14話 隣は空けとけない
◆学院祭準備
学院祭の準備が本格的に動き出してから、講義が終わったあとも残って段取りを詰める日が増えた。
その夜も、炭の手配と香草の仕入れ量をようやく決め終えたころには、講堂に残っていたのは俺とベルタだけだった。
夜の講堂は広い。
窓の外はもう暗く、魔法灯の白い明かりだけが黒板を平たく照らしている。
書き残された役割分担の文字が、やけにくっきり浮かんでいた。
狩り班。
解体班。
仕込み班。
焼き班。
呼び込み。
会計。
決まったはずなのに、まだ終わっていない感じがあった。
「焼き班、多めに取ったほうがいいな」
俺が言うと、ベルタは黒板の前に立ったままうなずいた。
「祭り当日は回転勝負になる。そこで詰まると全部止まる」
見ているのは串じゃなく、流れそのものなんだろうと思った。
焼けるかどうかより、詰まった時にどこまで連鎖するかを先に見ている。
「仕込みも、前日に終わらせられる分は終わらせたい」
「当日、包丁を持つ人数は減らしたいな」
黒板を見たまま、ベルタが小さく息を吐いた。
「……こういうのも悪くない」
本音なんだと思った。
嫌がっていたわりに、形を作っていくのは嫌いじゃないらしい。
「意外だな」
言うと、ベルタが半身だけこちらへ向ける。
「何がだよ」
「もっと前に出て、ぶった斬る方が性に合ってるのかと思ってた」
ベルタは鼻を鳴らした。
黒板の「焼き班」の文字を指先で軽く叩く。
「そりゃ斧振るのは好きさ。でも、それだけじゃ駄目だろ」
乾いた音が、静かな講堂に小さく響く。
その言い方に迷いはなかった。
斧を振ることを否定しているんじゃない。
その先に足りないものまで、もう見えている声だった。
「誰をどこへ置くか。どこで詰まるか。そこが見えてないと、強いやつが何人いても崩れる」
「お前、やっぱりリーダー向きだな」
軽口のつもりだった。
だが、返ってきた声は思ったより低かった。
「向いてるかどうかじゃない。なるんだよ」
そこで、こっちも口を閉じる。
冗談で返されると思っていた。
でも違った。あれはもう、性格の話じゃなくて、選ぶ場所の話なんだろうと思った。
ベルタはもう黒板を見ていなかった。
その先を見ている顔だった。
祭りの段取りじゃなく、そのもっと先だ。
誰が残って、誰が決める側に立つか、そういうところまで伸びた視線に見えた。
「強い前衛なら他にもいる。無茶が利くやつも、そのうち出てくる」
指先が、黒板の端をなぞる。
自分が特別だと言いたいわけじゃないんだと思った。
むしろ逆で、自分の代わりが出ることそのものは、もう前提に入れている言い方だった。
「でも、前が足りない時に誰を出すかとか、誰を下げるかとか……そういうのを決める側は、そう簡単には代わらない」
そこでベルタが少しだけ眉を寄せた。
言いながら、自分でも形にしているみたいだった。
「私は、たぶんそっちになりたい」
講堂の中には、外の風が窓を鳴らす音しかなかった。
その言い方は静かだった。
でも、迷っている人間の声じゃなかった。
「ガレスを越えたいのか」
そう聞くと、ベルタは少しだけ眉を寄せた。
「越える、って言い方は好きじゃない」
そこで言葉が一度止まる。
少し考えるみたいに、視線が落ちた。
「……いや、違わないか。基準にはしてる」
「認めてるんだな」
「強いし、判断も早い。ガレスは本物だよ。そこは疑ってない」
そこまでは、迷いのない声だった。
恩義や遠慮じゃなく、実力として認めている。
「でも、あのやり方のままじゃ届かない場所がある」
「無理をさせるからか」
「違う」
ベルタは短く首を振った。
チョークを一本取り上げ、指の中で転がす。
そこは単純な善悪ではないらしかった。
「あの人は見えてる。肩も、脚も、息の上がり方も」
そこでようやく、目だけがこちらへ向いた。
「でも、一枚下げたら前が足りなくなる」
「……後ろまで食うか」
「ああ」
即答だった。
そこはずっと見てきたんだろうと思った。
前を守るために前を削って、そのしわ寄せが後ろまで届く。
そういう壊れ方を何度も見た声だった。
「だから、立てるやつを前に出す。私もその一枚だ」
ベルタの指先が、チョークを少し強く握る。
そこに甘さはない。でも、それを誇っている言い方でもなかった。
「けど、それで前から削れていくやつがいる。壊れるやつがいる」
今度は、こっちを見ない。
「今は私が前に出ないと回らない。でも、他のやつに私の代わりはさせたくない」
辺境では、立てるやつから前へ出た。
そうするしかない場面はいくらでもあった。
けれど、ベルタが見ているのはその先だった。
前に出ることが嫌なんじゃない。
前に出るしかない形そのものを、いつか変えたいんだろうと思った。
「お前、思ってたよりずっと先を見てるな」
そう言うと、ベルタが顔をしかめた。
「思ってたより、って何だよ」
「斧振って笑ってるだけのやつかと思ってた」
「失礼だな」
口ではそう返しながらも、ベルタの口元は少しだけゆるんだ。
怒ってはいない。
むしろ、そう見られていたことを分かった上で、少し面白がっているようにも見えた。
「でもまあ、そう見えるなら、まだ足りないんだろうな」
「何が?」
「隣のやつが、前だけ見て出られるくらいには」
その言い方に、こっちの返事が少し遅れた。
前に立つ側で、そこを先に言うやつは知らなかった。
自分が強くなる話じゃなく、隣を安心して前へ出させる話になっているのが、少し意外だった。
返事が少し遅れた。
「なんだよ。黙るな」
「いや」
首を振る。
「……一人で回す気なら、そのうち手が足りなくなる」
言ってから、少し間を置く。
言いながら、自分にも返ってくる言葉だと思った。
全部を自分で見ようとしたら、どこかで必ず遅れる。
「そういうところを埋める手は、空けとけ」
ベルタが目を瞬かせる。
「は?」
「一人で回す気でいるなら、手が足りなくなるってことだ」
そこでベルタは視線を逸らし、握っていたチョークを持ち直した。
講堂の隅で、魔法灯が小さく明滅する。
白い光が、ベルタの横顔を一瞬だけ浅く照らした。
言われ慣れていないんだろうと思った。
前に立つ側が、支える手を残せと言われることは、案外少ないのかもしれない。
「……急にそういうこと言うな」
ぶっきらぼうに返しながら、ベルタは黒板へ向き直る。
カツン、とチョークが当たる乾いた音が、誰もいない講堂に必要以上にはっきり響いた。
誤魔化したんだと思った。
真正面から受けるには、少し近すぎる話だったのかもしれない。
「ほら、兄さん。力になるなら人数計算ちゃんとやれ」
「急に現実へ戻すな」
「祭り前だぞ。夢ばっか見てられるか」
そう言ってベルタは笑った。
軽くて、いつもの調子みたいで、それでも少しだけ違う笑い方だった。
黒板を指で叩く乾いた音だけが、やけに耳に残った。
気づけば、まだベルタの横顔を見ていた。
何を見ていたのか、自分でもうまく言えなかった。
ただ、さっきまでの言葉がまだそこに残っている気がした。




