手にしないのでは、やはり問題は解決できそうにないので、まことに困ったものである。上海九日発中央通信社電はこういっている。「鄧局長が発表した四項目の意見〔5〕に李総統代理は同意したのかどうかとの新聞記者の質問にたいし、鄧文儀氏は、自分は国防部の立場で発言したのであって、本日発表した四項目の意見は事前に李総統代理に目をとおしてもらったものではない、と答えた。」鄧文儀はここで、にせ国民党政府の全面的立場とは異なるにせ国防部の局部的立場をつくりだしているばかりでなく、実際には、にせ国防部の大きな局部的立場とも異なるにせ国防部政治工作局の小さな局部的立場をつくりだしている。なぜなら、鄧文儀は北平の平和的解決に公然と反対し、これを中傷しているが、にせ国防部は一月二十七日に、北平の平和的解決は「戦争を短縮し、平和を招来して、古都北平の基礎および文化財、古跡の保全をはかるため」であったと称賛し、また、その他のところ、たとえば大同タートン綏遠スイユァンなど〔6〕でも、同様の方法で「停戦の実施」をみるであろうといっているからである。こうしたことからわかるように、「全面的和平」をわめきたてることにいちばん熱をあげている反動派こそ、全面的立場にいちばん欠けた反動派だったのである。国防部の一政治工作局が、国防部と矛盾しあってもかまわなければ、総統代理と矛盾しあってもかまわないのである。こうした反動派は、こんにち中国で平和を実現するうえでの最大の障害物である。かれらは、「全面的和平」のスローガンのもとで全面的戦争を鼓吹することを夢みている。つまり、「戦うなら全面的に戦い、和するなら全面的に和する」というのである。だが実際には、かれらには全面的和平をおこなう力などはないし、全面的戦争をおこなう力などもない。全面的な力は中国人民、中国人民解放軍、中国共産党およびその他の民主政党の側にあるのであって、四分五裂になり瓦解している国民党の側にあるのではない。一方は全面的な力をもっており、他方は四分五裂と瓦解の最後のどたんばにきている。この局面は、中国人民の長期の闘争と国民党の長期の悪行がもたらしたものである。まじめな人間ならだれでも、こんにちの中国の政治情勢におけるこの基本的な事実を無視することはできないのである。




〔注〕

〔1〕 国民党華中「匪賊討伐」総司令白崇禧は、蒋介石にきわめて不利な当時の情勢を利用して、一九四八年十二月二十五日、蒋介石にむかって「平和的解決」の主張を持ちだした。そのねらいは、蒋介石に退陣をせまり、広西派の地位を高めることにあった。白崇禧のさしずのもとに、にせ湖北省参議会は、蒋介石あての電報を可決した。この電報は「戦禍かびきつづきひろがるのに、ただちに政策転換の措置が講じられないならば、国は国たらず、民は民たらざるにいたるであろう」と蒋介石に警告し、「政治的解決の常道によって、和平交渉回復の方途をもとめる」ことを蒋介石に要求した。

〔2〕 国民党政府は一九四九年一月八日、米英仏ソ四ヵ国の政府に、中国の内戦に干渉するようもとめたが、四ヵ国の政府から拒否された。アメリカ政府は、一月十二日に国民党政府に回答した「覚え書」のなかで、アメリカが国民党政府の要求を拒否したのは、「なんちかの有益な効果をあげうるとは」「とうてい信じがたい」からだと説明している。これは当時すでにアメリカが、自分にはもうこれ以上、みずからもりたててきた蒋介石反動政権の滅亡を救う力がないと感じていたことを物語っている。

〔3〕 国民党のにせ行政院長孫料は一九四九年二月六日、七日の両日、広州で二回にわたる談話を発表して、中国共産党の提出した八項目の和平条件を交渉の基礎とするという李宗仁の声明に反対し、「現在、政府はすでに広州にうつって政務をとっている。われわれは過去のことを再検討すべきである」といい、また「共産党の提出した戦犯処罰の一項目は、ぜったいにうけいれえないところである」ともいった。

〔4〕 これは、一四世紀の元代の人、薩都刺が「念奴嬌」の韻律いんりつにあわせて作った詞「石頭城に登る」のなかのことばを借りたものである。この詞の前段はつぎのようになっている。「石頭城より望めば、天は呉楚にたれ、眼空しくして物なし。六朝りくちょうの形勝の地を指点すれば、ただ青山の壁の如きあるのみ。日をおお旌旗しょうき、雲につらなる檣[舟+虜]しょうろ、白骨みだれて雪のごとし。一江の南北、いくはくの豪傑を消磨したりし。」南京はむかし石頭城とよばれた。呉楚とはひろく長江の中流、下流の一帯をさす。

〔5〕 にせ国防部政治工作局長の鄧文儀は、一九四九年二月九日、上海で「和平と戦争の発展」という書面による談話を発表したが、それがつぎのいわゆる「四項目の意見」である。一、「政府は和平を望んでいる」、二、「中共は戦争を望んでいる」、三、「北平の局部的和平はペテンに終わった」、四、「あらゆる犠牲を惜しまず、共産党とあくまでわたりあう」。

〔6〕 天津、北平が解放されたのち、華北の国民党軍は、太原、大同、新郷、安陽、帰綏などいくつかの孤立した拠点をのこすだけとなった。このうち、太原の敵軍は一九四九年四月二十四日にわか軍によって完全に殲滅された。大同の敵軍は五月一日に平和的に編成がえすることをうけいれた。新郷の敵軍は五月五日に解放軍に投降した。安陽の敵軍は五月六日にわか軍によって殲滅された。帰綏は九月十九日に平和的に解放された。

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