4話 異 常 個 体《ディヴィアント》
教官が白墨で黒板を叩いた。
【異常個体】
「見た目で決めるな。動きで見ろ」
乾いた声が講堂を走る。
「異常個体は強い。……そんな当たり前で思考を止めたやつから、現場で死ぬ」
誰も口を開かない。
誰も、軽く受け流せる話だとは思っていないらしかった。
少なくとも、この教官が大げさに脅しているだけだと笑える空気ではなかった。
「見つけたら倒せると思うな。まず伝えろ。判断を変えろ。必要なら依頼を捨てろ」
白墨の粉が黒板の縁から落ちた。
「異常は、いつも通りで処理できる相手じゃない。そこまで覚えろ」
◆
翌日の実習は、北沢へ向かう街道脇の林で行われた。
朝の雨は上がっていたが、土はまだ水を含んでいる。
靴裏が沈むたび、濡れた葉が小さく鳴った。
林の入口で、教官が振り返る。
「今日は戦う日じゃない。見分ける日だ」
杖の石突きが地面を打つ。
短い音が湿った空気を切った。
「足跡、糞、爪痕、食い残し。そこから何が通ったかを拾え。……見当違いの相手を想定したやつから、現場で死ぬぞ」
「魔物学っていうより、また脅しだな」
ハンスが肩を回しながらぼやく。
気楽に聞こえるが、半分は本音だろうし、半分は空気を軽くしたいだけかもしれない。ああいう役回りを、無意識でやる人間はいる。
「魔物学だから脅してるんだろ」
ベルタが淡々と返した。
その横で、ミアが露骨に顔をしかめる。
「もっとこう、木の実とか葉っぱとか見て、のどかに当ててく実習だと思ってた」
「何の授業だよそれは」
マルクが笑う。
教官は軽口を無視して、足元を杖先でなぞった。
「まずはこれだ。わかるやつはいるか?」
地面には、小さな三つ爪の跡が並んでいた。
間隔は狭い。沈みも浅い。
ぱっと見ただけでは、どこにでもありそうな痕跡だった。
ミアがしゃがみ込む。
「……鳥系?」
「違う」
ベルタがすぐに言った。
「跳ねた跡じゃない。走ってる。小型獣だろ」
「種まで言え」
教官の声が落ちる。
ベルタは跡の先を見る。
低木の根元へ細い線が続き、途中で土が浅く崩れていた。
「……灰尾狐」
教官がうなずく。
「正解だ。足跡だけで決めるな。その先も見ろ」
実習はそのまま続いた。
倒木に残った爪痕。
木の根元に固まった糞。
半分だけ齧られた木の実。
誰かが見落とすたび、教官の声が短く飛ぶ。
「それは古い」
「そこだけ見るな」
「食い残しの位置まで見ろ」
「足跡の深さで重さを読め」
マルクは大きさだけで大型獣だと決めつけて外し、
ミアは齧り跡から草食獣を当て、
ハンスは幹の高さから牙猪の通り道を拾った。
ベルタは正面の荒れ跡に強かった。
「これは走って来てる」
「こっちは威嚇で止まってる」
折れた枝と土の掘れ方だけで、ほとんど迷わず言い当てる。
何が通ったかより、どこから来て、どこで止まり、どこへ踏み込むかを先に見ている。
「……お前、こういうのも見えるんだな」
俺が言うと、ベルタは前を向いたまま鼻を鳴らした。
「前に立つなら当たり前だろ。どこから来るか見えなきゃ受けられない」
「受ける前提なのが怖いな」
「怖がってる暇があるなら、兄さんも覚えろ」
そう言って先へ行く。
湿った土を踏むたび、三つ編みの先が背で小さく跳ねた。
言い返しは雑だが、理屈は通っていた。
受ける前に読む。その順番で戦ってきたんだろう。俺とは逆だ。
◆
林の奥へ入る手前で、教官が次の課題を出した。
「ここからは班ごとに散れ。ただし視界は切るな。五十歩以上は離れるな。拾うべきは魔物の種類だけじゃない。いつ通ったか。どの方向へ動いたか。そこまで拾え」
班はいつもの六人だった。
俺、ベルタ、リーネ、ハンス、マルク、ミア。
湿った林床を踏みしめながら、緩やかな斜面を横へ進む。
左手には細い沢。
右手には獣道らしい踏み跡が一本、奥へ伸びていた。
「これ、牙猪じゃない?」
ミアが木の根元を指さす。
土が掘り返され、根が剥き出しになっている。
ハンスがしゃがみ込んだ。
「いや、猪にしては浅いな。もっと派手にえぐるはずだ」
ベルタが少し先の木へ目を向ける。
「幹の傷が高い。……鹿系だろ」
「じゃあ角鹿か」
マルクがうなずき、ノートへ書き込む。
その間、リーネは一言も発さなかった。
ただ地面と木の幹と、折れた草の向きを順に見ている。
視線の動きだけが、他の五人と少し違った。
見ている場所が違う。
足跡そのものより、その周りの崩れ方を先に拾っているように見えた。
何を基準に見ているのかは分からない。
やがて、ベルタが足を止めた。
「次、こっちだ」
沢を渡った先。
少し開けた場所に、大きな足跡が残っていた。
一際大きく、深く、幅も広い。
灰鎧熊のものだと、俺にもすぐわかる。
「これはわかる」
マルクがしゃがみ込む。
「熊だろ」
「そこから先だ」
ベルタが言った。
足跡は二、三歩先まで真っ直ぐ続いている。
その先の木の皮が剥がれ、幹に太い爪痕が斜めに残っていた。
「縄張り主張か?」
ハンスが呟く。
「たぶんな。爪痕の位置も高い」
「あ、食い残しもあるよ」
ミアが少し離れた藪を指した。
小型獣の骨が散り、肉は粗く食い散らかされ、毛皮は踏みにじられていた。
「灰鎧熊だな」
ベルタがそう断じ、先へ進もうとした。
「――待って」
制したのは、リーネの声だった。
全員の足が止まる。
リーネは熊の足跡の横にしゃがみ込んだまま、前を見ていなかった。
見ているのは足跡そのものじゃない。
その脇へ、不自然に流れた土の崩れ方だ。
そこだけ別のものが見えているようだった。
少なくとも、俺やマルクが見ていた「熊の跡」とは別の何かを拾っている。
「……どうした?」
俺が聞く。
返事はすぐには来なかった。
リーネの指先が、足跡の右側をなぞる。
表土を払う動きは静かで、迷いがない。
「……踏み出した跡じゃないわ。これは『溜め』よ」
言って、ようやく顔を上げた。
銀の目がまっすぐ足跡の先を見ている。
「正面を荒らさない。……常に横へ回り込むための足運び」
その言葉に、マルクが眉を寄せた。
「……熊が横へずれることくらい、あるだろ」
「あるわ」
リーネは即答した。
「でも、これは違う」
迷いがなかった。
勘で言っているようには聞こえない。見たものをそのまま言っている声だった。
ベルタがしゃがみ込み、同じ場所を見る。
しばらく黙ってから、短く声を落とした。
「……ああ」
重い声だった。
「熊の体で、戦士みたいに立ち回ってやがる。反吐が出るな」
ベルタも見えたらしい。
しかも、見えた上で嫌悪している。
前で受ける人間には、ああいう動きの気味悪さがもっと直接分かるのかもしれない。
ミアが目を丸くする。
「……そこまで読むの?」
ベルタは指先で表土を払った。
その下から、爪の先が抉った細い線が露わになる。
「こっちも低い。腹を裂きに来た高さじゃない」
「じゃあ……何を狙ったんだよ」
マルクの問いに、ベルタはその線の先を見たまま答えた。
「……踏み込みだろうな」
マルクが顔を上げる。
「待てよ。それって」
「異常個体の可能性があるってこと」
今度はリーネが言い切った。
ミアが短く息を呑む。
ハンスは反射みたいに周囲を見渡した。
沢の音だけが、変わらず細く鳴っている。
俺は教官の方を見た。
少し離れた場所で別の班を見ていたが、こちらの空気で何かを察したらしい。
足早に戻ってくる。
「……何があった」
ベルタは屈んだまま告げた。
「灰鎧熊の跡です。ただ、普通の荒らし方じゃない」
「どこがだ」
教官もその場にしゃがみ込む。
「正面の荒れ方が薄いです。深いのは横です。逃げる方向へ重さが流れている」
教官は何も言わず、その先の木と土を順に見た。
木の皮の剥がれ。
浅い爪痕。
沢へ下る細い獣道。
それから、リーネを見た。
「……お前、森の目か?」
リーネは顔色ひとつ変えない。
肯定も否定もしない沈黙だった。
隠したいのか、聞かれ慣れているのか、そこは分からない。
ただ、この問いに軽く答える気がないことだけははっきりした。
教官もそれ以上は追わなかった。
背筋が、目に見えて硬くなる。
「全員、戻れ。今すぐだ」
低い声だった。
だが、その一言で班の空気が一気に締まった。
「奥へ入るのはやめる。今日はここまでだ」
「教官、異常個体ですか」
ハンスが探るように問う。
「断定はしない」
そう前置きして、教官は杖先を鋭く土へ突いた。
「だが、異常の可能性があるなら手順を変える。講義で言ったはずだ」
マルクは弾かれたようにノートをしまい、
ミアは口を閉ざし、
ベルタだけは土に残った線を見つめたまま、ゆっくり立ち上がる。
マルクはもう反論する気がなかった。
ミアは軽口を切った。
ベルタだけは、まだ頭の中でその動きを追っているように見えた。
戻る足は行きより速かった。
誰も無駄口を叩かない。
沢を渡る。
湿った斜面を上がる。
林の縁まで出る。
そこでようやく、ミアが大きく息を吐いた。
「……ふぅ。結局、何も出なかったね」
「出ない方がいいに決まってんだろ」
ハンスが返す。
「わかってるけどさ……」
ミアは肩をすくめ、それ以上は言わなかった。
気を抜きたいだけなんだろう。
ただ、本気でそう思っているわけでもない。出なくてよかった、それは全員同じだった。
教官は全員を見渡し、短く告げる。
「今日は報告書をまとめろ。見た痕跡、何が違ったか、そしてどこで判断を変えたか。そこまで書け」
それだけ言い残すと、先に学院へ戻っていった。
列が動く。
ベルタとハンスが前。
マルクとミアがその後ろ。
リーネは少し離れて歩いていた。
混ざる気がないというより、もう頭の中が別のところへ行っているように見えた。
さっきの跡を、まだ反芻しているのかもしれない。
俺は歩幅を少しだけ速めた。
完全に並ばない位置で、声を落とす。
「……さっき、どこを見た」
リーネはすぐには答えなかった。
前を向いたまま、数歩だけ歩く。
教えるかどうか、決めている間みたいだった。
「足跡じゃないわ」
短い返事だった。
「その脇の土よ。重さがどこへ逃げたかを見るの」
それだけ言って、また黙る。
教えるつもりがあるのかないのか、それすら分からない。
「……それで、横へ回るってわかったのか」
今度は、ほんの少しだけ間があった。
「正面の荒れ方が薄すぎる。深いのは横。なら、踏み出してるんじゃなく、横へずれるために溜めてる」
言葉は短い。
だが、そこには迷いがなかった。
見たままを言っているだけで、飾っていない。
だから余計に強く聞こえた。
「森の目って、そういうことか」
リーネはそこで初めて、わずかにこちらを見る。
「知らないわ」
声は冷たい。
けれど、突き放すほどでもなかった。
「勝手に呼んでるのは周りでしょ」
それだけ言うと、また前を向いた。
否定ではあっても、怒ってはいない。
少なくとも、その呼び名そのものより、それに乗せて何かを決められるのが嫌なんだろうと思った。
それ以上は聞かなかった。
聞けば、たぶん閉じる。
俺は一度だけ、林の奥を振り返る。
木立は動いていない。
沢の音も変わらない。
それでも、そのまま無防備に背を向ける気にはなれなかった。
林を完全に抜けるまで、頭にこびりついて離れなかったのは熊の巨体じゃない。
静かに。
確実に。
横へ回り込んだ、あの土の線だった。




