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4話 異 常 個 体《ディヴィアント》

教官が白墨で黒板を叩いた。


異常個体(ディヴィアント)


「見た目で決めるな。動きで見ろ」


乾いた声が講堂を走る。


「異常個体は強い。……そんな当たり前で思考を止めたやつから、現場で死ぬ」


誰も口を開かない。


誰も、軽く受け流せる話だとは思っていないらしかった。

少なくとも、この教官が大げさに脅しているだけだと笑える空気ではなかった。


「見つけたら倒せると思うな。まず伝えろ。判断を変えろ。必要なら依頼を捨てろ」


白墨の粉が黒板の縁から落ちた。


「異常は、いつも通りで処理できる相手じゃない。そこまで覚えろ」



翌日の実習は、北沢へ向かう街道脇の林で行われた。

朝の雨は上がっていたが、土はまだ水を含んでいる。

靴裏が沈むたび、濡れた葉が小さく鳴った。


林の入口で、教官が振り返る。


「今日は戦う日じゃない。見分ける日だ」


杖の石突きが地面を打つ。

短い音が湿った空気を切った。


「足跡、糞、爪痕、食い残し。そこから何が通ったかを拾え。……見当違いの相手を想定したやつから、現場で死ぬぞ」


「魔物学っていうより、また脅しだな」

ハンスが肩を回しながらぼやく。


気楽に聞こえるが、半分は本音だろうし、半分は空気を軽くしたいだけかもしれない。ああいう役回りを、無意識でやる人間はいる。


「魔物学だから脅してるんだろ」

ベルタが淡々と返した。


その横で、ミアが露骨に顔をしかめる。

「もっとこう、木の実とか葉っぱとか見て、のどかに当ててく実習だと思ってた」


「何の授業だよそれは」

マルクが笑う。


教官は軽口を無視して、足元を杖先でなぞった。

「まずはこれだ。わかるやつはいるか?」


地面には、小さな三つ爪の跡が並んでいた。

間隔は狭い。沈みも浅い。

ぱっと見ただけでは、どこにでもありそうな痕跡だった。


ミアがしゃがみ込む。

「……鳥系?」


「違う」


ベルタがすぐに言った。

「跳ねた跡じゃない。走ってる。小型獣だろ」


「種まで言え」

教官の声が落ちる。


ベルタは跡の先を見る。

低木の根元へ細い線が続き、途中で土が浅く崩れていた。

「……灰尾狐グレーテイル


教官がうなずく。

「正解だ。足跡だけで決めるな。その先も見ろ」


実習はそのまま続いた。


倒木に残った爪痕。

木の根元に固まった糞。

半分だけ齧られた木の実。

誰かが見落とすたび、教官の声が短く飛ぶ。


「それは古い」


「そこだけ見るな」


「食い残しの位置まで見ろ」


「足跡の深さで重さを読め」


マルクは大きさだけで大型獣だと決めつけて外し、

ミアは齧り跡から草食獣を当て、

ハンスは幹の高さから牙猪アイアンボアの通り道を拾った。


ベルタは正面の荒れ跡に強かった。

「これは走って来てる」

「こっちは威嚇で止まってる」

折れた枝と土の掘れ方だけで、ほとんど迷わず言い当てる。


何が通ったかより、どこから来て、どこで止まり、どこへ踏み込むかを先に見ている。


「……お前、こういうのも見えるんだな」

俺が言うと、ベルタは前を向いたまま鼻を鳴らした。


「前に立つなら当たり前だろ。どこから来るか見えなきゃ受けられない」


「受ける前提なのが怖いな」


「怖がってる暇があるなら、兄さんも覚えろ」


そう言って先へ行く。

湿った土を踏むたび、三つ編みの先が背で小さく跳ねた。


言い返しは雑だが、理屈は通っていた。

受ける前に読む。その順番で戦ってきたんだろう。俺とは逆だ。



林の奥へ入る手前で、教官が次の課題を出した。


「ここからは班ごとに散れ。ただし視界は切るな。五十歩以上は離れるな。拾うべきは魔物の種類だけじゃない。いつ通ったか。どの方向へ動いたか。そこまで拾え」


班はいつもの六人だった。

俺、ベルタ、リーネ、ハンス、マルク、ミア。


湿った林床を踏みしめながら、緩やかな斜面を横へ進む。

左手には細い沢。

右手には獣道らしい踏み跡が一本、奥へ伸びていた。


「これ、牙猪じゃない?」

ミアが木の根元を指さす。

土が掘り返され、根が剥き出しになっている。


ハンスがしゃがみ込んだ。

「いや、猪にしては浅いな。もっと派手にえぐるはずだ」


ベルタが少し先の木へ目を向ける。

「幹の傷が高い。……鹿系だろ」


「じゃあ角鹿アントラー・ディアか」

マルクがうなずき、ノートへ書き込む。


その間、リーネは一言も発さなかった。


ただ地面と木の幹と、折れた草の向きを順に見ている。

視線の動きだけが、他の五人と少し違った。


見ている場所が違う。

足跡そのものより、その周りの崩れ方を先に拾っているように見えた。

何を基準に見ているのかは分からない。


やがて、ベルタが足を止めた。

「次、こっちだ」


沢を渡った先。

少し開けた場所に、大きな足跡が残っていた。


一際大きく、深く、幅も広い。

灰鎧熊グレーアーマー・ベアのものだと、俺にもすぐわかる。


「これはわかる」

マルクがしゃがみ込む。

「熊だろ」


「そこから先だ」

ベルタが言った。


足跡は二、三歩先まで真っ直ぐ続いている。

その先の木の皮が剥がれ、幹に太い爪痕が斜めに残っていた。


「縄張り主張マーキングか?」

ハンスが呟く。


「たぶんな。爪痕の位置も高い」


「あ、食い残しもあるよ」

ミアが少し離れた藪を指した。

小型獣の骨が散り、肉は粗く食い散らかされ、毛皮は踏みにじられていた。


「灰鎧熊だな」

ベルタがそう断じ、先へ進もうとした。


「――待って」


制したのは、リーネの声だった。


全員の足が止まる。


リーネは熊の足跡の横にしゃがみ込んだまま、前を見ていなかった。

見ているのは足跡そのものじゃない。

その脇へ、不自然に流れた土の崩れ方だ。


そこだけ別のものが見えているようだった。

少なくとも、俺やマルクが見ていた「熊の跡」とは別の何かを拾っている。


「……どうした?」

俺が聞く。

返事はすぐには来なかった。


リーネの指先が、足跡の右側をなぞる。

表土を払う動きは静かで、迷いがない。


「……踏み出した跡じゃないわ。これは『溜め』よ」


言って、ようやく顔を上げた。

銀の目がまっすぐ足跡の先を見ている。


「正面を荒らさない。……常に横へ回り込むための足運び」


その言葉に、マルクが眉を寄せた。

「……熊が横へずれることくらい、あるだろ」


「あるわ」

リーネは即答した。

「でも、これは違う」


迷いがなかった。

勘で言っているようには聞こえない。見たものをそのまま言っている声だった。


ベルタがしゃがみ込み、同じ場所を見る。

しばらく黙ってから、短く声を落とした。

「……ああ」


重い声だった。

「熊の体で、戦士みたいに立ち回ってやがる。反吐が出るな」


ベルタも見えたらしい。

しかも、見えた上で嫌悪している。

前で受ける人間には、ああいう動きの気味悪さがもっと直接分かるのかもしれない。


ミアが目を丸くする。

「……そこまで読むの?」


ベルタは指先で表土を払った。

その下から、爪の先が抉った細い線が露わになる。


「こっちも低い。腹を裂きに来た高さじゃない」


「じゃあ……何を狙ったんだよ」

マルクの問いに、ベルタはその線の先を見たまま答えた。


「……踏み込みだろうな」


マルクが顔を上げる。


「待てよ。それって」


異常個体ディヴィアントの可能性があるってこと」

今度はリーネが言い切った。


ミアが短く息を呑む。

ハンスは反射みたいに周囲を見渡した。

沢の音だけが、変わらず細く鳴っている。


俺は教官の方を見た。

少し離れた場所で別の班を見ていたが、こちらの空気で何かを察したらしい。

足早に戻ってくる。


「……何があった」


ベルタは屈んだまま告げた。

「灰鎧熊の跡です。ただ、普通の荒らし方じゃない」


「どこがだ」


教官もその場にしゃがみ込む。


「正面の荒れ方が薄いです。深いのは横です。逃げる方向へ重さが流れている」


教官は何も言わず、その先の木と土を順に見た。

木の皮の剥がれ。

浅い爪痕。

沢へ下る細い獣道。


それから、リーネを見た。


「……お前、森の目か?」


リーネは顔色ひとつ変えない。

肯定も否定もしない沈黙だった。


隠したいのか、聞かれ慣れているのか、そこは分からない。

ただ、この問いに軽く答える気がないことだけははっきりした。


教官もそれ以上は追わなかった。

背筋が、目に見えて硬くなる。


「全員、戻れ。今すぐだ」


低い声だった。

だが、その一言で班の空気が一気に締まった。


「奥へ入るのはやめる。今日はここまでだ」


「教官、異常個体ですか」

ハンスが探るように問う。


「断定はしない」

そう前置きして、教官は杖先を鋭く土へ突いた。


「だが、異常の可能性があるなら手順を変える。講義で言ったはずだ」


マルクは弾かれたようにノートをしまい、

ミアは口を閉ざし、

ベルタだけは土に残った線を見つめたまま、ゆっくり立ち上がる。


マルクはもう反論する気がなかった。

ミアは軽口を切った。

ベルタだけは、まだ頭の中でその動きを追っているように見えた。


戻る足は行きより速かった。

誰も無駄口を叩かない。


沢を渡る。

湿った斜面を上がる。

林の縁まで出る。


そこでようやく、ミアが大きく息を吐いた。

「……ふぅ。結局、何も出なかったね」


「出ない方がいいに決まってんだろ」

ハンスが返す。


「わかってるけどさ……」

ミアは肩をすくめ、それ以上は言わなかった。


気を抜きたいだけなんだろう。

ただ、本気でそう思っているわけでもない。出なくてよかった、それは全員同じだった。


教官は全員を見渡し、短く告げる。


「今日は報告書をまとめろ。見た痕跡、何が違ったか、そしてどこで判断を変えたか。そこまで書け」


それだけ言い残すと、先に学院へ戻っていった。


列が動く。

ベルタとハンスが前。

マルクとミアがその後ろ。

リーネは少し離れて歩いていた。


混ざる気がないというより、もう頭の中が別のところへ行っているように見えた。

さっきの跡を、まだ反芻しているのかもしれない。


俺は歩幅を少しだけ速めた。

完全に並ばない位置で、声を落とす。


「……さっき、どこを見た」


リーネはすぐには答えなかった。

前を向いたまま、数歩だけ歩く。


教えるかどうか、決めている間みたいだった。


「足跡じゃないわ」


短い返事だった。


「その脇の土よ。重さがどこへ逃げたかを見るの」


それだけ言って、また黙る。

教えるつもりがあるのかないのか、それすら分からない。


「……それで、横へ回るってわかったのか」


今度は、ほんの少しだけ間があった。


「正面の荒れ方が薄すぎる。深いのは横。なら、踏み出してるんじゃなく、横へずれるために溜めてる」


言葉は短い。

だが、そこには迷いがなかった。


見たままを言っているだけで、飾っていない。

だから余計に強く聞こえた。


「森の目って、そういうことか」


リーネはそこで初めて、わずかにこちらを見る。


「知らないわ」


声は冷たい。

けれど、突き放すほどでもなかった。


「勝手に呼んでるのは周りでしょ」


それだけ言うと、また前を向いた。


否定ではあっても、怒ってはいない。

少なくとも、その呼び名そのものより、それに乗せて何かを決められるのが嫌なんだろうと思った。


それ以上は聞かなかった。

聞けば、たぶん閉じる。


俺は一度だけ、林の奥を振り返る。


木立は動いていない。

沢の音も変わらない。

それでも、そのまま無防備に背を向ける気にはなれなかった。


林を完全に抜けるまで、頭にこびりついて離れなかったのは熊の巨体じゃない。


静かに。

確実に。

横へ回り込んだ、あの土の線だった。


挿絵(By みてみん)

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