17話 学院祭当日
学院祭当日の朝は、いつもの講義棟とは思えない騒がしさだった。
中庭には色布が渡され、屋台の列からは甘い匂いや香ばしい煙が立ちのぼっている。
石畳を走る足音も、呼び込みの声も、今日はどこか浮き立っていた。
祭りの空気だった。
学院の中にいるのに、いつもの授業や実習の続きには見えない。
それでも、浮ついた場ほど崩れやすいのも知っている。
普通科の焼き菓子。
薬学科の香油。
鍛冶科の小物細工。
どこを見ても人がいて、どこからでも声が飛ぶ。
客はもう品物だけを見ているわけじゃない。
匂いと声と人の流れ、その全部に引かれて歩いている。
だから、止まった屋台から先に埋もれる。
その一角に、俺たち冒険者課程の模擬店もあった。
木組みの屋台。
炭火の炉。
山のように積まれたホーンラビット。
仕込みを待つ香草と塩、甘辛だれの壺。
準備の時に見たはずのものが、客の流れの中に置かれると急に本物になる。
失敗したら、ここだけ目立つ。
そういう置かれ方だった。
看板には、ミアの字で大きくこう書いてある。
『ホーンラビット串焼き冒険者課程特製ダレ!』
隣に描かれた愛嬌のある角うさぎは、たぶんマルク作だ。
腹が立つくらい可愛く描けている。
あれで子どもは止まるんだろうと思った。
可愛い顔の横に、焼ける匂いがある。
祭りの屋台としては、たぶん正しい。
「兄さん、ぼさっとするな。肉運ぶぞ」
朝一番から、ベルタの声はよく通った。
もう前衛の声じゃなかった。
人を動かす位置の声だった。
「ぼさっとしてない。数を見てた」
「確認はあとだ。今は足りてる。まず動け」
「お前、本当に現場に立つと強いな」
「なんだよ、その褒め方」
ベルタは呆れたように笑いながら、木箱を片手で持ち上げた。
その横で、マルクが串を並べている。
ベルタはもう、考えるより先に優先順位を切っている。
今見るべきものと、あとでいいものを迷わない。
そういう強さだった。
「なんで俺が串打ちなんだよ……」
「お前が一番手先器用だからだろ」
ハンスが炭を運びながら言う。
「顔もいいし、売り子でもよかったんじゃないか」
「それはちょっとわかる」
ミアがにやにやしながら頷いた。
「でもマルク、喋るとすぐ熱くなるから接客向いてないんだよね」
「なんだよ!それ!!」
笑いが起きる。
こういう笑いがあるうちは大丈夫だと思った。
言い合っていても、まだ噛み合っている。
空気が切れる時は、もっと静かになる。
一方で、リーネは黙って下味の最終確認をしていた。
香草の刻み方。
塩の量。
たれの濃さ。
一度味見をしただけで、彼女は甘辛だれの鍋に指先ほどの香草を足した。
客の流れとは別のところで、この屋台を支えている。
見た目には地味だが、こういう小さな調整が最後に効くんだろうと思った。
「それ、変わるのか」
声をかけると、リーネは鍋を見たまま答えた。
「子どもが多いなら甘みを立てた方がいいけど、後味が重いと飽きるの」
「無駄に本格的だな」
ベルタが言う。
「無駄じゃないわ」
「うん、今のは無駄じゃない」
そう言うと、リーネは一度だけこちらを見た。
それ以上は何も言わなかったが、前みたいな刺々しさは薄い。
認められたかどうかを確かめたんだろうと思った。
言い返すより先に、ちゃんと伝わったかを見る顔だった。
ベルタが並んだ串を素早く見回す。
「塩は右、香草は真ん中、甘辛は左。辛味は奥に分けとけ。子どもが間違えると面倒だ」
「了解」
俺が返す横で、リーネが無言で札の位置を直した。
値段札の角度まで揃えている。
そこまでしなくてもいいだろうと思ったが、言わないでおいた。
「会計箱、確認したわ。釣り銭も問題ない」
「助かる」
「当然よ」
口調は冷たい。
だが返事は早かった。
「よし、炭いけるぞ」
ハンスが竈の前で腰を上げる。
炭火はもう安定していた。
赤く熾った火の上に網を置けば、じゅっと小さな音が立つ。
ハンスは派手じゃないが、こういう基礎を崩さない。
炭が安定しているだけで、焼き台全体の空気まで落ち着く。
ミアが店の前でうずうずしている。
「ねえ、もう呼んでいい?まだ?」
「まだ焼けてない」
「でも雰囲気は大事だよ!」
「焼けてない串屋に雰囲気で並ばせる気か」
ベルタが呆れたように言う。
けれど、完全には止めなかった。
「……一本目が焼けたら好きに叫べ」
「よしきた!」
最初からそのつもりだったらしい。
焼き台の串から肉の脂が落ち、爆ぜる。
塩、香草、焦げる甘辛だれの匂い。
その時、
カーン、カーン、カーン。
開店を告げる鐘が鳴った。
中庭の空気が一段大きくなる。
客が動き出し、子どもたちが走り、屋台の呼び声が幾重にも重なった。
始まった、と思った。
ここからは止まった方が負ける。
訓練とは違うが、形を切らさないという意味では似ていた。
最初の客は、近隣から来たらしい親子連れだった。
子どもが看板を見上げ、「うさぎ……」と少し悲しそうに眉を寄せている。
可愛い看板の弊害だなと思った。
食う前に情が出る年頃なんだろう。
「食う方のうさぎだ。可愛いだけじゃ腹はふくれないぞ」
ベルタが言った。
言い方はぶっきらぼうなのに、父親の方が思わず吹き出した。
「じゃあ、塩を二本」
「はいよ」
手際よく渡し、代金を受け取る。
その一連の動作は、驚くほど板についていた。
そこからは怒涛の勢いだった。
匂いに釣られて人が寄る。
ミアが声を張り上げる。
ハンスが列を整える。
マルクが串を補充し、リーネは寸分違わぬ手際で会計をこなす。
そして、焼き台の中心には常にベルタがいた。
自然にそうなっていた。
誰かが決めたわけじゃない。
でも、焼き台の前だけはベルタを軸に回っていた。
片手で串を返し、もう片方で塩を振る。
火が強くなれば炭を散らし、弱ければ足す。
客の流れを見て、どの味を先に焼くべきかまで、その場で決めていく。
焼いているだけじゃない。
列の動きと、客層と、次に切れる味を一緒に見ている。
だからあそこから目が離せなくなる。
「ベルタ、香草先か?」
「いや、甘辛を先に出す。子ども待たせると親が離れる」
「お前、商売も向いてるな」
「現場仕事ってのは、だいたい人の流れを見るもんだ」
そう言って笑うベルタの額には、炭火の熱で汗がにじんでいた。
商売というより、現場の延長なんだろうと思った。
人がどう詰まって、どこで離れるか。
それを読むのは、たしかに同じ技術かもしれない。
忙しいのに、子どもが覗き込めば少ししゃがんで見やすくしてやる。
怖がっている子がいれば、「角は取ってある、安心しろ」と白い歯を見せて笑う。
焦るミアには「慌てるな、声だけで押せ」と短く言い、
マルクが串を落としかければ「落としたらお前が食え」と笑い飛ばす。
全部を同じ声では扱わない。
相手ごとに言い方を変えている。
そこまで自然にできるのは、やっぱり慣れだけじゃないと思った。
「ロイド、釣り銭」
リーネの声で我に返った。
「あ、悪い」
「手元を見なさい」
「見てる」
「見ていない時の返事ね」
その通りで、何も言えなかった。
目で追っていたんだと、自分でもそこで気づいた。
手を動かしているつもりでも、意識は焼き台の方に引かれていたらしい。
「兄さん、手が止まってるぞ」
当のベルタが、こちらを見もせずに言う。
「止まってない」
「止まってた」
「見てる余裕あるのかよ」
「ある。お前よりな」
客前で余裕の顔をして、少し腹が立つ。
昼前、一番のピーク時。
小さな兄妹が会計台の前にやってきた。
二人とも銅貨を握りしめ、札を一生懸命に見上げている。
「えっと……どれがあまいの……?」
聞かれて、リーネが一瞬だけ止まった。
言葉は分かっているのに、答え方の方で止まったんだろうと思った。
何が正しいかではなく、どう届くかで少し遅れた。
「甘辛よ」
正確な答えだ。
だが、正確すぎる。
兄の方がぴたりと固まる。
「……からい?」
「甘辛は、甘みを加えた味つけよ。辛味はほとんどないわ」
「えっと……」
兄が妹をかばうみたいに半歩前へ出た。
説明としては足りている。
でも、子どもにはまだ遠い。
そういう止まり方だった。
横から口を挟む。
「甘辛は、しょっぱくなくて食べやすい。こっちが人気だ」
子どもの目がぱっと上がった。
「ほんと?」
「ほんとだ。辛いのは奥の札のやつだから、それじゃなければ平気」
「……そう。そういう説明でもよかったのね」
リーネが小さく言った。
本気で感心したような声だった。
「このくらいの年なら、その方が早い」
「覚えておくわ」
子どもたちは無事に甘辛を二本買い、ほっとした顔で去っていった。
その背を見送りながら、リーネは帳面へ売上を書きつける。
その手はやっぱり速い。
切り替えが早い。
引きずらないで次へ戻れるなら、ちゃんと覚えるんだろうと思った。
そこへ、呼び込みを終えたミアが戻ってきた。
「すごいよ、列できてる!あと焼き台の前、ずっと人止まってる!」
「呼び込みのおかげだろ」
「それもある!」
胸を張るミアの後ろで、ベルタが串を返す。
火の前に立つ彼女の姿は、たしかによく目立った。
目立つだけじゃなく、人を止める形になっていた。
火と匂いとベルタの動きが、屋台の中心になっている。
「危ない!」
ミアの声。
屋台の前で、小さな子どもが転びかけた。
だが列が詰まっていて、誰も間に合わない。
その瞬間、ベルタが焼き台の横からひょいと身を乗り出し、子どもの襟首を軽く持ち上げた。
子どもは目をぱちぱちさせたまま、次の瞬間には何事もなかったように地面へ立たされていた。
体が先に動いたんだろう。
考えてやる動きじゃなかった。
ああいうところに、前に立つ人間の癖がそのまま出る。
「走るな。肉は逃げない」
ベルタが真顔で言う。
周囲から笑いが起きた。
子どもも、つられて照れくさそうに笑った。
叱っているのに、場を固くしない。
あれもたぶん、計算じゃなく自然に出たんだろうと思った。
「……すごいな」
思わず呟くと、隣で会計をしていたリーネがぽつりと言う。
「見ればわかるでしょう。力だけで回しているわけじゃないもの」
同じものを見ていたんだろうと思った。
焼き台の前で串を返しているだけじゃないことを、リーネもちゃんと拾っていた。
ハンスが木箱を覗き込む。
「おい、思ったより早いぞ」
「追加焼きだな」
「兄さん、肉持ってこい」
「お前が命令する側かよ」
「焼き台から動けないんだよ」
肉を運びながら焼き台の方を見る。
ベルタはまた子どもに目線を合わせていた。
その様子に一瞬見入ってしまい、足がわずかに止まりかける。
また見ていた。
止まるたびに、もう誤魔化しきれていない気がした。
「兄さん、水」
ベルタが水筒を寄越してくる。
「飲め」
「まだ平気だ」
「顔が平気じゃない。飲め」
そう言い捨ててから、ベルタは次の客へ向き直った。
こっちの様子まで見ている。
焼き台から動けないのに、それでも拾ってくる。
そういうところが厄介だった。
日が傾くころには、追加分までしっかり捌けていた。
「ラスト!ラスト十本ー!」
ミアが最後のひと振りを叫ぶ。
ハンスが炭を押さえ、マルクが串を整え、リーネが会計台の小銭を数え直す。
ベルタは焼き台の前で、最後の火加減をじっと見ていた。
炭火の赤が、彼女の頬を照らす。
煤で少し汚れた横顔。
それでも、ベルタは笑っていた。
終わりが見えて気が抜けた笑いじゃない。
最後まで通しきれると分かっている顔だった。
「ロイド、最後の会計」
「あ、ああ」
リーネの声に我に返り、慌てて釣り銭を渡す。
最後までこれだ、と思った。
名前を呼ばれないと戻れないくらいには、ずっとベルタの方を見ていたらしい。
最後の客を見送った直後。
「完売ー!」
ミアが両手を突き上げた。
ハンスが笑い、マルクが机に突っ伏し、ベルタが大きく息を吐いた。
屋台は最後まで止まらなかった。
誰か一人じゃなく、全員が持ち場を切らさなかったからだと思った。
今日はちゃんと、一つの形で通せた。
「やったな」
「やったな、じゃない。お前らがちゃんと動いたからだろ」
ベルタはそう言って笑った。
自分の手柄だけにしない。
だから、また次もこの形で動けるんだろうと思った。
片づけに入るころには、祭りの喧騒もだいぶ落ち着いていた。
炭の火が消され、串の残りが数えられ、売上の袋が机の上へ置かれる。
「……赤字はないわ。むしろ、想定よりかなり上よ」
「さすが会計」
「当然でしょう」
そう言ってから、リーネは視線を少しずらした。
「……香草も、定番にして正解だったわね」
「そうだな」
「味見の判断も、今回は妥当だったわ」
ベルタが肩を揺らす。
「また言ったな」
「ちゃかすな」
あれはもう、リーネなりの褒め方なんだろう。
不器用だが、ちゃんと班の中へ言葉を返している。
片づけの帰り道、ベルタが隣に並ぶ。
「今日は助かった」
「こっちこそ」
「いや、会計も仕切りも、ちゃんと回してただろ」
「お前が前で回してたからだよ」
ベルタは目を少し丸くして、それから肩をすくめた。
ああいう返しにはまだ慣れていないんだろうと思った。
受け取る前に、少しだけ間ができる。
「……そういうの、さらっと言うなって前にも言わなかったか?」
「……気をつける」
「気をつける気ないだろ」
笑いながら言うベルタの横顔を見つめた。
祭りのあいだ、何度も名前を呼ばれた。
そのたびに、考える前に足が動いていた。
目で追う理由を、もう誤魔化せなかった。




