26話 灰鎧熊
灰鎧熊の痕跡は、丘陵を越えた先の疎林で見つかった。
若木が根元から倒れている。
樹皮は縦に抉れ、白い木肌が剥き出しだった。
幹に残った爪痕は深い。四本とも、刃物で刻んだみたいに揃っている。
熊の通った跡というより、通り道ごと叩き壊した跡だった。
力任せに見えるのに、爪の線だけは妙に揃っている。
そこが少し嫌だった。
ただ、その少し下にも浅い筋があった。
高さが半歩ぶん低い。
同じ木を踏み替えて引っかいたようにも見えるし、別の個体が後から爪をかけたようにも見えた。
最初は気のせいかと思った。
だが、傷が二段にある。
一頭の動きの乱れで済ませるには、少し出来すぎていた。
ドランがしゃがみ込み、土を指先でなぞる。
「新しい」
ガレスも倒木の脇へ寄り、裂けた木肌に触れた。
「乾いてない。まだ近い」
俺は疎林の先を見た。
木と岩が入り混じっている。
開けた場所は細い。
正面から走ってくる獣には狭い。
そのぶん、入ってくる幅も絞れる。
広くはない。
だが、広くないからこそ、通す線を決められる。
平地でぶつかるよりは、まだましだと思った。
ガレスが短く言った。
「ここでやる」
「誘うのか」
「平地へ出したら押し切られる。木の間で止める」
止めるというより、削る場所を先に決めるんだろう。
正面で耐えるためじゃない。
通る幅を絞って、一撃を入れる形を作る。
ドランが槍先で前を示す。
「倒木の右に俺。左にロイド。肩を並べすぎるな。一歩でまとめて持っていかれる」
「俺が左か」
「ベルタなら正面を踏み止まる。お前は外へ逃がせ」
言い方はきつい。
だが、間違ってはいない。
ベルタの代わりではない。
その前提を、こいつは最初から崩さない。
だからむしろ分かりやすかった。
ドランが続ける。
「来たら目は見るな。肩を見ろ。前脚が落ちる向きが先に出る」
「ああ」
「爪先じゃない。踏み込みを追え」
「わかってる」
「ならいい」
昨日の異常個体もそうだった。
目を見た時には、もう遅い。
肩が沈む。前脚が落ちる。
先に動くのはいつもそっちだ。
そこでガレスが腰の短槍を一本抜いた。
「来るぞ」
風が回る。
獣臭が流れ込む。
しかも一本じゃない。
重い臭いの奥に、もうひとつ乾いた獣臭が薄く重なった。
だが次の瞬間には、枝の折れる音がそれを押し潰した。
一本じゃない。
そう思った。
だが確信に変わる前に、音の方が先に来た。
疎林の奥で乾いた枝が続けざまに折れる。
折れる音が重なり、木の間から灰色の塊が押し出されてきた。
肩が高い。
頭を低くしたまま前脚を前へ出すたび、土が深く沈む。
木の間へ出ても速度が落ちない。
重さごとぶつかり、正面を潰す型だ。
異常個体ほどの嫌なずれ方はない。
だが、真正面を押し潰す力は十分すぎる。
普通種でも、まともに受ければ終わる。
「正面だ!」
ガレスの声が飛ぶ。
「構えろ!」
ドランが吠えた。
熊が踏み込んだ。
右肩が沈む。
次の瞬間、右前脚が頭の横から振り上がった。
叩きつける。
それだけじゃない。
肩ごと前へ乗せ、重さごと押し込んでくる。
肩の沈みは見えた。
だからまだ動ける。
昨日みたいに線を消す相手じゃない。
そう思えただけで、少しだけ息が通った。
「左へ!」
ドランの声に合わせ、俺は倒木の左へ半歩開いた。
剣を斜めに立てる。
振り下ろされた右前脚を、刃の面で外へ滑らせた。
ギリ、と爪が刃を擦る。
火花が散る。
腕の骨まで痺れた。
重い。
受けているつもりはないのに、押し潰される。
剣を離したらそのまま胸まで持っていかれる重さだった。
「受け切るな!逃がせ!」
ドランがさらに怒鳴る。
熊は止まらない。
流れた右前脚を、そのまま踏み込みへ変える。
胸の厚みを押しつけ、間合いごと潰しに来た。
右前脚が、落ちる位置を半歩ぶらした。
爪先の下で砂利が走り、踏み込みが外へ流れる。
風弾。
落ち先へ叩きつけた風が、土ごと足をずらした。
止められないなら、ずらす。
昨日の失敗のあと、そこだけは頭に叩き込んでいた。
浅くてもいい。踏み込みが半歩狂えば、それで形が変わる。
「ずれた!押されるな!」
ドランが熊の右前脚の外へ入る。
熊の胸が俺の正面からずれる。
右肩だけが先に来た。
それでも重い。
右肩が俺の胸をこすり、息が潰れる。
足元の土が削れ、身体が後ろへずれた。
直撃じゃない。
それでも、重さだけで息が潰れる。
真正面で受けていたら、たぶんここで終わっていた。
「ロイド、剣を離すな!」
ドランが槍の根元を手首の外へ掛け、そのまま外へ引いた。
熊の前脚がさらに流れる。
胸がドラン側へ回る。
左前脚の後ろ、胸との継ぎ目が開いた。
毛の割れ目の奥に、刃一本ぶんの浅い隙間が見える。
ほんの一瞬だ。
だが見えた。
ここへ入れれば、ただ受け流しただけでは終わらない。
「左脇が開いた!」
ガレスが叫ぶ。
「鼻先を打つ!」
短槍が飛ぶ。
狙いは目じゃない。
鼻先だった。
短槍が鼻面をかすめる。
熊が頭を振った。
首が横へ流れ、左脇の隙間がもう半歩広がる。
鼻先を打つ意味がやっと分かった。
痛がらせるためじゃない。
首を振らせて、肩と脇の線をさらに開かせるためだ。
「今だ、ロイド!」
前へ出る。
ベルタみたいに、正面から割る力はない。
だから深くは追わない。
熊の左前脚の後ろへ剣先を滑り込ませる。
脇の浅いところを裂いた。
刃が毛を割り、肉を裂く。
血が散る。
熊の胴がさらに横へ回った。
浅い。
だが、それでいい。
止める傷じゃない。
向きをさらに崩すための傷だ。
「返すぞ!」
ドランの怒鳴り声が飛ぶ。
左前脚が低く払われる。
見えていた。
だが、踏み込んだ右足がまだ熊の懐に残っている。
避け切れない。
左肩へ前脚が叩き込まれた。
息が止まる。
肩の奥で骨が擦れ、左腕の力が一瞬で抜けた。
身体ごと土の上を転がる。
視界が揺れ、剣の柄が手の中でずれた。
まともには食っていない。
それでも十分だった。
肩の奥が焼けるみたいに痛む。
左腕が自分のものじゃないみたいに遅れる。
「――っ」
左腕に力が入りきらない。
握り直そうとしても、指の閉じる速さが遅れる。
肩を上げようとしただけで、脇の下がひきつった。
駄目だ、と思った。
ここで腕が死ねば、次の一手に入れない。
だが痛みの中で、それでも剣だけは離していないと分かって、そこだけを掴んだ。
「立て!」
ドランの声で顔を上げる。
熊はもう俺を見ていない。
正面へ入ったドランに体を向けていた。
助かった、とは思わなかった。
狙いが切れたわけじゃない。
ただ、前へ入った相手が変わっただけだ。
小盾が斜めに当たる。
真正面では受けない。
爪を外へ滑らせ、その内側を槍の柄で押し返している。
「正面支える!」
ドランが叫ぶ。
ガレスは踏み込まず、熊の首の下を見ていた。
「まだ喉は見えない!」
だが、きつい。
前脚がぶつかるたび、小盾の縁が押し曲がる。
槍の柄もミシ、と鳴った。
ドランも持たせているだけだ。
余裕なんてない。
あれは受けているんじゃなく、壊れ切る前の時間を買っているだけだった。
熊が上体を起こす。
前脚が持ち上がる。
「足元を見るな!首を見ろ!」
ガレスの声と同時に、二本目の短槍が飛んだ。
喉の手前、胸の上へ突き立つ。
深くはない。
だが、熊の頭が一瞬だけ上がった。
前脚の間に、喉下の柔らかい線が出る。
そこだと分かった。
正面からは通らない。
頭を上げさせて、喉の下を剥く。
やっていることは単純なのに、そこまでが全部厄介だった。
「喉下が出た!」
ガレスが踏み出す。
「前脚をずらす!」
ドランが叫ぶ。
槍の鉤を前脚の関節へ絡め、横へ引いた。
熊の重心が右へ寄る。
左前脚が土をつかむのが遅れた。
崩した。
完全じゃなくても、今だけは十分だ。
そう思った瞬間、次の声が飛ぶ。
「ロイド、付け根だ!」
呼ばれる前に足が動いていた。
俺は熊の左脇へ回る。
狙うのは胴じゃない。
左前脚の付け根、その奥だ。
昨日の異常個体の左肩を思い出していた。
肩でも脚でも、前へ出る力が入る場所を落とす。
ベルタみたいに正面は取れない。だからそこしかない。
剣を握り直す。
左腕はまだ痺れている。
肩を上げ切れない。
左手は添えるだけにして、右手と腰で押し込む。
踏み込む。
刺す。
刃が毛を割り、肉を裂き、前脚の付け根まで沈んだ。
熊が吠えた。
胴が跳ねる。
入った。
深くはないかもしれない。
それでも、前へ出る脚の根元へ届いた。
あとはこれで一瞬でも止まればいい。
「入った!」
ガレスが踏み出す。
同時に、ドランの小盾が割れた。
木片と金具が飛び散る。
槍の柄もしなり、もう一撃で折れるとわかった。
ぎりぎりだった。
あと半歩遅れていたら、たぶんドランが持たなかった。
間に合ったというより、滑り込んだだけだ。
「次で折れる!」
ドランが吠える。
「喉を落とす!」
その声で、ガレスが前へ出た。
長剣が走る。
狙いは喉だ。
真正面からは通らない。
だが、ドランが前脚をずらし、俺が左脇へ刃を入れたせいで、首の下が横へ開いていた。
そこまでの全部を積んで、ようやく一撃が通る。
ベルタが前にいた時も、たぶんこういう形だったんだろうと今さら分かった。
「そこだ!」
ガレスが振り抜く。
刃が喉を深く裂いた。
遅れて血が噴く。
熊の頭が跳ね上がる。
「離れろ!」
ガレスの声で、俺とドランが同時に飛び退いた。
次の瞬間、灰鎧熊の巨体が地面へ落ちた。
重い衝突音が疎林に響く。
倒れた拍子に土と枯葉が跳ねた。
倒れた。
だが、あの重さは倒れてもまだ終わりじゃない。
昨日の異常個体が頭に残っているせいで、まるで安心できなかった。
「まだ終わってない!脚を見ろ!」
ドランが叫ぶ。
右前脚が一度、地面を掻く。
爪が土を削る。
喉から血泡があふれ、左前脚の付け根からも赤が広がった。
身体が二度、大きく跳ねる。
三度目は浅い。
そこで止まった。
前脚が土を掻かなくなる。
喉の泡音も切れた。
枝先を揺らす風だけが残る。
ようやく終わった。
そう思った途端に、左肩の痛みが一気に戻ってきた。
戦っている間は遅れていた痛みが、今さら追いついてきた感じだった。
剣を下ろす。
手が震えている。
左肩が脈打つ。
息を吸うたび脇の下がひきつり、吐くたび肩口が遅れて痛んだ。
左手を開くと、指がすぐには伸びきらない。
肩を上げようとして、途中で止まる。
剣は右で握り、左は柄頭へ触れるだけだった。
まだ動く。
だが、左は半分死んでいる。
そこまで考えたところで、嫌な匂いが鼻に戻ってきた。
ドランが槍を引き、短く息を吐く。
「生きてるな」
「……立てる」
「なら次も動け」
慰めじゃない。
確認だけだった。
だからこそ、逆に気が締まる。
ガレスが熊のそばへ寄る。
喉の傷を見て、刃先で目をつついた。
反応はない。
その時だった。
風がまた回る。
血の匂いに混じって、別の獣臭が乗る。
さっきより乾いている。
鼻先へ刺さる。
一本じゃなかった。
やっぱりさっきの重なりは気のせいじゃない。
そう思った時には、もう遅かった。
同時に、倒れた熊の向こうの幹が揺れた。
さっき見た低い爪痕と同じ高さで、樹皮がぱらりと落ちる。
ドランが先に顔を上げた。
「――もう一頭だ」
直後、倒木の向こうで吠え声が弾けた。
一頭目より高い。
だが、途切れずに続く。
疎林の奥から、もう一頭の灰鎧熊が飛び出してきた。
一頭目より肩は低い。
そのぶん、木の間を抜けるのが速い。
倒れた熊のそばで一度だけ足を止め、すぐこちらへ向き直る。
前脚が土を深く掻く。
鼻息が荒い。
唇の裏から牙がのぞいた。
軽い。
だから速い。
しかも、最初の一頭が倒れた直後だ。
今の俺たちに一番きつい形で出てきた。
ガレスが低く吐く。
「つがいか」
左肩はまだ上がらない。
ドランの小盾は割れ、足元には木片が散っている。
さっきの低い爪痕は、やっぱりこいつだったのか。
一頭じゃないと分かっていれば、もっと別の形も取れたかもしれない。
だが今さらだ。
もう、追い払って終わる相手じゃない。
つがいを喉から落とされた熊が、真正面からこっちを見ていた。




