11話 今の方があんた信用できる
◆夜番
火が落ち着き、薪の爆ぜる音もまばらになったころ、見張りの番が回ってきた。
焚火の熱はまだ残っている。
だが、背中側の森はもう冷えていて、湿った夜気が布の隙間へじわじわ入り込んでくる。
眠れる温度じゃない。
火の届く範囲だけがかろうじて人の場所で、その外はもう森の側だった。
ハンスは横になっていた。
ベルタも斧を手の届く場所へ置いたまま、毛布にくるまって目を閉じている。
起きているのは、俺とリーネだけだった。
ハンスは本当に寝ているらしい。
ベルタは眠っていても、何かあればすぐ起きる位置だけは外していない。
リーネは火のそばには寄らず、少し離れた木の幹へ背を預けている。
視線は焚火じゃない。森の奥だ。
火で安心するより、火の外を見ていたいんだろうと思った。
あいつはああいう時、自分が輪の中にいることより、外がどう動くかを先に取る。
薪を一本、火へくべる。
赤く沈みかけていた芯が息を吹き返し、炎が少しだけ明るさを戻した。
その時、風向きが変わった。
草と土の匂いに混じって、甘ったるい獣臭が流れてくる。
血でも腐肉でもない。
火と脂の匂いを覚えて、野営地の縁を嗅ぎに来る小型獣の臭いだ。
目を細める。
火の向こう、木の根元。
低い位置で、小さな反射がひとつ走った。
いる。
煤牙鼬だ。
一匹なら大きな脅威じゃない。
だが、あれは鳴く。
群れを呼ぶ。
牙には痺れもある。
放っておく相手じゃない。
脅威そのものは小さくても、呼ばれて増える方が面倒だった。
起こすほどじゃない。
騒いで全員を起こすより、黙って消した方が早い。
焚火の脇の鍋を見る。
底にこびりついた脂を短剣の背でそぎ、近くの細枝へ擦りつけた。
餌の匂いに寄せる方が確実だった。
追うより寄せた方が、鳴かせずに済む。
「何かいるの」
声がした。
振り向くと、リーネがこちらを見ていた。
いつの間にか木から背を離している。
気づかれていた。
見ていないようで、やっぱり見ている。
「ああ」
「起こさないのね」
「一匹だ」
それだけ返して、脂を塗った枝を焚火の外へ放った。
匂いに引かれ、煤牙鼬が根の陰へ滑り込む。
リーネも、一匹なら起こすほどではないと分かったんだろうと思った。
それ以上は聞いてこなかった。
俺も火の明かりの外へ出る。
正面には立たない。
正面から行けば、鳴く。
ああいう小型は、逃げ場を見失った時ほど声を上げる。
鼬が枝へ食いついた瞬間、砂を払って顔を上げさせ、喉へ短剣を入れた。
まず鳴き声だ。
生かすか殺すかより先に、声だけは潰さないといけない。
鳴き声だけを潰して、すぐ抜く。
鼬は根の間へ逃げようとした。
そこへ弱い風術を地面へ流し、足を滑らせる。
後ろ脚を切り、首を根へ押しつけて止めを刺した。
鳴かせず、走らせず、最後に止める。
順番だけは間違えないようにした。
三度目の跳ね返りは来なかった。
息が止まるのを見て、ようやく手を離した。
これで終わりだと分かった。
夜番で一番厄介なのは、死んだかどうか分からないまま手を離すことだった。
焚火の方を見る。
リーネはまだ立っていた。
ただ、じっとこちらを見ている。
見張っていたというより、手順を見ていたように思えた。
「終わった」
戻りながら言う。
リーネの視線が、俺の手元と袖を順に追った。
袖口に、煤牙鼬の黒っぽい血が少しついている。
どこを切ったかまで見ているんだろうと思った。
少なくとも、ただ鼬が死んだという見方じゃない。
「……そういう技で生き延びてきたのね」
焚火の前へ戻り、薪をひとつ足した。
火が小さく鳴る。
「ああいうのは追い払っても戻る」
「さっきの風も、そのため?」
「逃げ道を少し曲げただけだ」
リーネがゆっくりこちらを見る。
「魔法を使ったのに、そうは見えなかったわ」
「大きく使う必要がない」
火の向こうで、リーネが少しだけ目を細めた。
見えなかった、じゃなく、そうは見えなかった。
そこに引っかかっているんだろうと思った。
術として認識しにくい使い方だったからだ。
「……その腕で、まだD級なの?」
「ソロだと受けられない依頼がある」
「例えば?」
「護衛と、正式パーティ前提の案件だ。長い依頼も、だいたいそこで弾かれる」
リーネは少し黙った。
「……そう。強いだけじゃ上には行けないのね」
「そういうことだ」
火の向こうで、リーネが息を吐く。
納得したのか、呆れたのか、そこまでは分からない。
ただ、知らなかったことを覚えた顔には見えた。
「……嫌なやり方」
「そうかもな」
「でも、たぶん必要」
それだけ言って、ようやく座り直した。
否定しきれないんだろうと思った。
綺麗じゃないが、夜を越えるには必要な手だと。
班で噛み合わせる腕じゃない。
ひとりで夜を越えるための手だ。
そういうものばかり、先に覚えてきた。
その後は、森の奥で獣の鳴く声がしても、こちらへ寄ってくるものはなかった。
鳴き声を潰して終わりではなく、寄ってきそうな匂いごと切れたんだろうと思った。
少なくとも、この夜はそれで足りた。
明け方、空が薄く白み始めたころ、ベルタが目を覚ました。
毛布から上体を起こし、焚火の外れへ視線をやる。
「……なんだあれ」
その先には、根の間へ首を挟まれた煤牙鼬が転がっていた。
見つけるのが早い。
起き抜けでも、まず周囲を見る癖があるらしかった。
ハンスも半身を起こし、目をしばたたく。
「いつの間に……」
ベルタはすぐに俺を見た。
「兄さんがやったのか」
「ああ。夜に寄ってきた」
ベルタは煤牙鼬と俺を見比べて、それから小さく鼻を鳴らした。
呆れたのか、納得したのか、そのどちらも入っていそうだった。
少なくとも、驚きだけの顔ではなかった。
「先に鳴き声を潰したのか」
「ああ。次に逃げ脚だ」
ベルタの眉がわずかに動く。
順番が分かったんだろうと思った。
「……嫌な順番だな」
焚火の向こうで、リーネが小さく言う。
「無駄がなかったわ」
ベルタがそちらを見る。
「見てたのか」
「見えてしまったの」
その朝は、それ以上誰も何も言わなかった。
言うことはもう済んだんだろうと思った。
余計な感想を足す空気ではなかった。
ガルド教官が各班を見て回る。
俺たちの野営地をひと目見て、短く言った。
「悪くない。場所選びは誰だ」
ベルタが手を挙げる。
「私です」
「そうか」
それだけだった。
だが、ベルタはわずかに顎を上げた。
教官は次に、焚火の跡、荷の置き方、見張り順の記録を見る。
「役割分担もできてるな。声かけも昨日よりましだ」
ハンスが小さく笑った。
「一人、うるさいのがいるんで」
「聞こえてるぞ」
俺が返すと、ベルタが横で笑う。
その笑いは、実習初日に聞いたものよりずっと自然だった。
もう、気を張るための笑いじゃなかった。
班の中で笑っている時の声だった。
野営の授業が終わり、学院へ戻る道すがら、ベルタが荷を背負い直しながら言った。
「兄さん」
「なんだ」
「昨日の実習の時より、今の方があんた信用できる」
「それは光栄だな」
「……そういうところがずるいんだよ」
「何がだ」
「わかってて聞いてるだろ」
そう言って前を向く。
返事のあと、歩幅が少しだけ早くなる。
照れたのか、誤魔化したいのか、そのどちらかだろうと思った。
でも、言葉の方は本音だった気がした。




