3話 輪の端、帰る位置ではなく
実習の翌日。
夜の講義棟は静かだった。
魔物学に入ったあたりから、机に沈む顔ばかり増えていく。
ふと見ると、ベルタが机に肘をついたまま固まっていた。
教官が近くを通るたび、背筋だけはすっと伸びる。
半分は寝ていたんだろう。
ようやく講義が終わり、ざわめきごと外へ出る。
夜風が頬を打った。
「おい、あんた」
後ろから声をかけられ、足を止める。
振り向くと、ベルタが片手を上げていた。
三つ編みの先が肩で揺れる。
「このあと暇か」
「暇といえば暇だが」
「何人かで飯食いに行く。あんたも来るか」
少し意外だった。
ベルタはもっと、一人で動くやつだと思っていたからだ。
昨日の実習だけでは測り切れていなかったらしい。
「……俺でもいいのか」
「嫌なら最初から呼ばない」
そう言って、ベルタが顎で後ろをしゃくる。
見ると、実習で顔を合わせた連中が立っていた。
槍使いのマルク。
短弓を背負った小柄な獣人の娘。
それから、盾役らしい大柄な男。
「同期の顔くらい覚えとけよ」
そう言われれば、断る理由もない。
「じゃあ、行く」
◆
向かった先は、学院外れの学生向け食堂兼酒場だった。
店内は暖かく、煮込みの匂いが濃い。
木の卓には古い染みが残り、奥では皿を重ねる音が絶えない。
丸テーブルを囲んで席につくと、ようやく講義の疲れが少し落ちた。
豆の煮込みに黒パン、塩漬け肉の炒め物。
質素だが量はある。
湯気の向こうで、ベルタが無造作にジョッキへ手を伸ばした。
そこで口が先に動いた。
「右じゃなくて左で持て」
「は?」
ベルタが眉を寄せる。
「肩だよ。昨日より悪いだろ」
卓の上が一瞬止まった。
ベルタはジョッキを持ったまま、こっちを見る。
「……見てたのかよ」
「同じ組だったんだから、そりゃ見る」
「いや、普通そこまで見ないだろ」
言いながらも、ベルタはちゃんと左手に持ち替えた。
口では返しても、無視はしない。
そういうところは素直らしい。
「古傷がうずいただけだ。大げさに言うな」
「古傷なら余計に雑に使うな。明日も実習だろ」
言った途端、ベルタがじろりと睨む。
「あんた、私の兄貴か何かか」
「俺に兄妹はいない」
「そういう返しがもうそれっぽいんだよ、兄貴面」
ベルタはそっぽを向いて肉を切り始めた。
ただ、ジョッキは左手のままだった。
文句は言うが、直す気はあるらしい。
マルクがにやつく。
「うわ、ベルタさんわかりやす」
「うるさい」
「斧で黙らせるぞ」
物騒な言い方のわりに、本気の声じゃない。
卓の空気がそこで少しゆるんだ。
たぶん、ああいうやり取りがこの卓の普通なんだと思う。
昨日の実習だけでは見えなかったが、もう四人の間ではある程度の呼吸ができているらしかった。
最初に名乗ったのは、獣人の娘だった。
「私はミア。南で斥候やってた。二十歳。今のままだと偵察とか使い走りばっかでさ、上の依頼が全然回ってこないんだよね」
軽く言っているが、不満は本物らしかった。
使えるのに上へ届かない人間の言い方だ。
マルクがすぐ頷く。
「俺はマルク。母親に楽させたくてさ。親父が元討伐隊なんだ。できれば小隊長くらいまでは行きたい」
「……十七だけどな」
最後にぼそっと付け足す。
勢いがそのまま体から出ているようなやつだ。
年齢を付け足したのは照れ隠しかもしれない。
大柄な男も杯を置いた。
「俺はハンス。二十八。田舎で護衛ばかりやってたが、歳食う前に箔をつけたくてな。正式パーティの盾役に入れりゃ、食いっぱぐれも減る」
夢か、生活か、見栄か。
理由は違っても、今のままじゃ足りないと思ってここへ来たことだけは同じだった。
結局、全員そこへ戻る。
今のままじゃ足りない。学院に来る理由なんて、突き詰めれば大体その一行で済む。
「あんたは?」
ベルタがこっちを見る。
緑の目はまっすぐだった。
逃がすつもりはないらしかった。
ただ聞いただけ、ではなく、ちゃんと中身を出させるつもりの目だった。
「……上を目指したくなった」
「ずいぶん曖昧だな」
「今はな」
笑って流すつもりだった。
だが、ベルタは笑わない。続きを待っている。
ごまかしは効かないらしい。
少なくとも、この卓で自分だけ軽く済ませるのは無理そうだった。
仕方なく息を吐く。
「気づいたら二十五まで、同じやり方で同じ場所を回してた。このままだとまずいと思った。それで来た」
「ふうん」
ベルタはそれ以上は突っ込まなかった。
代わりに、自分の話を続ける。
「私はC級で頭打ちだ。簡易パーティの頭もやってる。場数も踏んだ。けど、それだけじゃ上に行けないってわかった」
左手の指先でジョッキを回しながら、ベルタは淡々と言う。
「でかい依頼は、結局、正式の肩書きがあるやつに回る。誰かの後ろについて戦うだけなら、今のままでもできる」
そこで一度だけ視線を上げた。
「でも、それじゃ終わりたくない」
「自分の名前で受けたい。自分で決めて動きたい。だったら取る。資格も、肩書きも、信用も」
冗談じゃない声だった。
ミアが目を丸くする。
「うわ、いいなそれ」
「ただの現実だ」
そう言って、ベルタは左手でジョッキを持ち上げた。
簡易パーティの頭。
だからか、話が区切れるたびに三人の目は自然とベルタへ向いていた。
頭は、軽く座れる場所じゃない。
ベルタはもうそこにいる。
本人が言う前から、三人はそこを分かっていたんだと思う。
言われて従うというより、自然に向く。そういう座り方をしていた。
話はそのまま、学院の講義や下宿、昼の仕事へ移っていく。
ミアは王都の家賃に文句を言い、ハンスは治療棟の薬代に渋い顔をし、マルクは明日の実習で絶対に見返すと息巻いていた。
そんなふうに肩の力を抜いて飯を食うのは、ひさしぶりだ。
気を張らずに同じ卓につくのが、こんなに久しぶりだとは思っていなかった。
そのこと自体は、少し意外だった。
そこで、ふと視界の端に銀色が入る。
食堂の奥、壁際の席。
リーネが一人で食事をしていた。
スープ皿と黒パンだけ。
姿勢は正しい。
少なくとも、誘われていないから一人という感じではなかった。
自分で距離を取っている。昨日の実習の続きを、そのまま持ってきたように見えた。
ミアが俺の視線を追ってそっちを見る。
「あれ、リーネだよね。声かける?」
ベルタは一度だけそちらを見て、首を振った。
「今日はやめとけ。来たくない顔してる」
俺は黙ってリーネを見る。
こっちの卓に気づいていないはずがない。
見ないというより、見た上で切っているように見えた。
豆の煮込みを口に運んだところで、ミアが小さくマルクを肘でつついた。
「で、あんたいつまでその顔してんの。わかってるならさっさとしなよ」
「……わかってるよ。熱くなりすぎた。あんな言い方、するんじゃなかったって思ってる」
マルクはジョッキを持ち上げかけて、やめた。
指先だけが縁に残る。
行く気はある。
ただ、自分から行くにはまだ少し引っかかっているらしい。
謝れば済むとまでは思えていない顔だった。
ミアが笑っていない目で言葉を重ねる。
「あたしたち斥候はね、前衛と魔法使いが仲違いしてるパーティに放り込まれるのが一番死ぬの。あんたたちの八つ当たりに付き合わされるの、こっちの命に関わるんだけど」
卓が少し静まる。
ハンスは何も言わずに肉を噛み、ベルタも口を挟まない。
マルクは眉間を寄せたまま、吐き出すように言った。
「……でもさ、あいつ、ああいう感じだし。今行ったら余計にこじれるだろ」
言い訳でもあるが、本気でもあるんだと思う。
うまくいく想像がつかないから、動けない。そういう止まり方に見えた。
「俺が声だけかけてくる」
席を立とうとすると、ベルタが目を細めた。
「……無理に連れてくるなよ」
「わかってる」
その確認だけは必要だと思ったんだろう。
来るなら本人の意思で来る形にしたい。ベルタもそこは外さないらしい。
食堂の喧騒は、壁際へ行くほど遠のいていく。
リーネの卓の前で足を止めた。
「終わったか」
リーネがようやく顔を上げる。
銀の瞳は冷えている。
だが、完全に閉じているわけじゃない。
拒絶だけなら、最初から顔も上げない。
少なくとも、何を言うかは聞くつもりらしかった。
「……何」
「マルクが、この前のことで話があるらしい。来ないか」
「行かないわ」
「そうか。無理に連れて行く気はない」
そこで背を向けかけて、思い直す。
「だが、勝手に和解したことにされるのは、お前にとっても不本意だろ。」
リーネは視線を落とし、卓の木目を見た。
言葉そのものより、その先を考えたように見えた。
少なくとも、完全に聞き流してはいない。
「……どうしてそこまでするの」
すぐには答えが出なかった。
面倒だからだ、で済ませるには少し違う。
「班でやるなら、このままの方がまずい」
口にできたのは、それだけだった。
理由として十分かどうかは分からない。
ただ、少なくとも俺にはそれ以上の言い方がなかった。
リーネはしばらく動かなかった。
断るなら、ここで断る。
だが、ふいに顔を上げる。
「あなた、私をよく睨んでいたわよね」
言葉が止まる。
そう見えていたのか、とそこで初めて気づいた。
見ていたつもりはあった。
だが、見方までは考えていなかった。
相手からすれば、あれはそう見えて当然かもしれない。
「……すまない」
それで終わらせるのも違う気がした。
「睨んでたつもりはない。強いと思って見てた。参考にしてた」
リーネは瞬きを一つだけした。
表情は変わらない。
信じたのか、流したのかは分からない。
「そう」
そこでまた視線が落ちる。
やがて椅子の脚が床を擦った。
「話すだけなら」
先に歩き出す。
隣には並ばず、少し前を歩いていく。
並ぶ気はまだないらしい。
ただ、帰る気でもなくなった。それで十分だった。
卓へ戻ると、空いた席を見てリーネは一度だけ止まった。
それから端の椅子を引く。
輪の真ん中には入らない。
だが、帰る位置でもなかった。
最初に口を開いたのはマルクだった。
ジョッキには触れないまま、まっすぐリーネを見る。
「……この前は悪かった」
真っ直ぐだが、言い慣れていない声だった。
「言いすぎた。あれで班が回るとも思ってねえ。腹立って、そのままぶつけた」
ここまで言えるなら、もう半分は済んでいる気がした。
少なくとも、怒鳴り返す時の顔ではなかった。
リーネはすぐには答えない。
膝の上で指を組み直し、息をひとつ入れる。
「あなたの言い方が正しかったとは思わないわ」
誰も口を挟まない。
「でも、間違ってないところがあったのもわかってる」
マルクが目を上げる。
リーネは視線を外さずに続けた。
「私も、結局は自分のやり方しか見ていなかった」
そこでミアが肩を落とした。
「じゃあ次からは、こじれる前に言う。マルクも怒鳴る前に言う。これでいいでしょ」
「雑だな」とハンスが呟く。
「最初なんてこんなもんでしょ」
ミアが言うと、マルクが鼻を鳴らした。
「……次は言い方考える」
「次がない方がいいけどね」
「そこはお互い様だろ!」
返されて、リーネはそこで言葉を止めた。
それから小さく返す。
「……そうね」
短い。
だが、跳ね返す声じゃなかった。
完全に許したわけではないんだと思う。
でも、続ける気はある。そういう返しだった。
そこでようやく、皆の肩の力が少し落ちた。
ベルタがジョッキを持ち上げる。
「じゃあ、明日の実習でまた同じことやる前に食え。冷める」
「縁起でもねえな」とマルクが言う。
「自覚あるなら先に直しとけ」
ベルタが返すと、ミアが吹き出した。
ハンスも低く笑う。
卓の空気を戻す役を、ベルタが自然に引き受けた。
たぶん誰も頼んでいないのに、そうなる位置にいる。
リーネはまだ端の席のままだった。
笑いの輪にも、自分からは入らない。
けれど、さっきみたいにすぐ立つ気配もなかった。
そこに残る気はあるらしかった。
今はそれで十分だと思えた。
「兄さんも飲め」
ベルタがジョッキを軽く持ち上げる。
俺もようやくジョッキに手を伸ばす。
いつの間にか、ベルタは俺を兄さんと呼ぶようになっていた。
輪には戻った。
だが、まだ中には入っていない。
ああいう距離は、たぶんそのまま実習に出る。
今度は、見ているだけでは足りない。そう思った。




