22話 北沢沿い一帯を封鎖する
◆緊急招集
遭遇した夜、訓練棟の講堂に緊急招集の鐘が鳴った。
集まった生徒たちの前に、ガルド教官が立つ。
背後には、ギルドの腕章を巻いた男たちが並んでいた。
いつもの学院の講義じゃない。
外の人間が後ろに立った時点で、もう学院の中だけで済む話ではなくなっていた。
「北沢沿い一帯を封鎖する。討伐実習は停止。ギルドへ正式要請を上げる」
講堂にざわめきが走る。
当然だと思った。
あれを見て、実習の続きで済ませる気なら、それこそ狂っている。
「今日確認された個体は異常個体として扱う。許可が出るまで、北沢沿いには近づくな」
ガルドは間を置かずに続けた。
「四年前、西の伐採路では最初の報告を誤って、三日で八人死んだ。今回は同じ失敗を繰り返さん」
数字が重かった。
脅しじゃない。
報告を誤るだけで人が死ぬと、教官は実数で言っている。
後方で、ロイドは立ったままそれを聞いていた。
隣にはハンスがいる。
ベルタの位置だけが空いていた。
空席一つが、やけに大きく見えた。
人が一人いないだけじゃない。
そこにいるはずの声まで抜け落ちている感じがした。
解散の声がかかるより早く、ロイドは講堂を出ていた。
最後まで聞く意味がないわけじゃない。
それでも、今はベルタの無事を確かめる方が先だった。
◆医療棟の夜
医療棟の廊下は静かだった。
消毒液と煮た薬草の匂いだけが残っている。
静かすぎた。
怒鳴り声も、慌ただしい足音もない。
それがかえって怖かった。
ロイドは通りかかった補助教員を呼び止めた。
「ベルタは」
「命は取り留めました。まだ意識は戻っていませんが、治癒魔法の通りは悪くない。今夜を越えれば、峠は越えるでしょう」
命は取り留めた。
その言葉だけで膝の力が少し抜けた。
だが、峠はまだこれからだと続けられて、息は最後まで落ちなかった。
病室の前まで来たところで、足が止まる。
扉へ伸ばした手がそのまま止まり、ロイドは一度だけ息を吐いた。
開けた先で、動かないベルタを見るのが怖かった。
それでも入らないわけにはいかない。
ここまで来て立ち尽くす方が、もっと無様だった。
静かに扉を押す。
寝台の上のベルタは、眠るように静かだった。
右脇の下から脇腹へかけて包帯が巻かれている。
顔色は悪い。
それでも、胸はたしかに上下していた。
生きている。
それだけで、まず足が止まった。
包帯の白さより、胸の上下だけを先に見ていた。
ロイドは椅子を引き、寝台の脇に腰を下ろす。
包帯を避け、寝台の端へ出た手にそっと触れた。
温かい。
冷えていない。
その温度を指で確かめないと、まだ信じきれなかった。
「……死ぬなよ」
返事はない。
返事がないのは当たり前だ。
それでも声にしないと、何かが切れそうだった。
補助教員が何度か出入りしても、ロイドは椅子を離れなかった。
夜のあいだ何度もベルタの指先に触れ、温度を確かめた。
見張っているというより、確かめ続けているだけだった。
まだここにいる。まだ冷えていない。
その確認を、何度も繰り返すしかなかった。
◆翌朝
翌朝、ハンスは医療棟の廊下で足を止めた。
半開きの扉の先に、椅子に座ったまま眠るロイドがいる。
寝台ではベルタがまだ眠っていた。
ハンスは中へ入らず、扉脇の壁へ背を預ける。
やがて足音が近づく。
リーネだった。
「見舞いか」
「ええ」
リーネは中へ目を向けたが、入らない。
「……入らないのか」
「あとで行く」
「どこ行く」
リーネは答えない。
「昨日の場所か」
睫毛がわずかに動く。
「やめろ。今、一人で行く場所じゃねえ」
それでも、リーネは背を向けた。
「おい、待て。リーネ!」
ロイドは動かない。
動けない。
「……くそっ。勝手に行くなよ」
ハンスは壁を離れ、後を追った。
◆沢沿い
沢沿いの斜面は、昨日のまま荒れていた。
草は倒れ、土は抉れ、血だけが黒く沈んでいる。
リーネは斜面の上で全体を見てから、灰鎧熊が残した最初の足跡へ降りた。
深い。
広い。
だが、土の縁を払うと、その下の層は締まったままだった。
「……上だけ」
真正面から体重を乗せた沈み方ではない。
表面だけを荒らしている。
右斜め前へ移る。
折れた草は、根元からではなく膝の高さで裂けていた。
出現位置まで戻る。
一歩目、二歩目は正面へ来る。
だが三歩目だけ、左前脚の沈みが浅い。横の草も寝ていた。
受ける距離で、返している。
リーネは昨日の隊列を頭の中に置いた。
前にベルタ。
右にハンス。
中央にロイド。
自分は後ろ。
ハンスが弾かれた位置まで下りる。
盾の縁が削った跡。滑った踵。ずれた土。
その横を、熊の前脚が深く抉っていた。
「……ここで抜けてない」
熊の踏み込みは切れず、そのまま中央へ返っている。
背後で草が鳴る。
ハンスだった。
「だから来るなって言ったんだ」
リーネは振り返らない。
「……俺、ここでずらされた」
「ええ。押されたんじゃない。崩されたのよ」
リーネは小袋から紐を出し、三つの位置へ印を打った。
熊の最初の沈み。
ハンスが崩れた位置。
その先の、ロイドが立っていた場所。
紐はわずかに弧を描いた。
前衛を避け、継ぎ目を抜き、中央へ返る線だった。
「……ロイドの位置か」
「二度とも、ロイドへ返ってる」
「いや、返ったんじゃない。最初から、ロイドを崩すつもりで見てた」
「狙ってたってことか」
「断定はまだ無理。でも、偶然で二度は重ならない」
ハンスは短く息を吐いた。
「戻るぞ。これ以上いると、俺たちの跡まで混じる」
リーネは反論せず、沢沿いから足を離した。
あれは強いだけじゃない。
崩す相手を選んでいた。
◆標的
廊下の角で、リーネはロイドを呼び止めた。
ロイドは医療棟から戻ったばかりだった。顔色が悪い。
眠っていない顔だった。
寝ていないだけじゃなく、ずっと一つの場面に引っかかったまま歩いてきた顔に見えた。
「まだ断定じゃない。でも、あれは二度ともあなたの位置へ返っていた。ベルタは、その線に入った」
ロイドは返さない。
昨日の隊列を頭の中に置き直す。
自分は中央。
前で受けたのはベルタ。
横から盾を入れたのはハンス。
それでも、あの獣は二度とも自分の位置へ返ってきた。
言われて初めて整理される。
だが、思い返せば確かにそうだった。
ただの事故として片づけるには、線が重なりすぎている。
「……なぜだ」
「そこまでは分からない。だから次もそう来る前提で組んで」
「……分かった」
分からないままでも、前提だけは置ける。
今はそれで足りる。
理由を探すより先に、次の形を変えなきゃいけない。
リーネはそれ以上言わず、踵を返した。
足音が遠ざかってから、ロイドは壁へ背を預ける。
ベルタが前で受けた。
ハンスが盾を入れた。
それでも止まらなかった。
ただ強いだけじゃない。
あれは、こちらの形を見ていた。
そこまでは昨日の時点でも感じていた。
だが、“自分を狙っていた”と外から言葉にされると、急に別の重さで落ちてくる。
次も来る。
次も、あれは自分を狙ってくる。
壁に触れていた指先へ、力が入りすぎていた。
気づいた時には、指が痛いくらいだった。
それでも手を緩める気になれない。
緩めたら、そのまま崩れそうだった。
◆森の最奥
灰色熊は、森の奥の湿った土へ低く身を伏せていた。
右肩のこぶが、どくん、と脈打つ。
盛り上がった肉の下で、黒ずんだ筋が一本浮かぶ。
肩先から首の裏へ。
皮の下を、細いものが這うみたいに伸びていく。
どくん。
もう一度、右肩が脈を打つ。
筋は首の裏を渡り、反対の肩へ回り、胸へ落ち、前脚の付け根から肋に沿って腹へ走った。
熊の背がびくりと跳ねる。
灰白の毛が、首から背中、腰まで一斉に逆立った。
その時、左肩の毛が内側からむくりと持ち上がる。
どくん。
左肩の皮が下から押し上げられた。
骨の上で肉が膨らみ、肩口にひとつ盛り上がりが生まれる。
それで終わらない。
内側で脈が打つたび、こぶはもう一段せり上がった。
皮膚が張る。
毛の根元が押し広げられる。
左肩にも、右とよく似た赤いこぶが生まれた。
伏せていた頭が、ゆっくり持ち上がる。
どくん。
どくん。
脈のたび、黒紫の線が増えていく。
首の脇。胸板。脇腹。後ろ脚の付け根。
枝分かれしながら、皮の下を全身へ広がっていった。
右前脚が土を踏む。
泥が爪の下でぐしゃりと潰れた。
沈みかけていた肩が止まる。
右肩が持ち上がり、続いて左肩も吊り上がる。
首が太くなる。
背が低く沈む。
腰だけが不自然に持ち上がる。
肩から走った筋は、尾の付け根まで届いていた。
その瞬間、逆立っていた毛がざわりと寝る。
毛並みの下に残ったのは、黒紫の筋だった。
皮の裏で、別の獣が身じろぎしているみたいに見える。
左右の肩は異様に張り、首は太く沈み、腰だけが高く吊り上がる。
灰鎧熊の骨格は、その場でねじ曲がっていた。
もう熊のままには見えなかった。




