10話 輪の外、火の内側
◆野営
その週の後半から、野営の授業が始まった。
講義棟より、ずっと現場に近い。
水場の取り方。風向きの読み方。地面の癖。焚火の隠し方。夜番の回し方。
教官は何度も同じことを繰り返した。
野営地の選び方ひとつで、生きて朝を迎えられるかが変わる、と。
戦う前の技術というより、戦う前から死なないための技術だった。
剣を振る話より、こういう話の方が現場では長く残るのかもしれないと思った。
実習は、学院の裏手に広がる演習林で一泊する形だった。
朝の林はまだ冷えていて、湿った土の匂いが濃い。
荷を背負った学生たちの靴が落ち葉を踏むたび、細かい音が森の奥へ吸われていく。
林の入口で、野営担当の教官が腕を組んだ。
「今日見るのは快適さじゃない」
低い声が、朝の林へ落ちる。
「夜を越えられるかどうかだ。眠れなくてもいい。冷えてもいい。だが襲われるな。火を絶やすな。仲間を見失うな」
条件は厳しいが、言っていることは単純だった。
眠れなくても死ななければいい。逆に言えば、その線だけは絶対に外すなということだ。
班ごとに森へ入る。
今回の班は、俺、ベルタ、ハンス、リーネの四人だった。
この四人なら極端に崩れはしないと思った。
ただ、噛み合うかどうかは別だった。
林の中をしばらく歩き、各班ごとに野営地を決めることになった。
ハンスが少し開けた場所で足を止める。
「この辺でどうだ。少し広い」
広さで決めたらしい。
盾役らしい見方だと思った。立てるかどうかを先に見る。
「駄目だな」
ベルタが間を置かずに言った。
「風が抜けすぎる。夜は冷えるし、火も流れる。それに地面が柔らかい。朝には荷が湿る」
しゃがみ込み、土を指でつまむ。
表土を払った指先は迷わない。
それから少し先の木立を顎で示した。
「あっちだ。風を背で受けられるし、根が張ってて地面も締まってる。水場にも近いけど、近すぎない」
ハンスが感心したように目を丸くする。
「詳しいな」
「何度も外で寝てりゃ覚える」
それだけ言って、ベルタはもう歩き出していた。
覚えたというより、身についたんだろうと思った。
考えて選ぶ前に、もう体が良し悪しを分けている感じだった。
俺たちも後を追う。
リーネは何も言わなかったが、足は止めない。
異論はないらしかった。
ベルタが選んだ場所は、確かによかった。
大木の根が張っていて地面は乾いている。
背後は少し高く、正面の見通しも悪くない。
「慣れてるな」
声をかけると、ベルタは荷を下ろしながら鼻を鳴らした。
「前にも言ったろ。現場じゃ、こういうので死ぬんだよ」
「その割に座学は寝てる」
「知ってる話を長々聞いてると眠くなるんだ」
「堂々と言うな」
返すと、ベルタが少しだけ笑う。
作業は自然に分かれた。
ハンスが薪を集める。
ベルタが周囲を見る。
俺は焚火と荷の置き場を整える。
リーネは水場を確かめ、食べられる草を選り分けていた。
誰が仕切ったわけでもないのに役が割れた。
この四人でいる時は、こういう自然な分かれ方がいちばんいいのかもしれない。
「その草は火を通せば使えるわ。こっちは駄目。似てるけれど、汁に軽い毒がある」
言いながら、リーネは迷いなく草を分けていく。
説明が終わると、また黙った。
知っていることはちゃんと出す。
ただ、必要な分だけで止める癖は相変わらずだった。
ハンスが小声で言う。
「頼もしいのは間違いないんだけどな」
「だな」
日が沈むころには、野営地は形になっていた。
風除け。焚火。荷の置き場。見張りの位置。
「悪くない」
ベルタが腕を組んでうなずく。
その一言に、ハンスが少しうれしそうな顔をした。
「お前に言われると、ほんとに大丈夫そうに聞こえるな」
「大丈夫じゃなきゃ言わない」
それがこの班の中でのベルタの位置なんだろうと思った。
誰も決めていないのに、最後の確認が自然とベルタの役になっている。
夕食は簡単な煮込みになった。
演習用の携行食と、近場で採れた草を一緒に煮る。
味は薄い。
それでも、冷えた体には十分だった。
火を囲んで食べていると、不意にベルタの肩がわずかに止まった。
ほんの一瞬だったが、右だけ動きが鈍る。
痛みを忘れていたんじゃなく、忘れたいだけなんだろうと思った。
こういう一瞬だけ、庇い方が遅れる。
「右肩、痛むのか」
言うと、ベルタがじろりとこっちを見る。
「お前、ほんとによく見てるな」
「目の前にいるからな」
「それ、答えになってるようで全然なってないぞ」
「で、どうなんだ」
ベルタは少し黙ってから、肩を回さずに首だけ鳴らした。
「前よりましだ。固定が効いたんだろ」
「なら、今夜の見張りは長く持つな」
「は?」
「肩を悪化させる方が厄介だ。足りない分は俺が入る」
ハンスもすぐにうなずく。
「俺も構わんぞ。盾役は座ってても役に立つ」
「なんだそれ」
ベルタは呆れたように笑った。
嫌ならもっと突っぱねる。
そこまでしないなら、受ける気はあるんだろうと思った。
火の向こうで、リーネが静かに口を開く。
「最後の番は私が引き受けるわ」
三人ともそちらを見る。
彼女は膝を抱えたまま、こちらを見ずに空を見上げていた。
こちらを見ると余計な意味がつくと思ったのかもしれない。
あくまで役の話として置きたいように見えた。
「もともと眠りは浅いの。火の番もしておくわ」
ぶっきらぼうな言い方だった。
それでも、自分から班の中へ手を伸ばしたのは初めてだった。
「……助かる」
俺が言うと、リーネは小さくうなずいただけだった。
夜は、教官の言った通り快適ではなかった。
地面は硬い。
火は目を離せない。
焚き火に当たる正面は熱いのに、背中からは森の湿った冷気が這い上がってくる。
薪が爆ぜる音の合間に、何かが落ち葉を踏む音が混じり、耳を離れなかった。
眠るための夜じゃない。
朝まで形を保つための夜だった。
最初の見張りを終えたベルタが、火のそばへ戻ってくる。
「兄さん」
「ん?」
「昼の野営地選び、お前、すぐ私の案に乗ったな」
「間違ってないと思ったからな」
ベルタはすぐには返さなかった。
火の明かりが横顔を赤く染める。
言いたいことを探しているように見えた。
ただの確認じゃなく、その先がある声だった。
「……ああいうの、慣れてない」
「何がだ」
火が、ぱちりと鳴る。
「昔から、見られるのは違うとこだ」
膝を立て、その上に腕をのせる。
右肩はかばっているのに、その仕草だけは自然だった。
言い慣れているわけではなさそうだった。
でも、ずっと思っていたことなんだろうとも感じた。
「前に立てるか、役に立つか、どこまで無茶が利くか」
そこで、ちらりとこっちを見る。
「でも、兄さんは違う」
「任せる時は任せるし、駄目なら止める」
ベルタの口元が一度だけゆるみ、すぐに戻る。
「そういう感じ、あんまなかった」
そういう扱いを受けてこなかったんだろうと思った。
使えるかどうかで見られるのに慣れすぎて、それ以外の見方の方が珍しいのかもしれない。
俺はすぐには返せなかった。
少ししてから、ベルタが火を見たまま言う。
「まあ、あの人がいなきゃ、私は今ここにいなかったけどな」
誰のことかは、すぐにわかった。
「長いのか」
「長いよ。十六の頃からだ」
火の向こうで影が揺れる。
「あの人がいなきゃ、私はたぶん野垂れ死にしてた」
そこまで言って、ベルタは薪の先を靴で寄せた。
火の崩れ方を、無意識に整えるような動きだった。
恩だけじゃない。
体に染みつくくらい長く一緒にいた相手なんだろうと思った。
「でも、今のままじゃ駄目だとも思ってる」
声は低い。
それでも濁らない。
「前に立てるかどうかで使われる側で終わりたくない」
思わず息が止まる。
「……ガレスのやり方と違うのか」
そう聞くと、ベルタは少し考えてからうなずいた。
「違うな」
迷いはなかった。
比べたことがあるんだろうと思った。
「強いし、判断も早い。ガレスは本物だよ。そこは疑ってない」
火の明かりが、頬の輪郭を鋭く照らす。
「でも、あのやり方のままだと届かない場所がある。私はそう思ってる」
火がまた小さく鳴った。
「恩があるのはわかる。でも、それで今の痛みまで我慢して当然って話にはならないだろ」
ベルタが目を上げる。
一瞬だけ、驚いた顔だった。
それから、ふっと息を漏らす。
恩と痛みを切り分けていい、と言われること自体が珍しいのかもしれない。
「……ずるいな、兄さん」
「何がだ」
「そういう言い方するところだよ」
肩をすくめる。
声は、さっきまでよりやわらかかった。
少し離れた場所では、リーネが一人で空を見上げていた。
見張りの順までは、まだ時間がある。
火のそばにいれば暖かいのに、輪の中へは入ってこない。
だが、離れすぎてもいない。
今のリーネには、その距離がちょうどいいんだろうと思った。
ベルタがその背中をちらりと見る。
「不器用だな、あいつ」
「ああ」
「でも、さっきのは意外だった」
「最後の番のことか」
「そう。少しは歩み寄る気、あるのかもな」
火の輪の中へ入るのはまだ先でも、今夜はもう完全には外れていない。
火の向こうへ残した視線だけが、今夜は少しだけ近かった。




