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25話 代わりにはならない

翌朝、空が白み切る前に、俺は王都南門へ着いていた。


空気は冷えている。

門の石壁に背を預けたまま待つ。

昨夜、袖を掴んだ指先の感触がまだ残っていた。


石の冷たさより、あの指先の方が離れなかった。

あれだけ弱い力で止められて、まだここにいる。

その時点で、もうまともな話じゃない。


――行くな。

――ここにいろ。


掠れた声まで、耳の奥に貼りついている。

振り払ったつもりで門まで来ても、結局はその声ごとここへ立っている。


しばらくして、街の奥から二つの足音が近づいてきた。


一人はガレス。

もう一人は、見覚えのない男だった。


三十を少し越えたくらいだろうか。

背は高いが、ハンスみたいな厚みはない。

無駄なく締まっていて、立ち姿に揺れがない。

短く刈った髪。右頬に浅い古傷。

背には長めの槍、左前腕には小ぶりな盾を固定している。


近づく前から分かる。

前に立つための厚みじゃない。

崩れたところへ差し込むための軽さだ。

見るより先に、そういう置き方の人間だと思った。


先に俺を見つけたのはガレスだった。

足は止めない。

だが、目だけが冷たくこっちを向く。


「なぜ、お前がいる」


「俺も行く」


そこでようやく、ガレスが足を止めた。

朝の薄明かりの中で、その視線だけがやけにはっきり重い。


「帰れ」


「昨夜、ベルタは目を覚ました」

短く返す。

ガレスの眉間が寄る。


「そうか」


「討伐に出ることも伝えた」


ガレスはしばらく俺を見ていた。


考えているというより、秤にかけている。

ここで押し問答をする手間と、そのまま歩かせる手間。

どちらがまだましか、それだけを見ている顔だった。


「認めたわけじゃない」

低く言う。


「勝手について来るなら来い。だが面倒は見ん。射線だけは塞ぐな」


「ああ」


認められたわけじゃない。

ただ、切る手間も惜しまれただけだ。

それでも、今はそれで十分だった。


横で見ていた男が、そこで初めて口を開いた。

「誰だ」


ガレスが顎で俺を示す。

「ロイドだ。勝手に来た」


それだけだった。

余計な説明はない。


“勝手に来た”の一言に、関係の線だけが全部入っていた。


男の視線が、上から下まで俺を測るように動く。


「軽いな」

開口一番、それだった。


「ベルタの代わりにはならん」


「ならなくていい」

ガレスが短く切る。


「前には立たせん。熊の向きを変えさせる。それだけやらせる」


男は短くうなずいた。


「ドランだ。ドラン・ヴェイク」

名乗って、それで終わる。


「槍で差し込む。崩れたところは俺が埋める」


短い。

だが、その一言で十分だった。

この男は前に立つんじゃない。

空いた線を拾い、崩れた場所を塞ぐ役だ。


「最初から俺が崩れる前提か」

口を出すと、ドランは顔色ひとつ変えない。


「崩れないつもりで前へ立つやつから死ぬ」


そこで初めて、ガレスがこっちを見た。


「ベルタの真似はするな」

短く言って、続ける。


「受けるな。真正面に立つな。向きを変えろ。時間を作れ」


「わかってる」


「その返事で足りるなら苦労しない」


冷たく返したが、それ以上は言わなかった。

認めたわけじゃない。

ただ、もう出る時刻だった。


信用はない。

役だけ置かれた。

それでいい。

今の俺に必要なのは、立つ場所だけだ。


ドランが槍の石突を地面へ軽く当てる。


灰鎧熊グレーアーマー・ベアは浅く切っても止まらん。前脚の一撃で終わる。立ち上がりも抱え込みも来る」


朝靄の向こうを見たまま続ける。


「一度怒ると、狙った相手を追う。まともに受けるな」


ガレスが踵を返した。

「行くぞ」


朝靄の残る街道を南へ抜ける。


前を歩くガレスの背はぶれない。

その少し後ろを、ドランが槍を担いだままついていく。

俺はそのさらに後ろで、二人の歩幅と間合いを見ていた。


並び方だけで分かる。

ガレスが前を取る。

ドランは少しずらして、どちらへでも差し込める距離を保つ。

最初から二人で一つの形になっていた。



南へ二刻ほど歩いたところで、一度足を止めた。


街道脇に浅い水場がある。

馬を休めるための場所らしく、平たい石がいくつか転がっていた。


ガレスは周囲をひと目見てから言う。


「少し休む。水だけ取れ」


それだけ言って、街道の先へ目をやった。

痕跡でも見ているのか、そのまま少し離れていく。


立ち止まっても、完全には休まない。

前を切るやつの目だ。

そういうところまで、ベルタが見ていた相手なんだろうと思った。


俺は水場へしゃがみ込み、手を濡らした。

その冷たさで、喉が渇いていたことを思い出す。


緊張している時は、身体のことが後回しになる。

水に触れてようやく、自分が朝から何も飲んでいないと気づく。

間抜けだと思った。


後ろで足音がした。


振り向くと、ドランが革袋をひとつ投げてよこした。


「飲め」

受け取って、目を上げる。


「……助かる」


ドランは返事をしなかった。

近くの石へ腰を下ろし、槍を膝へ立てかける。


気遣いというより、倒れられると困るから渡した。

そういう手つきだった。

でも今は、それで十分ありがたかった。


しばらく、水を飲む音だけがあった。


黙ったままでもよかった。

だが、聞くなら今だと思った。


「ベルタがいる時、熊にはどう入る」


ドランがちらりとこっちを見る。


「いきなりそこか」


「今、知りたいのはそこだ」


ドランは鼻で息を抜いた。


呆れたんだろう。

だが、無視はしなかった。

聞く価値がゼロなら、最初から答えない顔だ。


「最初にベルタが視線を取る」


「受けるんじゃないのか」


「真正面では受けん。ずらす」


短い答えだった。


その一言で、学院で見ていたベルタと、現場で使われるベルタが少し分かれた。

前に立つのは同じでも、役目が違う。

受けるためじゃなく、ずらすために危ない位置へ入っている。


「鼻先と前脚の置き場がずれれば、それでいい。肩が開く。そこへガレスが入る。俺は崩れたところを埋める」


学院で見ていた位置より、半歩前だ。

正面で受けているようで、受ける前にずらしに入る。

その一歩を誤れば、自分が先にやられる場所だった。


やっぱりそうか、と思った。

ベルタは前で止めていたんじゃない。

最初から相手の一歩を変えるために立っていた。


「学院だと、もっと真正面から行ってるように見えた」


「学院だからだろう」


ドランは即座に言った。


「相手も浅い。教官も見てる。多少強引でも形になる」


そこでようやく、こっちを見る。


「現場のあいつは違う。最初に視線を取る。受けるためじゃない。ずらすために、先に危ない場所へ入る」


昨夜見た脇腹の包帯が、そこで重なった。


分かっていたつもりだった。

だが、言葉にされると痛い。

あの傷は無茶の結果じゃない。

そういう役を先に取っていた結果なんだ。


「……戻せるのか」


「誰が」


「ベルタをだ」


ドランは少し黙った。


聞いてから、自分でも妙な問いだと思った。

傷の話じゃない。

戦い方ごと、そこから戻せるのかを聞いていた。


「ガレスは戻す時は戻す」


「それでも、昨日みたいになる」


「なる時はなる」


短い返しだった。


「止まらん時がある」


小石がひとつ、水へ落ちる。

波紋が広がる。


「止まらん。しかも通す。だから厄介だ」


そこで初めて、ドランの口元がわずかに動いた。


「お前ではまだ足りん。ベルタの代わりにもならん」


そこまでは、南門と同じだった。


分かっている。

聞かされなくても分かっていることを、こうして何度も外から言われる。

そのたびに、腹の中のどこかが乾いていく感じがした。


「ただ」


ドランが立ち上がる。


「止まらん時に、横から止めるやつは要る」


その言葉だけが、妙に残った。


代わりじゃない。

横から止める。

それなら俺の位置はあるのかもしれない、と初めて少しだけ形になった。


少し離れた場所で、ガレスがこちらを振り返る。


「行くぞ」


ドランが先に歩き出す。

俺も立ち上がり、革袋の口を閉じた。



それからさらに街道を南へ進んだ。


日が上がるにつれて靄は薄れ、乾いた道の輪郭がはっきりしてくる。

左右の林は途切れがちで、ところどころに大きな切り株が残っていた。

荷馬車が襲われたというのは、たぶんこのあたりだろう。


隠れる場所は少ない。

その代わり、出るなら一気に出る。

灰鎧熊みたいな相手には、むしろやりやすい地形なのかもしれないと思った。


ガレスが急に足を止めた。


俺たちも立ち止まる。


街道脇の土が抉れていた。


浅くではない。

重いものが何度も踏み荒らした跡だ。


少し先の木の幹にも、爪痕が深く入っている。


乾ききっていない土の色が、昨日今日のものだとそのまま言っていた。


ドランがしゃがみ込み、土を指で払った。


「新しいな」


「ああ」


ガレスが短く返す。


「まだ遠くない」


ドランが立ち上がる。


「もう一度だけ言う」


槍の石突を軽く地面へ当てた。


「熊が立ったら真正面にいるな。火で顔を振らせろ。風で足を流せ。視線が切れたら、それでいい」


言い方がはっきりしていた。

倒せ、じゃない。

まず切れ、だ。

そこまでしか今の俺には求めていない。


ガレスが続ける。


「俺が先に取る。ドランが横から入る。お前は近づきすぎるな」


「ああ」


返すと、ガレスはそれ以上何も言わなかった。


信用していないのは変わらない。

だが、置き方だけは決めた。

なら、その位置で働くしかない。


街道の先は静かだった。

静かすぎて、かえって耳につく。


ベルタのやり方はできない。

やるつもりもない。


俺がやるのは、別の埋め方だ。

火で振らせる。

風でずらす。


正面には立たない。

あの位置へ入るなら、今度は横から入る。


ベルタに庇われた場所へ、もう一度まっすぐ入る気はなかった。

同じ失敗をするくらいなら、別の役として残る方がまだましだ。


前を行く二人の背を見て、俺は足を踏み出した。

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