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9話 兄は異常個体に殺された

昼休みの講義棟は、授業中より少しだけ音が多い。

廊下の足音が遠くで響き、窓から入る春先の光が石床を白く照らしていた。


人はいる。

けれど、話し声の熱は薄い。


その中で、資料室の扉だけがわずかに開いている。


中から、紙をめくる音が途切れずに続いていた。


覗くと、やはりリーネがいた。


長机いっぱいに報告書を広げ、実習記録と古い討伐報告を並べている。

灰鎧熊。

足跡。

爪痕。

襲撃位置。

紙の端を走る細い字だけが、休まず先へ進んでいた。


「またやってるのか」


声をかけると、ようやくペン先が止まる。


止めただけで、まだこっちへ向き切ってはいない。

邪魔されたと思ったのか、ようやく区切りがついたのか、そこまでは分からない。


「この前の跡を、そのままにしておきたくないの」


顔は上がらない。

視線だけが紙の上を離れない。


あの林から、まだ頭が戻っていないんだろうと思った。

少なくとも、ただの授業の記録として終わらせる気はない。


「森の目って、結局どういうものなんだ」


そこで、リーネの手がわずかに止まった。


聞かれ慣れているのか、聞かれたくないのか。

どちらにしても、軽く流せる問いではないらしかった。


「……大げさな呼び名よ」


「でも、お前、見てた場所が違ったよな」


机へ目を落とす。

真っ直ぐ踏み荒らした跡。

ずれた土。

深く抉れた爪痕。

その三つだけが、他の紙から分けて寄せられていた。


足跡そのものより、その周りの崩れ方を先に拾っている。

やっぱり、見ている順番が違う。


リーネは一枚を抜き出し、こちらへ向けた。


斜面の略図。

逃げた獲物の進路。

その脇へ重なる深い爪痕。


「足跡だけじゃ足りないの」


指先が、紙の上を短くなぞる。


「土の崩れ方。逃げた重さ。踏み出したのか、溜めたのか。それを見る」


「この前の熊も、そこを見たのか」


「ええ」


短い返事だった。


迷いがなかった。

見えたかどうかを確かめる話ではなく、そこを見るのが前提の声だった。


「正面を荒らしていない。深いのはその脇。前に来るふりをして、先に体を逃がしてる」


「……受けるつもりで構えたところを、外されるのか」


「そう」


紙が机へ戻る。

乾いた音が、小さく鳴った。


受けの形そのものをずらされる。

前に立つやつには、それがいちばん嫌だろうと思った。


「見えていれば、避けられるのか」


リーネはそこで初めて顔を上げた。

銀の目は冷たくない。

ただ、ひどく遠い。


考えてから答える目じゃなかった。

もう知っていることを、どう言うかだけ決めている顔に見えた。


「……無理よ」


「森の目でもか」


「兄様も見えていたわ」


そこで、言葉が止まる。


「灰鎧熊の異常個体ディヴィアントに殺されたの」


返す言葉が出ない。


予想していなかったわけじゃない。

でも、実際に口にされると重さが違った。


リーネはもうこちらを見ていなかった。

指先で報告書の端を揃えながら、低く続ける。


「検分の記録と、生き残った一人の証言が残ってる」


一枚を引き抜く。

深い爪痕と、斜めにずれた進路だけが赤で囲まれていた。


「兄様は、熊がそのままぶつかって来ると思って槍を構えた。受ける型で」


指先が、紙の上で止まる。


「でも、あれはまともにぶつからなかった」


「……外されたのか」


「ええ」


短い返事のあとで、少しだけ間が空く。


「受けるつもりで構えたところを外して、そのまま終わらない。立て直す前の遅れを取る」


息が少し詰まる。


そこが異常なんだと思った。

避けるだけじゃない。避けたあと、次を取る。

だから一手の遅れがそのまま終わりになる。


「普通の灰鎧熊なら、受けを合わせられた時点で動きが荒れる。怒るか、怯むか、どちらかは出る。でも兄様を殺した熊は違った」


「止まらなかったのか」


「ええ」


リーネの指先に、少しだけ力が入る。


「受けさせない。止まらない。そのまま次を取る」


紙の端が、わずかに折れた。


「兄様は見えていたわ。周りも戦えた。でも、異常だと口にするのが遅れた」


「沈黙が致命傷になったのか」


「ええ」


声は静かだった。


責めているわけじゃない。

もう結論として置いている言い方だった。


「だから森の目だけじゃ足りないの」


「何が要る」


リーネはしばらく黙っていた。

答えを選ぶというより、余計なものを削る沈黙だった。


「崩れない前」


ひとつ。


「迷いを消す声」


もうひとつ。


「見えた時点で、全員の動きを変えないと間に合わない」


「……だから学院に来たのか」


「そう」


間を置かずに返る。


ここは迷わない。

理由として、自分の中で一番固い場所なんだろうと思った。


「兄様のためだけじゃない。一人じゃ足りなかったからよ」


「……仇討ちじゃないのか」


銀の目が細くなる。

冷たいというより、刃先みたいな光だった。


「仇討ちという感情だけで勝てるなら、兄様は死んでいないわ」


言葉が、まっすぐ落ちる。


強い言い方だった。

言い聞かせているというより、もう何度も自分の中で通してきた答えなんだろうと思った。


「要るのは感情じゃない。生き残るための技術よ」


返す言葉が出ない。

視線だけが机へ落ちた。


正しいと思った。

同時に、それだけで割り切れるほど簡単な話でもないとも思った。

ただ、今それを言う場じゃないのも分かった。


リーネはそれ以上こちらを見ず、紙を重ねていく。


「先日の実習で、教官は奥へ入るのをやめたでしょう」


「ああ」


「そういうこと」


机の上の記録を、指先で揃える。


「見つけた時に、判断を変えられるか。遅れたところを、ああいう相手は逃がさない」


そこまで言って、リーネは一枚の報告書を差し出した。


先日の実習記録。

端に、見覚えのある細い字で書き込みがある。


「持っていきなさい」


リーネは、もう別の報告書へ目を戻していた。


渡すと決めたら、そこで終わりにするつもりらしい。

礼を待つ感じでも、説明を足す感じでもなかった。


「頭の中だけに置いておくより、紙の方がましよ」


受け取ろうとしたところで、リーネが言う。


「次は、見た時点で動かないと間に合わない」


「わかった」


答えると、リーネはそこで初めて手を止めた。

一度だけこちらを見て、それからまた紙へ視線を戻す。


伝わったかどうかだけ確かめたんだと思った。

それ以上は要らない、という見方だった。


資料室を出て廊下へ立っても、手の中の紙は軽くならなかった。


紙の重さじゃない。

そこに書かれているものの方が重かった。


受け取った紙には、リーネの細い字が強い筆圧で刻まれている。


――正面で受けない。

――最初のずれを見逃さない。

――異常を見たら、即座に全員へ通す。


先に浮かんだのは、前へ立つ誰かの姿だった。

その輪郭が、すぐベルタへ変わる。


俺はその場でもう一度、手の中の紙を見た。


――次は、見た時点で動かないと間に合わない。


さっきのリーネの声が、そのまま残っていた。


俺は紙を折り、内ポケットへしまう。


次に前へ立つやつが、教本通りに受けに行くなら。

せめて、その前に言葉を届かせる。



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