18話 班のフォーメーション 役割の名前
翌日の戦術講義は、朝の湿り気がまだ少し残っていた。
開け放たれた高窓から薄い風が入り、黒板の端に残っていた白墨の粉をかすかに揺らしている。
昨日までの祭りの空気はもう消えていた。
今日はまた、崩れ方を学び直す日の顔つきだった。
教卓の前へ立ったガルド教官は、座る間も与えずに黒板へ四つの言葉を書きつけた。
前衛
中衛
後衛
遊撃
「今日はこれを頭に叩き込め」
白墨が置かれる。
乾いた音がして、講堂がしんと静まった。
ここから先は、好きに動く話じゃないんだと思った。
役目を分けて、その分け方ごと覚えろ。そういう始まり方だった。
「強い奴から順に前へ出す。それで済むなら、戦術など要らん」
誰も口を開かない。
椅子の軋みすら止まる。
耳が痛い話だと思った。
辺境じゃ、立てるやつから前へ出た。
それで済まなかったから、俺は今ここにいる。
「前衛は受ける。中衛は支える。後衛は全体を見る。遊撃は空いた場所を埋める」
教官の指先が、書かれた順に動いた。
「役目が混ざった班から先に崩れると思え」
混ざるな、というより、混ざったまま気づかない班が死ぬんだろうと思った。
役目そのものより、崩れた時に誰が何をやるかが見えなくなる。
腕を組んだベルタが、そのまま口を開く。
「前へ出るのが一番強い奴じゃ、足りないのか?」
「足りん」
ガルド教官が「前衛」の文字を杖で叩く。
「前に立てるのと、前を持たせられるのは別だ」
その一言で、講堂の空気がまた少し締まる。
ベルタが聞きたかったのは、たぶんそこなんだろう。
強い前衛で足りるのか、それとも別の強さが要るのか。
教官は迷わず後者を切った。
「前衛は壁じゃない。後ろの連中が次の一歩を出せる基点だ」
教官の目がベルタへ向く。
「押されても残る。下がりながらでも声を飛ばせる。そういうやつを前に置け」
ベルタは黙って聞いていた。
否定しないのは、自分にも思い当たるところがあるからかもしれない。
ハンスが手を挙げた。
「中衛は?」
「前が押したら広げる。前が崩れたら埋める。攻守の両方へ回れる奴を置け」
続けて、「後衛」を叩く。
「後衛は見守る役じゃない。敵と味方の両方を見ろ。変化を先に拾って声を飛ばせ。そこが遅れたら、班ごと死ぬ」
リーネの視線が黒板へ上がる。
表情は動かない。
だが、その目だけは止まらなかった。
そこはたぶん、リーネが一番よく分かる場所なんだろうと思った。
見えていても、声が遅れたら間に合わない。
あいつはもう、それを知っている。
「最後に遊撃だ」
杖が「遊撃」を強く打つ。
「余り物の行き先じゃない。横へ回る。視線をずらす。隊列の継ぎ目を埋める。そこまでやって遊撃だ」
余ったやつを置く場所じゃない。
足りないところへ動かすための役だ。
言われてみれば、その方がずっと重かった。
ミアが恐る恐る手を挙げる。
「じゃあ……私って遊撃?」
「落ち着いて動けるようになるならな」
「教官、今の言い方ひどくない!?」
「動けるようになれば済む話だ」
講堂に、わずかに笑いが走る。
ミアは文句を言いながらも、気にしているんだろうと思った。
遊撃は派手に見えるが、慌てるやつには向かない。
そこを教官は容赦なく刺した。
俺は黒板の四つの役目を見ていた。
辺境では、前も横も後ろも一人で拾っていた。
分担じゃない。そうするしかなかっただけだ。
今こうして名前をつけられると、逆に分かる。
あれは器用だったんじゃない。
誰もいない穴を、全部一人で埋めていただけだ。
「ロイド」
「はい」
教官の視線がまっすぐ来る。
「お前は中衛寄りの遊撃だ」
「中衛寄り、ですか」
「一つに固定するとお前の良さが死ぬ。お前は受ける役じゃない。敵をずらす役だ」
腑に落ちた。
前に立つより、前をずらす方がしっくりくる。
俺がやってきたのも、たぶんそっちだ。
横で、ベルタが小さく呟く。
「私は、やっぱり前衛だな」
「そうだ」
教官はあっさりうなずいた。
「お前は前に立てる。その上で全体も見られる」
「お前がこの班の、前衛の頭だ」
ベルタは返事をしなかった。
ただ、「前衛」の文字を見たまま、腕を組み直した。
受け取ったんだと思った。
嬉しいとか重いとか、その前に、自分の置かれる位置として飲み込んだ顔だった。
「次は並びだ」
黒板へ丸が並ぶ。
「密。散るな。突進持ちや狭い場所で使う」
「中。基本形だ。前衛の後ろに中衛、さらに後ろに後衛。遊撃は外へ回れ」
「散。巻き込みを避けたい時だ。広がれ」
白墨の粉が、黒板の縁から細く落ちる。
「並びは名前じゃない」
教官が講堂を見渡す。
「崩れた時に、どこへ戻るかの約束だ。説明できない並びは、実戦で戻せん」
そこが一番大事なんだろうと思った。
並んでいる時の形じゃなく、崩れた後にどこへ戻るか。
約束がないと、戻る先そのものが消える。
杖の先が床を鳴らした。
「実技へ移る。わかった顔をしている奴から派手に崩れるぞ」
◆
訓練場には、白線でいくつもの区画が引かれていた。
乾いた土の上に走る白は、ただの線に見えて、立ってみると妙に目につく。
ただの目印じゃなかった。
ここを越えた、戻った、その半歩が全部見える線だった。
「班ごとに入れ」
俺たち六人が白線の内側へ入る。
ベルタが最前。
俺とハンスが半歩後ろ。
さらに後ろにリーネ。
ミアとマルクが左右へ開く。
並びとしては悪くないと思った。
少なくとも、誰がどこを見るかは見えやすい形だった。
教官がそれを見てうなずいた。
「悪くない」
「でしょ?」
ミアが胸を張る。
「まだ立っただけだ。行くぞ」
次の瞬間、木球が飛んだ。
右から低い軌道で這ってくる。
ミアの足が一瞬止まる。
木球はその横を抜け、後ろのリーネへ向かった。
遊撃が止まった。
その一瞬で、後ろへ線が通った。
俺が踏み込み、手甲で弾き飛ばす。
乾いた衝撃が腕に残る。
「今のだ」
ガルド教官の声が飛ぶ。
「遊撃が止まれば、後ろへ通る」
「見えてたんだけど……」
ミアが顔をしかめる。
「見えたなら、その足で切れ」
ベルタが鋭く刺した。
ミアは唇を尖らせたが、次は誰より早く横へ走った。
効いたんだろうと思った。
ミアはこういう時、素直に悔しがる。
だから次で変わる。
今度は左から高い球が来る。
マルクが外へ寄りすぎ、球を弾き損ねた。
流れた球が、ハンスの肩を叩く。
「痛っ!」
「悪い!」
「一人で取るな」
教官が言う。
「外した時に、誰が次を拾うかまで決めておけ」
マルクは自分で止めきるつもりだったんだろう。
でも、外した時の置き場がないなら、それはまだ班の動きじゃない。
位置を入れ替えながら、球が次々に飛ぶ。
寄る。開く。前へ出る。戻る。
白線の上で、誰かの足が一歩多いだけで、後ろへ抜ける角度が変わる。
立っているだけじゃ分からない。
動き出すと、線の意味が急に重くなる。
どこまで出て、どこへ戻るかが全部見えてしまう。
ベルタが前へ出る。
受ける瞬間の踏み込みが深い。
強い前衛の出方だった。
取れる時は取りたくなる。
でも今は、その先の戻りまで見られている。
「ベルタ」
思ったより早く、声が出た。
ベルタがちらりとこっちを見る。
「そこまで出るな。戻る時に前が空く」
「届くだろ」
「届く。けど、戻る一歩で前が薄くなる」
ベルタが一度止まり、足元の白線を見る。
それから前へ出した右足を半歩引いた。
飲み込んだんだと思った。
反発するより先に、自分の足の位置で確かめた顔だった。
「……細かいな」
「今のは見えた。止めた方がいいと思った」
言ってから、少し踏み込みすぎたかと思う。
だが、ベルタは鼻を鳴らしただけだった。
「なら、次も見えたら言え」
次の球が飛ぶ。
今度のベルタは、受ける瞬間だけ前へ出る。
弾いたあと、すぐ白線の内側へ戻った。
前が空かない。
そのぶん、俺もハンスも詰めやすい。
戻る位置が決まるだけで、後ろが動きやすくなる。
さっきまでより、前の輪郭がずっと安定して見えた。
ガルド教官が杖で白線を叩く。
「今のだ。前衛が出る。中衛が埋める。遊撃が外から支える。誰か一人が深く行きすぎれば、戻すために二人の手が要る」
ハンスが肩を回した。
「前が強いだけじゃ駄目ってのは、こういうことか」
「そうだ」
やっと形で分かったんだろうと思った。
ハンスは言葉だけより、体に入った方が納得する。
教官の目が、今度はベルタへ向く。
「出るなと言っているんじゃない。戻れる位置で止まれと言っている」
ベルタは答えない。
ただ、白線の上で足を置き直す。
前へ出る位置。
止まる位置。
戻る位置。
自分の中で測り直しているんだろうと思った。
足場に線があるうちに、感覚ごと刻んでいるように見えた。
次の木球。
ベルタが出る。
受ける。
半歩で戻る。
今度は前が空かなかった。
訓練が終わる頃には、さっきまでただ引かれていただけの白線が、戻る位置を示す線に変わっていた。




