20話 沢で消えた血の跡
◆野営実習二回目
学院の裏門前には、荷袋と寝具を抱えた生徒たちが列を作っていた。
朝の空気はまだ冷たく、石畳には昨夜の湿り気がうっすら残っている。
天幕布、水袋、打ち込み杭。肩へ食い込む荷は重く、いつもの訓練場へ向かう時より足取りが明らかに鈍かった。
討伐や戦術の実習と違って、野営は始まる前から体力を削る。
立つ前の準備で消耗した班から、夜には崩れる。
教官たちはたぶん、そこも見ている。
俺たちが荷を整えていると、ガルド教官が名簿を片手に前へ出た。
紙の端が風に鳴る。
「班編成を一つ変える」
その視線が、まっすぐベルタへ向いた。
「ベルタ、お前は今日こっちじゃない。上級生班へ入れ」
ベルタの眉が露骨に跳ね上がる。
「……は?」
「前衛補助と班長補佐だ。外のパーティ運用を見てこい」
講義の時と同じで、教官の声に無駄はない。
補助、という言い方だが、見たいのはたぶんそこじゃない。
前に立つ力じゃなく、前に立つ人間が班をどう回しているか。
そこをベルタに持ち帰らせたいんだろう。
「自分が前へ立って終わるな。班の回し方ごと覚えて戻れ」
ベルタは舌打ちを飲み込み損ねたみたいな顔で、噛みつくように言った。
「なんで私だけ」
「前で立てる。声も通る。班の流れも見ている。候補にするならお前だ」
その言葉で、ベルタはようやく口を閉ざした。
怒鳴り返す代わりに、背負い袋の紐をぐいと引き直す。
飲み込んだんだと思った。
不満はある。だが、選ばれた理由が分からないわけじゃない。
そこを否定できない顔だった。
ガルド教官は、もう次の指示へ進んでいた。
「残りは予定通りだ。ロイド、お前が見ろ」
「見ろって……」
「見ろだ」
それだけだった。
雑な命令に聞こえるが、言いたいことは分かる。
ベルタが抜けた穴を、誰かが埋めないと班は回らない。
その役を、今は俺に置いたんだろう。
ベルタが、こちらを振り返る。
「兄さん、聞いたな」
「……聞いたよ」
「勝手に潰れるなよ」
「お前こそ、上級生相手に喧嘩売るなよ」
「売らない。向こうが売ってきたら、買うだけだ」
「それ、もう売ってるのと変わらないだろ」
そこで、ベルタの口元がほんの少しだけ緩んだ。
いつもの返しだった。
だから少し安心した。
完全に気を張り詰めた時のベルタは、こういう笑い方をしない。
「……戻ったら報告しろよ」
「そっちこそ、ちゃんと回しとけ」
そう言うなり、荷を担ぎ直す。
返事をする間もなく、ベルタの背中は上級生班の列へ消えていった。
見えなくなるまで、俺はその場を動けなかった。
集合を促す声で、ようやく足が前へ出る。
◆
野営地は、学院から半日ほど歩いた林の外れだった。
沢が近く、薪になる倒木も多い。地面もぬかるんでいない。
野営地としては悪くない。
場所そのものはいい。
問題は、その場所を使える形にできるかどうかだ。
「で、天幕はどこに張るの?」
ミアが重そうな荷を抱えたまま聞いてくる。
「沢から近すぎると湿るな」
ハンスが周囲を見渡す。
「風向きもあるだろ」
マルクが口を挟む。
リーネはもうしゃがみ込み、無言で地面の傾斜と木の根の位置を見ていた。
誰も間違ったことは言っていない。
だが、誰も決めない。
判断の材料は出るのに、最初の一本だけが立たない。
「……沢から二十歩離す。木の真下は避けろ。天幕はあっちだ」
俺が口に出すと、四人がまとめて動き出した。
動くこと自体に迷いはない。
決まれば皆ちゃんと動く。
だからこそ、最初の声がないと全部が鈍る。
だが、全部が一つずつ遅い。
ミアは薪を抱えすぎて落とし、マルクは鍋を寄せすぎて火床を潰しかける。
ハンスも杭を持ったまま、水汲み役が決まっていないことに気づいて止まった。
リーネは無言で、そのたびに荷の位置を直していた。
止まる理由は小さい。
でも、その小さい止まりが積み重なると、一気に重くなる。
ベルタがいる時は、その止まり目に先の声が入っていた。
「ミア、薪は半分でいい。往復しろ」
「マルク、鍋はそこじゃない。火床が潰れる」
「ハンス、杭は後だ。先に水袋」
声を飛ばすたび、みんな動く。
だが、一つ終わるたびに次で止まる。
追いかける形になる。
先回りして置くんじゃなく、起きた遅れを埋めにいっている。
それがずっと苦しかった。
ベルタがいる時は、その隙間に次の声が入っていた。
動いたあとに決めるんじゃない。
動く前に、次の置き場まで決まっていた。
そこまで見ていたんだと、抜けて初めて分かる。
あいつはうるさいんじゃなく、止まる前に埋めていた。
ようやく設営が終わる頃には、昼の光はだいぶ西へ傾いていた。
遅い。
形はできても、これでは外で暮れる。
教官に言われる前から分かっていた。
ガルド教官が見回りに来る。
「遅いな」
「……わかってます」
教官は天幕の間隔と火床の位置をひと通り見た。
「形は悪くない。だが、最初の動き出しが遅い」
その通りだった。
言い返す余地はない。
崩れたんじゃない。
崩れないまま遅れた。それが一番始末が悪い。
「最初の声が抜けると、その後の全部が一つずつ遅れる。覚えとけ」
それだけ言い残し、教官は別の班へ歩いていく。
叱責というより確認だった。
気づいたなら次で直せ、という程度の言い方だったのが、かえって重かった。
ミアがその場へ座り込んだ。
「ベルタさんが一人いないだけで、こんなに回らなくなるんだね」
皆もう分かっているんだろう。
ベルタは前で斧を振るだけじゃない。
止まりかけた流れを、前へ押し続けていた。
◆
日が落ちる前、各班の周辺確認が始まった。
火床、水場、獣道、退路。
野営地の周囲を把握し、夜の見張り順を決める。
「先頭はハンス」
俺が言うと、ハンスが槍を担ぎ直した。
「了解」
「俺がその後ろ。ミアとマルクは左右。リーネは後ろから全体を見てくれ」
「わかったわ」
リーネの返事は短いが、そこに迷いはない。
見る役として立つ時は、あいつはもうぶれない。
ベルタのいた位置に、ハンスが入る。
体格もあり、前へ出る強さも申し分ない。
だが、歩き出した瞬間に違いが出た。
ハンスは正面には強い。
その代わり、周囲へ首を振る回数が少ない。
何より、班へ声を飛ばすタイミングがベルタほど早くない。
前を守ることはできる。
でも、前を見ながら横と後ろを動かす声までは、まだ届かない。
そこがそのまま遅れになる。
獣道の曲がり角で、ミアが外へ開きすぎた。
「ミア、離れすぎだ」
俺の言葉に、彼女が慌てて戻る。
「ごめん」
「謝る前に位置を戻せ」
「はいはい」
止まってから戻す。
それで間に合う場面もある。
でも、本当に噛まれる時は、その間すら遅い。
そのやり取りのあと、ハンスが短く漏らした。
「ロイド、次からはもっと早く言ってくれ。俺が前を見てる間に、横が空く」
「……わかった」
言われなくても分かっていた。
でも、ハンスがそう言うなら、前の負担ももう見えている。
そこは救いだった。
ベルタなら、横が抜ける前に声が出ていたはずだ。
今は一つ起きてから、ようやく次に動く。
その繰り返しだった。
先に置く声と、起きた後に埋める声。
同じ指示でも、重さがまるで違う。
林の中で見つけたのは、牙猪の掘り返し跡と灰尾狐の足跡だけ。
危険な獣の気配は、今のところない。
大きな脅威がないのが救いだった。
それでも、戻る頃には全員の歩幅を揃えるだけでひどく消耗していた。
戦っていないのに削られる。
そういう疲れ方だった。
野営地へ戻ると、他の班はもう夕食の準備を始めていた。
あちこちから煙が立ち上り、鍋の湯が沸く音が聞こえてくる。
うちは火こそ起きていたが、調理の段取りでまた手が止まる。
「先に湯を沸かすのか、具を入れるのか……」
マルクが鍋を掲げたまま固まっている。
「湯よ」
リーネが即答した。
「豆は水から。干し肉はそのあと」
「塩は?」
「まだ早い」
鍋まわりだけは早い。
料理は、リーネの中で手順が最初から一本で通っているらしい。
ミアが薪をくべながら顔を上げる。
「ベルタさんがいなくても、鍋まわりだけは速いんだね」
「……料理の話でしょう」
リーネは鍋から目を離さなかった。
料理の話だと切っているが、それだけじゃないとも思った。
あいつは、見えている順番が決まっている時は迷わない。
鍋が煮え、夜の見張り順が決まった頃。
野営地の入口で、馬の嘶きが上がった。
全員の顔が一斉にそちらを向く。
上級生班が戻ってきたのだと、直感した。
空気が変わった。
ただ戻ってきただけじゃない。
足音と馬の鳴き方で、それが分かるくらいには張っていた。
暗闇の中から、人影がいくつも入り込んでくる。
先頭は上級生の班長。肩に大斧を担ぎ、外套の裾には泥がこびりついていた。
その後ろに――ベルタの姿があった。
服の右袖が、無残に裂けている。
血ではない。
獣の脂と黒い泥が、べったりと付着していた。
それを見た瞬間、頭より先に身体が動いた。
裂けたのが布だけで済んだのか、そこだけが一気に喉まで上がってきた。
止める間もなく、一歩足が前に出ていた。
「戻りました」
ベルタは俺に気づかず、真っ直ぐガルド教官の元へ向かった。
「結果は」
「灰鎧熊が一頭。肩に斧を入れましたが、仕留めきれませんでした。北の沢沿いまで追いましたが、林へ入られて見失いました」
野営地の雑音が、瞬時に凍りつく。
教官の目が鋭く細まる。
灰鎧熊。
しかも仕留め損ねた。
それだけで、今夜の野営地の意味まで変わる。
上級生の班長が、横から苦々しく補足する。
「前脚は生きていた。深い傷だが、まだ走る。沢に入られて、血も消された」
嫌な消え方だと思った。
沢で血を切られたなら、追跡は一段難しくなる。
教官は少しのあいだ沈黙したあと、短く命じた。
「明朝、足跡を追う。今夜は各班、見張りを二人ずつに増やせ」
「はいっ」
返事が重なる。
誰も軽く返さなかった。
今この場の全員が、もう普通の野営じゃないと分かっている。
そこでようやく、ベルタがこちらを向いた。
「……なんだよ、その顔は」
「袖、どうした」
「熊の脂だ」
「怪我は?」
「ない」
即答だった。
早すぎる返事だった。
嘘ではないにせよ、まず安心させるために切った声だと分かった。
それでも、すぐには息が抜けなかった。
ベルタは右腕を軽く動かして見せる。
動きに淀みはない。
それを見て、ようやく胸の奥の張りが少しだけ緩んだ。
確かめるように動かしたんだろう。
俺に見せるためでもあり、自分でもまだ使えると示すためでもある。
そういう動きに見えた。
「どこまで入れた」
「肩だ」
「浅かったのか」
「深くはないな。削った、って感じだ」
聞いた瞬間、腹の底がざらついた。
削った、で済んだのは結果だけだ。
半歩違えば、今ここでそんな声は出ていなかったかもしれない。
踏み込みが半歩ずれていたら、裂けたのは袖だけじゃ済まなかったはずだ。
「肩に入れたのは、お前か」
ベルタは鼻を鳴らした。
「私一人でやれるかよ。上級生が隙を作って、私が斧を叩き込み、班長が追い込んだ」
そこで少しだけ言葉を切る。
「……けど、落ちた先が悪かった。沢に入られて、血の跡が消されたんだ」
悔しさはある。
でも、自分だけの手柄にも失敗にもしていない。
上級生班の中で動いた結果として喋っている。その言い方が少し変わった気がした。
焚き火の光が、彼女の横顔を照らしていた。
悔しさは、声より先に顎へ出ている。
「班長補佐はどうだった」
ガルド教官の問いに、ベルタが答える。
「前の見方は勉強になりました。ですが、仕留めきれないなら意味がありません」
「そう思うなら、次で覚えろ」
教官の返事は、それだけだった。
慰めない。
でも切り捨てもしない。
次へ持っていけるなら、それでいいという返しだった。
◆
上級生班は、別の火床へ去っていった。
ベルタもついて行きかけたが、ふと足を止める。
「……班、止まらず回ったか?」
それだけを聞いてくる。
そこを聞くんだ、と思った。
熊より先に。怪我より先に。
自分が抜けた班がどうだったかを、まず確かめる。
ミア、マルク、ハンスの三人の視線が、一斉に俺へ刺さった。
「回った。……けど」
「けど?」
「お前の声がないと、最初の指示が遅れる」
口に出した瞬間、ベルタが目を見開く。
次いで、口元がわずかに動いた。
「へえ……」
少し驚いたんだろう。
たぶん、そこをそのまま返されるとは思っていなかった。
「なんだよ」
「褒めてるのか?」
「事実を言ってるだけだ」
ベルタは腕を組みかけたが、裂けた袖を見て止めた。
「……そうか」
それだけ言って、今度こそ上級生班の火床へ戻っていく。
背中はいつも通りだった。
だが、歩幅は少しだけ狭い。
無理はしていない。
それでも、今日の動きの重さは残っているんだろう。
袖の裂け目より、そっちの方が気になった。
今すぐ、あっちへ行きたい。
だが、今の俺が行けば邪魔になるだけだ。
わかっているのに、視線だけはその背中を追い続けていた。
◆
夜。見張りは二人一組の体制になった。
俺とリーネの番になる頃には、焚き火は赤々とした炭へ変わっていた。
遠くで夜鳥が鳴き、沢の音は昼より太く響いている。
静かだが、落ち着く静けさじゃない。
今夜は何も出ない方がいい、と全員が思っている時の静けさだった。
野営地の外れに立つ。
リーネは槍を杖みたいに地面へ立て、闇の向こうを見ていた。
見ている場所はずっと遠い。
火のそばじゃなく、その先の出てくる線だ。
こういう時のリーネはやっぱり頼りになる。
「今日の熊……見たかったか?」
俺が問いかけると、リーネは正面を向いたまま答えた。
「……傷の位置は、見たかったわね」
「そこか」
炭火の赤が、彼女の瞳の端に宿る。
「肩に傷が入ったなら、次に会う時、どちら側に重心が流れるかが変わるわ」
視線が沢の方向へ流れる。
「逃げた個体なら、なおさらね」
「明日、足跡を拾うんだよな」
「拾うでしょうね。でも――」
リーネは言葉を切ってから、重く続けた。
「逃げた個体は、次に会う時、今日とは違う動きをすることがあるわ」
冷たい夜風が、火床の灰をさらりと揺らした。
「……学ぶからか」
「痛みを知った個体は、そこを避けるようになる」
短い、だが芯の冷える答えだった。
ただ暴れるだけじゃない。
避ける。変える。覚える。
そういう相手を追うなら、昨日までの手順をそのまま出すわけにはいかない。
林の奥からは、何の音もしない。
それでも、さっきより近くに何かがいるような気がしてならない。
気配じゃない。
可能性そのものが近い。
そういう夜だった。
沢の音を聞きながら立っていると、上級生班の火床が一度だけ明るくなった。
誰かが薪を足したのだろう。
その光の端で、ベルタの影が動くのが見えた。
すぐに闇へ消えたのに、目だけがそっちに残ったまま動かなかった。
無事だと分かっても、それで終わらない。
むしろ、見えたから余計に目が離れなかった。
明日は先頭で入る。
灰鎧熊の足跡も、沢で消えた血の跡も、最初に拾うのは俺だ。
炭の奥で、ぱちりと火が鳴った。
その音だけが、妙にはっきり耳に残った。




