1話 D級冒険者、集団戦を学び直す
その日、俺は二頭の暴王猪を仕留めた。
そして、四人を死なせた。
北の断崖沿いで、俺は暴王猪を追っていた。
痕跡を拾い、風を読み、喉元へ届く最短距離を探る。
いつものやり方だった。
敵だけを見る時は、だいたいこれで足りた。
崖と岩壁に挟まれた獣道は、人が二人並ぶだけで窮屈になる。
戦う場所じゃない。
通すか、ずらすか、どちらかを早く決める場所だった。
曲がり角の先で、獣の咆哮と人の怒号がぶつかった。
「ばらけるな! そのまま下がれッ!」
声だけで分かった。
もう押されている。
角を抜けた先の狭い足場で、四人の冒険者が二頭の暴王猪に追い詰められていた。
前衛が一頭を受け、術師が火弾で別の一頭を止め、搬送役が負傷者を支えて退路へ下がっている。
形はある。
だが、足場が悪すぎた。
誰か一人でも踏み損ねれば、そのまま全員が巻かれる。
火弾が弾け、石と砂利が散る。
押し返してはいない。
ただ、終わりを先送りしているだけだった。
次の瞬間、一頭の牙が前衛の脚へ伸びた。
考えるより先に、体が動いた。
壁を蹴る。
前衛の前へ飛び込み、暴王猪の肩口から前脚のつけ根へ刃を滑り込ませる。
蝕毒は深く盛らない。踏ん張る瞬間だけ、脚が沈めば足りた。
その瞬間、術師の火が止まった。
俺が射線に割り込んだせいだった。
崖側の一頭が、術師へ加速する。
術師が横へ飛ぶ。だが、遅い。
肩口からぶつかられ、体が砂利の上を転がった。
猪は止まらない。
そのまま搬送役と負傷者をまとめて薙ぎ払い、足場の外へ消えた。
短い悲鳴が、崖下へ落ちていく。
鼻を鳴らした一頭が、倒れた術師へ向き直る。
「おい!」
前衛がそちらを見る。
その脇腹へ、もう一頭の牙が伸びた。
「させるか!」
俺はまた割り込んだ。
だが、今度は早すぎた。
声も位置もないまま飛び込んだ肩が、前衛にぶつかる。
姿勢が崩れる。
逃げ場が消える。
剥き出しになった脇腹へ牙が深く食い込んだ。
血が散り、前衛の体が岩壁へ叩きつけられる。
しまった、と思った時には、もう剣を振っていた。
横へ踏み込み、喉の下へ刃をねじ込む。
顎の裏を擦り、骨へ当たった感触のまま手首を返す。
喉が裂け、巨体が沈んだ。
一頭は仕留めた。
だが、崩れた形は戻らない。
振り向く。
残る一頭が、虫の息の術師を牙で弾き飛ばしたところだった。
猪が頭を低くする。
次は俺だ。
突進。衝突の刹那、左へ軸をずらす。
首筋へ蝕毒ごと刃を通し、肩の激突を受けながら柄元まで押し込んだ。
骨が軋む。それでも止めず、体重ごと押し込む。
ここだけは、いつもの通りだった。
喉を裂く位置も、押し込む角度も、毒の通し方も、体が先に知っている。
暴王猪は崖際で斜めに崩れ、二度だけ後ろ脚を跳ねさせて動かなくなった。
沢の音が戻ってくる。
俺は血の滴る剣を下ろし、周囲を見た。
崖下の砂利場に、搬送役と負傷者。
崖際に、踏み潰された術師。
岩壁の根元に、目を開いたまま止まった前衛。
助けに入ったはずだった。
二頭とも倒した。
それでも、誰も連れ帰れなかった。
残ったのは
「ロイドが割り込み、四人組を壊して全滅させた」
という話だけだった。
◆辺境ギルド
噂はすぐに回った。
「助けに入らなけりゃ、まだ一人は下ろせた」
「射線を切ったのはあいつだ」
「ソロの癖で班の動きを壊した」
見ていた奴はいない。
それでも話だけは、きれいに俺を悪くする形へ揃っていった。
ギルドへ入ると、ざわめきが止む。
呼び出しを受け、俺は二階の部屋へ上がった。
ギルド長の机の上には、見慣れた木札が置かれていた。
D級資格札。
その横に、E級の仮札。
「座れ」
座らなかった。
ギルド長は書面を一枚押し出した。
「処分が決まった。ロイド、お前の資格は本日付でD級からE級へ降格だ」
「……暴王猪二頭は仕留めました」
「二頭斬って、四人死んだ。助けに入った事情も、足場の悪さも、今さら結果を変えん」
ギルド長の声は低かった。
俺は黙った。
ギルド長はしばらく黙って、机の上の木札を指で押さえた。
「……お前の爺さんには世話になった。辺境で生きるやり方を、俺も、ここの連中も教わってる」
E級の仮札が、机の上を滑る。
「だからこれまでは目をつぶってきた。だが、俺にできるのはここまでだ」
「蝕毒持ちを班に入れたがる奴はいない。ただでさえ嫌がられる。そこへ今回の話だ。まともな依頼は回せん」
ギルド長はそこで新しい書面を出した。
「王都の上級冒険者学院への推薦状だ」
顔を上げる。
「……は?」
「ここには置いておけん」
推薦状が机の上を滑ってくる。
「……命令ですか」
「そうだ」
ギルド長は目を逸らさなかった。
俺は机の上のE級仮札を見る。
その横の推薦状を見る。
くそやろう、と思った。
みんなくたばれ、と。
噂を回した連中も。
勝手に値踏みした連中も。
四人死んで、俺だけ立っていたあの断崖も。
その中にいた俺も。
俺は推薦状を取った。
E級の仮札も掴む。
「学院を出ても、ここには戻りません」
ギルド長は短くうなずいた。
「それは助かる」
数日後、俺は上級冒険者学院へ向かった。
D級から落とされた男として。
四人を死なせたまま来た男として。
稼ぐ手が欲しかった。
追い返されない場所も。
一人きりで生きていくのは、もううんざりだった。
◆
上級冒険者学院の門は、学び舎というより砦の関門に近い。
二十五歳で学院の門をくぐるのは、思っていたより居心地が悪かった。
若手の中に混じると、年齢より先に「事情あり」の空気だけがよく目立つ。
講堂へ入ると、空気が変わる。
ざわめきは低くこもり、誰もが周囲を値踏みしている。
前へ詰める若手。壁際で黙る古参。
その中で、ひとりだけ座り方の違う女が目に入った。
赤い三つ編みを肩へ流した女だった。
椅子にもたれ、脚を投げ出し、退屈そうに天井を見ている。
その周囲だけ、一席ぶんきれいに空いていた。
場に馴染めないんじゃない。
近づいた側が自分から引くタイプだ。
俺はそこから少し離れた後方の席へ腰を下ろした。
やがて講堂の扉が開いた。
入ってきた男は、そのまま黒板の前で止まる。
「ガルドだ。現役冒険者課程を担当する」
低い声だった。
大きくもないのに、講堂の隅まで届く。
「先に言っておく」
ガルド教官は講堂をゆっくり見渡した。
その視線が流れるたび、椅子の軋みも咳払いも消えていく。
「ここは英雄を仕立てる場所じゃない」
講堂が静まり返る。
「依頼を確実に持ち帰る人間を作る場所だ」
「単独で勝てる。それだけでは上には上げん。連携、救護、撤退判断。どれか一つ欠ければ、現場はそこから崩れる」
「質問はあるか」
間を置かず、ひとつの手が上がる。
赤い三つ編みの女だった。
「実習はいつからだ」
ガルド教官は口元だけで、わずかに笑った。
「今からだ」
その一言で、講堂の空気が変わった。
少なくとも、オリエンテーションではなさそうだった。
◆
北演習場には訓練用の術具が並び、受講者たちはもう口数を失っていた。
鎧を締め直す音だけが、朝の冷たい土に残る。
「初回は連携確認を行う。二人一組だ」
低い声が土塁に当たり、演習場の端までまっすぐ届く。
「武器の相性だけでは見ない。見るのは間合い、声出し、判断の基準だ。組み合わせはこちらで指定する」
小さなざわめきが広がった。
自由に組ませないのは当然だ。現場で都合のいい相棒だけ選べるわけじゃない。
次々に名前が呼ばれていく。
噛み合いそうな組もあれば、わざと癖の違う者同士を当てたとしか思えない組もある。
「ロイド・フェルナー。ベルタ・グラム」
名前を呼ばれ、顔を上げる。
赤い三つ編みの女が、肩に担いでいた訓練斧を下ろした。
俺より少し背が高い。
緑の目が強い。
使い込まれた軽鎧の上からでも、鍛えた肩と背がよくわかる。
そのまま、一直線にこちらへ来る。
「あんた、講堂で後ろにいたやつだろ」
「ああ」
斧の石突が土を浅く削った。
「私はベルタ。見りゃわかるだろうけど前衛だ。斧でぶち割るのが仕事」
「ロイド。剣と魔法を少し」
「少し、ね」
視線が剣、腰、足元へ落ちる。値踏みは短い。
「後ろに回った敵は止められるか」
「……止める」
「遅れるなよ」
「そっちも、一人で決めに行くな」
ほんのわずか、間が空く。
ベルタの口元がゆっくり吊り上がった。
「言うじゃないか」
その時、ガルド教官の声が演習場を打った。
「今回は勝ち負けを競うものではない。見るのは前衛と後衛の距離感、危険の切り分け、そして指示の声だ。訓練用の召喚獣を出す。倒し切る必要はない。五分間、戦線を維持してみせろ」
補助教員たちが演習場の端で術式を起動させる。
乾いた土の上を魔力光が走った。
「ロイド、ベルタ。前へ」
指定位置へ進む。
ベルタが訓練斧を軽く振る。重さを感じさせない振り方だった。
「あんた、声は出せるか」
斧の刃を肩に乗せたまま、ベルタが言う。
「無理なら、私が好きに暴れるだけだ」
連携の相談というより、事前通告だった。
「必要なら出す」
「必要なら、か」
ベルタが鼻で笑う。
斧を担ぎ直した、その時だけ右肩の戻りが少し鈍った。
気のせいかと思ったが、二度目も同じだった。
「……右肩、悪いのか」
笑みが消える。
「何だって?」
「担ぎ直しだけ遅れる。右だ」
「よく見てるな」
ベルタは短く息を吐き、斧を握り直す。
「だが、見えてるだけじゃ意味がない」
「……分かってる」
「なら、ちゃんと間に合わせろ」
返す言葉が出ないうちに、土が二か所、不自然に膨らんだ。
現れたのは、灰毛の狼型召喚獣が二体。
前脚だけが妙に長い。低い姿勢のまま足元へ食らいつき、体勢を崩しに来る型だ。
崩された瞬間に終わる。
「二体か」
「散らすなよ」
「わかった」
俺はベルタの半歩後ろで剣先を落とす。
一体が真正面から距離を詰める。
もう一体はベルタの右外へ大きく膨らみ、斧の間合いの外を取ろうとした。
右と言おうとして、遅れた。
その瞬間にはもう、正面の一体がベルタの足元へ滑り込んでいる。
「右――!」
ベルタは斧の柄を斜めに差し込み、噛みつきの軌道を横へずらした。
そのまま右外の一体へ体を返そうとして、肩の戻りがわずかに止まる。
「くそっ……!」
ベルタの舌打ちが聞こえる。
そこでようやく、俺は火弾を撃った。
右外を回った狼型の鼻先をかすめる。
殺せる威力じゃない。ただ、首を振らせるだけだ。
それでも足は止まらない。
狼型は低いまま踏み込み、ベルタの脇を抜けようとする。
「戻せ!」
また、一瞬だけ遅れた。
「見えてる!」
怒鳴り返しながら、ベルタは無理やり斧を引き戻す。
爪が刃の腹をこすり、火花が散った。
紙一重だった。
今のは、ベルタが強引に間に合わせただけだ。
正面の一体が、体勢を崩したベルタの足へもう一度潜る。
俺は剣を出す。だが、踏み込む位置を一瞬迷う。
「前!」
ベルタの怒声に、反射で体が動いた。
剣を差し込み、牙の向きをずらす。浅い。
その隙にベルタの石突が狼型の横腹へめり込んだ。
灰毛の巨体がくの字に折れる。
「左だ、ロイド!」
今度はベルタの声だった。
遅れて、体がそちらを向く。
右外へ回っていた一体が、火弾に怯んだまま踏み込みを鈍らせている。
俺は剣を出しかけて、間合いが足りないと悟る。
ベルタが半歩だけ踏み込む。
唸りを上げた斧が横薙ぎに走り、狼型を土煙ごと吹き飛ばした。
黒い霧となって散る。
ざわめきが起きる。
だが、ベルタは追わない。もう一体へ向き直る。
残った一体が身を沈めた。
前脚に力を溜め、今度はベルタの足元を食いちぎる軌道で地を這ってくる。
分かっているのに、やはり遅れる。
「外せ!」
「遅い!」
吐き捨てるように言って、ベルタが大きく半歩ずれた。
牙が空を切る。
突っ込みすぎた胴が前へ流れた。
今度こそ、と火弾を叩き込む。
火花が散り、狼型の頭が跳ね上がる。
だが、それを仕留めたのもベルタだった。
空いた喉下へ斧が横から叩き込まれる。
鈍い衝撃音。
灰毛の体がぐらりと浮き、黒い霧となって散った。
「――そこまでだ!」
補助教員の杖が、硬い音を鳴らした。
緊張が切れて、ようやく考える余地が戻った。
さっきまで余計なことを考える余裕がなかっただけだ。
隣で、ベルタが斧を担ぎ直す。
「今の、無詠唱か」
「火弾くらいならな」
「……へぇ」
ベルタがこちらを見る。
試すような目じゃない。だが、感心とも違う。
「見えてるなら、もっと早く言え」
「……悪い」
その言い方は冷たい。
だが、斧を担いだまま、俺の手元を一瞬だけ見た。
汗で濡れた柄の握りを見たのかもしれない。
すぐに視線は外れた。
その空気を断ち切るように、ガルド教官の声が飛ぶ。
「ロイド。遅い」
「はい」
「見てから言うな。先に声を出せ。前衛を深く踏み込ませるな」
「……はい」
次に、教官の視線がベルタへ向いた。
「ベルタ。押し切るな。お前が前へ出るほど、後ろの負担は跳ねる。前衛は勝手に気持ちよくなるな」
「わかった」
ベルタは眉をひそめたが、言い返さなかった。
「噛み合ったのはいい。だが、今のは“たまたま合わせた”だけだ」
演習場の空気が、少しだけ張る。
「次も同じ相手なら通るだろう。だが、数が増えれば遅れる。地形が悪ければ崩れる。負傷者が出れば、それで終わる」
ガルド教官の声は低いままだった。
怒鳴っているわけじゃない。だからこそ、言葉が深く刺さる。
「連携は、当て勘じゃない。先に共有した判断を、同じ速度で出せるかどうかだ」
俺は何も言えなかった。
さっきの戦いで、声は出した。だが、どれも遅かった。
ベルタが持たせた。俺はそこへ追いつけなかった。
「下がれ。次だ」
短く告げられ、俺たちは開始位置を離れる。
数歩歩いたところで、ベルタが口を開いた。
「……あの教官、容赦ないな」
「ありがたい」
「へえ」
ベルタが一度だけ、横目を止めた。
「普通はもう少し取り繕うだろ。初回だぞ」
「初回だからだ。ここで甘くされるほうが困る」
「まあな」
ベルタは斧を肩に乗せ直した。口の端だけ上がる。
「でも、あれだ。後ろで固まるだけのやつじゃなかった」
「褒めてるのか、それ」
「まだだ」
ベルタは前を向く。
三つ編みが肩を打った。
演習場の中央では、もう次の組が呼ばれている。
俺たちは端へ下がり、実習の続きを見る側に回った。
そこでようやく、さっきの戦いを考え直せた。
前に出る誰かを見ながら、声を飛ばした。
届きはした。
だが、届いただけだ。
あれでは、まだ足りない。
◆
演習場の外れ。
崩れた石壁の陰から、二人の男が訓練場を見ていた。
「あれがロイド・フェルナーか」
学者風の男が目を細める。
片手の指を欠いた男が、短く答えた。
「まだ使っていない」
「使えない、じゃない」
「隠してる、か」
学者風の男は視線を中央へ戻した。
「なら今は触るな」
「ああ。触れれば、もっと奥へ隠れる」




