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ミステリー短編集  作者: 倉木元貴


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壁の向こうで 第1話

 彼が死んだ朝、部屋はいつもより静かだった。

 静かすぎて、最初は世界のどこかが壊れたのだと思った。耳の奥で何かが閉じたような、薄い膜が張りついたような感覚。壁に触れても、何も返ってこない。あの壁は、いつもなら彼の生活を微かに伝えてくれるのに、その朝だけは、まるで深い湖の底のように沈黙していた。


 カーテンの隙間から差し込む光が、白い床を淡く照らしていた。私はその光を、しばらく黙って見つめていた。昨夜と同じ姿勢のまま、ほとんど動かずに。

 体のどこかが痛むような気もしたが、それがどこなのか、確かめる気にはなれなかった。痛みは、動けば形を持ってしまう。だから、動かないほうがよかった。


 私は、あの夜ずっと隣にいた。

 それは事実だ。誰に否定されても、私の中では揺るがない。


 彼は背中を向けて眠る癖がある。規則正しい呼吸が、壁越しにゆっくりと伝わってくるのを感じながら、私は目を閉じていた。ときどき寝返りを打つ音。シーツが擦れる気配。小さな咳。

 それらすべてが、私には愛おしかった。


 愛おしい、という言葉は少し大げさかもしれない。けれど、他に適切な言葉が見つからない。

 私は彼の生活音を、毎晩のように聞いていた。聞こうとしていたわけではない。ただ、壁が薄いから、自然と耳に入ってくるだけだ。

 それを覚えてしまったのは、私のせいではない。壁のせいだ。

 壁が、私に彼を教えた。


 午前二時を過ぎたころ、彼の呼吸が一度だけ乱れた。短く、鋭く、何かに驚いたような音。私は反射的に身を乗り出した。鼓動が早くなる。彼の気配が、いつもより近い。

 私は、彼の鼓動を確かめた。

 温かかった。まだ、生きていた。


 そのあと、ほんの少しだけ時間が空いた。時計の針の音がやけに大きく響いていた。私は何も言わなかった。彼も何も言わなかった。ただ、重たい沈黙だけが横たわっていた。

 やがて鼓動は静まり、部屋は完全な静寂に包まれた。


 朝になっても、私はそこにいた。

 チャイムが鳴るまで、私は動かなかった。何度も、何度も、壁に耳を押し当てた。誰かが廊下を走る足音。慌てた声。扉が叩かれる音。

 それでも私は、部屋を出ていない。


 警察が来たあとも、私は隣にいた。

 彼の部屋の前で、制服の男が低い声で何かを話している。担架が運ばれる音。金属が擦れる音。私は目を閉じた。

 誰も、私に気づかなかった。

 当然だ。私はあの夜、ずっと隣にいただけなのだから。


 昼過ぎには、廊下が騒がしくなっていた。

 低い声で指示を出す男、慌ただしく出入りする靴音、無機質な無線の音。私はそれらを壁越しに聞きながら、指先をそっと押し当てた。冷たい感触が返ってくる。


 この壁は薄い。

 最初にそれに気づいたのは、引っ越してきた日の夜だった。隣の生活音が、思っていたよりも鮮明に伝わってきた。水を注ぐ音、椅子を引く音、電話の着信音。

 そして、彼の声。笑う声も、怒る声も、独り言も。

 私は自然と、それらを覚えるようになった。覚えるつもりはなかった。ただ、毎晩聞いているうちに、区別がつくようになっただけだ。


 あの夜も、特別なことはなかった。彼はいつも通り帰宅し、いつも通りシャワーを浴び、いつも通りベッドに入った。鍵の回る音も、私は聞いている。

 だから、外から誰かが入ったとは思えない。

 警察も同じことを言っていた。


「争った形跡はない。顔見知りの可能性が高いな」


 そう呟いた男の声は、少しだけ壁を震わせた。

 顔見知り。

 私は小さく笑いそうになった。もちろん、私は彼をよく知っている。彼の帰宅時間も、好きな音楽も、眠るときに必ず右を向くことも。


 私は、ただ隣にいただけだ。それだけのことだ。

 それ以上でも、それ以下でもない。


 顔見知り──その言葉が、壁の向こうで何度か繰り返された。

 私はそのたびに、胸の奥がわずかに震えるのを感じた。震えは不安ではなく、もっと別の、形のない感情だった。名前をつけることはできない。ただ、確かにそこにあった。


 私は壁に指先を当てた。

 冷たい。けれど、その冷たさの奥に、まだ彼の気配が残っているような気がした。気のせいだと言われれば、そうなのかもしれない。けれど、私はずっとこの壁を通して彼を感じてきた。

 だから、わかるのだ。壁は、まだ彼を覚えている。


 廊下の騒ぎはしばらく続いた。

 誰かが走る音。誰かが立ち止まる音。無線の短い呼びかけ。

 そのすべてが、私の部屋の空気をわずかに震わせた。

 私はその震えを、まるで自分の体の一部のように受け止めていた。


 やがて、担架が運ばれていく音がした。金属の脚が床を擦る音。布が揺れる音。

 私は目を閉じた。

 その音が遠ざかるにつれて、胸の奥の震えも静かになっていった。


 彼がいなくなったのだと、頭では理解していた。

 けれど、心はまだ追いついていなかった。

 追いつく必要があるのかどうかも、わからなかった。


 私はゆっくりと立ち上がり、壁に背を預けた。

 壁は冷たかったが、その冷たさは不思議と心地よかった。

 まるで、彼がそこにいるときと同じように。


 私は、彼の生活音を思い出した。

 夜遅くに帰ってくる足音。シャワーの水音。冷蔵庫を開ける音。ベッドに沈み込む気配。寝返りを打つたびに、シーツが擦れる微かな音。

 それらはすべて、私の中に刻まれている。


 覚えようとしたわけではない。

 ただ、毎晩聞いているうちに、自然と覚えてしまっただけだ。壁が薄いから。それだけのことだ。


 私は、彼の声も覚えている。電話で笑う声。誰かに苛立っているときの低い声。独り言のように呟く、眠気を含んだ声。そのすべてが、私の生活の一部になっていた。


 だから、彼がいなくなった朝の静けさは、あまりにも異常だった。

 静かすぎて、世界が歪んで見えた。私は何度も耳を澄ませたが、何も聞こえなかった。

 壁は、ただ冷たく沈黙していた。


 私は壁に手のひらを押し当てた。

 その向こうに、もう彼はいない。それはわかっている。けれど、私はどうしても確かめたかった。彼の気配が、本当に消えてしまったのかどうか。


 しばらくそうしていると、廊下の騒ぎが少しずつ遠ざかっていった。

 扉が閉まる音。誰かが深く息をつく音。


 私はゆっくりと息を吸った。静寂は嫌いではない。むしろ、好きだ。けれど、この静寂は違う。彼の生活音が消えたあとの静寂は、まるで空気の密度が変わったように重かった。


 私は壁に寄りかかったまま、目を閉じた。

 すると、ほんの一瞬だけ、彼の呼吸が聞こえた気がした。規則正しく、穏やかで、いつものように。私は息を止めた。耳を澄ませた。けれど、それはすぐに消えてしまった。


 幻聴だろうか。そうかもしれない。けれど、私はそれを否定しなかった。否定する必要がなかった。

 彼の呼吸を覚えているのは、私だけなのだから。


 私は、ただ隣にいただけだ。それだけのことだ。それ以上でも、それ以下でもない。


 けれど、その“隣”が、もう永遠に失われてしまったのだとしたら──私は、どうすればいいのだろう。


 答えはまだ出なかった。出す必要も、今はなかった。


 私は壁に手を当てたまま、静かに目を開けた。

 薄い壁は、何も語らない。けれど、私は知っている。この壁は、私と彼を隔てていた唯一の境界であり、私が彼に最も近づける場所でもあった。


 だから私は、今日もここにいる。

 彼がいなくなった朝も、その翌日も、そしてこれからも。


 私は、ただ隣にいる。それだけで、十分だった。

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