5話 見えているなら言葉にしろ
その夜、ガルド教官は黒板に三つの語を書いた。
前衛
中衛
後衛
「一人で強いだけの冒険者は珍しくもない。だが、二人、三人で組んだ時に、全員で生き残れる冒険者はずっと少ない」
白墨が止まる。
次に書かれたのは、二文字だけだった。
負傷
「戦列が最も崩れるのはここだ。誰が受け、誰が下がり、誰が穴を埋めるのか。その場で決めろ。“まだいける”は、大抵もう遅い」
現場でやってきたつもりのことばかりだった。
だが、俺のは継ぎはぎだ。
知っているつもりでも、並べ直されると穴が見える。
やってきた、で済ませていいほど整ってはいなかったらしい。
「知っていることと、できることは別物だ。外へ出ろ。北演習場で続ける」
◆
夜風の冷える北演習場には、すでに補助教員たちが並んでいた。
柵の向こうでは、訓練用の小型魔獣が地面を掻いている。
「三人一組の連携を確認する」
ガルド教官の声が夜気を切る。
「前衛で抑える役、中衛で支える役、後衛で全体を見る役。三体を相手に五分、戦線を維持してみせろ。途中で一人を負傷脱落扱いにする。その欠けを埋めて形を保てるかを見る」
名簿が読み上げられる。
「ベルタ・グラム。ロイド・フェルナー。ハンス・ヴァルド」
呼ばれて前へ出る。
ベルタが斧を担ぎ直し、鼻を鳴らした。
「今度は三人か」
「盾役がいるなら……いや、正面を一回止めてもらえるだけで助かる」
そう言うと、ハンスが苦笑した。
「安定すりゃいいけどな。俺はあんたらみたいに細かくは動けんぞ」
「細かく動かなくていい。前を塞いでくれれば、こっちで合わせる」
ハンスが少し目を上げる。
「雑に聞こえるが、盾役にはだいたいそういう注文が来る」
そこで横からベルタが口を挟んだ。
「あんた、仕切るの早いな」
「嫌ならやめる」
「いや、いい。そっちの方がやりやすい」
ベルタは短くうなずいた。
「そういうの、嫌いじゃない」
文句ではなく確認だったらしい。
主導を取る人間がいるなら、それに乗る方が早いと見たんだと思う。
ガルド教官が手を振る。
召喚陣が白く爆ぜた。
現れた三体は、最初から散っていた。
正面に一体。左右の外へそれぞれ一体。
どこかが迷えば、そこを抜くつもりの配置だった。
嫌な置き方だった。
最初の一手で役を決め切れないと、そのまま崩れる。
「正面一、外二!」
ベルタが踏み込む。
正面の一体へ斧を見せて足を止めさせ、その返しで外へ回る一体の鼻先を柄で打った。だが、もう一体が低く滑るように寄ってくる。
「ハンス、前!」
ハンスが盾を出す。
爪が盾板を擦り、甲高い音が夜気に跳ねた。
「ちっ、悪い!」
「止めたなら十分!」
返した時には、正面の一体がベルタの外側へ回っていた。
ハンスは止める役をちゃんと分かっていた。
足りなかったのは腕じゃなく、最初の噛み合わせの半歩だけだ。
俺は踏み込みの先へ風弾を叩き込む。
足元の土を跳ね上げ、視界を潰すつもりだった。
だが、土は硬い。
夜露を吸って締まった地面は、狙ったほど舞わない。
風弾は乾いた音を立てて弾けるだけで終わった。
獣が、そのまま入る。
読みが浅かった。
昼と同じつもりで打っても、地面が違えば崩し方も変わる。
牙と爪がベルタの右肩を深く掠めて抜けた。
「右ッ!」
叫んだのは、ほぼ同時だった。
補助教員の杖が光る。
赤い紋印が浮かんだ。
「――右肩、使用制限。演習継続」
負傷判定。
刻印が入った瞬間、ベルタの右腕が重く沈む。
斧の持ち手がわずかに下がった。
使えるけど使い切れない、そういう重さに見えた。
完全に死んではいないぶん、逆に厄介だ。
ベルタが舌打ちする。
「……チッ、重いな」
「振るな。押さえに変えろ!ハンス前、俺が外と後ろを見る!」
「了解!」
ハンスが迷わず前へ出る。
返事が早い。
考えてから動くんじゃなく、決まればすぐ乗れる。盾役としてはかなり助かる。
ベルタは一度だけこっちを見たが、何も言わず、斧の持ち手だけを短く組み替えた。
不満がないわけじゃないだろうが、言ってる暇がないことも分かっているらしかった。
そこは強い。
三体が連動して動く。
一体が正面。
もう一体がベルタの負傷側を抜くように外へ膨らむ。
さっき弾いた一体も、もう戻っている。
試しじゃない。
負傷が入った瞬間に、弱い側へ寄せてくる。訓練用でもやることは嫌らしい。
「外、抜けるぞ!」
ハンスが盾を返す。
だが、それだけでは中央が薄くなる。
俺は外へ回った個体の前脚の先へ火弾を叩きつけた。
爆ぜた土煙の中へ、ハンスの盾が突っ込む。
獣の鼻先が横へ流れる。
その間に正面の一体がベルタへ入る。
ベルタは動かない右肩を庇い、片手に近い持ち方で斧の柄を立てた。
牙をまともに受けず、滑らせる。
流した勢いのまま、石突で顎を跳ね上げた。
完全には振れないなら、押さえに変える。
言った通りにすぐ切り替えた。判断が速い。
「次どうする!」
「下がる!三人で固める、取りに行くな!」
「了解」
返事が早い。
言い合わずに次へ移れる。
その一点だけで、昼よりだいぶましだった。
ハンスが中央へ寄る。
ベルタが右で正面を押さえる。
俺は二人の後ろへ半歩下がり、抜ける個体だけを見る。
風弾で外の踏み込みをずらす。
ハンスが盾を返す。
正面はベルタが押さえる。
三人の間だけは、最後まで割れなかった。
完璧ではない。
でも、誰か一人が自分の戦い方に閉じなかったぶん、形だけは保てた。
演習終了を告げる杖の音が鳴った時、三体の魔獣はまだ牙を見せていた。
それでも、俺たちの隊列は崩れていない。
「そこまで」
止めていた息を吐く。
終わった、と頭が理解しただけだった。
まだ戦線の形の方が先に残っている感じがした。
ハンスが額の汗を拭った。
「最初、外を見誤った。危なかったな」
「俺の風弾も浅かった」
そう言うと、ベルタが斧を肩へ担ぎ直す。
痛みのせいか、ほんの少しだけ動きが遅い。
「でも立て直した」
緑の目がこっちを向く。
「悪くない。少なくとも、無駄に迷わなくて済んだ」
褒めるというより確認だった。
うまくやった、ではなく、崩れる前に切り替えられた。それだけで十分だと言っているように聞こえた。
◆
演習場の反対側では、リーネの組がまだ噛み合っていなかった。
前回みたいな露骨な独走じゃない。
それでも、誰が次を見るかだけが毎回ずれた。
今回は抑えているつもりなんだと思う。
それでも、抑えた上でまだ自分の見え方が先に出ている。
右から寄った一体へ、リーネが無言のまま風刃を走らせる。狙いは正確だった。
だが、そこには前衛の学生も剣を合わせようとしていた。
風刃で獣が弾かれる。
剣先が空を切る。
踏み込みだけが前へ残り、正面の受けが消えた。
そこへ別の一体が滑り込む。
後衛役の学生が慌てて火弾を放つ。
だが、リーネはその着弾を待たずに前へ出ていた。
射線の先へ、自分から入る形になる。
「危なっ――!」
制止と魔法の起動が重なる。
避けたのは魔獣の方だった。
リーネの足元を掠めて外へ逃れ、追おうとした前衛の学生はそこで足を止める。
次にどこを見るべきか。
その迷いだけが、はっきり見えた。
誰も遅いわけじゃない。
ただ、次の基準だけが揃っていない。だから一手ごとに視線が切れる。
リーネは黙ったまま二体目へ向き直る。
狙いは合っている。
判断も速い。
だが、後ろの二人はずっとリーネの後を追うしかなかった。
誰が前を決めているのかが、毎手変わる。
あれじゃついていく側はずっと遅れる。
「止めろ」
ガルド教官の声で実習が止まる。
「リーネ。お前は自分に見えているものが、当然相手にも見えている前提で動いている。だが見えていない。言葉にしなければ伝わらん」
リーネは黙って受ける。
反論もしない。
銀の瞳だけが、わずかに冷えていた。
納得していないんだと思う。
でも、言い返しても変わらないことは分かっている顔だった。
「技量の問題ではない。合わせる気がないのか、合わせ方を知らないのか。どちらにせよ、このままでは結果は同じだ」
組んでいた二人の学生も視線を逸らした。
前回みたいな衝突はない。
その代わり、もう近づかない。
怒鳴り合う方がまだましな時もある。
ここまで静かに切れると、次はもう最初から引いたままになる。
演習が終わり、学生たちが散り始める。
ベルタが横で言う。
「頭は回るんだろうけどな」
「強いのにな」
短く返すと、ベルタはそれ以上言わなかった。
少し離れた場所を、リーネが一人で歩いていく。
確かな実力はある。
だが、その背中には隣へ誰かを置く余地が見えない。
今は、自分一人で閉じたまま歩く方が楽なんだろう。
そう見える背中だった。
あのままなら、次も切れる。
放って帰る気にはなれなかった。
足がそっちへ向く。
「おい」
呼びかけると、リーネの肩が止まった。
だが、すぐには振り向かない。
聞こえている。
その上で、返すかどうかを決めているらしかった。
「……何」
「さっきの実習のことだ」
「もう終わったわ」
「終わってない」
そこでようやく、リーネが振り向いた。
「右に回ったやつ、お前が先に弾いたろ」
銀の目が細くなる。
警戒された。
でも、切られる前にまだ一言ぶんの余地はある気がした。
「前のやつ、あそこで踏み込んでた。剣先が空を切った」
「……だから何」
「黙って動かれると、次にどこを見るかが消える」
リーネは答えない。
ワンドを握る指先だけが硬い。
言われた意味は分かっているんだと思う。
分かっていて、それを認めたくないか、まだ認めきれないか、そのどちらかに見えた。
「見えてるなら、一言でいい。“右”でも“下がれ”でも、それで足りる」
「言う前に動いた方が早い時もあるわ」
「一人ならな」
間を置いて、リーネが口を開く。
「……あなたには関係ないでしょう」
「ある。俺も同じ失敗をした。だからここにいる」
リーネの視線が刺さる。
それでも逸らさずに続ける。
「次も同じなら、もっとでかく崩れる」
しばらく黙ったあと、リーネが小さく息を吐いた。
言い返せないから黙ったのか、考えているから黙ったのか、そこは分からない。
ただ、最初よりは閉じていなかった。
「……できるかどうかは、知らないわよ」
「ああ。最初から全部やれとは言わない」
「……変な人」
「そうかもな」
リーネはそれ以上言わず、背を向けた。
今度は呼び止めない。
それでも、昨日までよりは少しだけましだった。
あれで終わったとは思えない。
だが、何も届かなかったわけでもない。
隣に立つための声というものを考えた瞬間、断崖で何も言えなかった日のことが頭をよぎった。




