21話 ロイド! 立て!
実地討伐訓練の区域は、前回よりさらに奥だった。
一段、空気が悪い。
胸まである草が斜面を覆い、その下を沢が流れている。
浮いた木の根が土を割り、一歩踏み外せば足首を持っていかれる。
地形そのものが、まともに戦う場所じゃない。
足を取られた瞬間に終わる。
そういう嫌な確信が、入る前からあった。
班のメンバーは、いつもと同じだ。
俺、ベルタ、リーネ、ハンス。
林へ入る前、ガルド教官が短く釘を刺した。
「今日は深追いするな。標的を見つけたら、まず形を守れ」
ベルタが斧を肩に担いだまま、口の端を上げる。
「毎回それだな」
「毎回守らんやつがいるからだ」
「……誰だよ」
「心当たりが多そうな顔をするな」
ハンスが吹き出し、ベルタが肩で笑う。
軽口は出る。
だが、教官がそこを何度も言うのは、たぶんこの先で形を崩すなという警告なんだろう。
今日はただの討伐訓練じゃない。そういう嫌な感じが消えない。
だが、その空気も林へ入ってしばらく歩くうちに消えた。
笑いは途切れ、草を分ける音だけが湿った木立の中に残る。
物音はない。
ないはずなのに、何かが潜んでいるような気配だけが肌にまとわりついた。
静かすぎた。
何もいない静けさじゃない。
何かが息を潜めている時の静けさだと、身体の方が先に分かっていた。
先頭はベルタ。
その右にハンス。
俺が半歩後ろにつき、リーネがさらに後方から周囲を見る。
「左、根が浮いてる」
「深いか?」
「踏めば足首が持っていかれる」
「右へ寄るぞ」
四人の歩調が揃い、草を分ける音だけが続く。
その音さえ、奥へ進むほど吸い込まれていく気がした。
声はちゃんと通っている。
形もまだ崩れていない。
それでも、地面の下から何かに見られているような落ち着かなさが、ずっと抜けない。
沢沿いの斜面へ出たところで、ベルタが鋭く手を上げた。
「止まれ」
全員がその場で腰を落とす。
止める声が早い。
考える前に止まれたのは、ベルタが前にいるからだと思った。
湿った土の上に、巨大な足跡が刻まれていた。
灰鎧熊だ。
跡は深い。
幅も広い。
だが、爪痕だけ見れば普通の灰鎧熊とそこまで変わらない。
リーネが足跡の脇へ膝をつき、土の縁を指でなぞった。
「……跡そのものは普通よ」
「じゃあ何が違う」
ハンスが眉をひそめる。
リーネの指先が、右斜め前の草へ向く。
「そこだけ折れ方が違う」
草は根元から寝ていない。
中ほどで折れ、斜めに流れている。
「真っ直ぐ来たなら、こうは倒れない。横へ回った線が残ってる」
「断定できるか?」
「まだ無理。けど、正面だけ見ていい跡じゃない」
リーネは断言しすぎない。
でも、切るべき警戒だけははっきり切る。
そこは信用できると思った。
ベルタが沢と斜面と草むらを順に見た。
左は沢。
右は根の張った斜面。
正面は背丈を越える草。
「通常個体想定で組む」
誰も異論は出さなかった。
異常個体と決め打ちしない。
だが、正面だけを見ない。
今の時点では、それが一番まともな置き方だった。
「私が前。ハンスは右後方。ロイドは真ん中。リーネは後ろで地形を見ろ」
「了解」
ベルタが前へ出る。
ハンスが盾を斜めに構える。
リーネは退路と足場が見える位置まで下がり、俺は二人の間を割らせない位置で柄に手をかけた。
形としては悪くない。
正面も横も見られる。
問題は、それでも壊してくる相手だった時だ。
正面の草が鳴る。
右でも擦れる音がした。
直後、正面の草束が左右へ倒れ、茂みが割れた。
来る。
だが、草の割れ方からしてもう嫌だった。
重いものが真っ直ぐ来る音じゃない。
草の奥から現れたのは、灰鎧熊――ではなかった。
四つ脚のままでもベルタの胸ほどまで肩がある。
通常種より一回りどころじゃない。
立てば三メートルはある巨体だった。
毛は灰ではなく、濡れた岩みたいな黒だった。
そして左肩だけ、肉が内側から押し上がったみたいに赤く盛り上がっている。
傷でも腫れでもない。
どくん、と脈が一度見えた。
見間違いじゃない。
あれは生き物の肉の動きじゃなかった。
肩の中に、別の拍動が埋まっているみたいだった。
「……異常個体」
リーネの声が硬く落ちた。
鼻先が動くより先に、黄ばんだ目がこちらを捉える。
その目は、ベルタの斧でもハンスの盾でもない。
その奥にいる俺で止まった。
嫌な止まり方だった。
前衛を見ていない。
邪魔な壁の奥にいる、別の一点を最初から取っている。
「……見てる」
リーネの声がさらに低くなる。
「ロイド、左」
熊は正面へ来ない。
半歩だけ重心を置き直し、誰がどこへ入るかを見ていた。
通常種の動きじゃない。
ぶつかる前に、こっちの並びを見ている。
それだけで、胸の奥が冷えた。
逃げる。
そう頭をよぎった瞬間には、もう遅かった。
「来るぞ!」
ベルタが斧の重心を下げる。
ハンスが盾を固める。
熊が走った。
巨体のくせに、初動が見えない。
一歩ごとに地面が鳴るのに、間合いだけが一瞬で食われた。
二歩目までは真っ直ぐだった。
速すぎた。
大きいから遅い、なんて感覚は何の役にも立たない。
重さごと跳んでくる。
ベルタが踏み込み、斧を振り上げる。
ハンスも正面を受ける形へ入る。
だが、三歩目で熊の頭が沈んだ。
次の瞬間、巨体が横へ滑る。
正面に来るはずの線が消えた。
正面を見せて、そこを外した。
分かっていても、対応が半歩遅れる。
あれは受ける側の型を壊しにくる動きだ。
「正面じゃない!横へ来る!」
リーネの声が裂ける。
振り下ろしたベルタの斧は、熊の背の毛を浅く削っただけで抜けた。
熊の軌道は、ベルタとハンスの正面を外し、その内側へ切り込む線に変わっていた。
ベルタの刃は間に合っている。
それでも当たらない。
熊がそこを最初から捨てている。
熊の右前脚が、ハンスの盾の下端へ滑り込む。
接地面を掬われ、踏ん張っていた右足が根の手前で流れた。
――ガンッ!
乾いた衝撃音。
ハンスの肩が沢側へ開く。
ハンスが弱いんじゃない。
盾の下を掬う角度が嫌だった。
立て直す一瞬だけ、継ぎ目ができる。
ベルタの斧が届かない内側。
ハンスの盾が戻り切らない外側。
熊は、その細い継ぎ目へ巨体ごとねじ込んできた。
黄ばんだ目が、そこで定まった。
真っ直ぐに、俺へ。
最初からここだった。
正面を外したのも、ハンスを開かせたのも、全部この線へ入るためだ。
そう分かった時には、もう距離がない。
「ロイドっ!」
ベルタの叫び。
掌へ熱を集め、至近距離の顔面へ火弾を叩き込む。
火が弾け、毛が焦げる。
だが、熊は頭を振って衝撃を逃がしただけで止まらない。
火で止めるつもりはなかった。
視線をずらして、一瞬でも線を鈍らせる。
だが、それすら浅い。
リーネの土杭が斜めに二本、前へ突き出す。
熊は跳ばない。
前脚の置き場を半歩ずらし、杭の先を外してくる。
避けている。
たまたまじゃない。
嫌な障害物の消し方を、もう選んでいる。
剣を抜く。
間に合う距離じゃない。
なら、止める。
喉も脚も無理だ。
今刺して止まる場所だけを取る。
そう切り替えるしかなかった。
刃の縁へ蝕毒を噛ませ、熊の左肩口へ強引に押し込んだ。
黒い魔力が毛皮の下へ沈み、肩の筋がひきつる。
その奥で、赤いこぶがどくりと脈打った。
左肩が沈む。
左前脚の踏み込みが一瞬だけ鈍った。
効いた。
俺は一歩出た。
剣を返し、喉へ繋ぐ。いつもの形だ。
沈んだ肩が返る。
左前脚は死んでいなかった。
鈍っただけだ。
熊は崩れたふりのまま軸を返し、鼻先を俺の膝裏へ潜らせてきた。
崩れていなかった。
崩れたと見せた。
そして、俺の次の一歩を取る方へ切り替えてきた。
遅れた、と分かった時にはもう遅い。
剣は前へ出ている。
踏み込み足も残っている。
ハンスは盾を立て直す途中。
リーネは次の術に入っている。
この距離に届くのは、左前にいたベルタだけだった。
「ロイド、伏せろっ!」
ベルタが俺の肩を突き飛ばす。
崩れた体の横をすり抜けるように、ベルタは斧の柄を熊の鼻先へ叩き込んだ。
鼻先は外れた。
だが、右前脚は止まらない。
外したんじゃない。
止める場所がそこしかなかった。
斧で斬る距離じゃなく、柄でずらすしかない位置だった。
爪がベルタの右脇腹を薙ぎ、革鎧が裂け、鎖帷子が弾けた。
肉を抉る音のあと、右脇から背中へ血が走った。
地面へ叩きつけられたベルタが、草を押し潰して止まる。
「ベルタァァッ!」
名前しか出ない。
指示も順番も全部飛ぶ。
それだけで、自分がどれだけ動揺したか分かった。
だが、熊はまだ俺を見ていた。
一度狙いを定めた目だ。
ベルタを倒して終わりじゃない。
まだ、俺へ通す線の途中だ。
「ロイド!立て!」
ハンスの怒鳴り声。
膝が勝手に地面を蹴る。
ベルタを跨がせない位置へ、体が先に出た。
考えてじゃない。
そこを通されたら終わる、それだけで動いた。
熊が低く入る。
狙いはまた足だ。
剣を斜めに立て、爪の線を受け流す。
ガリィィッ!と金属が擦れ、火花が散る。
両腕が痺れ、踏ん張った足が土を深く削る。
重い。
受け切るんじゃない。
流しきらないと、そのまま持っていかれる。
「右から当てるっ!」
ハンスの盾が熊の右肩へ叩き込まれる。
鼻先が外へぶれる。
戻った。
立て直した。
ここでハンスが戻ってこなければ、たぶん俺だけじゃ止まらなかった。
「沢際の根!そこへ通して!」
リーネの声。
斜面から突き出した太い木の根。
その外は沢。
内は崩れた細い斜面。
通る線は一本しかない。
リーネはもう勝ち筋じゃなく、足場を崩す筋を見ている。
あの根しかない。
そう聞いた瞬間に分かった。
「ハンス、沢側を切れ!俺が正面押す!」
叫び返し、火弾を熊の顔の手前で弾けさせる。
殺す火じゃない。
視線を一瞬ずらす火だ。
ハンスが盾を返し、熊の右を潰す。
退きながら、鼻先を根の上へ誘う。
ハンスの動きは正面寄りだ。
でも今は、それがちょうどいい。
沢側を切る壁としては、一番強い。
リーネの土が、根の外側だけ盛り上がる。
逃げる先をさらに細くする。
余計な動きがない。
通したい場所だけを狭めていく。
こういう時のリーネはやっぱり速い。
熊が根へ乗る。
ミシッ、と乾いた音が鳴った。
左前脚がわずかに沈み、踏み込みが止まる。
今度こそ止まった。
偽りじゃない。
足場が、実際にあいつの重さを裏切った。
今度こそ逃がさない。
剣ではない。
掌へ火を集める。
さっき蝕毒を入れた左肩、その傷口へ直接叩きつけた。
「燃えろッ!」
火が毛皮を焼き、傷口へ噛み込む。
熊が初めて咆哮を上げた。
効いた。
今度はごまかしじゃない。
あの肩に二度入れれば、さすがに踏ん張りが死ぬ。
左肩の踏ん張りが利かない。
根に乗った足が返らない。
巨体が崩れ、そのまま斜面を横へ切って駆け抜けた。
茂みが大きく揺れ、音が遠ざかる。
……追えない。
追う形じゃない。
ベルタが倒れている。
ここで行けば、今度こそ何かが終わる。
膝から落ちた。
ベルタへ這い寄る。
右脇腹が深く裂けている。
傷へ手を当てた瞬間、熱い血が指の間から逃げた。
熱い。
多い。
押さえた先から抜けていく。
「ベルタ……ベルタッ!」
呼吸はある。
浅い。
短い。
ある。
それだけで、まだ終わっていない。
そう思わないと、手が止まりそうだった。
押さえる。
だが止まらない。
血で手が滑る。
押さえ直す。
また滑る。
押さえ方が浅いのか、位置が悪いのか、もう分からなくなる。
それでも離したら駄目だとだけ思った。
「おい、目を開けろ!ベルタ!」
手が滑る。
押さえ直しても、また滑る。
さっきの一歩だけが離れない。
肩が沈んだだけで、終わると思った。
俺が踏み込まなければ。
あそこで終わると思わなければ。
頭の中で、そればかりが反芻する。
「補助教員!治癒を!早く!」
声を張り上げる。
駆け寄った補助教員の治癒光が傷へ落ちる。
だが、光が血の色に沈み、すぐには閉じない。
閉じない。
それが一番嫌だった。
治癒光が入っているのに、すぐ塞がらない深さだと分かる。
遅れてガルド教官が走り込んでくる。
顔色が抜けていた。
「担架だ!急げ!」
ハンスは盾を構えたまま周囲を見ている。
肩が震えていた。
リーネは熊の消えた茂みを睨み、ワンドを握り潰しそうなほど力を込めていた。
ハンスはまだ切らせないつもりで立っている。
リーネは追いたいんだろう。
でも二人とも、今はここを離れない。それだけは分かった。
さっきまで斧を軽く回していた腕が、今は草の上へ投げ出されている。
指は開いたままだ。
そこだけが信じられなかった。
ついさっきまで前に立っていた手が、今は何も掴んでいない。
「死ぬな!」
口を突いて出たのは、それだけだった。
他に何も出なかった。
言葉を選ぶ余地なんてなかった。
担架が来る。
ベルタの体が持ち上がる。
その時、まぶたが震えた。
「……にい、さん……」
「喋るな、ベルタ」
「うる、さい……」
毒づくみたいにそれだけ言って、また意識が落ちた。
それでも少しだけ息が戻った。
声が出た。
まだ遠くへ行っていない。それだけで十分だった。
担架が斜面を下っていく。
もう姿は見えない。
草むらへ飛んだ血だけが残っていた。




