生クリーム事件 最終話
誰も、すぐには動かなかった。
教室の蛍光灯が自動で点く。白い光が、さっきまでの夕焼けを消した。
僕は立ったまま、机に手をついている。
逃げようと思えば逃げられる距離だった。
でも足は動かない。
「どういうことだよ」
最初に口を開いたのは鮎川だった。
「嫌がらせじゃないって何だよ」
言葉に棘があるのは当然だ。
僕はゆっくり答える。
「そのままの意味だ」
「意味わかんねえって言ってんだ」
浜井は顔を青くしたまま、何も言えない。
中村だけが、静かに僕を見ている。
「触れたかった、か」
彼は小さく繰り返した。
「衝動?」
「違う」
自分でも意外なくらい、声は落ち着いていた。
「毎日、靴を揃えてた」
江川は視線を逸らしたまま動かない。
「誰にも気づかれない。でも、自分だけが知っている。そんな関係がある気がしてた」
「関係?」
鮎川が吐き捨てる。
「一方的だろ」
その通りだ。否定はしない。
「だから、少しだけ形にしたくなった」
「クリームで?」
浜井の声は震えている。
滑稽だ。自分でもそう思う。
「跡が残ると思った」
触れたという証拠。消えない印。けれど実際は、水で簡単に流れた。
僕の浅はかさみたいに。
「なんで私なの」
江川が、初めてまっすぐこちらを見た。
その目に、嫌悪と困惑が混ざっている。
答えは単純だった。
「優しかったから」
静まり返る。
「みんなに平等で、怒らなくて、笑ってて」
だから勘違いした。
自分にも少しは向いている、と。
「気持ち悪い」
再び、その言葉。今度ははっきりと。
胸の奥に、鈍い痛みが広がる。
「ごめん」
それしか出てこない。
中村が口を開いた。
「計画はいつから?」
「昨日の朝」
「準備は?」
「家から持ってきた」
容器は小さなタッパー。
帰りに公園のゴミ箱へ捨てた。
理屈で追い詰められるより、自分で言ったほうが楽だった。
鮎川が言う。
「先生に言うか?」
空気が固まる。当然の提案だ。
僕はうなずく。
「必要なら」
逃げない。逃げる理由もない。
向けられている視線は鋭いものだった。だけど、不思議と胸は痛まなかった。
やがて江川が言った。
「……今日は、いい」
全員が彼女を見る。
「もう触らないで」
短い条件。
それだけだった。
「わかった」
即答する。当然だ。それ以外の選択肢はない。
浜井が息を吐いた。
「なんか……疲れた」
全員、同じだろう。当日中に終わらせると言った。終わった。けれど、すっきりはしない。
中村が椅子を戻す。
「帰ろうか」
静かな声。誰も反対しない。
僕は最後に教室を見渡す。
整っている。机も椅子も、きちんと並んでいる。
完璧だ。でも、何かが決定的に歪んでいる。それは、もう戻らない。
校門までの道は、いつもより長く感じた。
誰も並んで歩かない。自然に距離ができる。江川は前を歩き、鮎川と浜井が少し後ろ。中村は僕の隣だ。
「きれいな叙述だった」
唐突に言う。
「……何が」
「語り方」
心臓が一瞬止まる。
「自分を容疑者の一人に混ぜる。視点を固定する。読者——いや、聞き手を自然に誘導する」
薄く笑う。
「最初から、君は安全圏にいた」
図星だった。
自分の心の動きだけを語り、決定的な行動は曖昧にする。
“トイレに行った”。
便利な空白。
「気づいてたのか」
「途中でね」
中村は空を見る。
「でも証明がなかった」
匂いの件。
あれが決定打だった。
「怒ってないのか」
「怒るほどの被害は僕にはない」
淡々としている。
「ただ、面白かった」
その言葉に、少しだけ救われる。理解者ではない。観察者だ。校門に着く。
江川が振り返る。一瞬、目が合うがすぐに逸らされる。
それで十分だった。
鮎川が言う。
「もうやるなよ」
「やらない」
即答。
浜井は何も言わないが、小さくうなずく。それぞれ、別の方向へ歩き出す。最後に残ったのは僕と中村。
「次は、もう少し難しい事件がいい」
冗談のように言う。
「起こさないよ」
答えると、彼は笑った。
「だといいね」
夕闇が、街を包む。
放課後は終わった。白い痕跡は消えた。
けれど僕は知っている。あのとき触れた感触を、忘れない。そして同時に、あの距離を、二度と縮められないことも。
校舎の窓に明かりが灯る。
そこにはもう、僕の居場所は少しだけ少なくなっている。
それでも明日、また整えるだろう。机を。靴を。そして関係を。
完璧には戻らないと知りながら。僕の時間は静かに幕を閉じた。
♢♢♢
エピローグ
翌日の放課後。
靴箱の前で、僕は立ち止まっていた。いつも通り、上履きを揃える。
かかとが潰れているものを直し、つま先がはみ出しているものを奥へ押し込む。
手は、自然に動く。だが一足だけ、触れられない靴がある。
江川の靴。
昨日と同じ、予備のスニーカー。白い痕跡はもうない。あれは完全に洗い流された。けれど僕の中には、はっきりと残っている。触れた感触。柔らかさ。そして、彼女の「気持ち悪い」という声。
指先が止まる。触れてはいけない。
分かっている。それでも、靴の向きが少しだけ斜めになっているのが気になる。
ほんの数センチ。直したくなる。
衝動が、胸の奥で小さく暴れる。
「……やめろ」
小さく呟く。自分に向けて。
そのまま通り過ぎようとしたとき、背後から声がした。
「揃えないの?」
振り向くと、中村だった。相変わらず穏やかな顔。
「今日はやめる」
「成長だね」
皮肉ではなく、事実として言う。
僕は苦笑する。
「観察してるのか」
「習性みたいなものだよ」
彼は僕の隣に立つ。
「昨日のこと、後悔してる?」
「してる」
即答だった。
迷いはない。
「でも、ゼロにはできない」
「何を?」
「気持ち」
中村は少しだけ目を細める。
「正直だ」
「もう隠しても意味がない」
叙述は終わった。
物語の中で自分を守る必要はない。ここは現実だ。脚色も誘導もできない。
中村が言う。
「彼女、今日普通だったよ」
「普通?」
「いつも通り。君と目を合わせなかった以外は」
胸が、わずかに痛む。
それでも昨日よりはましだ。
怒鳴られるより、距離を取られるほうが、それが罰だと理解できる。
「先生には?」
「言ってないみたい」
「そうか」
処分はない。けれど、許されたわけでもない。それははっきりしている。
中村がぽつりと言う。
「君は、線を越えた自覚がある」
「ある」
「じゃあ大丈夫かもね」
「何が」
「二度目はない」
確信のような声。
僕は靴箱から目を離す。江川の靴は、まだ少しだけ斜めだ。でも触れない。代わりに、隣の誰かの靴を整える。それなら問題ない。個人ではなく、全体。特定ではなく、均一。
自分の衝動を、少しずらす。
校舎の窓が夕日に染まる。
あの日と同じ時間。でも、同じではない。
江川が廊下の向こうから歩いてくる。
一瞬、目が合いそうになり、逸らされる。
それでいい。それが今の距離。
彼女は靴箱の前で立ち止まり、自分の靴を履く。
斜めのまま。何も言わず、歩き出す。僕は見送る。追わない。呼び止めない。触れない。
ただ、立っている。
白は、もう戻らない。無垢でも、清潔でもない。僕はそれを知った。でも同時に、止まれる自分も知った。
放課後の光がゆっくり沈む。
ミステリーは終わった。けれど物語は続く。
整えるべきものは、まだたくさんある。靴も。机も。そして、自分自身も。
僕は最後に一度だけ、靴箱全体を見渡す。今日はもう、触れない。そう決めて、校舎を出た。
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