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3話 輪の端、帰る位置ではなく

実習の翌日。

夜の講義棟は静かだった。

魔物学に入ったあたりから、机に沈む顔ばかり増えていく。


ふと見ると、ベルタが机に肘をついたまま固まっていた。

教官が近くを通るたび、背筋だけはすっと伸びる。

半分は寝ていたんだろう。


ようやく講義が終わり、ざわめきごと外へ出る。

夜風が頬を打った。


「おい、あんた」


後ろから声をかけられ、足を止める。


振り向くと、ベルタが片手を上げていた。

三つ編みの先が肩で揺れる。


「このあと暇か」


「暇といえば暇だが」


「何人かで飯食いに行く。あんたも来るか」


少し意外だった。

ベルタはもっと、一人で動くやつだと思っていたからだ。

昨日の実習だけでは測り切れていなかったらしい。


「……俺でもいいのか」


「嫌なら最初から呼ばない」


そう言って、ベルタが顎で後ろをしゃくる。


見ると、実習で顔を合わせた連中が立っていた。

槍使いのマルク。

短弓を背負った小柄な獣人の娘。

それから、盾役らしい大柄な男。


「同期の顔くらい覚えとけよ」


そう言われれば、断る理由もない。


「じゃあ、行く」



向かった先は、学院外れの学生向け食堂兼酒場だった。


店内は暖かく、煮込みの匂いが濃い。

木の卓には古い染みが残り、奥では皿を重ねる音が絶えない。

丸テーブルを囲んで席につくと、ようやく講義の疲れが少し落ちた。


豆の煮込みに黒パン、塩漬け肉の炒め物。

質素だが量はある。

湯気の向こうで、ベルタが無造作にジョッキへ手を伸ばした。


そこで口が先に動いた。


「右じゃなくて左で持て」


「は?」


ベルタが眉を寄せる。


「肩だよ。昨日より悪いだろ」


卓の上が一瞬止まった。

ベルタはジョッキを持ったまま、こっちを見る。


「……見てたのかよ」


「同じ組だったんだから、そりゃ見る」


「いや、普通そこまで見ないだろ」


言いながらも、ベルタはちゃんと左手に持ち替えた。


口では返しても、無視はしない。

そういうところは素直らしい。


「古傷がうずいただけだ。大げさに言うな」


「古傷なら余計に雑に使うな。明日も実習だろ」


言った途端、ベルタがじろりと睨む。


「あんた、私の兄貴か何かか」


「俺に兄妹はいない」


「そういう返しがもうそれっぽいんだよ、兄貴面」


ベルタはそっぽを向いて肉を切り始めた。

ただ、ジョッキは左手のままだった。


文句は言うが、直す気はあるらしい。


マルクがにやつく。


「うわ、ベルタさんわかりやす」


「うるさい」


「斧で黙らせるぞ」


物騒な言い方のわりに、本気の声じゃない。

卓の空気がそこで少しゆるんだ。


たぶん、ああいうやり取りがこの卓の普通なんだと思う。

昨日の実習だけでは見えなかったが、もう四人の間ではある程度の呼吸ができているらしかった。


最初に名乗ったのは、獣人の娘だった。


「私はミア。南で斥候やってた。二十歳。今のままだと偵察とか使い走りばっかでさ、上の依頼が全然回ってこないんだよね」


軽く言っているが、不満は本物らしかった。

使えるのに上へ届かない人間の言い方だ。


マルクがすぐ頷く。


「俺はマルク。母親に楽させたくてさ。親父が元討伐隊なんだ。できれば小隊長くらいまでは行きたい」


「……十七だけどな」


最後にぼそっと付け足す。

勢いがそのまま体から出ているようなやつだ。


年齢を付け足したのは照れ隠しかもしれない。



大柄な男も杯を置いた。


「俺はハンス。二十八。田舎で護衛ばかりやってたが、歳食う前に箔をつけたくてな。正式パーティの盾役に入れりゃ、食いっぱぐれも減る」


夢か、生活か、見栄か。

理由は違っても、今のままじゃ足りないと思ってここへ来たことだけは同じだった。


結局、全員そこへ戻る。

今のままじゃ足りない。学院に来る理由なんて、突き詰めれば大体その一行で済む。


「あんたは?」


ベルタがこっちを見る。

緑の目はまっすぐだった。


逃がすつもりはないらしかった。

ただ聞いただけ、ではなく、ちゃんと中身を出させるつもりの目だった。


「……上を目指したくなった」


「ずいぶん曖昧だな」


「今はな」


笑って流すつもりだった。

だが、ベルタは笑わない。続きを待っている。


ごまかしは効かないらしい。

少なくとも、この卓で自分だけ軽く済ませるのは無理そうだった。


仕方なく息を吐く。


「気づいたら二十五まで、同じやり方で同じ場所を回してた。このままだとまずいと思った。それで来た」


「ふうん」


ベルタはそれ以上は突っ込まなかった。

代わりに、自分の話を続ける。


「私はC級で頭打ちだ。簡易パーティの頭もやってる。場数も踏んだ。けど、それだけじゃ上に行けないってわかった」


左手の指先でジョッキを回しながら、ベルタは淡々と言う。


「でかい依頼は、結局、正式の肩書きがあるやつに回る。誰かの後ろについて戦うだけなら、今のままでもできる」


そこで一度だけ視線を上げた。


「でも、それじゃ終わりたくない」


「自分の名前で受けたい。自分で決めて動きたい。だったら取る。資格も、肩書きも、信用も」


冗談じゃない声だった。


ミアが目を丸くする。


「うわ、いいなそれ」


「ただの現実だ」


そう言って、ベルタは左手でジョッキを持ち上げた。


簡易パーティの頭。

だからか、話が区切れるたびに三人の目は自然とベルタへ向いていた。

頭は、軽く座れる場所じゃない。

ベルタはもうそこにいる。


本人が言う前から、三人はそこを分かっていたんだと思う。

言われて従うというより、自然に向く。そういう座り方をしていた。


話はそのまま、学院の講義や下宿、昼の仕事へ移っていく。

ミアは王都の家賃に文句を言い、ハンスは治療棟の薬代に渋い顔をし、マルクは明日の実習で絶対に見返すと息巻いていた。


そんなふうに肩の力を抜いて飯を食うのは、ひさしぶりだ。

気を張らずに同じ卓につくのが、こんなに久しぶりだとは思っていなかった。

そのこと自体は、少し意外だった。


そこで、ふと視界の端に銀色が入る。


食堂の奥、壁際の席。

リーネが一人で食事をしていた。


スープ皿と黒パンだけ。

姿勢は正しい。


少なくとも、誘われていないから一人という感じではなかった。

自分で距離を取っている。昨日の実習の続きを、そのまま持ってきたように見えた。


ミアが俺の視線を追ってそっちを見る。


「あれ、リーネだよね。声かける?」


ベルタは一度だけそちらを見て、首を振った。


「今日はやめとけ。来たくない顔してる」


俺は黙ってリーネを見る。

こっちの卓に気づいていないはずがない。

見ないというより、見た上で切っているように見えた。


豆の煮込みを口に運んだところで、ミアが小さくマルクを肘でつついた。


「で、あんたいつまでその顔してんの。わかってるならさっさとしなよ」


「……わかってるよ。熱くなりすぎた。あんな言い方、するんじゃなかったって思ってる」


マルクはジョッキを持ち上げかけて、やめた。

指先だけが縁に残る。


行く気はある。

ただ、自分から行くにはまだ少し引っかかっているらしい。

謝れば済むとまでは思えていない顔だった。


ミアが笑っていない目で言葉を重ねる。


「あたしたち斥候はね、前衛と魔法使いが仲違いしてるパーティに放り込まれるのが一番死ぬの。あんたたちの八つ当たりに付き合わされるの、こっちの命に関わるんだけど」


卓が少し静まる。

ハンスは何も言わずに肉を噛み、ベルタも口を挟まない。

マルクは眉間を寄せたまま、吐き出すように言った。


「……でもさ、あいつ、ああいう感じだし。今行ったら余計にこじれるだろ」


言い訳でもあるが、本気でもあるんだと思う。

うまくいく想像がつかないから、動けない。そういう止まり方に見えた。


「俺が声だけかけてくる」


席を立とうとすると、ベルタが目を細めた。


「……無理に連れてくるなよ」


「わかってる」


その確認だけは必要だと思ったんだろう。

来るなら本人の意思で来る形にしたい。ベルタもそこは外さないらしい。


食堂の喧騒は、壁際へ行くほど遠のいていく。

リーネの卓の前で足を止めた。


「終わったか」


リーネがようやく顔を上げる。

銀の瞳は冷えている。

だが、完全に閉じているわけじゃない。


拒絶だけなら、最初から顔も上げない。

少なくとも、何を言うかは聞くつもりらしかった。


「……何」


「マルクが、この前のことで話があるらしい。来ないか」


「行かないわ」


「そうか。無理に連れて行く気はない」


そこで背を向けかけて、思い直す。


「だが、勝手に和解したことにされるのは、お前にとっても不本意だろ。」


リーネは視線を落とし、卓の木目を見た。


言葉そのものより、その先を考えたように見えた。

少なくとも、完全に聞き流してはいない。


「……どうしてそこまでするの」


すぐには答えが出なかった。

面倒だからだ、で済ませるには少し違う。


「班でやるなら、このままの方がまずい」


口にできたのは、それだけだった。

理由として十分かどうかは分からない。

ただ、少なくとも俺にはそれ以上の言い方がなかった。


リーネはしばらく動かなかった。

断るなら、ここで断る。


だが、ふいに顔を上げる。


「あなた、私をよく睨んでいたわよね」


言葉が止まる。

そう見えていたのか、とそこで初めて気づいた。


見ていたつもりはあった。

だが、見方までは考えていなかった。

相手からすれば、あれはそう見えて当然かもしれない。


「……すまない」


それで終わらせるのも違う気がした。


「睨んでたつもりはない。強いと思って見てた。参考にしてた」


リーネは瞬きを一つだけした。

表情は変わらない。


信じたのか、流したのかは分からない。


「そう」


そこでまた視線が落ちる。


やがて椅子の脚が床を擦った。


「話すだけなら」


先に歩き出す。

隣には並ばず、少し前を歩いていく。


並ぶ気はまだないらしい。

ただ、帰る気でもなくなった。それで十分だった。


卓へ戻ると、空いた席を見てリーネは一度だけ止まった。

それから端の椅子を引く。


輪の真ん中には入らない。

だが、帰る位置でもなかった。


最初に口を開いたのはマルクだった。

ジョッキには触れないまま、まっすぐリーネを見る。


「……この前は悪かった」


真っ直ぐだが、言い慣れていない声だった。


「言いすぎた。あれで班が回るとも思ってねえ。腹立って、そのままぶつけた」


ここまで言えるなら、もう半分は済んでいる気がした。

少なくとも、怒鳴り返す時の顔ではなかった。


リーネはすぐには答えない。

膝の上で指を組み直し、息をひとつ入れる。


「あなたの言い方が正しかったとは思わないわ」


誰も口を挟まない。


「でも、間違ってないところがあったのもわかってる」


マルクが目を上げる。


リーネは視線を外さずに続けた。


「私も、結局は自分のやり方しか見ていなかった」


そこでミアが肩を落とした。


「じゃあ次からは、こじれる前に言う。マルクも怒鳴る前に言う。これでいいでしょ」


「雑だな」とハンスが呟く。


「最初なんてこんなもんでしょ」


ミアが言うと、マルクが鼻を鳴らした。


「……次は言い方考える」


「次がない方がいいけどね」


「そこはお互い様だろ!」


返されて、リーネはそこで言葉を止めた。

それから小さく返す。


「……そうね」


短い。

だが、跳ね返す声じゃなかった。


完全に許したわけではないんだと思う。

でも、続ける気はある。そういう返しだった。


そこでようやく、皆の肩の力が少し落ちた。


ベルタがジョッキを持ち上げる。


「じゃあ、明日の実習でまた同じことやる前に食え。冷める」


「縁起でもねえな」とマルクが言う。


「自覚あるなら先に直しとけ」


ベルタが返すと、ミアが吹き出した。

ハンスも低く笑う。


卓の空気を戻す役を、ベルタが自然に引き受けた。

たぶん誰も頼んでいないのに、そうなる位置にいる。


リーネはまだ端の席のままだった。

笑いの輪にも、自分からは入らない。

けれど、さっきみたいにすぐ立つ気配もなかった。


そこに残る気はあるらしかった。

今はそれで十分だと思えた。


「兄さんも飲め」


ベルタがジョッキを軽く持ち上げる。


俺もようやくジョッキに手を伸ばす。


いつの間にか、ベルタは俺を兄さんと呼ぶようになっていた。


輪には戻った。

だが、まだ中には入っていない。


ああいう距離は、たぶんそのまま実習に出る。

今度は、見ているだけでは足りない。そう思った。


挿絵(By みてみん)

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