閑話 断崖の記憶 俺は、敵を倒すことしか知らなかった。
その日、俺は二頭の暴王猪を仕留めた。
そして、四人を死なせた。
倒した数だけ見れば十分だった。
だが、そこに残ったのは失敗の形だけだった。
北の断崖沿いで、俺は暴王猪を追っていた。
痕跡を拾い、風を読み、喉元へ届く最短距離を探る。
いつものやり方だった。
敵だけを見る時は、だいたいこれで足りた。
道は狭い。
崖と岩壁に挟まれた獣道は、人が二人並ぶだけで窮屈になる幅しかなかった。
戦う場所じゃない。
通すか、ずらすか、どちらかを早く決める場所だった。
曲がり角へ差しかかった時だった。
獣の野太い咆哮。
それに抗う人間の怒号。
音が重なる。
――先客がいる。
声の荒さで、もう押されているのが分かった。
余裕がある時の怒鳴り方じゃなかった。
「ばらけるな!そのまま下がれッ!」
角を曲がった先は、かろうじて開けた足場になっていた。
だが、そこを抜ければまた崖と壁に挟まれた細道へ戻る。
逃げ場が細い。
押し込まれた側が崩れると、立て直す余地はほとんどない。
その手前で、四人の冒険者が二頭の暴王猪に押し込まれていた。
もう形が悪い。
前で受けるやつ、止めるやつ、下げるやつが、それぞれ別のことで手一杯になっていた。
壁際では剣士が一頭の突進を必死に受け流している。
崖側では術師が火弾を連ね、もう一頭の足を止めようとしていた。
その後ろでは、一人の男が負傷者に肩を貸し、退路へ下がっている。
役は一応できていた。
だが、足場が悪すぎる。
誰か一人でも踏み損ねたら、そのまま全員が巻かれる位置だった。
「アリア!火を切らすな!」
「わかったわ、カイル!」
ドン、ドン、と火が弾ける。
崖側の猪の前で石と砂利が散った。
押し返せてはいない。
ただ、勢いを削って時間を作っていた。
その時間が切れたら終わる、そういう撃ち方だった。
だが次の瞬間、牙がカイルの左膝へ伸びる。
このままじゃ脚を裂かれる。
あそこで脚をやられたら終わりだった。
前も後ろも、全部そこで詰まる。
「くそっ!」
考えるより先に、体が動いた。
そこがまずかった。
考えるより先に動くやり方で、俺はそれまで生き残ってきた。
壁を蹴る。
カイルの前へ飛び込み、暴王猪の右肩へ剣を突き立てた。
蝕毒を乗せた刃が、分厚い皮を割って深く刺さる。
刺さる位置しか見ていなかった。
その瞬間、周りの視線や動線がどう変わるかは、まるで考えていなかった。
「ツっ……!?」
アリアの声が裏返った。
火弾が止まる。
俺が割り込んだせいで、術の流れが切れた。
知らない奴が急に射線へ入れば、止まるのは当たり前だった。
崖側の一頭が、アリアへ加速した。
「くっ!」
アリアが横へ飛ぶ。
だが、間に合わない。
暴王猪の肩が脇腹へぶつかり、体が砂利の上を転がった。
猪は止まらない。
そのまま、負傷者を支えていた男へ牙を向ける。
凄まじい質量が二人まとめて薙ぎ払った。
そのまま、足場の外へ消える。
短い悲鳴が崖下へ落ちていった。
あそこで二人落ちた。
俺は見ていたのに、何も言わなかった。
下がれ、とも、右へ寄れ、とも。
暴王猪は鼻を鳴らし、次の獲物を探す。
その先には、倒れたままのアリアがいた。
「アリア、大丈夫か!」
カイルが叫ぶ。
顔がそちらへ向く。
そこへ、もう一頭の牙が脇腹を狙って伸びた。
カイルも、もう崩れていた。
味方を見た。その瞬間に、自分の線が空いた。
「させるか!」
俺はもう一度、割り込んだ。
だが、今度は早すぎた。
助けるつもりだった。
だが、入る位置も声もないまま飛び込めば、味方の逃げ道を消すだけだった。
無理に差し込んだ肩がカイルにぶつかる。
姿勢が崩れる。
逃げ場が消える。
剥き出しになった脇腹へ、暴王猪の牙が深く食い込んだ。
血が散る。
カイルの体が岩壁へ叩きつけられ、そのまま崩れ落ちた。
俺が押した。
俺がずらした。
その半歩で、避けられるはずの場所が消えた。
しまった。
そう思った時には、もう剣を振っていた。
横へ踏み込み、喉の下へ刃をねじ込む。
顎の裏を擦り、骨へ当たった感触のまま手首を返した。
喉が裂ける。
巨体が沈んだ。
一頭は仕留めた。
だが、それで何か戻るわけじゃない。
敵を減らすことと、崩れた形を戻すことは別だった。
すぐに振り向く。
残る一頭が、虫の息だったアリアを牙で弾き飛ばしたところだった。
暴王猪が頭を低くする。
次は俺だ。
ようやく、敵が俺だけを見た。
ここから先はやりやすい。
そう思った時点で、もう全部間違っていた。
突進。
俺は衝突の刹那、左へ半歩だけ軸をずらした。
首筋へ、蝕毒ごと刃を突き通す。
肩の激突をまともに受けながら、柄元まで押し込んだ。
骨が軋む。
筋肉の束が刃を締めつける。
それでも止めず、体重ごと押し込む。
ここだけは、いつもの通りだった。
喉を裂く位置も、押し込む角度も、毒の通し方も、体が先に知っている。
敵を倒すことだけなら、もう迷わない。
暴王猪は崖際で斜めに崩れた。
後ろ脚を二度、激しく跳ねさせる。
それきり動かなくなった。
沢の音が戻ってくる。
俺は血の滴る剣を下ろし、周囲を見た。
崖下の砂利場には、転落した二人。
崖際には、踏み潰されたアリア。
岩壁の根元で、カイルの目が開いたまま止まっている。
もう全部終わっていた。
俺が片づけたのは敵だけだった。
人の方は、何一つ間に合っていない。
助けに入ったはずだった。
俺は、敵しか見ていなかった。
喉を裂く場所しか見ていなかった。
二頭とも倒した。
それでも、四人全員が死んだ。
血に濡れた剣が、やけに重かった。
重いと感じたのは剣じゃない。
倒した後に残るものの方だった。
俺は、敵を倒すことしか知らなかった。




