27話 辺境の戦い方
ガレスの腰には、もう短槍が二本しか残っていなかった。
数が足りない。
一頭目で削ったぶん、次を同じ手順で落とす余裕はもうない。
ドランの小盾は、一頭目で砕けている。
俺は左肩をやっていた。腕を上げるたび、骨の奥がずくりと鳴る。
左はもう添えるだけだ。
正面を受ける役は取れない。
できることを間違えたら、今度は本当に終わる。
一頭目と同じ形は、もう使えない。
二頭目の灰鎧熊が、死んだつがいのそばで低く身を沈めた。
鼻先に血をつけたまま唸っている。
だが、目だけはドランのいる側を外さなかった。
見ている。
怒っているだけじゃない。
まず邪魔な相手を外すつもりで、線を選んでいる目だった。
熊は死んだつがいの胴を大きく回り込み、盾を失ったドランの側へ一気に詰めた。
やっぱりそこへ行く。
「ドラン!」
声を出した時には、もう遅かった。
ドランは残った槍を突き出す。
穂先は肩の横へ浅く入る。
だが、止まらない。
浅い。
刺さっても、それで勢いが切れる相手じゃない。
止めるための槍じゃなく、少しでも線をずらすための槍にしかなっていない。
灰鎧熊の前脚が上から落ちた。
ガン、と乾いた音がした。
槍の柄が真ん中から折れる。
そのまま肩で押し込まれ、ドランの体が横へ飛んだ。
倒木へぶつかり、鈍い音が返る。
盾もない。槍も折れた。
ここで正面を持たせたら潰れる。
次の線は、もう俺とガレスの間しかない。
熊は止まらない。
そのまま俺とガレスの間へ体をねじ込み、二人まとめて押し潰しに来る。
一頭目と同じ形じゃ遅い。
正面はもう持たない。
潰すなら、右前脚だ。
そこしかないと分かった。
頭でも喉でもない。
今のこいつを前へ出している脚を落とさなきゃ、またそのまま押し切られる。
「ガレス!下がれ!」
自分でも驚くような声が出た。
考える前に出た。
下がらせないと、次の一手が重なる。
重なったままじゃ、狭い場所へも入れない。
ガレスがこちらを見る。
「何だと」
「こっちは俺が受け持つ!あの狭いところへ入れる!平地へ出すな!」
ガレスの目が変わった。
怒ったんじゃない。
形を置き直した顔だった。
通じた。
あとは早い。
こいつは一度形になると、そこで迷わない。
二頭目が俺へ向く。
それでいい。
正面を切り替えさせた。
今はまだそれで十分だ。
ドランを立て直す時間も稼げる。
俺は一頭目の血だまりをわざと踏み抜いた。
靴裏へ血を絡め、そのまま倒木と岩のあいだの狭い場所へ走る。
追わせる。
匂いでも線でも、とにかくこっちへ引っ張る。
平地でやるより、まだこの方がましだ。
短く呪文を切る。
――風よ、流れろ。
弱い風が、血の匂いだけを前へ押した。
派手にやる必要はない。
鼻先をこっちへ向けるだけでいい。
匂いを掴む相手なら、それで十分寄ってくる。
熊が追ってくる。
二歩で間合いが消える。
だが、狭い場所へ入れば前脚の振りは狭くなる。
そこしかない。
逃げるんじゃない。
踏ませる。
学院でやった言葉が、こんな形で戻ってくるとは思わなかった。
倒木と岩のあいだへ滑り込み、体を右の岩壁へ寄せる。
灰鎧熊は、首を低くしたまま右前脚を出した。
爪先で払うんじゃない。
肩から先の重さをそのまま乗せて、横から押し潰してくる。
真正面で受けたら終わる。
だから最初から、空を切らせる前提でしか入っていない。
俺は岩壁へ右足をかけた。
左肩は使えない。右脚だけで体を持ち上げる。
熊の前脚が空を裂いた。
爪が胸の前を通り、風圧だけで服が鳴る。
近い。
あと少し遅れたら胸が裂けていた。
でも、伸び切った。今なら内側が空く。
肘が伸び切る。
右前脚の内側が空いた。
剣を返す。
右前脚の内側、関節の少し上を浅く裂く。
刃に乗せていた蝕毒を、その傷へ流し込んだ。
深くはいらない。
通ればいい。
関節の近くへ回れば、それだけで踏み込みが鈍る。
灰鎧熊の右前脚が、びくりと震えた。
入った。
効くかどうかはまだ分からない。
でも、ただの傷じゃ終わらない。
「右前脚だ!」
俺が叫ぶ。
後ろでガレスが動く気配。
ドランも起き上がろうとしている。
ここから先は一人じゃ足りない。
だから言う。
どこが崩れたか、今だけは全員で共有しないと持たない。
熊が振り向く。
狭い場所のせいで、大きくは回れない。
向きを変えるたび、右前脚へ体重が乗る。
爪の入る土が、さっきより浅い。
出た。
鈍っている。
なら、もっと踏ませればいい。
俺はさらに奥へ下がるふりをした。
背を見せる。
逃げ遅れた獲物に見せる。
こういう餌の見せ方なら慣れている。
正面で勝つ力がないなら、相手の目を使うしかない。
熊が吠え、突っ込んできた。
ここだ。
俺は左へ飛んだ。
左肩が焼けるみたいに痛む。
肩の痛みで視界が白くなる。
でも、避けるだけならまだ足は動く。
腕が駄目でも、脚で逃がせる。
熊の右前脚が、腐りかけた倒木へ肘までめり込んだ。
木が割れ、爪が半分埋まる。
肩が前へ残る。
止まった。
完全じゃない。でも一瞬止まった。
その一瞬があれば、次を通せる。
ガレスの短槍が飛ぶ。
狙いは鼻の横、鼻腔の縁だ。
短槍が刺さる。
灰鎧熊が頭を振る。荒い吠え声が漏れる。
血が鼻へ回る。
息の仕方が乱れる。
喉じゃない。
まず呼吸を崩す。
それで首の線が乱れる。
やっていることが全部、無駄なく次へ繋がっている。
そこへドランが動いた。
折れた槍の残りを拾い、そのまま投げる。
狙いは、俺がさっき裂いた右前脚の傷だ。
木片混じりの柄がそこへ当たり、傷がもう一度開く。
熊が吠える。
右前脚を庇うように、左肩から押してくる。
腰の回り方もそちらへ寄った。
偏った。
ならもう一度、右に重さを乗せさせれば落ちる。
それだけ見えた。
やることは一つだ。
「来い」
熊が真正面から飛び込んでくる。
俺は剣を前へ出した。
関節へ噛ませるためだ。
灰鎧熊の右前脚が落ちる。
刃と爪がぶつかった瞬間、剣が高い音を立てた。
金属が悲鳴を上げる。
剣は半ばから折れた。
分かっていた。
持つとは思っていない。
折れても、そのまま関節へ残ればいい。
最初からそこまで含めて押し込んでいた。
折れた刃が、そのまま右前脚の関節へ深く食い込む。
俺は柄へ体重を全部乗せ、外側へねじった。
左肩がまた軋む。
痛い。
でも止めない。
ここで手を抜いたら、折れただけで終わる。
折れたなら、折れたまま刺し込むしかない。
最後にもう一度だけ、折れた刃から蝕毒を流し込む。
右前脚が沈んだ。
肩が落ち、熊の体が前へ傾く。
喉が下がる。
落ちた。
これでやっと喉が出る。
ここまでやって、ようやく一太刀の形になる。
「ガレス!」
怒鳴る。
ガレスはもう動いていた。
長剣が喉へ走る。
深い。
それでも熊は来る。
終わっていない。
喉へ入っても、まだ来る。
ここが灰鎧熊の嫌なところだ。
人間なら落ちる傷でも、こいつは最後の一歩を残してくる。
だから俺は残った剣を抜いた。
右手一本。辺境で一度だけやった、いちばん汚いやり方だ。
喉じゃない。目でもない。口の中だ。
まともな型じゃない。
でも、死に切らない獣を黙らせるには、ああいう場所しかない時がある。
思い出したくないやり方だった。
灰鎧熊が吠えようと口を開く。
その隙へ、残った刃を突き込んだ。
「――っ!」
熱い血が腕へかかる。
刃先が舌の奥を裂き、口の中へさらに蝕毒が回る。
呼吸が乱れ、頭が大きく跳ねた。
これで息も声も崩れる。
喉だけじゃ足りないなら、内側から潰す。
汚いが、確実だ。
ガレスの長剣が、そのまま喉を断ち切った。
巨体が崩れる。
地面が鳴った。
俺も、その場で膝をついた。
膝が抜けたというより、そこでやっと終わった。
立ったまま保っていたものが、一度に抜けた。
左手の剣は、もう半分しかない。
左肩から先が痺れ、感覚が薄い。
次が来たら持たない。
そう思ったところで、もう次は来なかった。
先に動いたのはドランだった。
折れた槍を捨て、倒れた熊の腹を蹴って死を確かめる。
それから、ゆっくりと俺を見る。
「……お前」
低い声だった。
「今の、蝕毒魔法か」
俺は荒い息のまま答える。
「そうだ」
隠しようがない。
今さらごまかしても意味がない。
熊の傷口を見れば、それだけで十分だ。
ドランの眉がわずかに動いた。
「そりゃ隠す」
短く、それだけ言った。
咎めるでもない。
感心とも違う。
面倒な札を見た顔だった。
ガレスが続ける。
「王都じゃ、討伐の術というより暗殺の術だと思われる」
ドランが鼻を鳴らす。
「口に出して得することは一つもない。黙ってろ」
倒れた熊の右前脚を見る。
裂いた傷のまわりが、黒く変色していた。
鼻の脇も、口の中も同じだ。
隠しようのない痕だった。
分かっていた。
だから出さなかった。
でも今日は、それを惜しんでる場合じゃなかった。
「最初から言う気はなかった」
俺が言うと、ドランが短く返す。
「それでいい」
ガレスも否定しなかった。
「今日は必要だった。それだけだ」
短い言い方だった。
責められないだけで十分だった。
歓迎も理解もいらない。
今日ここで切られなければ、それでよかった。
「だが外で軽く使うな。見られたら面倒じゃ済まん」
「ああ」
少し間を置いて、ドランが言う。
「それで、ずっと一人か」
意味はすぐわかった。
こういう術を持っていて、正式な隊もなく、隠している。
答えはだいたい一つだ。
「ああ」
倒れた熊を見たまま答える。
「面倒な術だな」
ドランが熊を顎でしゃくる。
「前脚、鼻、口」
低く数えた。
呆れているのに、否定はしていなかった。
使い方を見られた。
それでも嫌悪を前に出さないだけ、この男はまだましだと思った。
王都じゃ、その反応の方が珍しいのかもしれない。
俺は笑わなかった。
笑える状態でもない。
ただ、倒れた二頭の灰鎧熊を見る。
剣は折れた。
肩もやった。
魔力もかなり持っていかれた。
代わりに、二頭とも倒れている。
その結果だけが、今は全部だった。
ガレスが口を開く。
「ロイド」
「何だ」
「ベルタの代わりにはなるな」
「わかってる」
そこははっきりしていた。
今日やったのは、代わりじゃない。
横から止めて、ずらして、通しただけだ。
同じ前には立っていない。
「なら、それでいい」
返事はそれだけだった。
それで十分だった。
認めるでもなく、切るでもなく、そこで線を引いた。
今はそれ以上いらない。
ドランが折れた槍を肩へ担ぎ直す。
「ベルタが聞いたら、面倒だな」
「何がだ」
「寝てる間に、お前が熊相手に剣を折って、しかも蝕毒まで出した話だ」
口の端だけ、少し上がる。
そこだけ少し想像できた。
起きたあとで聞いたら、間違いなく怒る。
その怒り方まで想像できて、少しだけ息が抜けた。
ガレスは踵を返した。
「戻るぞ。依頼は達成だ」
そこで一歩だけ止まり、振り向かずに続ける。
「蝕毒のことは言わん」
「剣は新調しろ。今のはもう使えん」
「ああ」
今度こそ、ガレスは歩き出した。
俺は折れた剣を見下ろし、それから二頭の熊を越えて、その背を追った。
戻れば、まずベルタの顔を見ることになる。
その前に、言い訳を考える余裕はたぶんない。
でも、生きて戻るなら、それでいいと思った。




