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23話 ベルタの名は、なかった

◆医療棟


講義が終わるなり、俺は学院の医療棟へ向かった。


講義の中身は、ほとんど頭に残っていない。

終わった瞬間に足が向いた時点で、最初から他のことを考える余地なんかなかった。


消毒液の匂いが鼻を刺す廊下を進み、ベルタの静養室の前で足を止める。

ノブへ伸ばした手が、扉の前で止まった。


入って何を見るのかを、頭のどこかがまだ拒んでいた。

生きていると聞いても、こういう扉の前では別の想像が勝手に口を開ける。


「学院は、やめさせる」


低い声が、扉越しに落ちてきた。

ガレスだ。


息が止まる。

そのまま扉を押し開けた。


「待ってくれ!」


窓際に立ったまま腕を組んでいたガレスが、ゆっくりとこちらを向く。

寝台の上で、ベルタは目を閉じたままだ。


白い包帯が、右脇の下から脇腹へ深く巻かれている。

昨日より顔色は戻っている。

それでも、目を閉じたまま動かない姿はまだ現実味が薄かった。


胸の上下を確かめてから、ようやくガレスへ向き直る。


「……何か用か」


「今のは、どういう意味だ。ベルタが怪我をしたから、学院をやめさせるっていうのか」


問い詰める声が少し上ずる。

ガレスは言葉を濁さなかった。


「傷の話じゃない。傷なら塞がる。問題はその先だ」


そう言ってから、一度だけ寝台へ目を落とす。


その目は冷たく見えた。

だが、突き放しているんじゃない。


「ベルタは昔からそうだ。届くと思ったら行く。無理でも踏み込む。立てるうちは前に出る」


窓の外の光が、ガレスの横顔を薄く削る。


否定できない言い方だった。

昨日の一歩だけでも、十分すぎるほど分かる。


「学院にいれば、高みが目に入る。ギルドの依頼もある。あいつは、見えたものを両方抱える」


その言葉で、何を恐れているのか見えた。


「だから学院から離す。抱えきれなくなる前に、持つものを減らす」


乱暴な言い方だった。

切るための言葉じゃなく、守るために先を狭める言い方だった。


俺は返す前に、寝台の横へ半歩寄った。

乱れていた毛布の端が、包帯の下で浮いている。

指先でそっと引き、腹の上へ掛け直す。


手を動かしていないと、声が荒くなりそうだった。


それから、寝台の脇へ出た手を見る。

指先は動かない。


動かないのに、まだ温度だけはある。

それを見ると、余計に勝手に話を決めるなと言いたくなる。


「……それは、ベルタ本人に決めさせることだ」


言い返したというより、そこだけは譲れなかった。

たとえベルタが無茶をすると分かっていても、それを他人が先に切るのは違う。


ガレスの目が細くなる。


「お前が決めることでもない」


「俺がいる限り、ベルタはついてくる。あいつに決めさせても、また前へ出る」


ガレスは、ベルタを見くびっているわけじゃない。

抱えたままでも進むと知っている。

だから、決めさせない。


「次の依頼はもう入ってる」


「……どんな依頼だ」


ガレスは短く黙ってから答えた。


「南の街道沿いに出た灰鎧熊グレーアーマー・ベアだ。異常個体じゃないが、荷馬車が二度やられている。このまま放っておけば、死人が出る」


反射でベルタを見る。

眠ったままの横顔は、何も答えない。


灰鎧熊。

異常個体じゃなくても、前に立つ人間が要る依頼だ。

ベルタを外すなら、その穴を誰かが受ける。


「断れないのか」


「断れば困るやつがいる」


街道が止まれば、物が止まる。

後回しにして済む話じゃない。


「本来はベルタを出すつもりだった」


ガレスの声が、一段低くなる。


「だが、こうなった以上は俺とドランでやる」


そこで口が閉じた。

すぐには言い返せなかった。


もし俺があの一歩を出していなければ。

もし蝕毒が通ったと決めつけていなければ。

包帯の下でこんなふうに眠っているのは、俺だったかもしれない。


そこが喉に引っかかった。

“俺とドランでやる”の一言に、余計に自分の遅れが浮き上がる。


ガレスが踵を返す。


「話は終わりだ。お前を連れて出るつもりはない」


その背が扉へ向かう。

そこでようやく、喉が動いた。


「……待ってくれ」


ガレスの足が止まる。

振り向かないまま、返事だけが落ちた。


「何だ」


寝台へもう一度目をやる。

ベルタの右脇腹を覆う包帯が、息に合わせてわずかに上下している。


このまま二人で出れば、前に立つのはガレスだけだ。

もう一人は、真正面で受けるしかなくなる。


昨日と同じになる。

誰かが前で止めて、誰かが割を食う。


それだけは見えた。

正面を受ける人数が足りないまま、また同じ灰鎧熊の依頼へ行く。

形が足りない。


「前衛の穴は、俺が埋める」


ガレスがゆっくり振り向いた。


「……お前が?」


その声に熱はない。

冷たい事実だけを量る声だった。


「俺はお前の戦い方を知らん。知っているのは結果だけだ。ベルタは寝台にいて、お前は立っている。……それが今の位置だ」


冷たい拒絶だった。

だが、怒鳴られるより重い。


反論できない。

ベルタが倒れて、俺が立っていた。

その事実だけで切られると、ぐうの音も出ない。


それでも視線は外さなかった。


ここで逸らしたら、本当にそれで終わる気がした。

正しいかどうかじゃなく、外した瞬間に線から消される。


「正面で受ける気はない。ベルタみたいにはやれない」


言い切ってから、一度息を入れる。


「……でも、俺なら踏み込みを一度だけ狂わせられる。あんたたちの一撃が入る形は作れる」


ガレスの眉が、わずかに動いた。


そこは引っかかったんだろう。

完全に捨てられたままではなく、せめて中身は測られた。

それだけで十分だった。


「何をする」


「前脚の沈む位置をずらす。足元の土を払う。草でも石でもいい。止めるんじゃない。首がぶれる一瞬を作る」


蝕毒、と言いかけて止めた。

今それを出しても、こいつは術ごと切る。


「通さないと、昨日と同じだ。……二人で正面を受けるよりは、細工が一つあるほうがマシだろう」


言い切っても、ガレスの目は変わらなかった。

試す目ですらない。

最初から線の外へ置く目だった。


「話は終わりだ。お前を連れて出るつもりはない」


「……っ」


「来るな。お前の面倒まで見る気はない」


それだけ言うと、ガレスは踵を返した。

扉の前で一度だけ足を止める。


「それと」


振り向かないまま、低く言った。


「ベルタを理由に前へ出るな。お前が死ねば、あいつに余計なものを背負わせる」


その言葉だけ残して、ガレスは病室を出ていった。

扉が閉まり、室内に布の擦れる音だけが残る。


そこだけは、まっすぐ刺さった。

怒りでも拒絶でもなく、釘だった。

ベルタのためだと言いながら、自分の感情で前へ出るなと見抜かれている気がした。


俺は寝台の横まで歩み寄る。

乱れていた毛布の端を、包帯へ触れないよう腹の上へ掛け直す。

それから、毛布の外へ少しだけ出ていたベルタの手に触れた。


温かい。


まだここにいる。

その温度に触れるたび、やめさせるだの置いていくだの、勝手に決めるなと思う。


「……勝手に決めた。怒るだろうな」


ベルタのまぶたは閉じたままだ。

指先も動かない。


返ってこないから、余計に勝手な独り言になる。

それでも言っておかないと、自分の中で線が立たなかった。


「でも、学院に来てからのお前は、前より笑うことが増えてた。こんな形で終わらせるのは違う」


俺を庇って倒れた背中が、今も離れない。

あの時、前に立てなかった足の止まり方まで、まだ残っている。


学院に来てからのベルタは、前に出るだけじゃなかった。

人を動かして、笑って、班の中にいた。

それをここで切るのは違うとしか思えない。


「おまえの戻る場所は、どっちも残す。壊させない」


しばらくその手を見たあと、そっと離した。

その足で、俺はギルドへ向かった。


ガレスが連れて行かないなら、別の入口を探すしかない。

正面から弾かれたなら、次は情報を取りに行く。

それだけだった。



夕方の受付前は、まだ人が多かった。

依頼帰りの冒険者が泥のついた靴を鳴らし、酒場側では笑い声と木杯のぶつかる音が続いている。


こんな時でも、ギルドはいつも通り動いている。

誰かが寝台にいても、別の誰かの依頼は止まらない。

それが当たり前なのが、少し嫌だった。


受付台の奥で、顔なじみの女が帳面を整理していた。

俺に気づくと、手を止める。


「確認したい依頼がある」


「依頼名を」


「灰鎧熊討伐だ」


女の目が一度だけ細くなった。


警戒したんだろう。

依頼名だけで、軽く答えられる話じゃないと向こうも分かる。


「受理情報は、本来こちらから答えるものではありません」


「分かってる」


そこで言葉を切る。

受付台の縁へ指をかけたまま、もう一度言った。


頼み込みたくはない。

だが、今は格好をつける場面でもない。

欲しいのは理屈じゃなく確認だ。


「ベルタの名前がないなら、出発だけ確認したい」


女はすぐには答えなかった。

帳面の端を指で押さえたまま、俺の顔を見る。


断るか、測るか、その間だった。

無理を通そうとしている顔に見えているのは分かった。


「事情は聞きません。ですが、パーティの受理情報です」


「出発だけでいい」


それ以上は踏み込まない。

聞ける線はそこまでだ。

それでも、そこだけはどうしても知る必要があった。


少しの間のあと、女は息を吐いた。

帳面を開き、壁際の受理札へ目をやる。


「……今回だけです」


「……恩に着る」


助かったと思った。

情けなくても何でもいい。

今は一つでも情報が欲しかった。


細い指が札をなぞる。


「受理済み。出発は明日の明け方、南門集合」


並んだ名前を追う。


ガレス。

ドラン。


ベルタの名は、なかった。


そこは、少しだけ息が抜けた。

本当に外されている。

その事実を目で見るまで、どこかでまだ信じきれていなかった。


明け方。

南門。


受付台の縁へかけた指に、知らないうちに力が入りすぎていた。


場所も時間も分かった。

それで終わる気は最初からなかった。

南門まで行って、それからどうするかは、その場で決めるしかない。


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