24話 戻る場所
◆医療棟の夜
俺はもう一度、医療棟へ向かった。
足が勝手にそっちへ向いた。
考えて決めたというより、他へ行く理由がなかった。
窓の外はすっかり暗い。
廊下には靴音だけが細く残り、消毒液と煮た薬草の匂いが喉の奥へ貼りついていた。
医療棟の夜は嫌いだ。
静かすぎる。
命を繋ぐ場所のくせに、何かが遅れたあとの空気みたいな匂いがする。
病室の扉を押す。
寝台の上の赤い三つ編みが、朝とは違う位置にあった。
目が開いている。
生きている。
起きている。
吸いかけた息が、そこで止まった。
朝までのあいだ、何度も最悪の形を想像していた。
だから、目が開いているだけで現実の方が少し遅れてきた。
ベルタはまだ顔色が悪い。
首から下は寝台へ沈んだまま、身体を起こす気配もない。
それでも、緑の瞳だけはこっちをまっすぐ捉えていた。
あの目がこっちを見ている。
それだけで、胸の奥に貼りついていた硬いものが少し剝がれた。
「……なんだ、その顔」
掠れた声だった。
その減らず口が出るなら、まだこっち側にいる。
そう思った瞬間、ようやく肺がまともに動いた。
「生きてるのを見たら、そうもなる」
「……大げさだな」
「大げさじゃない」
返した声が、自分でも思ったより強かった。
抑えるつもりはあった。
でも、起きているのを見たら、昨日の血の色まで一緒に喉へ戻ってきた。
ベルタは言い返さず、俺の顔を見た。
それから、少しだけ目を細める。
「……そうかよ」
そこで口が止まる。
先に言葉を探したのはベルタだった。
「……異常個体は」
喉が一度詰まり、言葉が切れる。
包帯の下で肋が持ち上がった。
「……逃がしたか」
「逃がした」
「……そうか」
短い返事だった。
悔しさは、声より先に目の奥へ沈んでいた。
そこを真っ先に聞くのが、ベルタらしいと思った。
自分の傷より先に、仕留めたかどうか。
まだ前から目を外していない。
「お前」
声が、自分でも驚くほど低くなる。
「俺を突き飛ばしただろ」
ベルタが片眉を上げた。
「…………そのまま食わせるよりは、ましだった」
顔色は悪いのに、返しだけはいつも通りだった。
それが余計に腹に立つ。
平然と言うな、と思った。
その“まし”の代わりに、今こいつが寝台にいる。
「ましじゃない」
ベルタの目がわずかに開く。
「お前が死にかけてるのに、ましで済ませるな」
喉が擦れた。
抑えたつもりだったのに、最後の音が揺れた。
怒鳴りたいわけじゃない。
でも、あの時の位置関係を思い出すと、どうしてもそういう声になる。
あれを軽く言われたら、なおさらだ。
ベルタはしばらく俺を見ていた。
やがて視線が天井へ流れる。
「……悪かった」
声は細かった。
「……でも、あの位置はまずかった」
「それでもだ。そこまで行くな」
言い切る。
ベルタは返さない。
いつもならここで噛みつく。
今日は喉の奥で息が擦れ、言葉がその先へ進まなかった。
反論する力がない。
それが、こっちの言葉を余計に重くした。
「……兄さん」
「何だ」
「……今は、きつい」
そこで口の端が少しだけ動く。
笑った形だけを作って、すぐ消えた。
「悪い」
返すと、ベルタは天井を見たまま言う。
「…………たぶん、そう言われた方がよかった」
そこでまた沈黙が落ちた。
ベルタが瞼を閉じたまま、次の言葉を探す。
「……ガレス、来たか」
心臓がどくりと鳴った。
やっぱりそこを聞く。
目が覚めて最初の軽口のあとで、次に来るのがその名だ。
「ああ」
「……何て言ってた」
まっすぐな聞き方だった。
逃がす気がない。
少し迷った。
だが、ここで濁すのは違うと思った。
隠せば、その場はやり過ごせる。
でも、こいつは誤魔化されたことをあとで必ず拾う。
「学院なんか行けば、余計に止まれなくなるって」
「……ああ」
「前に立てるうちは、お前はやめないって」
ベルタの顔は動かない。
そこまでは、たぶん自分でも分かっているんだろう。
だから否定が返ってこない。
「それで、学院をやめさせるって言ってた」
そこで、ベルタの視線が止まった。
「……そうか」
返ってきた声は平らだった。
怒鳴りもしない。
そのぶん重い。
平らすぎて嫌だった。
もっと怒るかと思っていた。
でも、怒る前に飲み込んでいる時の方が、この女は重い。
「お前、それでいいのか」
ベルタはすぐには答えなかった。
窓の外はもう黒い。
ガラスに室内の灯りだけが薄く映っている。
「……よくはない」
喉の奥で擦れた声だった。
「…………でも、あいつの言いたいことは分かる」
包帯の下で腹が動くたび、眉間に皺が寄る。
痛みのせいだけじゃない顔だった。
あいつの言葉の意味ごと飲み込んでいる顔だ。
「上の資格を取ったら、私はたぶん止まらない」
一度、息が切れる。
「だからって、お前の代わりに決めていい理由にはならない」
ベルタはそこで目を閉じる。
喉が上下したあと、掠れた声が続いた。
「……ずっと、あいつの前にいたかった」
返す言葉が止まった。
そこか、と思った。
強くなりたいとか、上へ行きたいとか、そういう言葉より先にあるものが、それなんだ。
「……まだ、あいつの横に戻る気なんだな」
気づけば口をついて出ていた。
ベルタは否定しなかった。
「……ああ」
それだけ言って、目を閉じたまま天井を向く。
「……拾われた恩もある」
「鍛えられた借りもある」
「あいつ見てると、私もそうなりたかった」
まだ、そこを見ている。
傷だの学院だのの話の奥で、ずっとそこへ戻っていく。
その頑固さは、昔からだったのかもしれない。
ベルタは黙り、俺もすぐには返せなかった。
やがて、ベルタがこっちを見る。
「……兄さん、昨日からずっと顔が同じだ」
「どんな意味だ」
「……私がああなったの、本気で嫌だった顔」
言われて、否定できなかった。
「嫌だったよ」
そこで喉が詰まる。
飲み込んでから続けた。
「お前がああなったままで終わるのが嫌だった」
「だから、学院やめる話にされたくなかった」
ベルタの目が細くなる。
出た言葉は、たぶん思っていたよりずっとまっすぐだった。
でも今さら引っ込める気にもなれなかった。
「……兄さん」
「何だ」
「……ほんと、そういうとこだよ」
いつもの声量はない。
それでも、その言い方だけはベルタだった。
「それと、もう一つある」
「次の依頼」
ベルタの目が細くなった。
「俺が行くって言った」
言った瞬間、ベルタの目が止まった。
「……何を」
「次の依頼だ。俺が前に残る」
喉が上下する。
包帯の下で腹が強く動いた。
「……ガレスが通すわけないだろ」
返せなかった。
それだけで伝わったらしい。
「……駄目だ」
声は擦れていたが、言い方ははっきりしていた。
その否定は即答だった。
「……あいつが止めたなら、理由がある」
そこでまた胸が上下する。
肋が動くたび、顔色がさらに抜ける。
「……灰鎧熊だぞ。今のお前じゃ無理だ」
俺は黙ったまま聞いた。
「……それに」
そこで、ベルタの目がまっすぐ俺を見る。
「……私に庇われたからって、返すな」
吐いた息が喉で掠れた。
そこでベルタが身じろぎした。
起き上がろうとして、すぐに顔が歪む。
「っ……」
傷がそんな動きを許すはずがない。
息が詰まり、肩が寝台から浮きかけて止まる。
見ているだけで腹が冷えた。
そんな動き一つで、こいつはまだ簡単に痛みに持っていかれる。
反射で寝台の脇へ寄る。
「起きるな。傷が開く」
「……それは、後だ」
痛みで声が擦れたまま、ベルタはもう一度身体を起こそうとした。
だが腹に力が入らず、背は寝台から離れない。
代わりに左手が伸びた。
俺の袖を掴んだ。
強くはない。
指先に力が入りきっていない。
それでも離れなかった。
その弱さが、逆にきつかった。
いつものベルタなら、こんな掴み方はしない。
力が入らないから、それでも掴んでいる。
「行くな」
そこで喉が詰まり、声が止まる。
掴んだ指が震えていた。
「ここにいろ」
それだけ言って、目を閉じる。
続きが出ないのか、唇が動いても音にならなかった。
止める言葉が、こんなにまっすぐ来るとは思っていなかった。
理屈じゃない。
今は行くな、ただそれだけだ。
俺は立ったまま、その手を見ていた。
寝台の横へ椅子を寄せる。
木の脚が床を擦り、ベルタの肩がかすかに動く。
そのまま腰を下ろした。
今はこれでいいと思った。
答えを出すのは後でいい。
少なくとも、この手を振りほどいて出ていくのは違う。
ベルタは何も言わなかった。
袖を掴んだ指だけが、しばらくそこに残った。
やがて力が抜ける。
呼吸が長くなる。
俺は椅子に座ったまま、動かなかった。
夜のあいだ、何度もその手を見た。
離れたか、冷えていないか、息が乱れていないか。
それくらいしかできることがなかった。
病室の灯りは落とされ、窓の外は黒いままだった。
夜のあいだ、ベルタは何度か息を乱したが、目は開けなかった。
目を閉じていても、完全に落ち切っているわけじゃない。
痛みで浅く浮くたびに、それが分かった。
だからこちらも眠れなかった。
明け方、空が白み始めるころだった。
ベルタは眠っていた。
左手は布の上に落ち、指先も動かない。
呼吸は昨夜より深い。
少しだけ、峠を越えたように見えた。
昨夜の浅さよりは、ずっとましだった。
俺はそっと立ち上がった。
椅子が鳴らないよう手で押さえ、音を殺して後ろへずらす。
寝台の横で足を止める。
ここに残れば、ベルタが目を開けた時、俺はここにいる。
だが、行かなければ、ガレスの班は前衛を欠いたまま灰鎧熊へ入る。
それで崩れれば、ベルタが戻る先ごと消える。
その二つが、頭の中でずっと噛み合わない。
学院だけ残っても足りない。
ガレスの班だけ残っても足りない。
ベルタが戻るなら、両方残っていないと駄目だった。
それが結論というより、逃げられない形に見えた。
どちらかだけ守ったつもりでは、結局どちらも失う。
ベルタは起きない。
それでも一度、その顔を見た。
踵を返し、音を殺して病室を出る。
止められたくなかった。
起きて目が合えば、たぶん行けなくなる。
だから今しかなかった。
廊下は冷えていた。
医療棟を抜けた時には、足はもう南門へ向いていた。




