壁の向こうで 第3話
あの夜のことを思い返すと、時間の流れがところどころ欠けているように感じる。覚えているはずなのに、思い出そうとすると霧がかかる。霧の向こうに、彼の呼吸だけがぼんやりと浮かんでいる。
その日の夜、彼はいつもより少し遅く帰ってきた。
足音が重かった。鍵を回す音も鈍かった。扉が閉まると、しばらく何の音もしなかった。
私は壁に耳を当てた。
彼がそこにいることを確かめるように。やがて、深い息が聞こえた。疲れ切った人間の息だ。その息が、私の胸の奥に沈んでいった。
彼は部屋の中をゆっくりと歩いた。
椅子を引く音、何かを置く音、布が擦れる音。その一つひとつが、いつもより重く感じられた。
私は目を閉じた。音の輪郭が、暗闇の中で鮮明になっていく。
しばらくして、彼はベッドに沈んだ。布団がわずかに沈む音。枕が軋む音。そして、呼吸。
その呼吸は、いつもより少しだけ乱れていた。
私は壁に手を当てた。
その向こうにいる彼の存在を、確かめるように。
夜が深まるにつれて、彼の呼吸はゆっくりと落ち着いていった。
私はそのリズムを数えていた。
数える必要はなかったが、そうしていると安心した。
午前二時を過ぎたころ、彼の呼吸が一度だけ乱れた。
短く、鋭く、何かに驚いたような音。
私は反射的に身を乗り出した。
胸の奥がざわついた。
その瞬間、私は確かに“何か”を感じた。
けれど、それが何だったのかは、今でもうまく言葉にできない。
ただ、彼の気配がいつもより近く感じられた。
壁の向こうではなく、もっと近く。
まるで、同じ空気の中にいるように。
私は息を潜めた。
彼の呼吸が整うのを待った。けれど、その呼吸はなかなか戻らなかった。
時計の針の音が、やけに大きく響いていた。
私はその音を数えた。
一つ、二つ、三つ──
数えるたびに、胸の奥のざわつきが強くなった。
やがて、彼の呼吸は静かになった。静かすぎるほどに。
私は壁に手を当てたまま、動けなくなった。
その静けさは、いつもの静けさとは違っていた。
音が消えたというより、音が“吸い込まれた”ような感覚。壁の向こうの空気が、急に深い穴になったような。
私は耳を澄ませた。何か聞こえるはずだと思った。彼の寝返りの音でも、布団の擦れる音でも、何でもいい。けれど、何も聞こえなかった。
私は壁に額を押し当てた。
冷たさが皮膚に染み込んでいく。その冷たさの奥に、微かな気配を探した。けれど、何もなかった。
そのとき、私はふと気づいた。
自分の呼吸が、彼の呼吸と同じリズムになっていることに。
まるで、彼の呼吸が私の中に移ったかのように。
私は胸に手を当てた。鼓動が早かった。
けれど、その鼓動は私のものではないように感じられた。
私は目を閉じた。
暗闇の中で、彼の気配を探した。けれど、見つからなかった。その代わりに、静寂だけが広がっていった。
私は壁に手を当てたまま、しばらく動けなかった。
時間が止まったように感じた。時計の針の音だけが、遠くで響いていた。
やがて、私はゆっくりと息を吸った。その息は、いつもより重かった。胸の奥に何かが沈んでいくような感覚。それが何なのかはわからなかった。
ただ一つだけ確かなのは、あの瞬間、私は“境界”を越えたような気がしたということだ。
壁の向こうとこちら側を隔てていた薄い膜が、ほんの一瞬だけ、消えたような気がした。
その感覚は、今でも消えない。
あの夜の静寂とともに、私の中に残っている。
あの夜の静寂は、今思い返しても異様だった。
静けさというより、音が世界から抜け落ちたような感覚。
壁の向こうにいるはずの彼の気配が、急に深い穴に吸い込まれたように消えた。
私は壁に手を当てたまま、しばらく動けなかった。
手のひらに伝わる冷たさが、時間の感覚を奪っていく。
その冷たさは、いつもと同じはずなのに、まるで別のもののように感じられた。
私はゆっくりと息を吸った。
その息は重く、胸の奥に沈んでいった。まるで、彼の呼吸が私の中に移ったかのように。
しばらくして、私は壁から手を離した。
けれど、指先にはまだ彼の気配が残っているような気がした。
気のせいだと言われれば、そうなのかもしれない。けれど、私はその感覚を否定しなかった。
部屋の中は暗かった。
窓の外から差し込む街灯の光が、床に薄い影を落としていた。
私はその影を見つめながら、彼の呼吸を思い出していた。
規則正しく、穏やかで、眠りに落ちる直前の柔らかい呼吸。
その呼吸が、もう聞こえない。
私はベッドに腰を下ろした。
シーツがわずかに沈む音が、やけに大きく響いた。
その音が、彼の部屋の音と重なって聞こえた。
私は目を閉じた。
暗闇の中で、彼の気配を探した。けれど、見つからなかった。その代わりに、静寂だけが広がっていった。
私は立ち上がり、壁に近づいた。壁に耳を当てた。
何か聞こえるはずだと思った。彼の寝返りの音でも、布団の擦れる音でも、何でもいい。
けれど、何も聞こえなかった。
私は胸に手を当てた。鼓動が早かった。けれど、その鼓動は私のものではないように感じられた。
私は目を閉じた。
暗闇の中で、彼の気配を探した。けれど、見つからなかった。その代わりに、静寂だけが広がっていった。
私は壁に手を当てたまま、しばらく動けなかった。
時間が止まったように感じた。時計の針の音だけが、遠くで響いていた。
やがて、私はゆっくりと息を吸った。その息は、いつもより重かった。胸の奥に何かが沈んでいくような感覚。それが何なのかはわからなかった。
ただ一つだけ確かなのは、あの瞬間、私は“境界”を越えたような気がしたということだ。
壁の向こうとこちら側を隔てていた薄い膜が、ほんの一瞬だけ、消えたような気がした。
その感覚は、今でも消えない。
私はゆっくりと息を吸った。
その息は、いつもより重かった。胸の奥に何かが沈んでいくような感覚。それが何なのかはわからなかった。
ただ一つだけ確かなのは、あの夜、私は“隣にいる”という感覚を失ったということだ。
壁の向こうにいるはずの彼の気配が、急に深い穴に吸い込まれたように消えた。
その静寂は、今でも私の中に残っている。
私は、ただ隣にいた。
それだけのことだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
けれど、その“隣”が永遠に失われた夜のことを、
私は忘れることができない。
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